居間の卓の上に置かれた新聞から、近所のスーパーのチラシを拾い出して冷蔵庫の扉に磁石(よく3個一組とかで売ってる野菜とかお菓子とかの飾りのついた奴だ。100円ショップで買って来た)で留めた。実家にいた頃、なんでこんな物冷蔵庫にくっつけるんだろうと思ってたんだけど、自分で使い始めて意外と(いやかなり)便利だということに気が付いた。特売日は明日。
 ついでに冷蔵庫と戸棚の中をチェックする。冷蔵庫の中の牛乳パックを持ち上げ、卵の数を数える。まだ、あと1日位は大丈夫。戸棚の中の食パンはもう3枚しかないから、明日の朝食には足りないかもしれない。今日バイトの帰りに買ってこよう。

 二人で暮らし始めてから、比較的朝の時間に余裕のある俺が買い出しをする様になった。打ち合わせ無しに買い物してくると、下手すると同じものをお互いに買ってくる。食パンがダイニングのテーブルの上に4斤並んだときには呆れるより笑ってしまった。日持ちのきく食パンだからまだましだけど、生ものだったりしたらと考えるとぞっとしない。特売品のトイレットペーパー(8個詰)が玄関脇に2つ並んでるってのもちょっと遠慮したい光景だ。うっかり忘れない様、特売日の案内の方を表にしてチラシを冷蔵庫の扉に留めた時、そのすぐ横に掛けられたカレンダーが目に入った。
 兄さんと二人で家を出てから、もう半年近くも経っているのだと気がついて何ともいえない気分になる。

 3月の初めの頃、合格発表の掲示板に俺の名前は無かったと報告したその次の日に引越し先の鍵を渡された。冗談だと思っていた兄の提案に頷いてから、俺が受験で、当然のように落ちて浪人決定になるまでの間に、兄さんは親を説得し(何ていって説得したんだろう。いまだに教えてくれない)二人で住む処を探し、引越しの準備を整えていたらしい。
 最初は何の鍵なのか全く見当もつかずに、四輪のキーにしては妙な形だな、スカイライン(兄の四輪)のキーってこんな形してたっけ。とてのひらの上の銀色の鉄片をぼんやりと眺めていた俺に向かって、兄は照れたようなけれどどこか自慢気な声で、賃貸マンションだが、二人で住むのには十分な広さがあると思う。そう云って笑った。その時になってやっと以前交わした約束を兄が実行したのだと気がついた。マジ?と思わず口走りそうになって慌てて踏みとどまったのだが、表情だけは誤魔化しようが無くて兄にばっちり見られて、なんだか傷ついたような顔をされた事だけは今でもすぐに思い出せる。兄の性格からして洒落や冗談で二人暮しなんて云い出す事は有り得ないのかもしれないが、少なくとももっと先の話だと俺は考えていたんだから。
 あー。悪かったって思ってるんだって。これでも一応。
 準備期間が殆ど無くて、必要最小限の荷物だけ持って(俺に限って云えば。俺は受験勉強関係一式と洋服、それに単車位。二人で使いそうなコンポ、テレビはまあ別としても兄さんは結構持ち出した。本、CD、それから当然洋服。その他にも何か色々持って来ている。母さんは俺達それぞれの荷造り内容に少なすぎ、多すぎと最後まで随分あれこれ云っていた)家を出た。引越してきてからもあれが足りない、これが無いで、結構最近までばたばたしてたような気がする。今まではあるのが当たり前で意識してなかった物が絶対必要だったり、あれば便利だけどまあ無くても困らない物を持って来ていたり。そういえばスリッパ(別にトイレのでは無くて室内履き用の奴。兄さんと俺のと色違い二足分)なんて何時持ち出し荷物の中にいれたんだろう兄さんは。というか何でそんな物持って来たんだ?突っ込みたいんだけど、突っ込むととんでもない答えが返って来そうで何となく聴けない。
 そうやって六畳二間と1LDKの賃貸マンションの一室にあれこれ必要な物を買い揃えたり、要らない物を処分したりしている内に、俺も兄さんも、そして家具や小物もだんだんこの部屋に馴染んできて、そこにあるのが一番しっくりするような気がしてくるから不思議なものだ。家庭を作るってこういうことなのかな。世間一般から見たら俺達は唯の兄弟で、父親も母親も居る家を出て二人で暮らす必要なんて何処にも無いだろうって思われるのかも知れないけれど。

