日本バスケットボール界、こんな人いました!
メジャーな人からマイナーな人まで。あの選手のこんな話。
更新日時:2009年07月01日、志賀直三を追加。

▼名前をクリックすると各人の紹介へと飛びます。紹介する選手は少しずつ追加していきます。▼
1920年〜1970年代
志賀直三///松井聡///波部久太郎///西郡正三///池田博///野口政勝///糸山隆司///荒井洵哉///奈良節雄
千種信雄///細島繁///谷口正朋///松尾武司///諸山文彦///白取啓二///桑田健秀
青木崇///佐藤雅昭///島野直幸///生井けい子///橋本きみ子///福井美恵子///松田多佳子
ジェローム・フリーマン///ラリー・ジョンソン///タケシ・ツツイ///ジョージ・ゴトー
1980年代
大山春美///高木寛治///一松康徳///張炳耀///常陸宮正仁親王
メアリー・キャサリン・オニール///ドエン・ケーシー///ジャメル・シャンブリス
1990年代〜現在
外山英明///関口聡史///高橋マイケル///金子寛治///タミー・ジャクソン///サラ・L・フォリー
レビイ・ミドルブルックス///コーリー・ゲインズ///金子ロナルド///神谷テヨリ///木葉一総

志賀直三 =1899年生まれ。東京出身。=
志賀直三は日本の中学を卒業後、アメリカに留学し、マサチューセッツ工科大学やボストンの美術学校で学び、更にイギリス留学を経て、帰国、後年は茶道家として名を成した人物である。一般的には「志賀直哉の弟」として知られているが、実は彼、日本のバスケ界とも関わりが深く、一説には、本場アメリカのバスケットボールを奈良県に最初に持ち込んだ人物ともいわれる。 これについて調べてみると、確かに、日本バスケットボール協会広報部会編集『バスケットボールの歩み 日本バスケットボール協会50年史』(1981年、日本バスケットボール協会)の第六章「都道府県協会小史」の「奈良県バスケットボール協会」に「大正13年、奈良市立第二小学校の校庭に丸太棒2本に四角板をはりつけたゴール一台が若手教員の手作りで立てられ、志賀直三氏(文豪志賀直哉氏の舎弟で少年時代よりアメリカ生活、ペンシルバニア大学で唯一の日本人選手として活躍)の本場仕込みのオーソドックスなテクニックを子供達に指導されたのが本県バスケットの芽生えである。昭和年度に入って、普及の中核的存在となったのは志賀氏のコーチをうけた奈師OBが直接指導した奈師、奈女師の生徒達であり、OB達と共に、各地を巡回指導し普及発展に貢献した。」とあるので、間違いないでしょう。 但し、志賀氏の著書『阿呆伝』(1958年、新制社)には、カスカディラスクールやパウダーポイントスクールのバスケットボール部に入部したという記述はあっても、 ペンシルバニア大学のバスケットボール部に入部したという記述はないので、この辺りははっきりしない。 彼は同書の「ニューヨークのたわけ者」(p.102-112)の中で、次のように述べている。 「行郎さん(有島武郎の末弟)は、わたしをコーネル大學の直ぐ側にある豫備校のカスカディラスクールに入る手續きをとつてくれた。(中略)入學したのは十月中旬だつたから、やがてバスケットボールのシーズンに入つた。入學早々部員募集があつたので、早速わたしもバスケットボール部に入つた。バスケットボールの方では、スターに祭上げられたが、勉學の方はまるで疎かである。(中略)翌年の春、行郎さんはわたしをメイン洲のひどく淋しい海岸にある學校に轉校させた。學校の名は、パウダーポイント・スクールといい、ここでの約一年半の學生生活は、わたしの生涯を通じていちばん清純な、樂しい生活だつた。(中略)パウダーポイントでも、わたしは運動の選手だつた。春は野球、夏は水泳、秋はアメリカンフットボール、冬はバスケットボール、どれも皆わたしは第一線の正選手で活躍した。」と。


