「自分の手で、野球場をつくれんやろか」

ふと思いついたその夢は、

私の個人的な夢にとどまらなかった。

人が人を呼び、計画は大きくなっていく。

夢が追い風に乗るほど、

すばらしい出会いの数も増えていった。

98年4月、ジンバブエに

ハラレドリームパークが完成。

たったひとりの小さな夢が

大きな願いとなり、海を越え、

ジンバブエの地で南部アメリカ初の

野球場となって実現したのだ。

ぼくらのフィールドオブドリームス


 

ジンバブエに野球場をつくる

                              伊藤益朗

 私にとっての野球の始まり、それは小さい頃沢山あった原っぱでの三角ベ−スや、柔らかいボ−ルを素手で打つワンバン野球であった。

原っぱは、よく使われているところと人が近道で通るところだけ土が見えていて、あとは雑草が生えていた。たまたま落ちていたボ−ル紙や抜いた草の株をベ−スにする。原っぱを飛び出してしまうような大きな当たりだと却ってアウトになり、もっと大きく打ってよその家に入れてしまうといきなりチェンジになるなどという原っぱごとの特別ル−ルがあった。

小学校の校庭も思い出す。休み時間に隣の組へ行って試合をすることを決めておく。授業が終るとみんな一旦家に帰り、野球道具をもって急いで学校へ戻ってくる。グラブにバットを突っ込んで肩に担いでくる者、自転車の後輪の横にバットを挟んでやって来る者。少し本式にやろうとする時は、やかんの水でバッタ−ボックスやキャッチャ−ボックスを描き、ホ−ムベ−スからレフトとライトにラインを延ばす。それだけで嬉しくなったものだった。

そんな子供だけの野球にも、私の父は仕事をやり繰りしては単車に乗ってやってきて、校舎の陰から私たちを見ていた。夕暮れの校庭と父の姿は私の野球の原風景となって、今も心に深く焼き付いている。

その後40年足らず、モグラが地を這うように野球を続けてきた。44才でパッと地上に出てみたら、「ジンバブエに野球場を造る」という地点に来ていたことに自分でも驚いた。。

ジンバブエ夢球場の計画は当初、国際交流、ましてや国際援助を目的としたものではなく、私の個人的な夢だった。

 

自分だけのアイデア

「海外に野球場をつくる」

 1986年の夏、私は母校の野球部監督を退いて、自営の印章業に専念し始めた。生活が急に変わったせいか、1年後には不整脈が出て検査入院。異常はなかったが、ある先輩から「マスロ−、この頃精彩ないなあ」と言われ、自分でも「そうやなあ」と思ったりしていた。監督をしていた頃と比べて、自分を思い切り発揮する機会がないことを痛感した。

 そんな私に大きな転機が訪れた。それは94年のゴ−ルデンウイ−ク、インドのカルカッタにあるマザ−テレサの施設へのボランテイアツア−だった。

 カルカッタのダムダム空港の湿ったぬるい空気の中で入国手続きを済ませて出ていくと、早速小さな赤ちゃんを抱いた15才くらいのお母さんがお金をくれと手を出してくる。私はそれを振り払って待っていたバスに乗り込んだ。

このツア−の間に経験したことは、私の一生を揺り動かすのに十分な程濃密なものであった。マザ−テレサに祝福を受けたこと、シスタ−たちの素晴らしい笑顔と働きぶり、祈る姿。世界各地から集まってきたボランテイアと共に働いたことや、休憩時間のチャイの味。マザ−の施設にいる人たちとの及び腰の交流。路上でうずくまっている人がいる一方で、路上生活をしていても暖かくほほえましいと私には映った家族の姿などなど。

 私はそんな経験を消化し切れずに、たくさんの宿題を持ち帰った。インドでの経験は、牛の反すうのように、一度胃に呑み込んだものを口に戻して噛み直す作業を必要とした。私はひとりで考え続けた。「ああ、何かやりたい。人生をただやり過すことだけはしないぞ」

 それは深い悩みであったが、今から思うと熱い思いでもあったようだ。そんなある日、「野球場を造れんやろか」

そんな思いがふっと浮かんだ。続いて、「お金ようけかかるやろなあ」「あっ、待てよ、インドみたいな海外やったら可能性あるのと違うか」「経済的にも野球界でも開発途上の国やったら、現地の人たちも野球場があれば助かるし、日本のお金も何倍にも使えるに違いない」

当時80円台の円高を活用したアイデアでもあった。

 その年の8月、私の大学時代のチ−ムメイトが45才で突然亡くなった。彼は30才を過ぎてから理学療法士の資格を取り、そのおおらかな人柄と研究熱心の賜物といえる実力で、多くの患者さんに信頼され、親しまれていた。彼の義兄はその告別式で、「やっと皆さんのお役に立てる力も付いてきて、これからという矢先の死に、弟もさぞ残念だったでしょう」

