「嘉納治五郎の近代認識と柔道」

嘉納治五郎が日本の近代化に果たした役割は多面的である。それは教育者・講道館柔道創設者・初代IOC委員としての功績に代表される。本稿では嘉納治五郎がいかなる近代認識のもとに柔道を創造したのか。近代において柔道はどのような意義を持つのか。現在の教育の在り方、武道の果たす役割の理解の一助になると考え考察を試みることにする。

1. 教育者
 嘉納は万延元(1860)年10月18日摂津国、現在の兵庫県に生まれた。父は幕府の用達で建築・回漕運輸に力を尽くし漢学と絵画に素養があった。母は酒造家を経営し教育熱心であった。その三男として経済的に恵まれた環境で育った。11歳には上京し漢学を学び、以後英書・独語・普通学を学んだ。16歳の時官立開成学校に入学する。2年後東京大学に改称され編入する。頭脳は明晰で教育に対し高い関心を持っていた。幼少時代から人を教えることに喜びを感じ教えることを楽しむ天分であったという。その熱意は大学入学時においても発揮され、元来数学が得意であったにもかかわらず、世のために教育に携わるべくあえて文学部を選んだ。当時の文学部は政治・理財・哲学・和漢学に分かれており、フェノロサやクーパーなどの外国人講師から西洋の知識を学んでいる。一方では大学二年次と並行して漢学塾二松学舎に通った。二松学舎は明治10(1877)年に欧化偏向の国情を憂い東洋の文化を学ぶことこそが我が国本来の姿を知りうるとの理念に基づき、漢学者で明治法曹界の重鎮であった三島中洲によって創設された私塾である。嘉納は近代化の先駆となる人材を育成する東京大学に身を置きながら、そのアンチテーゼともいえる理念を持つ二松学舎で学んだ理由は、漢学の素養のあった父の影響だけでなく、大学生活を通し西洋の知識や文化の摂取に汲々としている思潮に少なからず疑問を抱いていたからではないか。この時期に学ばれた西洋の知識と東洋の儒教精神は、嘉納の思想を形成する重要な要素であった。そして在学中の明治15(1882)年友人の依頼を受け学習院で教鞭をとることになった。以降第五高等中学校長・文部省参事官・第一高等中学校長・高等師範学校長・文部省学務局長を歴任した。また教育事業としては明治15(1882)年2月に生活全般から勉学までを教育する嘉納塾、3月に文学を教える弘文館、5月に柔道を教える講道館を設立した。嘉納は天性の教育者としての資質で教育界に君臨したがその主張は一貫して教育の重要性を説くものであった。初代文部大臣森有礼が行なった政策に対しては「教育において形から人をつくり上げることはある。しかし、形ばかり作って魂を入れなければ何の役にもたたない。」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,日本図書センター,1997,P248。)と批判している。師範教育の根本として中身の伴わない言葉だけの順良、信愛、威重の三綱を主張したこと、また兵式体操を奨励し軍隊教育の如くに教育者を教育しようとしたことについて、形式主義を否定し教育者は教育の力が偉大であることを理解し自覚を養うことが第一義であるとした。また教育の力を「教育のこと、天下これより偉なるはなし。一人の徳教、広く万人に加わり、一世の化育遠く百世に及ぶ。」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,P253。)と端的に表現している。すなわち現代を動かす政治・軍事・産業等の基礎は、人材を育成する教育にあり高度に発展した社会においては高度な教育と研究が必要になる。よって教育とは次代の活躍すべき人材を作り国家の根本であってもっとも尊ばれるべきものであるとした。

