歴史から学ぶ

 第二次世界大戦前のヨーロッパ列強 13/12/11

 第二次世界大戦前のヨーロッパ列強 

1939年9月3日、英国がドイツに宣戦布告し、各国が追随し、第二次世界大戦が勃発した。 戦争に至る前のヨーロッパ列強の動きを、「世界歴史」(岩波講座 岩波書店 1974年12月10日発行)を参考に調べてみた。

 ドイツ --- ヒトラーの目的 

ヒトラーはドイツの生活圏を東方に求めていた。 そのため、英国・イタリアと同盟しフランスを打倒することを目標としていた。 ドイツの当面の目標は、ヴェルサイユ条約の拘束から脱却することであり、実際、それを実行した。

1930年 連合軍ラインラント撤兵
1932年 ローザンヌ会議で、賠償問題を消滅させた
1932年2月 ジュネーヴ軍縮会議で、ドイツの再軍備承認
1933年10月 ドイツ、国際連盟、軍縮会議から脱退

 フランス --- ドイツの脅威にさらされていた 

フランスは隣国ドイツの脅威を強く感じていた。そのため、ヴェルサイユ条約による現状維持に執着していた。 さらに、ヨーロッパの集団安全保障体制の確立を進めた。
1925年12月 ロカルノ条約(ラインラントの現状維持)
1932年11月30日 仏ソ不可侵条約(ヨーロッパの現状維持)

フランスの国内世論は二分していたことから、政府の方針はその間を揺れ動いた。 反ナチ的な立場からは、ソ連との連携が求められた。一方、反革命的な立場からは、ヒトラーとの和解が求められた。 そのため、ドイツのラインラント進駐に対して、ヴェルサイユ条約およびロカルノ条約違反として、ドイツに対して適切な対応を逸した。 その結果、ヨーロッパの集団安全保障体制の崩壊を招いた。

 ソ連 ---  当初、現状維持を追求した 

ソ連はフランスと同様に、ドイツの脅威を強く感じていた。 ヴェルサイユ体制に反対していたが、その解体は、ドイツの東方進出を招くので、現状維持を求めた。
1934年9月、ヨーロッパの現状維持を望む国際連盟に加入した。
フランスと異なるのは、ソ連が、直接、ドイツと条約を締結していたわけではないので、条約違反として対抗措置をとる立場になかった。 しかし、ドイツの再軍備の目的は、ソ連・東方への侵略であることから、対独抵抗国との協力が、ソ連の利益であった。 ソ連外相リトヴィノフの外交方針「平和は不可分であり、侵略はどこで起ころうと集団的に阻止されなければならない」によって、ソ連は現状維持を願うフランスに接近した。しかし、フランスがドイツのラインラント進駐を許したことによって、ヨーロッパの集団安全保障体制が解体したことから、ソ連は、対ナチ・ドイツの前に孤立した。 その結果、ソ連は、自国を戦争の圏外におく措置として、1939年8月23日、独ソ不可侵条約を締結し、世界に衝撃を与えた。 スターリンは、ソ連を戦争の圏外に置き、同時に対独対策として、積極的に自国の領土を西方に拡大することによって安全を補強していった。 解任されたリトヴィノフが非難していた侵略的で大国主義的な手段で、ドイツのポーランド侵攻後、実際に領土拡張をはかった。

1.ポーランド分割
2.1939年11月、フィンランド戦争による戦略地域の獲得
3.バルト3国の併合
4.ルーマニアからペッサラビアと北ブコヴィナの獲得

 英国 ---  対独宥和政策が破綻 

対独宣戦布告するまで、英国の立場は、ドイツの再軍備承認によるヨーロッパの力の均衡とドイツの反革命勢力としての期待であった。 したがって、対独宥和政策に固執していた。 英国は、世界に植民地を有していたことから、ドイツの脅威より、植民地民衆に対するソ連の影響力のほうに、より敏感であった。また、ナチ・ドイツの反革命的性格を高く評価していた。 ドイツのラインラント進駐に対して、フランスに対独反攻を勧めなかった。
1938年9月30日、ミュンヘン協定(独、英、仏、伊)で、ドイツのチェコスロバキアのズデーテン地方の占領を許した。
しかし、半年後、ドイツがチェコスロバキアの残部を解体したことから、英国は対独宥和政策を放棄せざるをえなくなった。 ドイツの次の目標であるポーランドと1939年8月25日、英ポ相互援助条約を締結した。 その直後、9月1日にドイツがポーランドに侵入したことから、9月3日、英国はついに対独宣戦布告し、第二次世界大戦に引きづり込まれていった。

 英仏の対独宥和政策が集団安全保障体制の解体を招いた 

英仏の対独宥和政策が、ヴェルサイユ体制への挑戦であるドイツの再軍備やラインラント進駐を許した。 このため、現状維持を最も切望していた、フランスを要とするヨーロッパの集団安全保障体制が崩壊した。 その結果、ドイツが膨張政策を実行に移すことを許すことになり、第二次世界大戦の勃発につながった。