と挨拶された。その言葉は私を捉えて放さなかった。「途中で死ぬ。途中で死ぬ」

そうか、人間は「途中で死ぬ」のだな。そのことが私の心に刻み込まれた。そして、「それならやりたいことはやっておかなあかんなあ。それに、途中で死ぬんやったら、頓挫してもええんやなあ」と思った。失敗してもいいのだ。今迄何かをする時には、成功しないのならやり始めたらあかんと決めつけていた。失敗してもいいと分かると、それは大きな勇気となった。

私独自の経験から心に浮かんだ「海外に野球場を造りたい」という思い。それはきっと、私にしか浮かんでこないものに違いない。私が採用しなかったら、このアイデアは永遠にこの世から抹殺されてしまうことになる。そう考えると、自分がする以外にないと思った。出来るとか出来ないとかはどっちでもいい、先ず一歩踏み出そう。

知り合いにその計画を伝えると、「それ面白いなあ」とか「夢のある話やねえ」と言ってもらえて力を得た。そこからは二歩目を踏む位置が見え、また進むと三歩目を踏む位置が分かるというふうに、計画は次々と広がっていった。

 私が自分の中に浮かんだことをひとりに伝える。聞いた人がそれをそのまま次に伝えたり、そのことをヒントにして別のことを伝えて行く。これは大いに可能性のあることだ。結果としてどんなことが伝わり広がっていくかは分からないが、このように影響の連鎖が存在すると、その時実感した。これには、「風が吹く」という表現がピッタリだと思っていた。この計画に賛同していようがいまいがどちらでもいい、ジンバブエの風さえ吹けばいいという気持ちでひとりでも多くの人に伝えたいと思った。

その頃の私は、内からエネルギ−が湧き出ていて、実際そのように動いた。計画は進み、「私たちのフィ−ルドオブドリ−ムス」実現を目指して、「ジンバブエFOD委員会」を作り、後に募金も呼び掛けた。 

 

みんなの熱い思いで

募金は1000万円を超えた

 今回の野球場建設にあたり、現地で中心になって活動した村井洋介さんは、社会人野球を引退後、野球指導のため青年海外協力隊員としてジンバブエに渡った人である。一握りの白人だけのナショナルチ−ムをコ−チすることに疑問をもち、単身旧黒人居留区の小学校をまわり、一から野球を紹介指導した開拓者だ。

そして92年からの2年間で、20校余りの小学校に野球を紹介した。その後、後任の隊員が引き継いで、今では250校が野球を取り入れているそうだ。今後は2004年や2008年のオリンピックも目指すという。野球人口を増やすとともに、ジンバブエ人の指導者や審判の養成、国産野球用具の開発、卒業後の受皿となるクラブチ−ムの整備などに力を入れたいということだ。

 候補地を決める際、私は「どこの国がいいのだろう」と、国際協力事業団から野球指導員を派遣している国のリストも頂いた。しかし結局、元ジンバブエ野球指導員の村井さんに連絡をとることにした。彼はその時点で任期を終えて帰国中であり、しかもいずれ単身再渡航して、仕事をしながら指導を続けることが報道で分かっていた。私にとっては、時々行って野球を楽しむには少し遠すぎる国ではあったが、とにかく野球場ができる可能性があることが重要であった。

今振り返ってみると、その後村井さんとの信頼関係を築けたことが、野球場実現への最大の原動力となった。その村井さんがジンバブエの現地を担当し、私が日本国内を担当して計画を進めていった。

 村井さんが渡航して1年後の96年6月、予定地が決まった。私は単身ジンバブエに現地視察に行った。ヨハネスブルグを朝飛び立って、初めて空からアフリカの赤い大地を見下ろした時、こう思ったものだ。「尼崎の判(はん)屋のおっちゃんが用事でアフリカに来てるなんて、何て愉快なことなんだ」

建設予定地の確認をしたほか、首都ハラレの衛星都市に当たる旧黒人居留区の小学校での野球隊員の活動を見せてもらった。雑草の生えた校庭に集まって野球に取り組む子供たちの真剣なまなざしがうれしく、又かわいかった。こんなところにも野球をしている人たちがいるんだ。そして野球を伝えようと、学校を回っている日本人の若者がいることを知った。私たちが小さかった頃も、こんな原っぱでワンバン野球や三角ベ−スをやったことを思い出した。