2.IOC委員・大日本体育協会会長
 高等師範学校や講道館において教育、その中でもとりわけ体育の重要性を説き実践していた嘉納に明治42(1909)年IOC(国際オリンピック委員会)委員の依頼があった。IOC会長のクーベルタン男爵の、教育による社会改革、新世紀への青年教育、世界平和への人類の教育という理想と、嘉納の教育観は相通じるものであった。嘉納は受諾し東洋初のIOC委員に選任された。また同年嘉納の提唱で選手派遣を事業とし国内のスポーツ振興に寄与する大日本体育協会が設立され初代会長に就任した。明治45(1912)年には東京大学の三島弥彦(短距離)と東京高等師範学校の金栗四三(マラソン)の両選手を選抜して自から団長となりストックホルムでのオリンピックに初参加した。昭和13(1938)年カイロで開催されたIOC総会に出席し、その帰途氷川丸船中で肺炎のため78歳で急逝した。

3.講道館柔道創設者
 明治初年、少年の間や塾において「強い者が跋扈し弱い者がその下風に立たなければならない状況」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,P11。)であった。その中にあって勉学には優れていたものの小柄で虚弱な嘉納は軽視され劣等感を強めていった。いつしかそうした現状を打開すべく非力なものでも大力に勝てる方法である柔術を学ぼうと考えるようになる。しかし、当時は文明開化政策のもと西洋文化を模倣する欧化主義の風潮にあって在来の剣術や柔術は野蛮とみなされ、明治9(1876)年には廃刀令による武士階層の没落に伴う武術の衰退が顕著になっていた。そのため再三入門を決意したが周囲の反対に遭い断念せざるを得なかった。ところが強くなりたいという信念は強まる一方であり、その後数年を費やしついに明治9(1876)年17歳の時天神真楊流柔術に入門を果たす。これは時代に逆行することに他ならなかったが、人一倍の好奇心と向上心で毎日熱心に稽古を重ねた。上達に伴い関心も広がり起倒流柔術にも学んだ。次第に頭角を表わすようになり当初の目的であった強くなることはすでに達成された。しかし、稽古を続けていくうちに強さとは違う「身体の健康の増進」と「精神の安定」を実感するようになる。また勝負の練習に付随する知的練習が社会全般に応用できることも発見した。それは以前に行なってきた器械体操・駆けっこ・船漕ぎ・遠足・球投げ・ベースボールと比較してもより効率的に全身を鍛える運動であり柔術に工夫を加えることによって教育の手段になり得ると確信するに至った。

4.武術から武道へ
 近代に入って体育の意義を明確にしたのはロックであるといわれている。『教育論』(1693年)の中で世の中の理想状態を「健全な身体に宿る健全な精神」であるとした。ついでルソーは『エミール』(1762年)の中で運動を人間教育に不可欠の要素として重視した。しかし、歴史的にみて身体運動が必ずしもよいものとして認識されてはいなかった。プラトンは『健やかな心と身体』の中で「健康な身体はその身体の健康であることのゆえに、精神の進歩を進めるのではない」としている。近代以前において影響力のあった儒教では「力もしくは武的なものへの徹底的蔑視」がみられる。遊戯や競技であったスポーツが人間の身体及び身体運動に関わる教育として認識されたのは近代に入ってからである。そして日本において伝統的な武術を教育としての武道に変化させた先駆が嘉納であった。明治9(1876)年、秩禄処分及び廃刀令の公布を契機に武士階層は経済的に困窮し武術は衰退した。「実用の術」であった剣術は「生計の術」として幕末の剣豪榊原健吉を中心として相撲興行同様の撃剣会興業が出現した。これは試合形式を演じて見物料を取る見せ物であった。武術の実用技術の見せ物化である。一方でそうした武術衰退の時代にあって体操伝習所には武術に付随する健康・体力増進の機能を強調し学校体操に代わることを主張する動きもあった。これは武術の体育的側面を近代の体育へと移行する試みである。こうした武術の衰退に武術が変質を遂げ存続を維持する潮流にあって、武術の一つである柔術から修心すなわち精神形成の価値を見出したのが嘉納であった。それは確固たる嘉納自身の信念に基づく「術」から「道」への移行であって、武術の近代化すなわち武道の誕生である。しかし、旧来の武術に精神形成の要素がなかったわけではない。「武術は、生死を賭けた実用の術を発揮するため、身体練成(体育)と死生観を中心とする精神修養(修心)とを伝統的に重視してきた」(大道等編『近代武道の系譜』,杏林書院,2003,P5。)というように武士階層で発達した武士道と呼ばれる道徳があった。宮本武蔵『五輪書』では、武士は戦闘者であり武士の道とは「何事においても人に優るる」ことを基本とした。山本常朝『葉隠』では、武士道とは私を捨てた滅私奉公の道とし「武士道といふは死ぬことと見付けたり」に表現される、極致としての主君に対する思い死が理想とされた。しかし、武士道が柔道の修心と決定的に違うことは特権的な武士階層に限定されることなく、生死を賭けて闘うことを前提にしていないことである。また人材の育成を意図した西欧の近代合理主義思想によっている。そして結果としての良い国民、平和な国家社会を目的にしていることである。