 二人だけの家で(六畳二間と1LDKの賃貸マンションの一室をそう呼んでいいのかどうかは別として)誰に遠慮をする必要も無くなったのに、俺に触れて来る時、兄さんは今でも滅茶苦茶真剣な顔をして「達哉」と呼びかけてくる。それでつい俺も真面目な顔して頷いたりするものだから、傍から見れば酷くマヌケな構図に違いない。夜の夜中、ベッドの上で正座して俯きあってる男二人。だ。
 いい加減慣れてくれないかなぁ。でないとこっちまで照れる。

 実家を出る時、自分でも不思議な程何の感慨も湧かなかった。良くも悪くも自分を縛りつけてきたあの家を出る時はざまあみろ、位は云ってやろうと思っていたのに。長い間、あの家にいる間はずっと。
 古ぼけ、少しくたびれた庭の扉を最後に閉めたとき、ああこんなものかと思った。
 多分、ひとりじゃなかったから。
 となりにいた兄さんにそっと目をやると、やっぱり少し複雑な顔をしていた。ように思う。

 冷蔵庫と戸棚の中をチェックする。冷蔵庫の中の牛乳パックを持ち上げ、卵の数を数える。まだ、あと1日位は大丈夫。戸棚の中の食パンはもう3枚しかないから、明日の朝食には足りないかもしれない。今日バイトの帰りに買ってこよう。予備校の問題集と参考書をザックに放り込んで、部屋の鍵を片手に外に出る。玄関に鍵を掛け、振り返った2階の通路の向こうの空は気が遠くなりそうな程真っ青で、遠くにぽっかりと白い雲。

 8月最後の週。今日も快晴。

ふたりぶん

 ベッドサイドに置いた腕時計を着けながら、文字盤を確認する。6時13分。達哉はまだベッドの中で寝息を立てていた。夏掛けに半分隠れた横顔は子供のようで、つい口元が緩む。まずいまずいと自分でも緩んだ口元を意識しながら(部屋に鏡がなくて幸い)持ち帰りの資料とスーツのジャケットを片手に部屋を出た。
 コーヒーメーカーをセットし、食パンをトースターに放り込んで、玄関ドア下の郵便受けから取り出した新聞を広げる。広告を避けて(週中は広告が少ない。不動産とスーパーの特売日の案内位しかなかった)食卓の端に重ねる。この後、多分8時頃?に起きてくる弟が特売日情報に殊の外敏感なので、広告は迂闊に捨てられない。家にいる間はこういう物を気にするような性分の弟にも見えなかったのだから、兄弟とはいえ二人暮らしでもしてみなければ分からない事も随分あるものだと、こういうときにしみじみ思う。

 丁度よく焼けた食パンを齧りながら社会欄の記事を目で追う。(この頃随分行儀が悪くなったと自分でも思うのだ。実家にいた頃は決してこんな事はしていなかった。達哉の影響か?)新聞の最上段の更に上の日付に、弟と二人で家を出てからもう半年近くもたったのだと気付かされる。ありきたりな言い回しかも知れないが、半年なんて長いようで短い。半年前の今ごろは、ああそうだ、弟と住む処をさがしていた。家を出ようという僕の提案に弟が頷いてから。子供じみた悪戯心と期待から達哉にも内緒にして。

 合格発表の掲示板に自分の名前は無かったと弟に報告された、その次の日に引越し先のアパートの鍵を渡した。3月の初め頃、この年最後の雪の日だった事をよく覚えている。受け取った達哉はひどく驚いた顔をした。僕の話を冗談だと思っていたか、少なくとも僕がこんなに早く行動するとは全く考えていなかった節がある。お前が大学に落ちても受かっても、一緒に暮らすという話は消えてなくなる訳じゃなかったんだぞ。少しは僕の行動力を信用してくれてもいいのに。
 達哉は僕がどう両親を説得したのかが気になっているようだったが(達哉がその時の事を何度も僕に尋ねてくるので)別にどうという事は無い。ごく普通に、家を出る。と云っただけだ。どうも何か裏があるように思われている。それは穿ちすぎというものだぞ達哉。そう云ってやってもいいのだが、口数少なく滅多な事では自分からは話し掛けてくる事の無い弟がどうにかして(無い)真相を聞き出そうと近寄ってくるのはなかなか悪くない気分だった。もう暫くはぐらかしておこう。