松井聡 =1915年3月12日生まれ。福井県出身。身長176cm。=
ベルリンオリンピックに参加したガードプレイヤーで、高校、大学、社会人(神戸学士クラブ)の全てで全国制覇を遂げた人物。 後年には協会の理事などを歴任し、79年の第10回ユニバーシアード・メキシコ大会では団長を務めた。 ちなみに当時のガードはディフェンシブとオフェンシブの2つに役割が分かれており、氏はディフェンシブなガードだったとのこと。 松井さんは大正4年に福井県福井市で生まれ、小学校に上がる前に東京に移住。旧制の府立五中(現・都立小石川高)時代はサッカーに熱中し、成城高校に進学した後もサッカーを続けるが、先輩にゴールキーパーをやるように強要されたことから他のスポーツに興味を抱き、バスケ部からの誘いを受けて16歳でバスケットボールを始める。1年間はボール運びや雑用係に終始するも頭角を現すまでに時間は掛からず、 高校3年の秋には全日本に選出されるまでになった。 そして京都大学3年時にベルリンオリンピックに参加するのだが、このベルリンまでの旅路は大変なもので、東京からマルセイユまで実に38日間も船に揺られ、マルセイユから汽車で丸一日をかけて漸くベルリンにたどり着いたという。30日以上に及ぶ船旅の最中、バスケに少しでも触れておこうと考えた彼らは、船の甲板に仮設リングを作ってそこで練習したというから驚かされます。当時を物語るエピソードの一つですね。


波部久太郎 =1914年5月23日生まれ。=
田辺製薬が昭和23、24年に全日本実業団選手権で準優勝したときのメンバーで、 戦前には全日本でもプレイし、昭和10年5月に開催された「日米対抗籠球競技大会」に出場している。 このときの全日本メンバーは鹿子木健日子氏(ベルリン五輪出場、後に協会顧問)や牧山圭秀氏(後に協会理事長)ら錚々たる面々であった。
ちなみに、波部さんは驚くべきことに還暦を過ぎた昭和50年代まで関東実業団リーグ7部で現役としてプレイを続けていた。



西郡正三 =1917年生まれ。東京都出身。=
日本バスケ界の功労者にして、あの白洲次郎氏の秘書でもあった人物。 東京に生まれた西郡さんは東京市立第一中学校(現・都立九段高校)で全国大会優勝を経験し、 進学した慶応大学でもバスケットボール部で活躍。卒業後は日本冷蔵(現・ニチレイ)に入社する。 その後、縁あって経済同友会代表幹事で日本道路公団初代総裁の岸道三氏の秘書室長、そして白洲次郎氏の秘書を務めた。 その傍らで母校慶応大学の監督に就任すると、 昭和24年に名古屋で開催された記念すべき第一回インカレにおいて慶応を優勝に導き、見事大会3連覇の快挙を達成。 昭和26年にはオールジャパン初優勝を遂げている。 また、協会理事を11期に渡って務めて日本のバスケットボール発展に尽力した。


池田博 =1922年1月17日生まれ。東京都出身。身長175cm。=
千代田区立番町小学校6年よりバスケットボールを始め、 旧制の府立中学、東京大学工学部機械科、日本鋼管と進んだガードプレイヤー。 当時のバスケ界はFW、C、Gの3つにポジションが分かれており、その中でガードは攻撃と守備に役割が分かれていた。 一貫して攻撃的なガードを担った池田さんは、 その小柄で華奢な体格を補うべく常に自分のプレーを分析し研究していたそうで、 華麗なフェイクを駆使して得点を稼ぐ選手として知られていたという。 また、その頃日本ではシュートは両手で同時に放つものとされ、 片手で放つワンハンドシュートは正しくないとされていたが、 1948年(昭和23年)にハワイから来日した日系二世チームのプレイを協会関係者が目の当たりにしたことで、 初めて公に認められることになったようだ。


