大佑生い立ち


昭和61年1月13日 京都市に生まれる。 体重3000g以下で小さな赤ちゃんだった。
  髪の毛が薄く、ちょっとサルみたい、で可愛い赤ちゃんだった。

小さい時から走るのが好きで、よく公園へ行くと真っ先に周りを走っていた。全身がばねのような子供だった。
  幼稚園でも活発でリレーにも出て、運動面では活躍していた。卒園式でも園児代表にも選ばれてがんばっていた。
  3歳の後半から近くに出来たイトマン京都のスクールへ入学。

小学校に入ってからも運動面で抜きん出ており、毎年行われるマラソン大会では結局6年生まで全て2位を獲得する。

小学校2年の冬にイトマン京都で研修クラスに入る。(選手コースの予備軍)
  京都市のジュニアの大会やイトマンの地区大会などに参加する。始めはちゃんと最後まで泳げるのか?そんな心配をしていた
  のが懐かしい。

小学校4年でイトマン京都の選手クラスへ昇格。ここからは、大阪の大きな室内プールの大会などにも参加。
  自分の子供が観客席のある室内プールで泳ぐ姿を見て、感動したものである。(感謝!!)

小学校5年の時に初めて、京都市のジュニアの大会で3位に入る。初めての賞状は今でも大切に飾ってある。
  また、夏には大阪での関西ジュニアで決勝に進出。電光掲示板に名前が出たときは鳥肌が立ったのを思い出す。
  こんな感動を親に与えてくれたことに本当に感謝する次第である。

いよいよ中1。この年も京都市のジュニア大会で2位、3位と立て続けに賞状を獲得。
  夏の大阪での関西ジュニアでは初めて3位入賞し、銅メダルを獲得。また、11月には、これまた初めてイトマン招待(全国大会)に
  メドレーリレーのメンバーで出場。中学生の部で一人中1でプレッシャーの掛かる中、自己ベストでがんばる。
  次の年の初めの大阪でのジュニア大会でも決勝進出など、力がついてきたころだった。
  また、中学の大会でも京都市で2位に入るなど、一年生として立派な成績を上げていた。

この頃、勉強はと言えば社会(特に歴史)が得意でその他は普通といったところ。水泳に重きをおいていたころだった。

1999年4月。いよいよ中学2年生。これから全国を狙ってがんばっていた、その矢先に人生を大きく変える出来事が起こる。

1999年4月10日(土)いつものようにイトマンに弟翔太と練習に出かけた。8時過ぎに電話が入る。「大佑くんが倒れました」
  救急車で近くの脳外科病院へ。詳しくは「大佑闘病奮闘記」を参照ください。
  これから4ヶ月の辛い闘病(リハビリ)が始まった。

同年9月。やっと中学にも復学して、がんばって通い出した。大佑の偉いところは、ここから現在まで通院以外での欠席が無いことだ。
  いままでの自分と違うのに、大佑はがんばって通学した。体育でも自分の出来る最大限で参加した。水泳部も卒業まで続けた。
  これには、本当に頭が下がる思いだ。

この年の冬11月ぐらいから塾に通いはじめる。やっぱり一学期を全休した影響は大きく、何とか取り戻すために塾へ行きだす。
  しかし、これが自転車で15分ぐらいかかるところで、左半身に麻痺の残る大佑にはとても辛いことだった。また、苦手の英語の
  先生が厳しいこともあり、何度も嫌がった。しかし、その都度何とか話をして続けさせた。でも結局卒業まで続けたのだ。(偉い!)

そんなこんなで迎えた2000年。大佑ももう中学3年、受験生だ。夏ごろまでは、塾の夏期講座へがんばって行ったりして、進路を
  迷っていた。そしてシドニーオリンピック。そしてパラリンピック。うちの家では、特に競泳を熱心に観戦する。
  そして、そんな折、大佑は一つの決心をする。それは、もう一度競泳選手を目指すことだ。しかも、パラリンピックを目指すのだ。

2000年11月。京都市の障害者スポーツセンタ内にある京都障害者水泳クラブに所属して、練習を始める。
  2年間のブランクもあり、ちょっとした練習でもへとへとになっていた。しかし、このクラブ(SC)の人たちは皆やさしく、大佑を可愛がって
  くれた。そのお陰で大佑もすぐに溶け込むことができた。「アテネに間に合えば言いね」などと持ち上げられてがんばっていた。

そして、12月。もう進路を決めなければならない。そこで大佑はパラリンピックを目指すためにいつでも練習できる環境を求めた。
  京都の公立高校はほとんど、プールや水泳部が無い。大佑は電車で2駅先にある高校を進路として決める。
  ただ、もし入学しても水泳部で断られると困るので、実際にこの高校の水泳部の顧問の先生に相談に行った。
  結果は問題なし。これで大佑の決心は決まった。後はこの高校へ入れるように勉強をせねば。

2001年2月。念願の京都両洋高校に合格し、現在にいたっている。まだ生まれて15年だが、波乱万丈である。