<最強論>




        最強とは?

        自然体

        覚 悟

        孤 高

        持続力

        待 ち

        戦いの究極

        最強への道

        受即攻

        打撃vs組技

        武道と武術

        最強の条件

        最強柔術論

        実戦と実践

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最強とは?
真の「最強」は、「相手を傷つけず、自分も傷つかずして勝つ」!!

しかし、その道は安易ではない。
ありとあらゆる攻撃に立ち向かう“覚悟”が「最強」には必需である。

それは単なる「無謀」や「蛮勇」ではない。
それは、絶対的な「受け」の世界でもある。

可能な限り、合理的な技術の追求、強靭な体力。
そして、それらを最大限に発揮する“精神”。

これらがなければ、相手のあらゆる攻撃に対処し、抑えることはできない。
相手の攻撃は、ノールールであり、容赦は無い!

相手を殺そうとする心は、自分に“隙”をつくる弱い心である。

「最強」は、相手ではなく、「自分」が死ぬ事を覚悟する!!


自然体
「最強」は、“自然体”の強さを持っている。
その動きは、流れるようであり、決して無理が無い。

例えば、ヒクソン・グレーシーを見ると、彼は試合の最中は元より、試合前の控え室や入場シーンにも全く堅さが無い。
完全なるリラックス状態。
しかし、言葉で言うのは簡単でも、実際にそういう状態になるのは至難の技である。
ヒクソンの場合、インタビュー等の時にもそういう状態が認められる。
おそらく日常生活でも、そうなのだろう。

自然体(リラックス)状態は、筋肉を柔軟にし、身体全体の動きを滑らかにする。
身体全体のバランスが取れるので、攻撃力に集中性が生まれ、最小限の力で最大限の効果を得られるようになる。
それは、またダメージを最小限に抑え、ケガも少なくする。

そして、頭脳をも明晰にし、瞬間瞬間に最高の判断力(閃き)をもたらすようになる。

「最強」のキーワード、それが“自然体”である。


覚 悟
「最強」は戦いにおいて、常に“死”を意識している。
つまり、いつでも死ぬ“覚悟”ができているわけだ。

中途半端な強さは、相手を威嚇し、自己の強さを誇示しようとする。
それは自分の弱さを隠そうとする反発的行為である。

しかし、“覚悟”を持った人間は、自己の強さや弱さを誇示したり、隠す必要性を感じない。
従って、自己の強さも弱さもさらけ出しても一向に気に留めない。
そのため一見すると、「こいつは大して強くないのではないか?」とも思われることがある。
だが、時に応じて彼は「鬼神」の強さを発揮する!

そういう人間は、戦う相手に対して「優しく」もなれ、「非情」にもなれる。
そして、それが「最強」の証でもある!


孤 高
「最強」は群れたがらない。

「最強」は孤高の戦士である!

とかくメダカは群れたがるという。
無理に孤立する必要は無いが、無理に交わる必要も無い。
自分のオリジナリティーを大切にする事、そして、それをベースに他の長所を吸収する事が大切である。

他人に影響を受ける事と左右される事は、ややニュアンスが違う。
「猿真似」「迎合」は、自分の本来持つ個性的能力を殺してしまう可能性がある。

「最強」は、自分を信じ、自己の持つ可能性をを最大限に発揮する!!


持続力
「最強」は、単なる肉体パワーだけに頼らない。

肉体パワーは、20歳代がピークであり、30歳代からは衰える一方である。
筋肉パワーのみに頼る選手は、その選手生命は極めて短い。
20代〜30代前半にかけては凄い強さを見せた格闘家も、30代後半には無名の相手にあっけなく敗れ去る。

しかし、歴史に名を残すような“達人”は違う!
彼らは、年齢的な体力の衰えを超越して、その「強さ」を持続して行く。

彼らは、筋肉パワーではなく、何か違った力を武器に戦っているからだろう。
それは何か?
ある者は“気の力”。
ある者は“認識力”。
ある者は“自然力”。
また、ある者は“ある種のコツ”とも言う。
はたまた、全ての“結集力”であるとも言われる。

人それぞれ表現は違うようであるが、私は肉体と精神がある種“調和”された状態ではないかと思うのである。

いずれにせよ、真の「最強」は、一時的な強さのみでなく、「持続性」を持つ者であると言えるだろう。

「持続力」、これもまた「最強」の証である!!


