西尾流合気道とは



西尾昭二師範プロフィール

   生年月日  昭和2年 12月生まれ
   出身     青森県
   武道歴   昭和17年 柔道仙波道場入門
          昭和20年 講道館入門
          昭和25年 空手道自然流入門
          昭和27年 合気道入門
          昭和29年 勤め先の大蔵省印刷局に世界初の合気道のクラブを創部
          昭和51年 合気道8段認可


「技を言葉に」西尾昭二


 武道において、その技は「道」そのものです。各武道ともその技の鍛錬にすべてをかけています。我々合気道においても、修行者一同その心がけをもって日夜励んでいるところです。
 そこで、技の鍛錬とその内容について考えてみましょう。我々が稽古を行う際には、従来の武道の求め方と全く同じ求め方ではたしてよいのであろうか、という疑念が起きてきます。私自身は同じであってはいけないと考えています。過去の日本武道の方向を180度方向転換したところに、合気道誕生の意義と存在価値があるというのは自明のことです。そして、稽古の姿勢、つまりその求め方が自ら技に表現されてくるということも今更説明する必要がないでしょう。それであるなら、合気道を過去の武道と比較した場合、必然的に技の表現の仕方が変化していなければなりません(私はここで「変化」という言葉を用いましたが、これは「発展」と同義です)。具体的に言えば「奪う武道」から「与える武道」へ、ぶつかりあいの愚かさから触れ合い貴さへと、全くその求める方向が変わってきているということです。

(中略)
 

 まず、何故合気道に試合を必要としないのでしょうか。これは前述しました通り合気道の誕生の意義にあるように、奪う(倒す、殺す、つまり相手の生を損なう)武道から、与える(相手に進むべき道を示唆する)武道へと、従来の武道とは全く異なった方向にきているからです。
 ここで他武道との比較も若干してみる必要があるでしょう。各武道とも懸命の精進を続けています。ですが、皆あのような型、方法でしか自己の鍛練の過程、度合を確認するすべがないのです。それだけにその技の修練がすべてというようになります。その技がその道であり、そのこと1つしか表現できないのです。例えば、剣なら剣のみ、投げ押えなら投げ押えのみといった具合です。ところが、真の武道の試合とはあのようなものではなく、死に合いをすることであり、試し合いなどではないのです。ですから、合気道以外の各武道が採用している試合というものは、さほど積極的な武道的意味があるわけでもなく、1つのことしかできないその稽古方法についても同様な解釈を下すことができます。
 ですから決して試合ではなく死合をしろというつもりではありません。そのようなことは現代社会にあって許されるものではありません。ですから真の武道の厳しさを知ろうとする者は、常にその場に留めて事物(武道の場合は対峙している相手)を見、己に厳しく対していくのです。
 武道の場合「己に厳しく対する」というのは、勝負の際に自己と対峙している相手をいつでも倒せるのだが、相手を大きく生かすために倒さないでおく、つまり倒そうとする気持ちを律することです。更にはそれを可能にするだけの実力を養うため、厳しい精進を欠かさない或いは長い間その気持ちを持続させるということなのです。
 合気道における技は、気の発露であり、反省の具であるといわれています。「気」とは簡単に言うと生命の根源であり、総ての物の生命の発生を意味します。その気により発生した技で、他を害するがごとき行為は許されません。合気の技は入身一足の理により瞬時に相手を倒すことができます。ですが相手を倒すというのは愚かさと生命の尊さを知る者が行うべきことではありません。
 合気の技というものは、対峙した相手に反省の場を与える方法として存するものなのです。それも1つの技の中に1度、2度、3度と相手を倒せる瞬間があります。それがまた己自身のあり方の反省の場ともなるのです。
 1つの合気の技を行う過程には、どのような簡単な技の中にもあらゆる武道の真髄が内蔵されています。これは合気道以外の一切の武道に無いものです。
 本来ならば、触れ合い一瞬にして相手を制する合気道の技を修する場に、打ち合い、たたき合い、ぶつかり合いがあるのは矛盾しているのですが、依然として打ち合い、たたき合いをしている者が大部分であるというのは、一体どうしたことでしょう。
 我々は稽古の初めに手を持って始めます。現代の武道的感覚、現代格闘様式においては、このような手を持つという間合いは、時間的にも空間的にも考えられないことなのです。この点を稽古に励む人達はどのように解釈しているのでしょうか。おそらく何も分からずにただ稽古しているだけなのではないでしょうか。というより、分からないからやるんだというような感覚で稽古が進められているのかもしれません。
 私は手を持つという合気の稽古法は、手引きという合気の心を表すのだと思っていますが、ぶつかり合いの稽古法しか知らない人達を充分に納得させ得るものです。
 このことを私の所にいる皆さんには、ある程度理解していただいていると思っていますが、ぶつかり合いの稽古法しか知らない人達にはとても無理なことでしょう。
 手を持って稽古することは、この心を知り、また武道における触れ合いと一瞬の呼吸の大事を知る者にとっては、むしろ大切な稽古法だと考えます。ぶつけ合いの稽古は憎しみを生み、破壊を招きますが、触れ合いを知る稽古は互いの愛を育て、1つの物を生むことができます。日常人と人との触れ合いでは、男女の触れ合いは恋愛を、男と男の触れ合いは友情を、夫婦の触れ合いは新しい生命を生むことができます。


 合気道の道場では、どこの道場にも木刀が用意されていますが、どのくらい正しく使われているでしょうか。
 正しい剣の振り方ができるなら、剣をはなれて現代格闘技の突き、蹴りにも全く同じ理合で充分に活用できるのです。合気道の技は剣の理を体技で表現すると言われているように、全く剣そのものなのです。外国における剣は、相手を倒すことのみに造られた凶器以外の何物でもありませんが、日本の剣は違います。持ち人の体であり、心なのです。他を害さず、己も傷つかず鞘の中にあるを最上としますが、一旦抜かれるや触れ合いにおいて総てを制することが出来るように造られているのが日本の剣だと言えます。ですから、それを持つ人ーその理合を学ぶ人ーは正しい剣の振りかぶり方、斬り方等の剣の扱いを知る必要があります。
 この剣の理合に合気の心をこめて、体で表現する合気道の技は、相手を屈服せしめるためのものではなく、互いに理解し合うためのものです。いわば人の言葉と全く同じものなのです。その意味で、合気道における道場の稽古は、語り合いの場と言い得るでしょう。合気道の技はこのように他の武道における技とは全く違います。ですから合気道における正しい稽古、正しい技とは、互いの正しさを求める心を表しているかどうかにかかっています。


 正しさとは相互の調和を求め、はかることです。
 以上により、私は合気道の正しい技の鍛錬、修得ということは、技を言葉として表現できるようになり、技をもっていかなる人にも語りかけることができるようになることだと考えます。私は、合気道を修業する人々が1日も早く1人でも多く心と心を、合気道の言葉ー技ーで語り合えることができるようにと願っています。