 帰国後仲間に集まってもらって、現地報告と募金への協力をお願いした。いざとなると、募金がいくら位集まるのか全く見当がつかなかった。税金で控除されるのなら、企業が大口で協力してくれるのではという声もあった。また、数回新聞に載ったことは計画の信頼性を得たり、多くの人に知ってもらうことに役立った。しかし、こと募金に限っては、「この野球場の計画は面白い。この夢を共有したい」「あいつが言うのなら仕方がない。協力しよう」と、個人の決断で協力してくれる人々こそが最大の力となった。

あの人が、この人が、私の予想を遥かに越える熱い思いを込めて、送金してくれたのだ。私は店のポストに届いた郵便振替の入金通知票を取り出すたびに、うれしさと同時に重責を感じ、武者震いをした。終ってみると、632人の方から私の分を含めて1000万円を越える募金を頂戴していた。

 いざ始めてみると、工事はアフリカペ−ス。私たち日本人の感覚では考えられない事情があるようで、予定地が決まった後建設許可がなかなか出ない。提出した書類が市長に届くのに数カ月。雨季は工事が進まない。長いクリスマス休暇、インフレによる物価や人件費の高騰、品不足、暴動、それらに伴う設計の変更。工事は遅々として進まず、私たちはややもすると不安になったが、現地で調整に当たっている村井さんを信頼することが最も肝心だとして、根気よく待ち続けた。

 以下は工事中のFAX交信のひとコマである。97年10月20日、村井さんからFAX。(要旨)


 本日はあまりよい知らせとは言えませんが御報告申し上げます。

 4回に及ぶ専門家による土壌調査の結果、地質が非常に悪く両ダッグアウトもメインスタンドもさらに掘り下げが必要となり、従わないと建設許可を取り下げる可能性も出ています。そこで私個人としては設計変更をするつもりです。当地の野球協会は途中まででも良いから基礎を作ると言い、まったく話になりません。そこで変更の了解を伊藤さんにいただきたくお願い申し上げます。どう考えてもグランドがメインですから、野球ができることを第一に以下のように変更したいのです。でないと予算内ではどうしても私の納得のいかない球場となってしまうのです。どうかご理解いただきたく存じます。

いかがでしょうか?(手描きの図が描いてある)

スタンドは映画フィ−ルドオブドリ−ムス型の木製スタンドを設置。これでも苦しいですが何とか頑張ってます。ご返答ください。きっと映画のような素敵なフィ−ルドをつくってみせます。 村井洋介


同日、私から村井さんへFAXで返事


 OK!OK!

 よろしくお願いいたします

 村井さんの熱い気持が伝わるFAXに感動しています。乾杯!

 (中略)

 質素はすばらしいです。「素敵なフィ−ルド」を楽しみにしています。

                   1997.10.20

                              伊藤益朗


 

 私の方もつい力が入って、このFAXだけは太いサインペンで書いて送った。

 

 

球場建設の最後の作業、

マウンドはみんなでつくった

 98年4月13日、紆余曲折の末、ついに野球場が完成した。そして翌4月14日から小学生のアフリカ国際野球大会がこの南部アフリカ初の専用野球場で始まった。

 5月2日、私と家族、そしてこの計画を支え、夢を共有してきた友人たちの一行9人は、ジンバブエに向かった。野球場と出会い、そこでプレ−するためだ。

その中には私の高校野球監督時代の選手2人と、私がコ−チをしている身体障害者野球チ−ム「兵庫神戸コスモス」のメンバ−3人もいた。32時間を費やして3日の午後ハラレに到着。ホテルにチェックインするや、直ちに村井さんがコ−チをしている女子ソフトボ−ルチ−ムの練習場に徒歩で向かい、飛び入りでゲ−ム形式の練習に参加。これで時差ボケも吹っ飛び、私たちの野球の虫が俄然活気づいた。

 翌日はいよいよ野球場へ。2年前、予定地が決まったときに一度来て以来である。車が野球場に近づくにつれ胸が高鳴り、その姿が眼前に現われると鳥肌が立った。

「これが私たちの夢の野球場か。」

ライトの奥からホ−ムベ−ス方向に広がるフィールド。このときの野球場の姿は、永遠に忘れることはないだろう。

バックネット、両軍ダッグアウト、内野の美しい芝、腰まで雑草の生えていた荒れ地を何とか整地した外野、全体を囲う金網フェンス、両翼100メ−トル、センタ−120メ−トル。それは私が望んでいた、質素ながらも温かい雰囲気の野球場そのものだった。私は村井さんへの感謝の気持でいっぱいになった。

 私たちはライトのフェンスにある扉からグランドに入っていった。小学生2チ−ムと高校生1チ−ム、それに先生方が1塁側ダッグアウトの前で半円形で待っている。進んでいくと、小学生の代表が前に出て、歓迎と感謝の言葉で私たちを迎えてくれた。

