『異次元の存在』
by KENSUKE








 チームメイトの、静かなどよめきを感じた。藤木良介は気にかける事なく、先ほどと同じサインを出す。投げるべきボールはグラブの中、空いた右掌を上に持ち上げる。
「タイム!」
 誰かが言うのを聞いた。女房役の坂木大輔が慌てたように駆け寄って来る。タイムをかけたのは、キャプテンであるサード井上孝弘だったようだ。あっという間に内野陣に取り囲まれる。
「お、おい、どういうつもりだよ?」
「正気か?」
「何弱気になってんだよ」
 そんな声が次々と投げかけられる。藤木は全く意味が分からなかった。どういうつもりも何もないし、狂った覚えもない。弱気になったつもりなど欠片もない。勝つために必要だと思ったから、そのサインを出したにすぎないのだ。
 だがそれを言っても、周囲はなぜか納得してくれなかった。
「悔しくないのかよ?」
「負けを認めるようなもんだぜ?」
「正々堂々と戦おうや」
 口々に反論してくる。訳が分からなかった。確かに相手は県内最強のバッターだ。そして良介は県内最高のピッチャーの一人だった。その最高のピッチャーが、あのようなサインを出すという事実に、周囲は動揺しているのかもしれない。
「水上に打たれるのはまあ良いんだよ。それは仕方ない。けどアイツには一発がある。追いつかれるのは避けたい」
 だから藤木は説明してやった。点差は一点。ほんのわずかだ。ホームランが一本出れば呆気なくなくなってしまうリード。そして水上は、徐々に自分の投球に合わせてきている。
 一発で試合の流れをひっくり返す。水上浩二は、それを現実にできる可能性を持つバッターだった。
「だ、だけどよ」
「負けたいのか?」
 聞くと、周囲は押し黙る。
「俺たちの目標は何だ? 県大会程度じゃないだろう? もっと上、甲子園だろうが」
 そのために、日々の苦しい練習に耐えてきたのだ。断じて負けるためにではない。
「大体、何でそんなに慌てるんだよ皆。立派な作戦じゃないか」
 その言葉で、皆は渋々だが納得した。現実に勝負する藤木が納得しているのなら、バックは守る事に専念するのみだ。これまでと同じように。
 何度も「良いんだな?」と念を押してきた井上に苦笑を返す。良いに決まっているのだ。
 タイムが解け、試合が再開される。次の瞬間、球場全体がどよめいた。
 キャッチャーが立ち上がり、水上の反対側のボックスの後ろに移動したのだ。藤木は、そこからさらに外にボールを投げる。
 七回表、ワンアウトランナーなし。M高校の藤木良介は、R高校の四番水上浩二を敬遠した。

 その試合は、早くから注目の的だった。どちらも名門と呼ばれる高校ではないが、優勝候補に挙げられている。R高校のスラッガー水上は、プロからの評価も高い逸材で、対するM高校のエース藤木は、力のあるストレートとキレのある変化球が持ち味の本格派右腕だった。彼らだけでなく、両校には高校に入ってから能力を開花させた選手が多く、層は薄くとも、爆発的な力は名門校にひけを取らないものを持っていた。
 その両校が、三回戦でぶつかる。周囲は驚き、嘆き、期待した。どちらも優勝できるだけの力を持っている。一年前から彼らは今年の躍進を予感させていた。練習試合でも、他県の名門を大差で下す事もしばしばあった。そのような両校が、これほど早く顔を合わせるとは。もっと上の試合で見たかった。いやしかし、きっと素晴らしい試合になるだろう。誰もがそう思い、それは現実のものとなった。
 息詰まる投手戦となったのだ。M高校の藤木、R高校の久保、共にスコアボードにゼロを並べている。だが、内容は違っていた。久保は、粘りの投球を見せていた。安打を許し、ピンチを招く。しかし、バックの固い守備にも助けられ、ここまで得点を許していない。
 対照的に藤木は、R高校に三塁を踏ませていない。六回が終わるまでに被安打2、奪三振6。完璧と言って良い内容だった。
 観衆は、M高校の勝利を予感した。藤木は、これまで以上の好投を見せている。打線もそれに応えるように、何度もチャンスを作る。R高校守備陣に最終的には無得点に抑えられているが、打ち崩すのは時間の問題だ。誰もがそう考えていた。
 そしてそれは当たった。
 六回裏は、一番からというM高校にとって良い流れから始まった。ライト前ヒットで出塁。二番が送り、三番坂木が右中間へタイムリーヒット。これで均衡が破れた。だがR高校は、久保は崩れなかった。後続を討ち取り、打線に期待をかけたのだ。七回には四番水上に打順が回る。水上は元よりホームランバッターとしての評価が高い。そして、R高校で唯一藤木相手に安打を記録している選手が、水上なのだ。
 だがその淡い期待も、脆くも砕け散った。
 藤木はワンナウトの後、水上をあっさり敬遠すると、続く打者を連続三振に切って取り、悠然とベンチへと戻っていったのだ。