5.柔道の教育的価値
 嘉納は柔術の稽古によって起きた自身の変化を以下のように述べている。「かつては非常な癇癪持で、容易に激するたちであったが、柔術のため身体の健康の増進するにつれて、精神状態も次第に落ちついてきて、自制的精神の力が、著しく強くなって来たことを自覚するに至った。」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,P27。)これは前述した近代体育論の健康な身体があってはじめて精神が安定するという事実を実感したものである。そこには現在の教育体系の基礎になっているH・スペンサーの知育・徳育・体育という三育主義における体育優先の思想がある。すなわち柔術の稽古によって得られた実感から導き出された教育観こそが、講道館柔道創始の契機となった。そして柔道では三育主義を体育としての錬体法・智徳の修養ならびに柔道の原理を実生活に応用する研究と実行としての修身法に分けて説いた。さらに武術としての勝負法を設け特化したことに柔道の特徴がある。その理想は「体育的には身体の凝り固まることなく、さらりさらりと自在に且つ敏捷に、しかも強くなることを期し、攻撃防禦の法としても、咄嗟に襲われた場合に、これに応じて巧みに動作し得べく、また稽古の間にも絶えず練習の機会を利用して智徳を磨き、百般の事これに利用することに努める」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,P53。)としている。武術の要素を色濃く残したのは、生死を賭けた術から現代に即応し体系化された護身としての実用性、非形式的・非画一的な稽古の自発性、対人競技の楽しさ、武士道・日本的精神の温存、肉体接触すなわち痛みを伴うことによる自制的精神の醸成等の利点によるものであろう。しかしながら現実は当初の理想と離れ乱取り偏向が進んだ。乱取りと形両立が理想としながら現実的には人間の興味は楽しいものへと流れた。一方で他流試合で勝つことを宿命とした武術としての性質も内包しジレンマを抱えることになった。

