図書館

2001/03/20

  ホームページ 


【スポーツビジネス】

「ドットコム・スポーツ IT時代のスポーツ・マーケティング」 
広瀬一郎著 TBSブリタニカ 定価 1500円(税別)

【スポーツ大人主義宣言】
 いまの日本のスポーツは,「体育」としての学校教育の管理のもとにおかれている。サッカーグラウンドの利用を申し込むのに「利用三ヶ月前の平日9時に窓口に来て,他の申し込む者とジャンケンしてください」などといわれては,大人のスポーツはできないはずだ。スポーツを大人に取り戻そう! 日本初のスポーツ総合サイト「スポーツ・ナビ」は,そのために生まれた。


スポーツ・マーケティングとは

 そもそも「マーケティング」とは,商品(またはサービス)を提供する側と享受する側の相互理解を高めることにより市場を創造し,販売促進を図り,販売の支援を行う技術のことである。

 となれば「スポーツ・マーケティング」とは,競技団体,スポーツにかかわる企業や組織がグローバルな視野に立ち,スポーツファンとの相互理解に基づき,公正な競争を通して行うスポーツ市場創造のための活動だということできよう。

 一般的なマーケティングとの違いは,第一に,基本的な顧客がスポーツファンであることがあげられる。
 第二に,企業がスポンサーという形で参加する場合,企業はスポーツマーケットの外では生産者であり供給者であるが,スポーツに対してはむしろ顧客としてマーケットに参画していること。
 第三に,マーケットにおける価値が,メディアにおける力によって創出され,支えられている。
 第四に,メディアによって発展したスポーツマーケットが,現在ではスポーツ自体をメディア化している点をあげることができるだろう。

 しかも最も大きな違いは,その製品(プロダクト)の生産過程である。スポーツは商品としての実体がなく,その商品価値はプレーの面白さに基づいている。そのため企業がプロダクトすることは非常に難しい。ただ,そのためにスポーツは特定企業に属することなく,一般性や公共性を持ちやすい。そこからコンテンツとしての価値,メディアヴァリューが生まれてくる

 端的に言って,スポーツの商品化とは,公共的なスポーツには人々の関心が集まるということに着目して,メディアヴァリューを利用することである。したがってスポーツの公共性を企業が侵すことは企業にとってデメリットになり,マーケティングという面から見ても,企業が前面に出るのはあまり望ましいことではない。スポンサーシップを「協賛」と呼ぶのはこのためもあろう。
 
 一方,メディアヴァリューを操作可能商品とする(企業としての)マスコミは,プロダクトアウトする側に近い。スポーツ市場を創造し,拡大していくためには,これらの多種多様な諸要素間でバランスのとれたスポーツ・マーケティングを行えるプロデューサーの存在が必要だ。つまり,スポーツ・マーケティングとは,スポーツビジネスにおけるさまざまな関与者や利害関係者(ステークホルダー)間に『物語を構築する』行為にほかならないのである。

 このマーケットのステークホルダーは多種多様で,キーとなるビジネスを行う主体も複数存在するが,ここで『スポーツ・マーケティング』を行う主体とは,第一にスポーツの競技サイドに属している者を想定していることをあらかじめ断っておく。本来はマーケティングとは無縁の存在である『スポーツ』の内部にいる側がマーケティングを取り入れるとはどういうことか,という問題意識が主題である。

 スポーツ・マーケティングのステークホルダーを図示すると左図の通りになると思います。でも,これを日本で一番うまくやっているのがあの読売ジャイアンツです。プロ野球巨人軍のメディアヴァリューを利用し,さらにこのメディアヴァリューを操作可能商品とする読売新聞と日本テレビ,読売グループは巨人軍を通してスポーツ・マーケティングを実践しています(右図)。 

