チームの創設は1989(平成元)年にさかのぼる。メンバーの多くは、県外の大学(佐賀大学、久留米大学、福岡大学など)で在学中にアメリカンフットボールをプレーし、卒業後に地元宮崎に就職したが、当時宮崎にチームはなかった。彼ら経験者に加え、プレー経験はないが、フットボールに興味を持っていた数名を加え、チームが結成された。
 未経験者を積極的に受け入れ、footballを宮崎県内に普及させるという方針は現在のチームにも受け継がれている。なお、スカイフェニックスというチーム名はこの頃に、創設メンバーのy氏により命名されたと言われている。南国宮崎をイメージする青い空"sky"と、宮崎県の県木である"phoenix"に由来している。

  

   

  

 この頃になると、メンバーが少しずつ変わるようになる。従来のようなメンバー構成(地元に就職した経験者、footballに興味を持った未経験者)に加え、例えば宮崎に住んでいる外国人や、転勤で宮崎に来た経験者、大学生や高校生など、学生のメンバーもこのころから増え始めた。
 練習は宮崎市内の大淀川河川敷(宮崎大橋と高松橋の間の右岸)で行われており、周辺の市町村はもとより、都城市、延岡市など遠方からも週1回(日曜日)の練習を楽しみに集まっていた。当時を振り返って、footballを楽しむ気持ちが、一番のモチベーションであるとつくづく思う。
 また、メンバーの外国人が経営していた英会話学校が一時期チームのスポンサーについたことは特筆すべきことだろう。現在のホームジャージにも使用されているチームカラー"cardinal"は、このとき作られたものが最初であるが、チーム名の"sky"をイメージさせる青系の色を注文するはずが、いつの間にか赤系の色になってしまったという噂もある。

  

   

  

 この時期、チームは大きな危機を迎える。チームの活動はあいかわらず週に1度の練習と年に1〜2度の試合を行っていた。試合の相手はもっぱら隣の鹿児島サザンロケッツで、同じようなレベルだったが、以前は勝っていた試合が勝てなくなった。
 原因は明らかだった。一つは選手数の減少、もう一つは練習量の減少である。チーム創設時のメンバーは既にほとんど引退しており、残っているメンバーも年齢が上がるにつれ、家庭ができたり、職場で重要な仕事に就くようになって、練習にメンバーが集まらなくなってきた。(断っておくが、誰が悪いわけでもなく、そうゆう年代の人間が、この頃の主力選手には多かった)試合のアナウンスをすると、一時的に人は集まるものの長続きせず、練習不足→試合→負ける→おもしろくない→練習に来ないという悪循環があったように思う。
 この状況を打開したのは、やはり若い力だった。当時大学生だったメンバー2人が、各大学をまわり、リクルートを始めたのだ。その結果、宮崎大学、宮崎産業経営大学などから、未経験ではあるが、ultimet sportsに期待を持った学生が多数入部してきた。彼らは今まで行ってきた週1度の練習(この頃の日曜練習は大淀川小戸橋下流の右岸側で行っていた)に加え、学生だけで平日に練習をしたりして、知識や技術を次々に吸収していった。上達すると力を試したくなるので試合をする。だが、鹿児島との試合には勝てない。そう、試合経験が絶対的に不足していたのだ。
 footballは試合中に学ぶことが他のスポーツ以上に多い。しかも、人数が増えたとはいえ、練習に22人集まり、攻守フルメンバーで練習することはやはり難しかったため、ベテランにとっても、練習のみで伝えられることに限界を感じており、学生が上達するに従って、「この子達に試合をさせてやりたい」という思いが「この子達に勝たせてやりたい」に変わり、勝てないことに対する責任から、練習方法や戦術など試行錯誤を繰り返していた。
 だが、ついに夜明けは来た。新しく加入した社会人が、抜群の指導力と、取り組みやすいシンプルな戦術をもってチームを機能させ、鹿児島戦に2年ぶりの勝利を収めた。
 当面の目標を達成すると、次の相手を探した。その時相手になってくれたのが熊本マーベリックスだった。歴史は浅いが、経験者が多く、基本に忠実で情熱溢れるチームで、後日、マーベリックスを通じて九州社会人アメリカンフットボール連盟から加盟のオファーが来ることになる。

  

   

  

 1997年から、宮崎スカイフェニックスは九州社会人アメリカンフットボール連盟のリーグ戦に参加することになった。(1997年春は準加盟、正式加盟は1997年秋季リーグ戦から)初戦は1997年4月17日、対福岡歯科大学アポロニア戦であった。連盟の配慮により博多の森陸上競技場でプレーさせてもらったこの試合、3-28の惨敗でチームもかなり凹んだが、遠い福岡の地にFGの3点という足跡をしっかり刻んできた。その後もメンバーを変えながらチームは成長を続け、1999年シーズンには春、秋(春はトーナメント、秋はリーグ戦)ともに優勝し、秋季1試合だけではあるが、地元宮崎で公式戦を「日向夏ボウル」として開催できるようになった。
 現在のメンバー構成は2000年秋季登録30名のうち、社会人11名、学生19名となっている。社会人は通常、転勤やUターンにより選手を確保しているが、長引く不況の影響で職の少ない宮崎県にあっては、出ていく者はいても、入ってくるものは少なく、苦戦している。学生も少子化、体育会離れ、宮崎産業経営大都城キャンパスの閉鎖など厳しい状況ではあるが、今年から宮崎大学が体育会に昇格するなど、積極的なリクルート活動の成果により健闘している。
 さあ、あなたも宮崎スカイフェニックスの歴史を一緒に作っていきませんか?