待 ち
“空手に先手無し”

昔、良く言われたセリフである。
「空手は一撃必殺であるから、絶対先に手を出してはならない」
という道徳律のように、この言葉は思われている。

しかし、私は無門会空手の「受即攻」、グレーシー柔術の「セルフディフェンス」の理論技術を知ってからは、これは単に道徳律ではなく、戦いの“究極的境地”を表した言葉だと思うようになった。

即ち、究極の攻撃(一撃必殺)と究極の受け(完璧なディフェンス)を持つ者(達人)同士が戦った場合、先に攻撃したものが必ず敗れるという事である!

完璧なディフェンス技術を持つ者が、受け(待ち)に徹すれば、付け入る隙は全く無い。
しかし、先に攻撃を仕掛けるとすると、その瞬間、完璧なディフェンスは崩れ、スキが生じる。
攻撃をする時が最もスキが生じるのは、格闘技の常識である。

相手にスキが生じた時を読んで、そこに究極の攻撃(一撃必殺)を仕掛けるならば、100%勝てるわけである。

この場合の攻撃は、突き詰めると現象的な(実際の)攻撃だけではなく、“攻撃心”をも含むのである。
達人同士の戦いは、よくジーッとにらみ合い(待ち)が続くというのはこのためだろう。

「最強」のキーワード、それは“待ち”である!!


戦いの究極
達人同士の戦いは、“待ち”が続くと述べたが、では、その“待ち”の先にあるものは何だろう?

もし、真の達人同士が戦えば、お互いに永遠に“待ち”が続く事になる。

この“待ち”には、攻撃心も含まれる。
つまり、攻撃しようという心の動きもスキを生み出し、「完璧な受け」が崩れる原因になる。
だとすると、お互いに攻撃心すら持てなくなる事になる。
攻撃心を持つ事=敗北、となる。
そうすると、2人の間には「戦い」の意味、必要があるだろうか?

ここに至って、お互いの“攻撃心”は自ずと消滅し、戦う事を止めざる得なくなる。
自然に・・・
合気道でいうところの「和」の精神とは、この戦いの究極のことではないだろうか?

戦いの究極、それは自然的な“攻撃心の消滅”であり、それは“真の平和”である!!


最強への道
最近、「雀鬼」というVシネマを観た。
麻雀界で20年間の不敗伝説を持つ「桜井章一」氏の半生を劇画化したものである。
雑誌の対談で、ヒクソン・グレーシーとの「最強対談」を実現し、意気投合した同氏の勝負師魂に興味を持ち、観たのであるが。

同氏のマージャンは、“勝つため”のマージャンではなく、“負けない”マージャンであるという。
如何に勝つかではなく、「如何に負けないか」を追究する事によって、同氏は如何なる相手にも負けない不敗(最強)のマージャンを築き上げたという。

これは、同じ勝負の世界である格闘技にもあてはまる、“最強へのキーワード”ではないだろうか?
ともすれば、人は勝つことに囚われ、無駄な動きで力を浪費し、精神を消耗する。
勝つための戦い(攻め)は、心に薪をくべる様に、常に闘争心を駆り立てねばならず、肉体をも酷使しなければならない。
そして、勝ち負けを繰り返し、相手とお互いにダメージを与え続けた結果として、心身ともにボロボロになり易い。

まず、負けない戦い方、傷つかない戦い方、を追究する事、即ち“受け”ディフェンスの重要性を知る事こそが、最強への第1歩となるのではないだろうか?