野口政勝 =1930年6月30日生まれ。宮崎県出身。=
日体大を卒業した後に中大杉並、中大付属、中大で指導にあたり、 ミュンヘン五輪得点王の谷口ら数多くの一流選手を育て上げた名将。 とりわけシューターの育成に力を注ぎ、日本バスケ界に多大なる功績を残した。 昭和5年に宮崎県で生まれた野口さんは元々は柔道家を志して中学では柔道部に所属していたが 戦争の影響で稽古着を用意できなくなってしまい、已むなくバレーボール部に一旦移った後、バスケットボール部に入部する。 全くの未経験であるがゆえに常識に捉われることがなかった野口さん。 入部当初から、その頃はまだ型破りであったワンハンドシュートの練習を独自に重ねて、 試行錯誤しながらシュート力を磨き上げていく。 来る日も来る日も練習に明け暮れていたとあって次第にシューターとしてチームの外角シュートを担う選手へと成長し、 小林中、小林高を経て進学した日体大では国体予選で1試合50得点を記録するなどチームにとって不可欠な存在として活躍した。 大学を卒業した後は教諭として中大杉並に奉職。 指導者となってからも外角のシュート力の向上を第一とし、 全体練習後に毎日1000本のシュート練習を課すなど徹底して厳しく育て上げた。 そうして彼の下から、東京五輪のエース江川(八幡製鉄)をはじめ、 東京五輪代表の梅(積水化学)、ミュンヘン五輪得点王で日本リーグ初代最優秀選手の谷口(日本鋼管)、 ミュンヘン五輪代表で第4回日本リーグベスト5の宗田(日本鋼管)など国際的に活躍する選手が巣立っていった。


細島繁 =1932年7月1日生まれ。栃木県出身。=
“ミスター・バスケットボール”諸山文彦を育てたことで知られる情熱の指導者。 教え子には他に、日本リーグ創設期の名選手であった第2回日本リーグベスト5の小宮(住友金属)、 第3回日本リーグベスト5の五十嵐(日本鋼管)、 ミュンヘン五輪出場の杣友(住友金属)などがいて、第一線で活躍した選手も数多い。 細島さんは真岡高校を経て日大に進み、大学では主将を務めている。現役時代のポジションは主にフォワードであった。 昭和31年に日大法学部を卒業すると日教販に就職。 勤務の傍ら選手としても活躍し、実業団9部に所属していたチームを2部に引き上げた実績を持つ。 昭和36年9月に日教販を退職、指導者の道を歩み始めると都立足立高、日大豊山高で指導にあたり、 両校ともインターハイに導くなど手腕を発揮した。 昭和40年に日大のコーチに就任し、その翌年には監督に昇格。 日大の各付属高へコーチを派遣するなどしてチームの中長期的な強化・育成に着手し、日大の黄金時代を築き上げた。
また、73年(昭和48年)の第7回ユニバーシアード・モスクワ大会、81年の第11回ユニバーシアード・ブカレスト大会では監督として日本代表を率いている。



糸山隆司 =1932年11月14日生まれ。兵庫県出身。身長195cm。=
昭和の一桁生まれでありながら195センチ、85キロという恵まれた体躯を誇り、約15年に渡って君臨し続けた日本初のビッグマン。 旧制・佐賀中学2年のときにバスケ部に入部し、佐賀西高、東京教育大と進んで大学卒業後は55年(昭和30年)から62年(昭和37年)まで日本鋼管でプレーした。 オリンピックはメルボルン、ローマの両大会に出場し、ローマ五輪では日本選手団の主将を務めたことで知られる。


奈良節雄 =1936年12月16日生まれ。身長176cm。=
日本のバスケットボール史上で唯一、オリンピックに3回出場した伝説のバスケットマン。 疎開先の秋田県鹿角郡小坂町の中学校でバスケットボールと出会い、神奈川県立川崎南高校、立教大学経済学部経営学科と進んだ後、日本鉱業に就職する。 スティールの達人として知られた奈良さんは並外れたバネの持ち主でもあり、 高校ではバスケのみならず、走り幅跳びや走り高跳びでも活躍して県の記録を持っているほどの選手だったそうです。 19歳でメルボルン五輪に出場すると、続くローマ五輪、そして主将を務めた64年の東京五輪まで、 オリンピック3大会に出場する偉業を達成した。引退後は日本鉱業金属加工営業部に勤務していた。