 九回表、ツーアウトランナーなし。水上は、ネクストバッターズサークルで素振りを繰り返していた。今打席にいる三番木田に安打が出れば、水上まで打順が回ってくる。ここまで藤木の前に全打席三振という木田だが、意地を見せてくれるに違いない。水上は信じて疑わなかった。
 そう、藤木だ。水上は素振りを一瞬止め、藤木を睨んだ。七回の敬遠は、水上にとっても驚きだった。ランナーがいない状態で、勝っている状態で、敬遠をするとは。怒りで身体が震えた。藤木は勝負から逃げたのだ。打者と投手、誰にも邪魔できない領域での対決に、藤木は背を向けたのだ。それは許し難い行為だった。水上は、藤木を素晴らしい投手だと認めていた。練習試合でも公式戦でも、藤木は一度も逃げたりはしなかったのだ。対戦成績はわずかに水上が有利だったとはいえ、それは敬遠の理由にはならない。
 安打だろうが三振だろうが、勝負した結果であれば、水上には不満はなかった。力と力のぶつかりあった末ならば、誰をも恨む必要はない。打てたのならばそれは自分が勝ったからであり、打てなかったのであれば相手が勝っていただけの話なのだ。そういう潔い勝負を、水上は望んでいたのだ。そして藤木はそれができる投手だと信じていた。
 だがそれは裏切られた。二回と四回の安打に怖じ気づいたのか、リードを貰って弱気になったのか、それは水上には分からない。分かるのは自分が敬遠され、今まさにチームは敗北しようとしている事実だけだった。
 藤木のストレートが、キャッチャーのミットに鋭い音を立てて収まった。審判が腕を大きく振り上げる。三振。そしてゲームセット。
 水上は、ヘルメットを地面に叩きつけた。

