第8回公判 弁護側証人尋問
〜その10〜

ひとつ前の記事へ


弁護人:最高裁の言うように、羞恥心を害する、あるいは嫌悪感を引き起こすと、見たくない人を守るということと、読みたい人の自由を守るということは、必ずしも両立しないわけではないと思うんですが、何らかの調整原理があるんじゃないでしょうか。

証人:御質問の意味がちょっと分からないんですが。


弁護人:何も、見たくない人を遠ざけるというために、事実上出版全体を禁止してしまうような措置を執らなくても、その見たくない人を不意打ちしないような方法というのはあるんじゃないんでしょうか?

証人:それは当然ですよ。だってチャタレー夫人のわいせつの定義というのは、見たくない人にどのような策を講ずるかという観点から3要素が表れてきているわけじゃないわけですから、当然のことながらそういうことが考慮されていないということになります。
見たくない人をどう考えるか、見たいという人の自由をどう確保するか、というよりも、見たいという人たちの自由があるかどうかということも最高裁判所は1回も考えたことはないと思います。


弁護人:アメリカにおいても日本においても、性表現の表現物を社会的にゾーニングする、あるいは書店内でゾーニングするなどのすみ分けが行われていると思いますが、それについては、証人はこのゾーニングという問題にいて、どのようにお考えでしょうか?

証人:僕の理解によれば、他人を害するのでない表現というものをどのように確保するかということを、今、すみ分けとおっしゃいましたけれども、要するに、その状況、そのコンセプトに合わせた仕方で頒布販売するという仕組みがあることによってのみ、初めて、見たい人は何が何でも自分が害悪を人に及ぼすのでない限り、社会に害悪を及ぼすものでない限りは、自分が自分の見たいものを見るということを確保するために、国家がなし得る唯一の道だというふうに思うわけです。

問題は、そのような利益を利益として保護に値する、それは表現の自由の問題だと考えるか考えないかという問題であって、規制制度というものが持っている意味は、今お話したような格好ですみ分けをしているかどうかという問題にどうしてもなっちゃうだろうというふうに僕は思います。
そのことによって、初めて、今まで問われてこなかったけれども、読みたい人に、「あんたが読めば悪いんだから社会のために我慢しなさい」という理屈なしで済ませられる。
読む人はいろんな読み方があって、頒布販売のときにターゲットに向けた特別 なマーケットの作り方というもので確保すると。確保するのは国家としての役割だということになるだろうと思います。


弁護人:この性表現の領域で、今後構築されるべき表現の自由というのはどのようなものか、その法理論について、証人はどのようにお考えなんでしょうか?

証人:僕はすみ分けで、あるひとつのマーケットの仕方をちゃんとしているかどうかということが1つポイントとしてあると同時に、マーケットの作り方について被告人が考慮せずに、独りよがりで出版物を、独りよがりの頒布販売方法でやってしまったという場合における取締りということは、言わば、規制目的から外れたところにありますので、あり得るだろうと。
すみ分けを確保するということが1つと、それからすみ分けから外れたものをどう規律するかということ、この二段構えになるんだろうと思います。


弁護人:本件被告人の発刊した「蜜室」というコミックスは、未成年者は読むことができませんと表示されて、袋詰めされて、成年の書物のコーナーに区分して陳列されていて、対面 販売の書店でしか置かれていない、通信販売はクレジットカード決済のみを受け付けて、未成年者の購入を排除しているという形態で販売されていたのですけれども、そのような形で売られている書物が、今回、わいせつ文書、わいせつ図画頒布として検挙されたことについて、証人はどのようにお考えでしょうか?

証人:今与えられた情報に関する限りで、それらがすべて正確な叙述であるとすれば、その限りにおいて、マーケットの作り方において、すみ分けをして、すみ分けの中で頒布販売が行われたし、ターゲットはぜひ読みたいということ、そういう人たちに向けられ、そういう人たちにのみ向けられる販売方法、頒布方法であったと理解してよろしかろうなという感じを持ってます。


弁護人:先ほど、証人が、思想の自由市場、民主主義にとっての価値とは切り離して、もっと個人レベルのこととして、性の表現を見る、あるいは性を表現して社会に出すといったことは、個人の持っている性的な欲求を刺激するというふうな役割を果 たすと思うんですが、この個人の性的な欲求を刺激すること自体、最高裁の言うように、罪悪視されるべきことなんでしょうか?