荒井洵哉 =1931年3月12日生まれ。長野県出身。身長187cm。=
長野県岡谷出身。 昭和20年代後半から30年代に活躍したセンタープレイヤーで、 センターとしては細身の体を多彩なシュートで補い、とりわけフックシュートを得意としていた。 旧制諏訪中学校から立教大学経済学部へと進み、 2年のときに戦後初の海外遠征となった第一回アジア大会(ニューデリー大会)の日本代表に学生として選ばれている。 大学での活躍も目覚ましく、 52年(昭和27年)にはリーグ戦、インカレ、オールジャパンを制して立教の戦後第一期黄金時代を築き上げた。 大学を卒業した後は三井生命に入社し、当時最強を誇った日本鋼管を相手に熱戦を繰り広げた。


松尾武司 =1931年12月2日生まれ。=
東京教育大学卒業後に日本鋼管でプレーし、56年、57年のオールジャパンで優勝を経験。 最終的なメンバー入りはならなかったものの、第2回アジア大会日本代表候補に選出された経験を持つ。 選手としても輝かしい実績を残した松尾さんですが、氏の経歴で最も興味深いのは現役を退いた後。 日本鋼管に勤務する傍らでレフェリーの道を進み、なんと64年の東京オリンピック決勝で笛を吹いています。


諸山文彦 =1943年8月14日生まれ。三重県出身。身長183cm。=
三重県立桑名高、日大を経て日本鋼管に入社。鋼管で日本リーグ4連覇の偉業を成し遂げた他、 全日本の一員として東京オリンピック、世界選手権(63年、67年)、 アジア選手権(65年、67年、69年)、アジア大会(66年)などに出場して多くの国際経験を積んだフォワード。 谷口や結城のような際立った個人技を持つ選手ではなかったが、チームプレイの中でフレキシブルに能力を発揮し、 “ミスター・バスケットボール”と呼ばれた。 バスケとの出会いは早く、小学生のときに仲の良いグループ全員でクラブ活動に参加し、 東橋北小学校から進んだ橋北中学では三重県大会の決勝に勝ち残るまでになっていた。 しかしながら当時の文彦少年はバスケに強い興味を示すまでには至らず、 練習の厳しさに辟易していたという。 そして高校進学を機として陸上部に入部。走り幅跳びと走り高跳びに取り組んだのだが、 陸上では思わしい結果は得られなかったそうな。 そんな折、中学時代に指導を受けたことがあるバスケ部の顧問から 「もう一度バスケ部をやってみないか」と誘われて1年の途中でバスケ部に転向し、 再びバスケットボールの道へ導かれることになる。 その後は、高校3年の12月に東京五輪に向けた強化策の一環として開催された強化合宿に召集されたのを皮切りに、 数多くの国際大会でプレーし、日本の顔として活躍を続けた。 73年(昭和48年)に現役を退いて日本鋼管津のコーチに就任し、76年には本家の日本鋼管でコーチとなった。


白取啓二 =1948年7月2日生まれ。身長185cm。=
九州学院高から進学した芝浦工業大でシューターとして大活躍し、卒業後に熊谷組へ入社。 日本リーグではリバウンダーとしてアグレッシブなプレイでチームに貢献した。 人間的にも周囲からの信頼が厚い方だったそうで、 79年(昭和54年)に現役を退いてからはマネージャーとして1年間チームに帯同したが、 この後に体調を崩してしまい、83年夏に病状が悪化。 入院して闘病生活を続けるも、84年1月30日の早朝、呼吸不全のため35歳の若さでお亡くなりになりました。 ご冥福をお祈り申し上げます。