 ところで,なぜ『読売ジャイアンツは,読売ではなく巨人なのか』という答えがもここに書かれています。答えは,『スポーツの公共性を企業が侵すことは企業にとってデメリットになり,マーケティングという面から見ても,企業が前面に出るのはあまり望ましいことではない。』ということです。プロ野球で親会社名を名乗ることのデメリットを始めて論じています。

図書館index   HOME  UP

【スポーツ一般】

講談社現代新書「近代スポーツの誕生」 松井良明著 講談社 定価 660円(税別)

 英国は一般に「近代スポーツ」の母国といわれ,サッカー,ラグビー,ボートレース,テニス,アーチェリー,バドミントン・・・,これらはいずれも英国においてその原型を整えられ,世界各地に伝播したものである。その誕生の過程では,ジェントルマンの養成機関であるパブリック・スクールが重要な役割を果たしてきた。 しかし,これら近代スポーツも元来は民衆の娯楽であり,伝統的な祭りのなかで行われてきたものである。 
 従来,スポーツとは何かを考える場合,近代化された競技スポーツのみに焦点が与えられてきた。しかし,近代スポーツを考える場合,その誕生の過程で失われていったブラッディ・スポーツ(流血を不可避とするスポーツ)について見ていく必要がある。本書ではブラッディ・スポーツ,なかでも特に闘鶏と拳闘を通して,英国における「近代スポーツの誕生」の過程をあらためて見直そうというものである。スポーツとは何かについて,考える場合一助になる本です。

 著者は本書で,まず,スポーツという言葉の意味を明らかにしようとします。


スポーツの原義

 現在,スポーツといえば,ふつう,近代化された「競技スポーツ」を思い浮かべることが多い。いわば,スポーツ=競技スポーツ=近代スポーツといった理解が一般的なものとなってしまっているのである。しかしながら,こと英国スポーツの歴史を紐解こうとする場合には,これら三つの言葉の意味するところをまずきちんと押えておく必要がある。
 
 では,「スポーツ」「競技スポーツ」「近代スポーツ」はそれぞれどのように異なるのか。まずはじめに,「スポーツ」と「競技スポーツ」の違いについて説明しておこう。
 中略
 この時代(注:300年前)における「スポーツ」の意味するところはむしろ「娯楽」や「遊び」に近かった。そのことは「sport」の語源を考えれば理解しやすい。『オックスフォード英語辞典』によれば,「sport」の語源はラテン語の「deportare」という言葉である。このうち,接頭語の「de」はawayを意味し,「portare」はcarryを意味する。つまるところ,この言葉の意味するところは「carry away」であり,「(荷物を)運び去る」というのが原義なのである。そしていつしか「何物か」の内容が不安や心配事といった「心の重荷」と広がり,「不安を運び去る」すなわち「気散じ」を意味するようになった。ちなみに,サミュエル・ジョンソンの『英語辞典』(1755年)ではつぎのように書かれている。

 気散じ(diversion)―スポーツ(sport)。憂いからひき離すことで心をなごませるもの(something that unbends the mind by turning it off from care) 

 この記述を見れば,本来,「スポーツ」という言葉が「からだ(the body)ではなく,「こころ(the mind)に関わる事象を示すものであたことが理解できるだろう。また,その原義が「気散じ(diversion)である以上,そこには,冗談や歌,芝居や踊り,チェス,トランプ,さいころといった賭け事までも含むいっさいの楽しみ事が含まれていたのである。それが,英国の支配階級たるジェントルマンの文化を反映し,主として狩猟や乗馬といった野外での娯楽活動をあらわすようになるのが18世紀のこと。そこに「競技スポーツ(athletics)」の意味が加わるのは,ようやく19世紀に入ってからにすぎない。・・・・

