language:Japanese
 
池 永 正 明  
1947年山口県生まれ 元西鉄ライオンズ投手  
 

ここに池永正明氏についての印象的な文章があります。   

「・・・当時、山口県防府市で野球少年の日々を送っていた小説家の伊集院静は、後年、下関大丸で開催された「豪腕ふるさとへ帰る〜池永正明展」のために寄せた池永への手紙に、次のように記している。   

<あれはまだ私が野球少年であった秋、甲子園のヒーローであったあなたが、防府市民球場のこけら落しに来られた時です。あなたの投げたボールの速かったこと。風を切るというより、あなたの指を離れたボールがダイヤモンドの中に つむじ風を起こしているように少年の目には映りました。そしてあなたがバッターボックスに入った。相手投手の投げたアウトコースのボールをあなたは身体を泳がせながら左手一本で打ち返しました。なんとその打球は右翼フェンスをはるかに超え、場外の山の崖に突き刺さったのです。   

「おい、見たかや、今の打球。 池永は片手で場外ホームランを打ちよったぞ」   

子供たちはただ驚いてダイヤモンドを照れくさそうに走るあなたを見ていました> ・・・」   

( 高山文彦 「海峡 - 池永正明の半生」 - 文芸春秋 「Sports Graphic Number Plus 1999年 8月号」 146ページより)   
  
  

池永氏はかつて有名な野球選手でした。現在は福岡市の繁華街・中州で「ドーベル」という店を経営しているそうです。 かれが店をはじめたのはちょうど僕が生まれた年、1972年ですからもう30年近くになろうとしています。でもその前は野球選手だったのです・・・。   

1962年  下関商業高校に進学   
1963年  春 甲子園に出場し優勝  同年夏も甲子園に出場し準優勝   
1964年  春 甲子園に出場するも、1回戦で敗退   

これが、高校卒業までのかれの球歴です。甲子園では下関商業のエースとして大活躍してプロのスカウトから注目を浴び、巨人・南海・西鉄 etc.といったチームから勧誘を受けます。当時はまだドラフト制度がなかったので、高校生であっても選手のほうに入団先を選ぶ権利がありました。そして池永投手は西鉄ライオンズを選びます。契約金は5,000万円でしたが、現在の貨幣価値に換算すれば数億円に値すると思われます。この金額は当時としても破格だったようです。   

こうして西鉄ライオンズに入団した池永投手はプロ入り1年目の1965年のシーズンには早くも期待どおりの大活躍を果たします。20勝10敗 防御率2.27 の成績で新人王を獲得。昨年、1999年は松坂、上原両投手の話題で盛り上がりましたが、スポーツ新聞などで両投手のことが記事になると、そこによく池永投手の名前が登場しました。松坂投手の記事では「・・・高卒新人の20勝投手は1965年の池永正明が最後・・・」、上原投手の記事では「・・・過去に新人で20勝以上した投手は1980年の木田勇、1965年の池永正明・・・」といった具合です。   

ちなみにプロゴルファーの尾崎将司はかつて西鉄ライオンズに在籍するプロ野球選手でした。実は池永投手と同学年で、同じ年に入団し、ポジションも同じピッチャーでした。というわけで当然池永投手とは競い合う関係でしたが尾崎は途中で野球に見切りをつけてしまいます。僕が昔テレビで見た尾崎のインタビューで、かれが「野球では池永には絶対に勝てないと思った。でもゴルフならば・・・という思いがあった」というようなことを言っていたのを思い出します。   

1年目のシーズンをすばらしい成績で終えた池永投手は2年目以降も活躍を続け、3年目のシーズンには23勝14敗で最多勝を獲得。押しも押されぬ西鉄のエースとなります。   
  
年度 試合 防御率 完封
奪三振
1965
47
20
10
2.27
3
156
1966
47
15
14
2.18
4
139
1967
54
23
14
2.31
6
203
1968
47
23
13
2.45
6
161
1969
34
18
11
2.57
4
105
  
プロ入りしてわずか5年間で通算99勝。高卒で入団しているため年齢も若いので怪我などせず順調にいっていればさらに100勝はしそうな感じがします。順調にいってさえいれば・・・。 実はその翌年、池永投手にとってプロ6年目となる1970年のシーズンがかれにとって最後のシーズンとなってしまったのです。前年の秋に新聞で報じられた野球賭博にかかわる八百長疑惑でかれが八百長の勧誘を受けていたことが明らかになってしまったのです。これによりかれはシーズンなかば他の数名の選手とともにプロ野球界を永久追放とされてしまいます。いわゆる「黒い霧事件」です。  

この「黒い霧事件」によって池永投手はプロ野球選手としての生命を絶たれてしまったのです。   
  
年度 試合 防御率 完封
奪三振
1970
9
4
3
2.60
1
29
通算
238
103
65
2.36
24
793
  
池永氏の近況
 
1996年  8月 山口県下関市の百貨店・下関大丸にて「豪腕ふるさとへ帰る〜池永正明展」開催。
1996年 10月 西鉄OBで野球評論家の豊田泰光氏が、池永氏の処分解除を求める嘆願書を原野和夫パ・リーグ会長に提出。
1996年 11月 池永氏本人が東京・内幸町の日本野球機構コミッショナー事務局を訪れ、金井事務局長と会見、球界での復権を請願。
1998年  6月 池永氏の復権を願う山口県下関市の市民団体「復権10万人署名運動実行委員会」が18万人の署名を集め日本野球機構コミッシ ョナー事務局に提出するも川島広守コミッショナーは「当時出された裁決の当否を再審査することはできない」とする結論をまとめ、処分解除の署名運動を続けていた関係者に伝達。復権は果たされなかった。
1999年  5月 山口県下関市の下関球場で行われた池永氏の母校下関商業高校 と早鞆(はやとも)高校のOB試合に同氏が登板。このことは一般紙も含め各新聞で報じられた。
2001年  9月 プロ野球OBがリーグ戦をおこなうマスターズリーグに池永氏が福岡ドンタクズの一員として出場することが発表される。 同チームの監督を務める西鉄OBの稲尾和久氏らが池永氏の出場に尽力。 
  
<参考文献・資料>  

1. 高山文彦 「海峡 - 池永正明の半生」 - 文芸春秋 「Sports Graphic Number Plus 1999年8月号」 所収   

それまでも池永氏の話しはテレビ等で知ってはいましたが、この文章を読んでから急に気になって仕方なくなりました。とくに中学時代の恩師が少年時代のかれが如何に天才的なスポーツ少年であったかについて語るくだりは非常に興味をひきます。   
  

2. 蕪木和夫 「幻の300勝投手 池永正明」 銀星出版社 1992年   

黒い霧事件の経緯についてとくに詳しい記述があります。  
  

3. 佐賀新聞社 佐賀新聞記事データベース(http://www.saga-s.co.jp/)  

無料の新聞記事データベースです。   
最近の池永氏関連で「どんなことがあったか」を検索させていただきました。  
  

4. 東京新聞 朝刊 2001年(平成13年) 9月 7日  

(終わり)  
  
  
  
  
 
■このページはいちファンが作成したものであり、池永氏ご本人とは一切関係ありません。  
■リンクはご自由にどうぞ。  
■このページを作成するにあたり著作権等の問題には注意を払ったつもりですが万一問題がありましたら下記までご連絡ください。 

  lightfoot@lycos.jp 
 

Since May 9, 2001   Last Modified September 7, 2001   (Design modefied at January 4, 2003)