証人:人間の欲望というのは様々で、性的欲望というのは否定することはできない。性欲を刺激すること自身は、社会的価値に反するというふうにはなり得ない性質のものとして、そういう微妙な問題としてあり得るというふうに考えられざるを得ない領域だということ。もう1つは、メッセージを受け取る人々が、発信するほうの側も含めてですけれども、そういう人たちが、これを何のために読むかということは、個人の自由の問題としてはどうでもいいことだと。というか国家がそれを判定すべきことじゃない。

国家が問題になるのは、読んだ結果として、その人が困るとか、あるいは他人が困るとか、あるいは社会が困るとかということがあるかどうかということが、1つの重要なポイントになると思うわけです。僕の理解によると、憲法で表現の自由が保障されているということは、およそ表現物というもの、あるいはメッセージというものは、人に伝えるときのこっち方の意図とあっち方の意図も、千差万別 であり得ると。さっき出しました天皇制の廃止という言説に対して、怒る人もいるし、共鳴する人もいるし、ばかみたいなことだと言う人もいるし、それぞれであって、必ず天皇制の反対の行動運動に移るというはずのものではない。

メッセージってそんなもんじゃないということが表現の自由の前提にあるわけで、そうとすると、見たいと思う人がこれをどのようなモチーフで見るかということを国家が立ち入って「ああ、そうですか、それならよろしゅうございます、それじゃ駄 目です」といったようなことを言えるような領域に入っていくということは、人々の価値判断の中に入っていくことになる。
見たいと思う人はどのような用い方をするか僕には分かりません。見たいと思う人が、見たことによって、あるいは見ることによって、社会的な害を与えるか、与えないかということが国家の関心事であるし、かつそれにとどまるというふうにさえ思うわけです。


弁護人:わいせつ規制を考える上で、「国民の多くはそういう表現物が氾濫することを望んでいないんだと、こういうものは規制されてもしょうがないと考えているんだから、規制されてもいいんだ」と、そういう観点から、その表現規制を正当化するということはできないんでしょうか?

証人:それは事実そういうことで正当化していると思います。社会は。そして、その人々が「わいせつ物? ああ、それは取り締まるのは当たり前じゃないの、取り締まって何も悪いことないんじゃないの」というコンセンサスがある、それは間違いないと思います。

だけど問題は、そのようなコンセンサスが何によってどのように作られているかということについて個々に分析してみると、憲法的な表現の自由を媒介として、それをルールとして切り開いて作られた理論としてコンセンサスがあるわけではもちろんない。あり得ない。
何も知らずにコンセンサスがあるということは大いにあり得るわけです。それが第1点。

第2点として、コンセンサスは行き渡っているじゃないかと、その世の中の普通 の姿じゃないかということで表現の自由が切られるとするならば、今ここでは表現の自由が問題なんですが、表現の自由がそのような、一般 の人々が「いいんじゃないの、これは」ということがしきたりとして成り立っていて、議論をしないで「そういうもんだろう」と思っていることを基準として、表現の自由が良いとか悪いとかいうことになると、「なぜ表現の自由というものがあるのか?」ということとの関係で、表現の自由というのは、少数者の利益を確保するということなのであって、多数者の利益を確保するためには表現の自由なんて要らんのですよ。

表現の自由というのは、人々から悪評判であったり、人々が「ああ、それなら規律していいんじゃないの?」というところにいて、「いや、これは規律することは間違ってるんだ」という少数者の側の利益を保障するのが憲法なんだと。だから、今おっしゃったようなことでは説明できない。


弁護人:検察官は今回裁判を通じて証人尋問をする際に、青少年がこの「蜜室」を読んだらどうなるんだということを繰り返し尋問されているんですが、青少年の健全育成という観点から刑法175条のわいせつ規制を正当化するということはできるんでしょうか?