6、嘉納の野心と柔道の変容
 嘉納は裕福な商家に生まれ高度な教育を受けて育った。東京大学に進学し、そこで培った学閥による体制側の豊富な人脈によって重用され順調に出世を果たした。ついには教育界において絶対的存在になる。こうした出自と境遇によって「楽天的で現実主義的な傾向」(杉本厚夫編『体育教育を学ぶ人のために』,世界思想社,2001,P226。)が醸成された。日清・日露戦争を経て第1次世界大戦へとめまぐるしく時局が変動し緊迫化する中で、嘉納の野心は顕在化してきた。それに伴って柔道の変容も著しくなった。
嘉納は大正9(1920)年から11(1922)年にかけて世界の戦後の大勢を視察するため欧米に渡った。欧米の現状を「列強は競うて軍備を拡張して、ほとんど底止するところを知らない有様」(嘉納治五郎『嘉納治五郎著作集第一巻』,五月書房,1983,P155。)であるとし、それに比して「今日の国情はといへば国民に遠大の理想なく思想は混乱し上下奢侈に流れ遊惰に耽り」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,P148。)であると認識するようになった。それは帝国主義列強に対して日本の現実の立ち遅れを痛感させるものであった。日本の教育界で大きな力を持つ嘉納にとって、それは危機感と問題意識を抱かざるをえなかった。そこで嘉納は「世界の大勢に順応することの必要せんがために」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,P148。)と日本が欧米と対等にあるべきことを強調し「優秀健全な国民を作らんとする」や「国民思想を統一維持」といった国民を教導していくという姿勢が強まってくる。そうした志向から生み出されたのが社会生活が存続発展するための原理である「自他共栄」であり、柔道の研究から体得した国民道徳の根本原理である「精力善用」である。
昭和2(1927)年には「今まで日本は世界から種々の事を学んできた。日本も何かを世界に教えなければならぬ。」(加藤仁平『嘉納治五郎−世界体育史上に輝く−』,逍遥書院,1964,P212。)という考えによって日本の世界的発展のため、柔道の輸出を志向するようになる。西洋の圧倒的な優位を目の当たりにして日本の威信を守ることに執着した。しかし、指導者を派遣するものの現実は「言語が出来ず理屈の説明する力がないと、何分外国の人は力があるから少し経つと思うように扱うことが出来なく」(加藤仁平『嘉納治五郎−世界体育史上に輝く−』,P213。)なり柔道の地位を失墜させた。嘉納はこの現実を重く受け止め、当面の海外派遣を見合わせた。そこには優れた精神を喧伝しながらも強くなければならないという実力主義との葛藤がある。嘉納は指導者の海外派遣を再開するためにも「柔道という道に深い理解のある人があるようにしたい。」(加藤仁平『嘉納治五郎−世界体育史上に輝く−』,P214。)と考えた。そして日本文化の代表としての自負がある柔道はより専門化・特化・学術的強化を図るようになる。それは将来の講道館の構想として武術の部、体育の部、智徳の部、生活改善の部の4つの研究部を作るというものである。武術の部は今までの柔道の練習的な研究だけでなく、剣道も含めた学術的な研究をしていくことである。体育の部は攻撃防禦を主とする武術的な「攻防式国民体育」と、思想・感情や天地間の物の運動を表現した老人子供にも適する「表現式体育」を研究することである。智徳の部は柔道の原理に基づいて人間の智徳を有効に働かすための研究をすることである。生活改善の部は国民の力を充実させるため働く力や費やす金が十分に功を奏す研究をすることである。当初は「柔道の技術を練り上げ、磨き上げたその結果は、深き哲理を悟り、人間の大道を究めることになるのであるが、その道程としては、筋骨をもって相戦い、荒っぽしい練習を経て進んでいかねばならぬということである。」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,P97。)というように乱取りに代表される厳しい稽古を経て柔道修行の究極的な目標である「己の完成」「世の補益」が実現できるとしていた。しかし、森有礼を批判し忌み嫌ったはずの形式的で単純な形の反復である攻防式国民体育を考案したり「勝負の練習に附随する知的練習は、何事にも応用し得る貴重なる知力の練習なる」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,P28。)として柔道を作ったにもかかわらず「国民全体を強くするには少数の運動好きの者だけでなく、多くの人が出来るような運動を奨励しなければならぬ。」(加藤仁平『嘉納治五郎−世界体育史上に輝く−』,P214。)という理由から表現式体育を考案するなど嘉納の思想的円熟とは程遠い矛盾に満ちた変容を遂げている。さらに昭和に入ってナショナリズムが高揚してくると「どこまでも皇室を国民統合の中心として仰いでゆく事が精力善用の根本義である」(嘉納治五郎『嘉納治五郎著作集第二巻』,五月書房,1983,P382。)とも述べている。これは常に体制側にあった嘉納の「現実適応主義の苦肉の表れ」(杉本厚夫編『体育教育を学ぶ人のために』,世界思想社,2001,P241。)であった。嘉納の柔道が教育の手段から国際間の融和強調の手段へと移行していく過程で時代に迎合した側面はあった。しかし一方で現在の柔道の発展の礎ともなる競技スポーツの道を開く契機ともなった。この構想は嘉納の死によって果たされなかった。それは柔道が実力主義に由来する勝利至上主義に転化する余地を残したまま受け継がれたことに他ならない。