そして、嬉しいプレゼントがあった。野球場建設の最後の作業として、マウンドづくりを私たちのために残しておいてくれたのだ。実際に自分たちの手でアフリカの大地に触れ、作業をすると、この野球場の血が流れ込んできて、私たちの体内を巡るようだった。

そのあとゲ−ムをしたり、ノックをしたりして、昼食も食べずに結局この日はここで野球三昧の一日を過ごした。

グランドには、ジンバブエの子供たちと協力隊員、元高校球児と体に障害をもつメンバ−、村井さんと私、それを見守る女性たち、私の息子と、実にバラエティーに富んだ顔触れがそろっていた。その満ち足りた情景は、私に天国を連想させた。

 この野球場の名前は「ハラレドリ−ムパ−ク」。これは、私たちの夢から発した野球場なので、「ドリ−ム」という言葉を入れてほしいという私の希望を受け入れてくれたものである。

またサブネ−ムとして「ジンバブエジャパンフレンドシップベ−スボ−ルスタジアム」(ジンバブエ日本友好野球場)と名づけた。今後何十年たっても、この野球場は野球を愛する多くの日本人の協力でできたということが分かるようにしてほしいと願ってのものだ。この完成を現地の少年少女らプレ−ヤ−をはじめ連盟の人たちや青年海外協力隊員ら多くの人たちが喜んで下さっていることが分かったのは大変うれしいことであった。

 5月7日、ジンバブエで過ごす最後の午後。私たちは日が沈むまで野球場に残り、暗くなった野球場を心に刻み込んだ。そしてひとりひとり万感の思いを胸に、無言でライトフェンスの扉へ向かって歩いた。暗いのでそれぞれの表情は分からないが、メンバ−の中には鳥肌が立ち、涙が自然と流れたという者もいた。そして、私たちは野球場をあとにした。

 私たちは、ただ野球が好きだという糸で結ばれ、こんな壮大な経験をすることができたのである。村井さんとの縁は単にひとりが工作しても作り出せるようなものではなく、さまざまな力が働いて、まさに大きな力に導かれたものと思わざるを得ない。その過程で私は大きな学びを受け取り、ツア−のメンバ−をはじめ実に多くの人たちが新鮮な出会いを果たした。それぞれの人生の中で、それらは自分たちの想像をはるかに越える影響を与えていくに違いない。

 映画「フィ−ルドオブドリ−ムス」で、「やりたいことを何もせずに死んだ親父のようにはなりたくない」と、主人公が心の声にしたがい、大切な畑を潰して野球場をつくる。そこに今は亡き大リ−ガ−たちがあの世からやって来て野球を楽しむ。その中には、主人公の知らない、大リ−グを目指していた若い頃の父もいた。ラストシ−ンとなった野球場での父子のキャッチボ−ルは感動的であった。

生きている間は和解できなかった父子が、キャッチボ−ルをすることでひとつにつながったのだ。キャッチボ−ルは世代を越え、空間を越え、野球を愛した者同士の心の交流そのものではないか。

私たちは、今回の野球場建設を通して、アフリカのプレ−ヤ−たちとつながることができた。彼らと言葉では充分に交流できなくても、あの日同じグランドでひとつのボ−ルを追い、君の投げた球を私は打った。私の投げた球を君は捕った。その舞台となった「ハラレドリ−ムパ−ク」は、私たち共通の夢球場となった。

彼らが大人になった時、そこは心のふるさととなるだろう。やがて彼らの子供たちもここで野球をし、父子のキャッチボ−ルが実現する。そのとき、父子共通の心のふるさととして、新たな輝きを発することだろう。

 100年後、そして200年後、今生きている我々がみんなこの世を去ってからも、野球があるかぎり、このフィ−ルドはずっと人々を惹きつける。私たちはあの世から、「今日もやっとるかな」と、フィールドを覗くだろう。そんな永遠の楽しみを今、手にしたのだ。

 

 

文●伊藤益朗 

いとう・ますろう 1949年兵庫県生まれ。

自営業の傍ら、「関西学院高等部」野球部監督を経て、

現在は(1999年1月執筆当時)身体障害者野球チ−ム「兵庫神戸コスモス」、

兵庫県初のクラブチ−ム「全播磨硬式野球団」のコーチを務め、

独特の洞察で選手の気付きを支える指導を目指す。

多くの人と協力して南部アフリカ初の野球場をジンバブエにつくり、

現在代表を務める「ジンバブエ野球会」はアフリカの野球振興と交流を支援している。

(ポカラ 1999年3・4月号 山と渓谷社発行に掲載)