証人:それはちょっとできかねる。
表現の自由というのは、従来から大人の自由をどう確保するかということであったし、わいせつ文書について言いますと、イギリスでは昔コモンローの中で「わいせつの規制」があった。
そのときに、ある時代までは、その表現物に接したら一番ショックの程度の激しい人、いわゆる傷つきやすい人に対してショックを与えればわいせつだというふうに考えられていたことが、アメリカでは完全に否定されてしまったのと全く同じように、子供を基準として、発展過程にある子供と、発展を一応済ませたと考えられる大人の論理とを混同して、大人の読むことのできる領域を子供の読む領域まで下げてしまうということになると、あらゆる表現領域で表現の自由を保障するという意味は全くなくなってしまうと思います。


弁護人:もう1つの考え方として、ポルノグラフィはいわゆる女性一般の人権を侵害するんだと、集団としての人権を侵害するからよくないんだというような議論があるんですが、この点について先生はどうお考えか、簡単に述べていただけますか?

証人:僕たち日本人としては、またアメリカのような英語国でも、ポルノとわいせつとを同じように使うようになっていますけれども、今御指摘の質問との関係で言うと、わいせつ文書というのは、社会の公共の福祉の観点から見て取り締まる、規制の古いシステム。
で、フェミニストとして考えるときには、それではもう説明できないと。効果 的ではないと。
そうじゃなくて、今や取り締まるべきものは女性の性的従属をどのように取り締まり、そのことによって女性の人権を守るという、がらっと違った目的の中でポルノグラフィというものは取り締まるべきだというふうに、わいせつとポルノグラフィというのとを区別 して理解する時期が少なくともある時期あるわけです。
それでポルノグラフィというのは、今でもある種の人たちはそのようなものとして使っているわけですね。

その点、今の御質問に対して多少の解説を要するんですけれども、そのようなことの中で、ポルノグラフィはなぜ規律するかということで、今までのわいせつ概念の規律の仕方では説明できないからと言って、ある種の一部のフェミニストたちは「ポルノグラフィというものは女性の性的従属を正当化し、永久化するものである」逆に言えば「男性の性的優位 を確保するために、女性というもめを奴隷的に扱うのがポルノグラフィである」というふうに考えるわけです。そう考えた上で、単なるわいせつの問題じゃなくて、その辺に行き渡っている、いわゆるアダルト向けの雑誌もこれも男性優位 のことを叙述しているから駄目だというふうに規制をずっと広げる。しかしながら、規制の理屈は人権保護なんだと。公共の福祉じゃなくて、具体的な人権の保護だと言うんだけれども、今御指摘のように、個人の人権じゃないですね。集団の人権、女性一般 を総括しているわけですね。

その問題はいろんな問題がたくさんあると思います。性的従属というのは、確かに社会実態がそうなんですが、この出版物がどのような意味で性的に従属させることになるのか、これはどのような意味で逆に性的優位 を確保しているのかということを裁判所がいちいち判定するということ、何よりもそういうことを判定基準とする法律が出来上がるかどうかという、立法論的にそういうことができるかという問題や、なかんずく集団というものを一括して考えて、それを人権論で語る。
人権というのは集団なのか、動物も含むのか、木や林も含めるかといった、あの大理論の中に入り込んでしまうということになる。
だから、理論としてはある時期、日本で今でもはやっているかもしれませんが、もともとあれは一過性の理論であったと思う。

けれども、わいせつ文書の規律の問題が理論的に非常にうまくいかなくなった、袋小路に入っちゃったということに代理して、ポルノグラフィの理論が出てきたと。
この延長線上に、今度は人種差別を一括して取り締まるとか、それからチャイルド・ポルノも一括して取り締まるといった理論が展開してきているようになるというのは、やはり20世紀の90年代以降の特徴だと思います。
しかし、憲法問題は何一つ片付いていないんです。



次の記事へ



※尚、このレポートはメモ及び記憶を元に作成されており、あくまで公判のイメージを伝えるためのものですので、多少の記述の食い違いは御容赦ください。
※転載は自由です。
※制作は児ポ法改悪阻止青環法粉砕実行委員会が行なっています。 また、制作に当たり匿名の方の協力をいただきました。