7.運動害毒論と柔道
 嘉納は柔術に教育的価値を見出し柔道を創始した。しかし、その当時近代以前まで有力であった運動害毒論に由来する武道害毒論の思潮があった。近代日本の体育理念はロックの影響が色濃く受けている。「教育論」(1693)にある「健全な身体に宿る健全な身体」という肉体を基礎とする考えである。西周による『文武学校基本並規則書』(1870)の「是此併小学之真面目ニ而総而二・六時中文事ニ而巳心ヲ用ヒ候而ハ、身体之為不宜諸種之病根ト相成…」(能勢修一『明治体育史の研究』,逍遥書院,1965,P13。)の記述や嘉納のH・スペンサー「教育論」(1860)の「三育主義」に基づき教育の順序を体育・徳育・知育とする教育観から看取することができる。しかし、それらの思想は近代以降の定説であって近代以前はそれに相反するものであった。歴史的にみればギリシャの哲人ソクラテスの「精神は身体の主人であり、身体は精神の従僕である」やプラトンの「健康な身体はその身体の健康であることのゆえに、精神の進歩を進めるのではない」とする思想を受け継いでいる。それは肉体と精神は容易に一致しないものであるという見解である。それをロックが理想状態として「健全な身体に宿る健全な精神」とした。すなわち元来の意味が変化し日本に伝わったのであって、歴史的に身体運動は必ずしも重視されてきたのではないのである。イギリスでは12世紀から16世紀の間フットボールの禁止令が31回出された。理由は野蛮で粗暴であることや熱狂するあまり教会に来なくなるということであった。日本でも興業化と非アマチュア化が著しい高校野球に対し、昭和7(1932)年「野球統制令」が出された。ともに「知育・学科成績の悪化」「徳育上の公衆に対する品行不良」「慢性的な身体傷害と不可抗力的に生じた負傷の体育上の不合理点」に対する感情的不安によるものであった。武術も例外ではなくその有害性が強調されるようになる。明治16(1883)年、文部省は体操伝習所に学校教育における撃剣・柔術の利害調査を命じた。日本初の医学博士である三宅秀を代表として東京大学ドイツ人講師のベルツやスクリバ等により剣術者、柔術者十余名を招き「生理学的精究」を行なった。その結果、長所が5つ、短所が9つ指摘された。「長所身体発達助長」・「持久力養成」・「個人心理的な人格陶冶」・「護身能力の体得」であり、短所は「身体発育を助長するという長所も調和的発育を欠く」・「護身をうたいながらも危険」・「心身発育の段階に即応した指導が困難」・「闘争心を誘発し勝敗にとらわれる風を助長」・「経済上・管理上・学級指導上不向き」であった。そして「学校の正課としては採用することは適当ではない。ただし慣習上行なわれやすいところがあるから、正課の体操を怠り専ら心育のみに偏するような学校では、これらを実施することによって利益をおさめることができるであろう」(能勢修一『明治体育史の研究』,P191。)と結論付けられたのである。三島通良「学校衛生学」(1893年)では正課体操の代用とは認めないが遊戯すなわち競技スポーツと評価した。
富国強兵が国策とされる時勢にあって武術が有害とされたのは、西洋医学に傾倒する合理主義の思潮と「森氏は兵式体操を奨励し、軍隊教育のごとくに教育者を教育しようとした」(嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,P248。)と嘉納が言う森有礼の身体の近代化・国民統制という政治的・社会的な配慮によるものである。対して嘉納の視点は同じ合理主義をとりながらも、知育と体育が相反するという認識によるものではなく、また体操と武術を並列にした比較ではない。知育・徳育・体育は調和的に発達するものであるという認識を持ち、運動それ自体の比較から医学的・合理的判断をするものであった。一方でこの調査は講道館創設と同時期であり、有害とされた柔術との相違を強調する必要性は柔道の草創期において嘉納にとっての動機付けとなり柔道の形成に大きく作用するものであったであろう。明治27(1894)年日清戦争が勃発すると形勢は展開した。明治28(1895)年日清戦争勝利に伴い武術の近代日本における地位の確立を意図して大日本武徳会が創立された。「現今実用に供せざる武芸といえども保存の必要あるもの」の保存を事業とした。明治38(1905)年には武術教員養成所が創立された。明治32(1899)年には新渡戸稲造『Soul of Japan』が出版され、翌明治33(1900)年『武士道』と題して邦訳された。日清戦争を契機として武道は見直されることとなった。大正2(1913)年「学校体操教授要目」では男子中等学校体操科での「撃剣及柔術」の任意採用が確認された。昭和元(1926)年「撃剣及柔術」勝利至上主義・技術主義を否定し「剣道及柔道」に改称された。昭和6(1931)年、剣道と柔道は「我国固有ノ武道」と位置付けられ男子中等学校の必修とされた。