近代スポーツ


 それでは,「近代スポーツ」についてはどのように理解をすればよいのか。
 すでに述べたように,現在の「競技スポーツ」の数かずはじつはその大半が19世紀後半以後の英国社会において誕生してきたものである。したがって,競馬,クリケット,ゴルフといった若干の種目を除けば,その歴史はたかだか1世紀亜,ありにすぎないことになる。だが,「スポーツ」をいわば「世界史」的な視野で見渡したなら,たとえば日本の宮中で行われていた節会スポーツ(射礼(じゃらい)・賭弓(ときゅう),騎射(きしゃ)・競馬(くらべうま)・打毬(だきゅう)等の馬芸,相撲)は7世紀から中世にかけて確認されるし,古代ギリシャのゼウス神を祭る目的で行われた古代オリンピックは紀元前8世紀から紀元4世紀まで続いたことがわかっている。

 このように,近代社会において生み出された今日に直接つながる「競技スポーツ」とは異なるものの,人類が享受してきたいわば儀式的な「競技」の歴史はそれよりもはるかに古い時代にまでさかのぼる。ようするに,「競技スポーツ」の系譜につらなる歴史的スポーツは近代社会にのみ存在するわけではないのである。・・・・

 このような点をふまえ,本書ではさしあたり「近代スポーツ」のことを「近代という時代・社会が求めた歴史的スポーツ形態のひとつ」と定義しておくことにしたい。


 
19世紀中ごろ,近代スポーツ誕生に大きな影響を与えた思想にアスレティシズム(athleticism)がる。アスレティシズムは運動競技を礼賛する思潮であり,運動競技のなかでもとりわけクリケット,フットボール,ボートといった集団スポーツを人格陶冶のための教育手段として重視し,それによって男らしさ,勇気,忍耐,あるいはフェアプレイの精神などを養えるものと見なす考え方や態度を意味する。

最後に著者は,近代スポーツに大きな影響を与えたアマチュアリズムとフェアプレイについて述べて結んでいます。

ジェントルマン・アマチュア

 プロローグでも述べたように,近代に成立したいくつかの競技スポーツのなかには,アマチュアリズムとフェアプレイというきわめて19世紀的なイデオロギーが流れ込んでいる。アマチュアリズムが近代英国の支配者たるジェントルマンの理念と深くかかわるイデオロギーであったことは,すでに第3章で確認してきたとおりである。英国のジェントルマンは,大陸の貴族と異なり,元来,血統によって保証される身分ではなかった。事実,ジェントルマンは,あくまでも肉体的労働をすることなく生活できる者で,ジェントルマンらしく振る舞い,それらしい相貌をもつ者,といったいささかあいまいな定義しか当てはまらないような存在だったのである。

 だが,そこに見られる『ジェントルマンらしい振る舞い」は,19世紀に入ると,パブリック・スクールやオックスフォード,ケンブリッジの両大学を中心とするエリート教育によって継承されることになる。そこで最も重視されたのが知的教養としてのギリシャ,ラテンに関する古典研究であり,19世紀後半には,そこにフットボールやクリケットなどの男性競技が加わることになる。「アスレティシズム」と呼ばれるこの時代に特有の教育イデオロギーは,そもそも課外活動として行われていたスポーツを道徳教育の手段として承認しようとしたところに端を発しているが,1870年以降,帝国主義の風潮の高まりに呼応し,より積極的な身体壮健論やゲーム崇拝論と結びつくことで,ついには筋骨たくましいスポーツマンが理想的なジェントルマン像へと重なっていくのである。

 ちなみに近代オリンピック運動を提唱したフランスのクーベルタン男爵は,このような「アスレティシズム」がまさに一世を風靡した1880年代の英国を訪れており,そこから強烈な刺激を受けている。帰国後,彼が人類社会の平和的発展を願い,アマチュアに関する定義の確立と国際的なスポーツ競技会をテーマとする国際会議を呼びかけるのが1894年のこと。ギリシャにおいて第一回近代オリンピック競技会が開催される2年前の出来事であった。