 準備期間の殆ど無かった引越し作業で、二人で使うような物は別にしても、弟があまりにも何も持ち出そうとはしないので、僕の方はといえばその反動の用に色々持ち出した。それでも軽トラックに十分収まって余りある量で、色々相談に乗ってくれた一人暮らし経験有りの同僚には俺が家を出た時だってもっと色々持っていったぞ、何でも新品で揃えようなんて新婚家庭じゃあるまいし。と笑われた。似たようなものだとは勿論云えず曖昧に笑って誤魔化したのだけれど。
 家を出て、引越してきてからもあれが足りない、これが無いで、結構最近まで弟と二人近くのホームセンターに買い物に行くのが僕の非番の日のの恒例行事だった。フライパンなんて一個、有っても精々大小2個でいいのにという達哉と、諍いとは行かないまでも言い合いになったり(何せ僕は料理にはこだわりがあるのだ)、たまたまあった洗剤の特売で、あっちのメーカーの方がいいとかこっちの方が量が多いとかその場で二人して考え込んだり。僕も弟も一人暮らしはおろか実家にいた頃は家事だってろくにした事が無かったのだから、気がつけば半年近く経っている今でも家事全般については試行錯誤の連続だ。
 そういえばここに引っ越して一日目、家を出る時に持ち出してきたスリッパを玄関に並べている僕を達哉は不思議そうな目で見つめていたっけ。玄関先に並んだ僕と弟、二人分のスリッパがこの家の住人の証になるような気がして何となく持って来たのだ。(今でも玄関の片隅に二足揃って置いてある)変か?と達哉に聞けば返ってくる答えは分かりきっていたから聞かなかった。
 でも、家族の証なんて案外そんなものじゃないのかな?世間一般から見たら僕達は唯の兄弟で、家族もなにもありはしないと思われるのかも知れないが。

 二人だけの家で(六畳二間と1LDKの賃貸マンションだけれど、そう呼んだって間違ってはいないだろう?)弟と二人並んでテレビを見ている時、不意に弟が僕の首へ腕を絡めて来る事がある。別に恋愛物を見ていて気分が盛り上がって、とかそういうことではなく、むしろ「今日のスポーツ」で東京ドーム巨人中日戦、9回裏の松井の場外級ホームランのリプレイとかそういう場面でだ。壁に背をついてのしかかってくる弟を受け止めて、カーテンは閉めてあるかとつい気になってしまう。何せ4階立てのマンションの2階の角部屋で、夜中とも云えない微妙な時間帯。誰に見られるか分かったものではないのだから。達哉ここは居間だぞと小声で文句をいうと、弟は大抵目を細めて声を出さない笑いを返して寄越してくる。
 まあ、それはそれで……その、何だ。

 実家を出る時、自分でも不思議な位にさばさばした。壊れかけた家族を、昔を取り戻そうと散々足掻いた僕の拠り処だったあの家を出る時は、もっとしんみりした気持ちになるだろうと思っていたのに。見上げた二階の窓、そこからは見えない僕と弟の部屋。そこに置き去りにした色々な事への未練は何も無い。僕の中の何処を探しても。
 多分、ふたりだったから。
 ゆっくりと庭の扉を閉めた達哉は一度だけ、玄関から屋根まで視線を走らせ、それから停めてあった軽トラックに乗り込んだ。二度と振り返ろうとはしなかった。

 食器とコーヒーメーカーのポットを手早く洗って水切りに伏せる。腕時計の時間を確認する。7時21分。そろそろ家を出る時間だ。出かける前にもう一度だけ部屋の戸を開け(我ながら重症だ。今更なんだが)中をそっと覗く。カーテン越し、建物の合間から覗く空は真っ青で、その光を受けて明るいベッドの上の白いかたまりに、ちょっと笑って扉を閉める。

 8月最後の週。今日も快晴。

END

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