高橋ユニオンズ伝説


●レッカ松本


連載10(最終回)高橋ユニオンズ、消滅す

全国2・3人の高橋ユニオンズファンの皆様、こんにちは。
いよいよ今回が最終回となりました。ごく一部のマニア(笑)には好評だったようなので、続けることができて良かったなと思っています。最近では某週刊誌にも取り上げられるなど、少しずつ高橋の名前が浸透してきたかな、と思っております。

◆パ・リーグ再編成!
 八百長試合で昭和31年シーズンが終わり、罰金を免れ、平穏のうちに高橋球団はシーズンオフをむかえた。と思われたが、球団財政は破綻しており、もはやパのお荷物という段階を越え、高橋球団処理の方策が検討されていた。
 当時、パ・リーグ総裁は永田雅一から近鉄グループの総帥・佐伯勇に移っていた。永田は一気に6球団制に移行することを主張したが、具体的な組み合わせに難航した。当初、毎日と大映が合併し、高橋は即解散、が有力案だったという。しかし、スポーツ紙が報道したことにより、毎日社内で合併反対の声があがっていった。その上、永田は毎日に「経営権全面委任」を要求したため、大映と毎日の合併は暗礁にのりあげた。別の案としては、阪急・南海・近鉄の3球団が2球団に再編成され、近鉄は京都にうつるという案もあった。しかし、これは近鉄の猛反対によって潰れる。この案もダメになると、永田は東映の大川オーナーに毎日への合併をもちかける。しかし、大川は永田の映画界での永遠のライバルであり、賛成はしなかった。結局、高橋は大映が吸収合併し、翌年最下位の球団がさらに合併することになり、高橋球団の処理策が固まったのである。

◆高橋ユニオンズ、キャンプ中に突然の解散
 解散の1ヶ月前、スタルヒンが三宿で事故死した。いまになってみると、高橋の終わりを暗示したのかもしれない。
 昭和32年、恒例の岡山キャンプがスタートした。キャンプ開始の笠原監督のコメントは「全球団がライバルである」。この時点では解散は明らかにされていなかった。
 しかしスポーツ記者などから「高橋解散」のうわさがひろまっていく。沖縄でキャンプ中の大映の松木監督の「大映と東映と近鉄に3チームに分かれる」という談話が掲載されるにおよび、いよいよ選手の動揺は隠せないものとなった。その朝は後にガス中毒死した筒井敬三コーチが「おい、けしからん記事がでているぞ、今日は練習休み」といって練習はなし。まじめに練習するものはなくなった。レギュラークラスはどこかがひきとってくれるということで安心していたが、スレスレ以下の選手は練習をすっぽかして岡山のキャバレーでヤケ酒をあおったりと完全に動揺していた。
 ここで笠原監督の手記を引用したいと思う。
 「32年、岡山でキャンプをやっている最中に高橋球団は解散した。解散するという気配もなく、そういう事態は全く知らされていなかった。ある日、マネジャーから『中国新聞社から、球団が解散するかもしれない、という電話があった』と知らせてきた。早速高橋敏雄(竜太郎オーナーの子息、球団代表)氏に電話したら、『そういうこともあり得る』ということだった。次の日、グラウンドで選手を集めて『こういう訳だが、2・3日中に高橋さんが来るから、それまでは練習をつづけよう』と説明した。解散など、まったく寝耳に水であった。高橋さんが来て、解散がはっきりした。永田雅一さんの発案で、7球団にすることになった。選手は3球団で引き取ることになっているから、安心して練習をつづけるように、とのことであった。7球団による発案者である永田さんの大映が一番多く責任をとる、ということで、もっとも多くの選手をとってくれた。
 球団が身売りをする、ということはある。しかし、キャンプ中に解散するとなどということは、プロの球史でもはじめてのことだった。今後もこんな事態はおこらないのではあるまいか」
 2月25日、いよいよ解散となった。高橋代表に、東映・近鉄・大映の代表がキャンプ地に来て、引き取る選手を3ヶ所にわけ、訓示した。しかし高橋の選手で使えるものは少なく、殆どがクビとなった。佐々木信也氏は、「クビになった選手の表情がわすれられない」という。まさに天国と地獄。クビになった選手は暴れたりと大変だったという。やはり、キャンプ中の解散というのは悲惨であった。

◆高橋戦士のその後
 球団の解散費用は、永田雅一のポケットマネーでまかなわれたという。高橋さんに迷惑をかけた、と。その永田の大映スターズは高橋と合併して大映ユニオンズとなった。しかし最下位に終わり、翌年毎日と合併し、大毎オリオンズとなった。
 大映には佐々木のほか、滝・河内・北川・荒川・栗木ら30名、東映へは飯尾ら6名、近鉄ら4名が移籍した。佐々木はそこそこの成績だったが、伊藤は以前述べたようにキャバレーで遊んでしまったためまったくダメだった。佐々木は大毎時代には別当監督に干され、選手生活わずか4年でクビになった。意外と長持ちしたのが高橋元年に入団した石川進。後に阪急に移り、外野の準レギュラーとして野球人生を全うした。こうして、高橋の選手たちは数年で野球界から消えていった。

◆終わりに……高橋ユニオンズとは?
 さて、足かけ3年にわたったこの連載も今回で予定通り終了とさせて頂きます。最後に、高橋ユニオンズの野球史的意義を考えてみたいと思います。
 高橋球団は、永田雅一のパ・リーグを愛する思いから生まれた、と私は考えています。そして、パ・リーグ全球団で選手を出し合ってみんなで作っていこう、と。セは一球団だけの発展を考えているのに対して、パ・リーグは毎日の選手供出にしても平等でエキサイティングな試合をしよう、と考えていたと私は思います。その努力が結果としては失敗に終わりましたが、なにも変えようとしないセに対して、新しいことに挑戦するパ・リーグというスタンスは続いている、と私は信じています。「勝敗で一喜一憂するセ・リーグファン、試合そのものを楽しむパ・リーグファン」という伝統の源流をみる思いがします。
 この歴史から抹消された球団にもスタルヒンの300勝、佐々木の新人王争い、伊藤の20勝、そして八百長試合と数々のドラマがあったことがみなさんもおわかり頂けたと思います。決して、プロ野球は「読売史観」等に左右されるものではないということも。この連載によって、みなさんがパ・リーグの成り立ちと歴史に興味を持って頂けたら幸いです。

 これで連載を終えたいと思います。今回は間に合いませんでしたが、次号には私の野球史マニアの師、ペピトーン氏との記念座談会を掲載したいと思っております。この連載は最初小林会長に「時期尚早」と反対されましたが(笑)、なんとかお願いして当時の「M.A」誌に掲載されたことがはじまりであり、いまになってみると懐かしくも思えます。今後ともパ・リーグ史研究に励む所存ですので、これからもご声援の程、宜しくお願いします。

(了)

<主要参考文献……手元にないので多少の間違いはご容赦ください>
○「プロ野球50年史」(ベースボール・マガジン社)
○「白球に夢をのせて〜我が父 V・スタルヒン物語」(ナターシャ・スタルヒン著、ベースボール・マガジン社)
○「48歳の青春」(浜崎真二著、ベースボール・マガジン社)
○「プロ野球人名辞典」
○「プロ野球記録大全」(宇佐美徹也著)
○「スポーツにみる昭和史」(文芸春秋社)
○「ヒーロー伝説」(文芸ビジュアル文庫)
○「プロ野球史再発掘」(関三穂編、ベースボール・マガジン社)
○「プロ野球三国志」(大和球士著、ベースボール・マガジン社)
○毎日新聞


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