8.現在の柔道
 昭和20(1945)年、大日本武徳会は軍国主義払拭の占領政策下で解散させられ,、学校教育における柔道・剣道は禁止された。柔道は昭和24(1949)年、流派名を伏せた全日本柔道連盟を設立し日本体育協会へ加盟した。それは事実上のスポーツ宣言であり、昭和25(1950)年文部省はGHQの了解を得て柔道がスポーツとして学校体育へ復活することを認めた。昭和36(1961)年オリンピックの正式種目となり、さらに国際化・競技スポーツ化が進んだ。現在は教育的な側面に回帰が見られ、平成13(2001)年から講道館と全日本柔道連盟の合同プロジェクトとして「柔道ルネサンス」が発足した。

9.おわりに
 嘉納治五郎の生きた時代は、西欧列強の植民地化の危機に直面し西洋化という近代化に邁進する時代であった。その時局にあって、西洋の合理主義と東洋の儒教的精神を内在した嘉納が、日本の固有の精神文化である武士道と、武術の一種である柔術を介して、それらを融合させ柔道を創出することに成功した。次第に嘉納が教育界の重要な地位を占めるようになって、柔道はめざましい普及を遂げる。そして教育的野心から国民教化の手段となっていった。昭和に入って日本の世界的発展を企図し、日本の文化の代表を標榜する柔道は世界進出を志向するようになった。それは日本国内で確固たる地位を占めていた柔道が、世界の実力に併呑された国際的契機でもあった。理想とはほど遠い現実に直面し実力主義を受容することになった柔道は、世界に強い柔道を発信する強者を育成する「競技」と万人に行われる「教育・体育」を差別化することで打開を図った。昭和20(1945)年、敗戦後の占領政策下で軍国主義や国家主義を助長したと批判され、学校教育で禁止された柔道は、その存続を賭けて文部省の「道徳水準を高めるための体操競技、自由競技および運動競技の活用に重点を置くスポーツ競技に置き換えられるべき」との通達に則り、自由主義的で民主主義的なスポーツ競技に変容した。昭和36(1961)年、オリンピック正式種目決定以降、世界的に愛好されるスポーツとなり現在に至っている。2001年嘉納治五郎の理想とした人間教育を目指した講道館と全日本柔道連盟の合同プロジェクトである「柔道ルネサンス」が発足した。ボランティア活動の実施や清掃の奨励など、柔道と教育は並列のものとして、それぞれを補完する関係を築きつつある。嘉納が抱いた理想と現実との葛藤を超克しようとしているのであろうか。3度目の転機を迎えている。


参考文献
嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』,日本図書センター,1997
大道等編『近代武道の系譜』,杏林書院,2003
杉本厚夫編『体育教育を学ぶ人のために』,世界思想社,2001
加藤仁平『嘉納治五郎−世界体育史上に輝く−』,逍遥書院,1964
能勢修一『明治体育史の研究』,逍遥書院,1965
成田十次郎編『スポーツと教育の歴史』,不昧堂出版,1988

 

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