 いうまでもなく,20世紀に入り,ちきゅうきぼので「世界化」していく競技スポーツの形態はもっぱら英国において形づくられてきたものである。その担い手は主としてパブリック・スクールやオックスブリッジの学生と卒業生,すなわちジェントルマンたちであった。彼らはジェントルマンであるが故に,スポーツを労働ではなく,趣味の一環として行うことができた。そもそも英国社会における『アマチュア」とは,あくせく働く必要のないジェントルマンその人を意味したのである。20世紀に入ってもなお,プロを排除するアマチュアリズムが競技スポーツの基本的な理念と見らてきたことの背景には,このような特殊英国的なスポーツ文化のあり方を反映していたのだ。

フェアプレイとは何か

 18世紀後半から19世紀にかけて,民衆の伝統的な娯楽の数々が批判され,攻撃されたことは闘鶏と拳闘の歴史を通して見てきたとおりである。だが,プロローグで述べたように,のちに近代スポーツへの仲間入りを果たす競技スポーツが,古くは民衆の娯楽に起源を有するものであたことも事実である。

 アマチュアリズムやフェアプレイといった近代的な競技スポーツの理念をもっとよく体現したといわれるクリケットも,闘鶏や拳闘と同様,元は民衆とジェントルマンとが共有する賭博スポーツの一つであった。スポーツ史家であるブレイスフォードは,フェアプレイの観念が18世紀の拳闘にも見られたことを指摘しているが,その観念は19世紀的なフェアプレイの観念とどのように異なるのだろうか。

 ブレイスフォードによれば,統計や拳闘にみられたフェアプレイの観念は,厳密にいえば,二つの側面から捉えることができるという。一つは,「流血」の文化と深く結びついていた「名誉の観念」である。この点からみれば,フェアプレイとは死をも恐れず「最後まで堂々と戦う」勇気を意味することになる。また,もう一つの側面は,賭博との関わりから生じてきた「ルール(契約)に従う」という観念である。この点からいえば,賭博スポーツにおける「不正(アンフェア)な行為とは,すなわち「八百長」を意味するものであり,フェアプレイとはすなわち「公正な賭け」を意味したことになる。

 だが,このようないわば18世紀的なフェアプレイの観念は,19世紀においていささかなりとも変化する。たとえばクリケットは競技場での賭博を排するとともに,アマチュアリズムの名のもとにプロを除外する閉鎖的な空間を構築することで近代的な競技スポーツとしての位置付けを獲得する。「死をも恐れない勇気」は,その粗暴性(ラフプレイ)を排しつつ,チーム全体に対する自己犠牲へと,また「公正な賭け」はあくまでもルールに従ったうえでの自由競争へと読み替えられることになる。しかしながら,自己犠牲がかつての個人的あるいは個体的な「死」から集団ないし国家への「奉仕」へとすり替えらていったいった点,および自由競争とはいいながら,じつはプロを除外するアマチュアリズムが競技スポーツ界全体を支配していた点を見逃すわけにはいかない。

図書館index   HOME  UP


【スポーツ中継】

青弓社編集部編「こんなスポーツ中継は,いらない!」  青弓社 寺子屋ブックス22 定価1600円

 野球,サッカー,テニスなど,日本のプロスポーツがいつまでたっても世界レベルに到達しないのはなぜか?身体能力の違いや技術レベルの低さ,そして優秀な指導者の欠如・・・・そんな表面的で効果のない批判はダメだ。
 われわれとスポーツのあいだにこっそり忍び込み,スポーツ感形成に無意識のうちに働きかけるサブミナル・メディア「スポーツ中継」こそが,諸悪の根源なのだ。試合の醍醐味を伝えない実況アナウンサーや,自慢話に終始する解説者など,一部の悪しきスポーツ中継を断罪し,日本でスポーツが文化として成熟するために,スポーツ中継はどのようにあるべきか,その可能性を探る。