勝つことよりも“負けないこと”を目指す事、それが「最強への道」ではないだろうか?


受即攻
「攻撃は最大の防御なり」
非常にわかり易い言葉である。
そして、人は「防御」というものを「攻撃」の付属品のようにしか考えていない事が多いと思われる。

しかし、いわゆる達人(その道を極めた人)は、常に「完璧な防御技術」を身に付けている。
人は華やかな攻撃技術にツイツイ目が行きがちである。
達人の攻撃は常にモノの見事に決まる。
それは、完璧な防御技術で相手の攻撃を封じ込めているからこそ可能な事なのである。

如何に破壊力ある攻撃も、相手の防御に阻まれれば、その攻撃力は半減してしまう。
若いパワーのある一時期なら、自分の心身を削りながらのゴリ押し攻撃で、ある程度は通用する。
しかし、少しでも体力や気力が衰えれば、坂を転げ落ちるように脆くも敗れ去ることになる。
後に残るのは、大きなダメージのみである。

「防御」技術を身に付ける事は、「攻撃」よりも遥かに困難であると言われている。
如何なる攻撃にも対応できる「完璧な防御技術」は、エベレスト山を登頂するようなものだとも言われている。
それは一生を賭けて追究されるものかも知れない。
しかし、それだけやりがいもある。
そして「完璧な防御技術」は、攻撃のような過度のパワーやエネルギーを必要としない。
研ぎ澄まされた鋭敏な“感性”と“反応力”が必要である。

「完璧な受け」から生み出される攻撃は、それほどのパワーやスピードが無くとも必殺の威力を発揮する。
だからこそ、それは持続性を持ち得る。


打撃vs組技
打撃は、相手との接触の瞬間に攻撃を加える事を目的とする。
これに対し、組技は、相手と接触後に攻撃を加える事を目的とする。

接触の瞬間に攻撃を加えれば、打撃の勝利。
接触の瞬間に有効な攻撃を受けなければ、組技の勝利となる。

打撃と組技の勝敗の分け目は、“接触の瞬間”にあると言える。
この一瞬の瞬間を制する方が勝利を掴む。
瞬間の「間合い」を読む者が勝利を掴む。

この一瞬を制する者。
それが「最強」である!!


武道と武術
私は「武道」という言葉が好きだ。
そして「武術」という言葉は、あまり好きではない。

なぜなら、「武術」は単なる技術のみを指した言葉に感じるからだ。
しかし、格闘技に“男のロマン”を感じる私としては、単なる格闘技術のみにロマンはあまり感じない。

技術を活かすのは、体力は勿論だが、それ以上に精神性の優劣が大きい要素だと感じるからである。
そして<伝説の格闘家>足る“達人”達は、全員この高度な精神性を有していたからこそ、単なる強豪に留まらず、達人(最強)へのレベルに達したのだと思える。

格闘技を単なる攻防術に終わらせず、高度な精神性を伴ったモノとした時、その研ぎ澄まされた技術は、まさに“神技”に至る。

それこそが、武道の目指すものであり、「最強」への道だと思うのである。


最強の条件
「最強」は、単なる技術や体力といった身体能力だけでは成り得ない。
精神面をも含む「全体能力」を向上させてこそ、それに至る。

身体能力を基準にした「強者」いわゆる「強豪」は、パワーやスピードに人並みはずれて秀でたものを有し、それを持って他を圧倒し、勝利を得る。
しかし、それらは年齢と共に急激に衰え、一時的な強さ、栄光に過ぎない事が証明される。
「上には上がいる」の例え通り、身体能力には常に上が存在し、ピーク時を過ぎれば、能力の下降と共に益々上の身体能力の持ち主が出現する事になる。
身体能力(体格、体力、パワー、スピード)は、20才台にピークを迎え、後はキャリア(経験から得る駆け引き)を含めても30才前後までの全盛である。
30歳を過ぎれば、身体能力に基づく強さは急激に衰え始め、同時に後進の若いパワフルな身体能力に圧倒される運命にある。

