歴史から学ぶ

 「不必要だった二つの大戦 チャーチルとヒトラー」を読む 13/12/04

 「不必要だった二つの大戦 チャーチルとヒトラー」を読む 

「不必要だった二つの大戦 チャーチルとヒトラー」(パトリック・J・ブキャナン著、河内隆弥訳、国書刊行会)を読んでみた。 著者の主張は、書名のとおり、ヨーロッパの荒廃をまねいた、二つの大戦は避けることができた戦争ではなかったかということである。 なるほど思ったことは、次の二点である。
1.ヴェルサイユ条約はドイツに過酷すぎたのではないか。
2.ドイツ軍のラインラント進駐でヨーロッパの力の均衡が崩壊した。

 ヴェルサイユ条約はドイツに過酷すぎたのではないか  

第一次世界大戦で欧米の国々は、800万人の戦死者を出した。 それにもかかわらず、20年後、再び大戦に巻き込まれ2000万人の戦死者を出した。 ヨーロッパの国々は、第一次大戦から何も学ばなかったのだろうか。 原因のひとつに、ヴェルサイユ条約がドイツ国民に対して過酷すぎたというものがある。 それは本当なのだろうか。

フランスは、第一次大戦で国内が戦場となり多大な損害を被った。 ドイツと国境を接しているフランスは、再び戦争となることを嫌い、ドイツが再度戦争を起こさないように、高額な賠償を要求した。 しかし、ドイツが第一次大戦後、自立して国家として発展していくためには、連合国がヴェルサイユ条約によってドイツに課した処分や賠償が過酷であったと考えられる。 その結果として、ヴェルサイユ条約は、ドイツ国民の心に復讐心の種を蒔くことになり、戦争に駆り立てたと考えられる。

1918年11月11日、ドイツが米国のウイルソンの14ヵ条の講和を受諾した時点では、ドイツとして民族自決の原則が保証されるものと考えていたようだ。 しかし、ヴェルサイユ条約で決定した戦後処理は、ドイツの民族分断、領土分割、更に高額な賠償金であった。

オイペンとマルメディは、ベルギーに併合された。
工業資源が多いアルザスとロレーヌは、フランスに併合された。
石炭を産出するザールは、国際連盟管理下となったが、フランスが統治し、炭坑はフランスのものとなった。
メメルの港はリトアニアが占拠した。
上部シレジア地方は、ポーランドに併合された。
ドイツの工業地区の5/6と鉱山のすべてが失われた。
港湾都市ダンチッヒは、国際連盟管理下となったが、ポーランドが統治した。
東プロイセンは、ポーランドとダンチッヒを結ぶポーランド回廊としてポーランドに併合された。
100万人のドイツ人がポーランドの支配下に置かれた。
すべての海外植民地は没収された。 ドイツ民間人の私有財産も没収された。

連合国は、ドイツを債務によって荒廃させるため連合軍兵士の年金まで賠償に含めることとした。
1920年、連合国はドイツに対して支払不可能と言われた1320億金マルクの賠償金額を決定した。
1918年11月11日の講和条約受諾後、1919年7月12日まで北海、バルト海が封鎖されドイツは食料を輸入できず、饑餓状態が悪化した。このため餓死者が数十万人にのぼった。
ヴェルサイユ条約により、ドイツは、国民の1/10、国土の1/8を失った。
1919年6月19日、英国スコットランドのオークニーに抑留されていたドイツ戦艦等177隻がこの降伏を潔しとせず自沈した。
1921年、ウイルソンの講和条約に調印したエルツベルガーは暗殺された。


ヒトラーはヴェルサイユで生まれたと言われた。

背景には、ヴェルサイユ条約によって連合国がドイツに課した過酷な処遇に対する反感がドイツ国民に共有されていたと言える。 民族自決の原則は、敗戦国に認められなかった。 そのため、民族は分断され、ドイツ国民の不満は復讐心に変わった。 その結果、ドイツは民族統合をめざして再び勝者なき第二次世界大戦に向かっていった。 第一次大戦の勝者である連合国はヴェルサイユ条約で過酷な戦後処理をしたため、第二次大戦で甚大な犠牲を払わざるを得なかった。

 ドイツ軍のラインラント進駐でヨーロッパの力の均衡が崩壊した  

ドイツとフランスは、ベルギーとルクセンブルグの南部からスイスの北部まで直接、国境を接している。 国境は、およそ400kmである。この国境からドイツの内部に100kmから200km幅の地域が、ラインラントといわれる非武装地帯である。 ベルサイユ条約により、ドイツ軍はここに駐留、兵器の持ち込み、要塞化が厳禁された。フランス軍が、ドイツ国内に入る場合、有利に展開しドイツの工業都市ルールに進撃し占領が可能な措置であった。 中央にライン川が流れている。 ラインラントは、フランスにとって重要で、英国にとっての英仏海峡と同様の意義がある。

フランスはヴェルサイユ条約によって1935年までラインラントを占領可能な権利を有していたが、ドイツと英国の要求で、1930年にフランス軍はラインラントから撤退した。 一方、東部国境のアルザス=ロレーヌの対ドイツ正面を覆うマジノラインの防御要塞を建設した。 このことは、フランスの戦略を世に示すことになった。

第一に、フランス軍は、ラインラント駐留時において、いつでもドイツに攻撃できるという姿勢を残していたが、マジノライン建設によって防御戦争に限定したことを示した。

第二に、フランスは、東方同盟国を含めヨーロッパ諸国に対して、ラインラント以東の各国は、自国を自国の力で守れと言うメーセージをマジノライン建設により伝えることになった。

フランスの弱腰を見て、ベルギーは中立を宣言し、フランス・ベルギー同盟を解消した。 仏露協定が締結されたことから、1936年3月7日にドイツは恒久的非武装を決めたロカルノ条約(独、仏、ベルギー、英、伊)に違反したとして、ラインラント非武装地帯のドイツの主権の回復の実行を宣言しラインラントへ進駐した。 これに対して、フランス、英国は何の対応もしなかった。 ドイツのラインラント再占領は、英国の対独政策で改善および成功であると評価していた。 英国は、ヒトラーの東方進出およびボルシェビキとナチズムの戦争を期待していた。 また、フランス陸軍を脅威と感じていたのでフランスを抑止するため、ヒトラーの軍備増強を歓迎していた。
ところが、ドイツがラインラントを強化すれば、ドイツ以東の諸国とフランスとの同盟関係は意義を失う。 ドイツ国内を通過して、フランス軍が同盟国援助をすることができなくなるからである。

フランスが、ドイツのラインラント進駐に対して、軍事対応をしなかったことが、終わりの始まりとなったといわれた。 ドイツは、ラインラント内にジークフリート線と呼ばれる要塞を構築した。 ジークフリート線は、ドイツ軍兵力の節減となり主力がベルギー、オランダ経由で展開する際の支援となる。 フランスの東方同盟国(ロシア、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランド)は、フランスの軍事支援が不可能と知ることとなり、フランスのこの対応は、ヨーロッパの外交政策に大きな影響を与えた。 もし、フランスが、ドイツのラインラント進駐後、すぐにロカルノ条約違反として実力でドイツ軍を追い出せば、ロカルノ条約にもとづき英国はフランスを支援せざるをえなくなり、結果として、ヨーロッパの力の均衡の崩壊を招くような事態にいたらなかっただろうといわれた。