「藤木」
 礼の後、水上が話しかけてきた。怒りと悔しさからか、顔が真っ赤になっている。
「なんだ」
「……っ、何で、あの時敬遠したんだ」
 至って冷静な藤木に気圧されたのか、水上は一瞬口ごもった。だがすぐに体勢を立て直し、藤木に詰め寄ってくる。
 ああこいつもだ。藤木は思った。井上や坂木と同じように、水上も敬遠という作戦を卑怯卑劣だと考える種類の人間なのだ。
 藤木は、基本的に執着心の薄い人間だった。親に何かをせがんだ事もない。学校の成績は悪くはないが、良い点を取るために努力した記憶はない。何がなんでも欲しいと思ったものなど全くなく、のんべんだらりと高校まで生きてきたのだ。しかし野球を始めてから、藤木には欲しいものができた。自分が投手として他者よりも恵まれた資質を持っていると気付いた時、藤木は思った。なら甲子園でも目指してみるか。
 とはいえ、そのために全てを犠牲にするつもりなどなかった。人並み以上に練習に励み、自主的なトレーニングもしてきたが、その理由は負けないためだった。勝つためではない。
 甲子園を目指すと決めても、必要以上に執着はしなかった。どうせなら目指してみようかという程度だった。大学進学後に野球を続ける気もなかった。プロなどは論外だった。彼は野球にそれほどの情熱を燃やしていないし、むしろそれを誇りにすら思っていた。
「野球は趣味だよ」
 それが藤木の口癖だった。
 昨年は、甲子園が見える直前まで行った。予選準々決勝、対F高校戦。優勝候補最右翼の呼び声高いF高校に勝てば、後はもう優勝するだけという所まで行ったのだ。2−1でリードした九回裏、ランナーを一人置いて藤木は「十年に一人の逸材」と称される柏木を迎えていた。どうする、と聞いてきた当時のキャプテン、キャッチャー南出にどう返答しようか、藤木は迷った。
 その場面は、普通ならば敬遠してしかるべきだった。勝ちたいと思うなら、それは卑怯でも何でもない。しかし藤木は、勝負を選択した。二年生にしてエースナンバーを担っている自負もあった。逃げて掴んだ勝利など意味がない。そうも思っていた。そして何より、柏木という強打者との、結果を度外視した勝負をしてみたかったのだ。
 それは己の資質を知る事によって生まれた、かすかな驕りだったのかもしれない。
 結果は、柏木によるサヨナラホームランだった。藤木のストレートは完璧に捉えられ、野手全員の頭を越え、場外へと消えていったのだ。
 その時の藤木は、逆に爽快感に包まれていた。渾身のストレート、コースもインハイの厳しい所をついていた。あの場所に、あれだけの球を投げられるとは藤木自身も考えてもいなかった、会心の一球だった。それを柏木は打った。その迫力、スイングに藤木は尊敬の念すら抱いた。あれほどの打者と、自分は対決できたのだ。力と力だけが支配する領域で、真っ向勝負を行ったのだ。
 結果として敗れはしたが、一人の投手として、藤木は満足していた。
 けれどその感情も長くは続かなかった。礼の後、ベンチ前で球場に向かって頭を下げる列に加わった時に、藤木は気付いたのだ。三年生全員が泣いていた。何も言わず、ただスコアボードを見つめて涙を流す先輩たちの姿を見て、二年生エースは自分がした事の一つの真実を知った。
 彼らはこれが高校最後の試合となったのだ。
 三年間、一つの目標のためにし続けてきた努力が、全て終わったのだ。二点目以降を取れなかったのは、彼らの力不足であるのは確かだ。最後の場面、勝負を願う藤木に敬遠を指示しなかったのも、彼ら自身の意志に間違いない。自分たちのエースが打たれるはずはないと。その結果は、彼らの思いを見事に裏切るものだった。だが裏切られたからといって、彼らは藤木を責めるような真似はしなかった。
 それが余計に藤木を追いつめた。誰でも良い、一言罵ってくれれば、わずかでも心が楽になるのに。その心中を知らず、先輩たちは涙を隠して笑いながら、藤木に後を託したのだ。
「来年こそは、勝ってくれよな」
 藤木は決心した。来年は絶対に勝ってみせる。自分の我を通して勝利をふいにした雪辱は晴らさなくてはいけない。冷静に、冷徹に。試合の流れを見つめ、最も勝利に近い作戦を貫き通す。勝利こそが全て。そして甲子園へ行くのだ。初めて藤木は執着した。甲子園というものに。何より勝利というものに。これまで「とりあえず負けないために」とやっていた練習も、意味合いが全く違うようになった。
 それこそが愚かなエースが誇り高い先輩にできる、最大の償いだった。
「勝つためだ」
 だから藤木は、水上に言った。目の前の水上が、何か大きな衝撃でも受けたように震えた。立ち直った水上が藤木を見つめてくる。化け物でも見るかのような視線が疎ましい。
「俺との勝負を避けてまで、勝ちたかったのか。それでお前は満足なのか!?」
「ああ」
 藤木は即答した。水上は確かに県屈指の強打者だ。一投手として、力で押さえ込んでやりたいという思いがないわけではない。だがそれは、全てに優先されるものではない。優先されるべきは結果だ。
 例えば、後二点こちらが得点していたなら、藤木は勝負していただろう。仮にホームランを打たれたとしても、差は二点残っている。水上以外の打者相手ならば、二点はセーフティリードだった。
 もし勝負していたとして、本塁打されていたら。藤木は考える。水上以外に打たれる気はない。そしてこちらは久保を打ち込んでいた。同点にされたとしても、再びリードを奪える可能性は充分あった。だが結果はこれだ。1−0。後半、M高は久保から得点できなかった。藤木は自分の正しさを知っていた。
 これは練習試合ではない。リーグ戦でもない。負ければ全てが終わる、取り返しのきかないトーナメントだ。藤木は負けるつもりはなかった。勝って勝って、甲子園へ行くのだ。昨年の償いを果たす。そのためなら、プライドも何も必要ない。
「野球は九人でやるもんだぜ? 俺もお前も、駒の一つだ」
「それがどうし……」
「俺は投手という駒として、この結果に貢献した。お前らが俺らに負けたのは、俺が敬遠したせいじゃない」
 水上が敬遠された後、R高校は明らかに力が入りすぎになっていた。敬遠された事を怒っていたのか、侮られた事を憤っていたのかは分からない。分からないが、それこそが藤木にとっては作戦通りだった。
「お前以外が、俺を打てなかったからだ」
 言うべき事は言った。元より説明する義理などないのだが、これで水上が納得するのなら多少の手間など惜しいものではない。
 絶句してしまった水上に背を向け、藤木はチームメイトの所へ行こうとした。
「俺は……俺はお前を見損なった、そんなに勝ちに汚い奴だとは」
 そんな声が背中に当たった。藤木は立ち止まった。振り向くと、水上が苦々しげに睨んできている。ふむ、と藤木は頷いた。
「ほめ言葉として受け取っておくぜ」
 笑顔でそう返し、藤木は二度と振り向かなかった。負け犬に興味はない。藤木の目は、すでに次の試合へと向かっていた。

 県大会予選三回戦。M高校とR高校の試合は、1−0でM高校の勝利で幕を閉じた。M高校のエース藤木は九回を2安打1四球無失点。R高校のスラッガー水上は三打席2安打1四球。記録に残るのは、これだけだった。
 そしてM高校が四回戦へと駒を進めた。







<了>


「異次元の存在・甲子園編」へ。

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