修行場紀行


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維新の一翼を担う土佐藩校

藩校名 成立 所在 敷地・坪 建坪
教授館  宝暦9年12月 (1759年)  高知市追手筋 1,454 230
文武館  文久2年4月 (1862年)  高知市丸ノ内 9,180 1,390
致道館  慶応元年7月 (1865年)  同上 (文武館から改称)    


土佐山内藩では長くお城等にて学者による講義が行われていたが、1759年には藩校・教授館が建設された。文武両道を目指し、文は海南朱子学(南学)を中心とした。戦国期に吉良家に招かれた南村梅軒によって伝えられた学統だ。土佐では1679年に始まる一時期、京都堀河学派の緒方宗哲が招かれたものの、根付くことなく、郷士層からも学者が輩出した南学の伝統が保たれていたのだ。

8〜14才は文のみで素読・習字、15〜40才は文武兼修となり文は経書・史書、武は弓馬刀槍が中心であった。藩論など政治的な影響があったためか1850年以降は総裁任命が停止されるなどしたが、1862年には文武館が新たに設置され、武館では弓馬槍に加えて剣・居・軍貝・軍太鼓・砲など拡充された。
藩校を盛り立てた一人が容堂に重用された吉田東洋。長州の松陰と同姓だが、こちらは長宗我部遺臣の郷士だ。改革をやりすぎたのか公武合体に拘りすぎたのか、坂本龍馬脱藩15日後の1862年4月8日、暗殺されてしまったのはまことに残念。また1851年に11年の米国漂流から帰国した土佐漁民ジョン万次郎も教師に名を連ね、維新の原動力熟成に大いに貢献した。

一方、領内各地では1700年代後半になると土居付家老(一国一城制前の城持ち家老)が家臣対象に郷校を積極的に設置、地域私塾の有力師範などを教授に任命した。

藩政末期の土佐藩武術
種目 流派 指南役
兵学  北条流  広瀬伝大夫、原伝平
弓術  日置流  外池武左衛門
   竹林流  酒井徳馬
   大蔵流  宮地亀十郎
馬術  大坪流  磯部愛蔵、山本官吉
   朝鮮流要馬  寺村与兵衛
   調息流  本山団蔵
槍術  高木流  原吉蔵、岩崎甚左衛門
   以心流  郷円丞
   杉山流  日比野楠八
   宝蔵院流  大町与市
剣術  無外流  都治亀五郎
   真影流  美濃部団四郎
   一刀流  麻田勘七
   大石流  寺田忠次
居合術  長谷川流  谷村亀之丞
和(柔)術  小栗流  平尾作内、日根野弁治
砲術  稲富流  能見久米次、小林惣十郎、田所左右次
   荻野流  徳弘孝蔵
軍太鼓  甲州流  傍士茂左衛門
軍貝  三雲流  高野直猪
   藤林流  服部包次



「イゴッソウ」気質と土佐支配の変遷

幕末に人口50万人、20万石の土佐の政治は古くは鎌倉期の北条得宗家支配、室町期の細川管領家による守護世襲、戦国期の長曽我部氏による土佐・四国統一などと変わり、関ヶ原後には掛川5万石(他に代官1万石)から転勤になった山内家へと引き継がれてきた。

この山内家臣団は掛川衆やその後の採用などで初期の239騎が幕末期には444騎に増えていた。このほか、一領具足と呼ばれた半農軍団など旧長宗我部遺臣を新田開発を担当する郷士として多数、採用し、その数約1,000人に達した。正月のお乗りぞめでは家中に倍する騎馬参加があり順番に疾走した。なお三町を越える領地や郷士株は売買可能であったなど、かなり合理的な体制でもあった。
こうした二層構造や威骨相気質、細川時代から外国貿易に関与してきた国柄に藩学の思想が加わり、薩長土肥と維新への改革に貢献した。


天正3年7月 1575    長宗我部元親、土佐統一。
天正13年春 1585    長宗我部元親、四国統一。
天正13年8月 1585    長宗我部元親、秀吉に屈服。土佐一国に減俸。
慶長5年11月 1600    関ヶ原の戦後、掛川5万石から山内家が転俸。
宝暦9年12月 1759  教授館開設
嘉永元年12月 1848    山内豊信15代藩主就任。のち藤田東湖との面会後、容堂と号す。
文久元年8月 1861    武市瑞山、土佐勤皇党結成。血盟者192名。
文久2年3月 1862    吉村虎太郎、坂本龍馬脱藩。
文久2年4月 1862  文武館設置
文久2年4月8日 1862    開国・公武合体派の吉田東洋、倒幕急ぐ勤皇党により暗殺される。
文久3年9月 1863    公武合体派の容堂、勤皇党を弾圧。武市瑞山投獄。
慶応元年5月 1865    暗殺事件尋問のうえ武市瑞山、切腹。
慶応元年 1865  藩校文武館が致道館へ改称。
慶応2年1月22日 1866    薩長同盟
慶応3年5月 1867    坂本龍馬の脱藩罪解除、海援隊・陸援隊結成。
慶応3年10月14日 1867    大政奉還 (坂本龍馬、後藤象二郎の提言)
慶応3年11月15日 1867    坂本龍馬、京都近江屋にて暗殺される。京都見廻組会津説。
慶応4年1月 1868    鳥羽伏見の戦
明治元年2月15日 1868    堺にて土佐vs仏衝突事件。土佐兵11名切腹。9名切腹免除


龍馬最後となった近江屋の殺害現場には新撰組原田佐之助の鞘、下駄などが残されていた。が、近藤局長と会談のアリバイがあり、迷宮入りとなった。
明治3年になり、会津出身の京都見廻組今井信郎がお指図により暗殺と自供。見廻り組きっての達人渡邊篤ら七人が襲撃したことが判明。5人は鳥羽伏見戦で他界し、生き残った二人は官職に就く。なお指図を発したのは松平容保との証言や武力倒幕派の薩摩説などがある。

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