★真田家の武将か〜こ
○真田略年表で検索
○真田の城と合戦で検索
○真田家の武将 あ〜おに戻る
○真田家の武将 さ〜そへ進む

                                                 武将名           経歴。 
筧 虎秀 十兵衛。
幸隆家臣。十蔵の父。 『真田三代記』には、敵の包囲を潜り抜け城門を丸太で突き破るという大胆不敵な戦功により、 一介の足軽から家来持の武将に出世したという。 
筧 十蔵 金六郎。
真田十勇士の一人。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
筧 政右衛門 真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
笠原 清繁 新三郎。
佐久郡志賀城主。武田晴信の北進の前に死を覚悟して立ちふさがった。 1546年(天文15年)に内山城が奪取され、城主の大井貞清父子が降伏、出仕させられてからは、佐久で残るのは清繁の志賀城だけになっていた。 志賀越えという峠を中心にして境を接する、隣国上野の平井城にいる関東管領、上杉憲政に救援を乞い、縁戚にあたる高田右衛門佑父子が援軍に駆けつけた。 さらに金井秀景を総大将に小田井原を出陣したとの知らせに強気になったが、水の手を切られ、さらに生首を城門前に並べられ、士気が激減し、とうとう自害した。
加沢氏 賀沢氏。
滋野一党。
加沢 助左衛門 賀沢助左衛門。
角田 新右衛門 斎藤憲広の家臣。間者として憲広が真田勢に放ったが、 斎藤憲実に言い含められ、真田に降った。
金子 美濃守 天正8年(1580年)真田昌幸に出仕。沼田城攻略に参加。 昌幸の上州攻略の陣立てで先陣を務めた。 対北条・徳川合戦にも参加。 
金子 経重 信幸家臣。
鎌原 幸重 宮内少輔。
鎌原氏は鎌倉御家人海野幸氏の子孫。 滋野姓海野氏に連なる家系で、この鎌原氏は同族羽尾氏との領地争いがあって、 永禄3年(1563年)の春、幸隆に通じて武田氏に随身した。 一度その本領を羽尾氏に奪われるも永禄5年10月、武田氏及び真田氏の尽力により、 長野原合戦で、その本領を回復している。 幸隆の岩櫃城攻略の際、岩櫃城主斎藤憲広の弟を内応させるのどの活躍を見せる。 武田氏崩壊後は昌幸の配下として幾つもの合戦に参加。 昌幸の上州攻略の陣立てでは前備を務めた。 天正10年(1582年)大戸城攻略の戦で討ち死にした。
鎌原 重澄 筑前守。
鎌原幸重の嫡男。 武田家に臣従していた重澄は長篠合戦で討ち死にした。 
鎌原 重春 宮内少輔。
鎌原重澄の嫡男。 天正18年に北条攻めの一環である松井田城攻めで討ち死にした。 
鎌原 重宗 石見守。
鎌原重春の嫡男。 関ヶ原の合戦では信幸に従って東軍に付き、大阪の陣にも従軍し。その家名を残している。 後々、鎌原氏は真田氏の盟友として活躍した。
加茂 大膳 昌幸の上州攻略の陣立てで脇備の左を務めた。 
唐沢 杢之助 吾妻斎藤氏の家臣であったが、岩櫃城攻略戦で内応し武田氏に臣従した。 後の嶽山合戦で討ち死にした。 
唐沢 玄蕃允 唐沢杢之助の嫡男。 父の死後、家督を継いで真田氏の合戦に参加している。 昌幸の上州攻略の陣立てでは使番及び足軽隊を務めた。 
苅屋氏 滋野一党。 
川合 杢十郎 昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。 
河原 隆正 丹波守。
隆正は幸隆の下に嫁いだ河原夫人の兄。従って幸隆の義兄にあたる。 河原氏は小県海野氏において大官衆に位置する家系であったとされる。 
河原 綱家 右京亮。
三人の兄が長篠の合戦で討ち死にしたため家督を継ぎ、昌幸の家老となって活躍した。 
河原 左京 川原左京。
昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。 
木内 甚五左衛門 昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。 
木辻 別右衛門 苅屋原城主太田弥助の家臣。 1551年太田弥助が武田氏に攻められ、城が落城した時に幸隆の家臣相木森之助に生け捕られた。 太田弥助の家臣、本間九郎と坂井名八は筧十兵衛が討ち取っている。 中根宇右衛門は、増尾新蔵が討ち取っている。 別右衛門は鉄砲の名手として知られる。 真田氏が武田氏滅亡後、武田勝頼の遺児である勝千代を擁して籠り、 織田信長の家臣、梁田出羽守金森五郎八らに戸石城を包囲されたとき、 別右衛門の放った鉄砲の弾は織田信忠の右腕の小手の隙間をかすたという。 後の真田氏の合戦にも度々従軍している。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。 
木辻 元之助 木辻別右衛門の子。 大阪の陣で活躍した。
清野 左近太夫 村上家臣。幸隆の調略によって 武田氏に降る。
木村 戸右衛門 土佐守。
昌幸にとって最も信頼できる重臣といわれる。 昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。 
木村 庄左衛門 昌幸家臣。
霧隠 才蔵 宗連。
真田十勇士の一人。伊賀流忍術の使い手。 
霧隠 鹿右衛門 真田家臣。『真田三代記』では、大阪の陣で忍びの者として活躍。 
木呂子 友則 北条家臣。松山城の降将。
栗田 国時 川中島北部の豪族。 高梨、須田、島津、小田切、井上らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。 他には井上清政、井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、室賀光正、山田氏、斎藤氏らである。 西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、 甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、死傷者は村上軍を上回った。 上田原の合戦とよばれる。
小泉 源五郎 武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。 
高坂 昌貞 源五郎。春日昌貞。
高坂昌信の子。海津城主。武田氏滅亡後、真田氏、北条氏へつく。
香坂 安房守 村上家臣。 幸隆の調略によって、武田家に降る。
高月 備中守 昌幸家老。 
木暮 加兵衛 昌幸家老。 
木暮 甚右衛門 信幸家臣。
小島 兵庫助 川中島北部の豪族。村上家臣。 真田幸隆の調略によって、大須賀久兵衛が叛き討ち取られた。
小島 権兵衛 川中島北部の豪族。 高梨、須田、島津、小田切、井上らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。 他には井上清政、井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、栗田国時、室賀光正、山田氏、斎藤氏らである。 上田原の合戦で討死した。他にも西条義忠、屋代道斎、森村清秀、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、 甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、死傷者は村上軍を上回った。
小松 本多忠勝の娘。家康の養女として真田信幸に嫁いだ。 関ヶ原合戦の直前、西軍についた信幸の父・昌幸が孫の顔を見たいと沼田城を訪れたが、彼女は頑として入城を拒んだという。 
小宮山 米山城を築いたとされる小宮山郷の豪族。
小宮山 数馬 武田勝頼の直臣。 天目山麓から勝頼の遺児である次男の勝千代(当時7歳)を伴って逃れ、 昌幸を頼ったとされる。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
近藤 無手之助 真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。