しかし、「最強」のレベルに至った者は、年齢の限界を超え、身体能力で遥かに優る者をも破り続ける事を可能にする。
“身体能力に優る者をも破り得る事”
それが、「最強」の条件である。


最強柔術論
SRSDXのヒクソンインタビューを読んでみて、ヒクソンの柔術論と<最強論>との共通点を多く感じた。

「最強」は、攻撃一辺倒ではあり得ない。
パワフルな攻撃は確かに見る側からすれば、見栄えが良く面白いし、一見強そうに見える。(やってる方も自分の強さに酔いしれられる)
ヘビー級アマレスラー(ケアー、エリクソン、コールマン、等)の攻撃は、まさにパワフルで圧倒的な強さを感じさせる。
しかし、彼等の攻撃は持続性が無く、タコ殴りパンチが無ければ決定打を失う。
また、自分よりパワフルな相手にいともたやすく敗れ去る。
なぜか?
攻撃はスタミナを極度に消費するからだ。
また最終的に相手を戦闘不能に至らせる極め技を有していない。
そして、パワー頼りの攻撃は、それ以上のパワーに対処するスベを知らないからである。

「最強」は持続性を有している!
さらに「最強」は自分よりパワフルな相手を制する技術を有している!
なぜか?
「最強」は鉄壁のディフェンス(負けない)技術を持っているからだ。
ヒクソン・グレーシー曰く「パワフル(未知)な相手には、まず細心(ねずみ)の注意を持って状況を把握する」
一見消極的とも見えるこの「待ち」の(負けない)姿勢が、最も合理的な攻撃を生み出すのだ。
しかし、この間、相手はパワフルな(勝つための)攻撃を怒涛の如く仕掛けて来る。
それを持ち堪え、相手の弱点、スキを見極めるには「鉄壁のディフェンス」技術が不可欠なのである。
状況を把握し、最善の攻撃を見極めた時、ヒクソンは躊躇無く(ライオンの如く)大胆に行動に移す!
これは単に格闘技のみならず、人生の行動そのものにも該当する事かも知れない。

「最強」は鉄壁のディフェンスを持って、状況を把握し、最も合理的な攻撃で制する!!


実戦と実践
グレーシー柔術は、VT用の格闘技だろうか?
答えは、No!である。

結果的には、グレーシー柔術はVTで最も有効な技術になっている。
しかし、それはグレーシー柔術が常に「実戦」を意識し、同時に「実践」を行い、技術を磨いて来たからだろう。
「VT」は最も実戦(ケンカ)に近い格闘技ルールである。
そのルールで最も有効なのは、実戦で有効な技術であるのは自明の理だ。

しかし、今やVTは「HNB」と呼ばれ、ルール規制が増え、益々スポーツ化し、実戦から遊離しつつある。
従って、今後はグレーシー柔術以上にNHBに有効な技術が生まれる可能性はある。
それは、修斗を始めとする総合系格闘技だろう。

「実戦」を謳い文句にしていても、「実践」が伴わなければ、「型」だけの非実戦技術になってしまうのは、かつての伝統派空手が良い見本だろう。
かといって、試合(実践)ばかりを重視すれば、試合(ルール)上で勝てば良かろう式のスポーツになってしまい、「実戦性」を失ってしまう。
このバランスが難しい。
かつて「実戦ケンカ空手」を看板にしていた極真空手も、大会重視(実践に偏った)のためスポーツ化してしまった経緯がある。

グレーシー柔術(エリオ派)は、今のところ、このバランスを失っていないと思われる。
しかし、グレーシー柔術も試合で勝つ事ばかりに囚われ、護身術としての本質を見失えば、スポーツになってしまう。

「最強」は、「実戦」と「実践」のバランスの上に存在する!!