 一見,キワモノみたいな表紙とタイトルですが,内容はなかなかのものです。10人の著者がそれぞれのジャンルと独自のアングルで現代のスポーツ中継をオムニバスに批評しています。日本のスポーツが世界レベルに達しない諸悪の根源に「スポーツ中継」だけを求めることは単なる売り言葉だけれども,「スポーツ中継」にいろいろなスポーツから焦点をあてたことからスポーツの違いによる中継の相違,さらには共通の問題点も浮き彫りになって面白いものになっています。

●心理戦と人間ドラマのはざまに - プロ野球中継の曲がり角 水谷憲司
●甲子園中継の断罪 小椋 博
●実況アナウンサーの眼差しと位置付け - サッカー中継哲学 倉敷保雄
●バカの心得 - J2からのサッカー中継批判 山本史華
●元選手に解説を頼むという不幸な構図について 高橋秀樹
●「実況」という名のプロレス - 古館伊知郎考 岡村正史
●箱根駅伝中継における「ドラマ」の求め方 貴地久好
ほか 

 日本におけるスポーツ中継は,野球中継を基本にして発展してきましたが,「サッカーをはじめとするすべての競技の中継は,野球中継で培しなったアプローチがそこかしこに見られるが,皮肉なことにこの技術が生かされていない」と倉敷保雄氏は指摘しています。インターバル(間)があり,セットプレーが多い野球の中継の手法をそのまま,連続してプレーが展開するサッカーに,持ち込むことはできないとういうわけです。
 「甲子園中継の断罪」では,小椋博氏がスポーツ論を展開していますが,今後スポーツを理解する上で手助けとなる考え方をここで述べています。それが,「ゲームとしてのスポーツ,共同体としてのスポーツ」です。


ゲームとしてのスポーツ,共同体としてのスポーツ


 「すべてのスポーツに共通することだが,スポーツは勝利を目指し,身体的技能を駆使して相争われる「ゲームあるいはレースついてのスポーツ」の側面(スポーツのゲーム的側面)と,そのゲームを遂行し,成り立たせている人間やその集団的仕組みである「共同体としてのスポーツ」の側面(スポーツの社会的側面)の二面に分けて考えることが必要である。スポーツの文化とは,したがってスポーツのゲームに関わる側面と,スポーツの社会的側面に関わるものと考える。

 ゲームあるいはレースとしてのスポーツ文化の基本的性格は,遊びと偶然性を楽しむことだろう。プロスポーツといえどもその活動のなかに「遊び」の要素を確認することができるし,「必勝」を願う真剣なプレーにおいても偶然(ツキや運)の作用を免れることはできない。この基本的性格を保持し,より面白い(同時に安全を確保しながら)競技を行うために各種目ごとに異なる競技規則が存在する。この規則は,競技者すべての行為を支配し,技能と戦略を駆使して勝利という目的を得るために競技者は戦う。今日では競技規則はおおいに普遍化され,国際的な競技連盟が定める規則が世界のプレーを統御する。同時に技能と戦略のグローバル化も進行している。 略

 他方,共同体としてのスポーツとは何か。すべてのゲームを遂行する人間の社会集団(スポーツ社会)なくしてはスポーツは成立しない。たとえそれがマラソンや水泳のような個人種目であろうとも,選手とコーチ・監督が一体となって織り成す一つのスポーツ社会のなかで実際の競技は可能となる。競泳の千葉すず選手がシドニー五輪のリストから外された理由の一つが「水泳は集団スポーツであり,彼女はチームの和を乱す」であった。わが国ではとくに「スポーツ共同体」の一員であるということが,競技規則を守ることと同程度に,あるいはそれ以上に競技に参加するために重要だと考えられる典型的な事例であった。
 
 ゲームとしてのスポーツの内容が今日ますます普遍化・グローバル化の方向をたどっているのに対して,スポーツ共同体に関わる文化はそのスポーツが埋め込まれている当該社会の伝統や風習に左右され,いまもかなりの特殊性を保つ。今日でもわが国の高校野球が一つの「道」と観念されるように,この伝統は人々にとってわかりやすく,それだけに強固な根拠を持っている。」
 


図書館index   HOME  UP