青木崇 =1952年4月18日生まれ。静岡県出身。身長186cm。=
日本鉱業で主にシックスマンとして活躍し、日本代表でもプレイしたフォワード。 引退後は指導者として母校・早稲田大学の監督などを歴任した。 青木さんは静岡県熱海市の生まれで、4人兄弟の3番目。幼い頃から運動能力に恵まれ、瞬発力と跳躍力には並外れたものがあったという。 兄弟のうち3人が185cm前後の長身で、上の2人は立教大学のアメフト部で活躍し、 下の2人は早稲田大学に進んでバスケ部で活躍したというから大変に優秀なアスリート一家だったようだ。 青木さんは城山中学校では陸上部に所属し、走り高跳びで全国放送陸上大会の県1位になっている。 高校からはバスケットボールを本格的に始めようと決意して、強豪で知られる日大三島高校に進学する。 高校時代は一学年上の尾鷲邦男(187cm、F、1952年3月17日生、日大三島→日大→日本鉱業)との二枚看板で鳴らし、 2年のときに静岡県選抜(日大三島、浜松工の混成チーム)の一員として参加した長崎国体では、 山本浩二(175cm、G、1952年7月28日生、能代工→明大→日本鋼管)、三沢辰夫(178cm、G、1952年4月25日、能代工→日体大→熊谷組)、 小玉一人(193cm、C、1952年4月9日生、能代工→明大→新日鐵)らを擁する秋田を決勝で破り、見事優勝した。 その後は早稲田大学へ進み、入学当時は関東2部だったチームを1部昇格に導き、3年生になると日本代表の候補合宿に召集された。 4年生時には主将も務め、大学最後のインカレで2位となっている。 卒業後は日本鉱業に入社。 ルーキーイヤーから2年間は6番目の男としてチームを支え、社会人3年目の第12回日本リーグで大きな飛躍を遂げる。 それまで日本鉱業を牽引してきた阿部成章、高木彰の両名が抜けたこの年、 ガードの大槻と共に新生・日本鉱業を築くべく試行錯誤していく。 開幕当初は思うような結果を出せずにいたが、後期に入って快進撃を見せた日鉱はリーグ戦を2位で終える。 インサイドで力強さと跳躍力を活かして存在感を示した青木さんは、 チームトップとなる163得点(平均16.3点)を挙げて得点ランク6位に入り、初めて日本リーグのベスト5に選出された。 更には日本代表にも選ばれて、北京国際男子友好大会やケンタッキー大学招待試合に出場、 12月にはタイで開催された第8回アジア大会に参加した。 翌昭和54年度も引き続いて全日本強化選手のAチームに選出され、キリン・ワールド・バスケットボール(KWB)に出場。 そして、オリンピック出場を懸けた名古屋ABCのメンバー入りを果たした。 しかし不運にもABC開幕の3日前に左足を痛めてしまい、1試合も出場できずに大会を終えることに。 その後は日鉱の主将に任命され、昭和56年度のオールジャパンを最後に勇退を表明。 まだ20代だったが後進に道を譲る形でコートを去った。


桑田健秀 =1953年1月3日生まれ。東京都出身(出生は熊本県で1歳の時に東京に移住)。身長190cm。=
正確なシュート力と冷静かつ的確な判断力を武器に1970年代に活躍。シューティングガードからセンターまでをこなした。 慶応大学時代には谷口正朋氏が保持していた得点記録を塗り替えたことで知られ、 76年のモントリオール五輪では千種信雄氏の控えながら5試合に出場(総出場48分)して得点18、アシスト5、FG成功率35%、FT成功率50%の記録を残している。 桑田さんがバスケットボールを始めたのは大田区立馬込東中学校1年のときで、3年時には東京都大会で優勝を経験する。 高校は当初、強豪として名高かった中大付属を目指していたが周りの勧めもあって慶応高校に進学。 中学校入学当時は165センチと平均的であった身長も、この頃には187センチにまで達していた。 同時にシュート力も目に見えて上達していった桑田さんはすぐに中心選手となってチームを牽引し、 最上級生で迎えたインターハイでは、神奈川県大会決勝で相工大付(現・湘南工大付)を相手に1人で64点をあげ、 全国大会では慶応を2位に導いている。 また、全日本ジュニアに名を連ねるなど、その実力は誰もが認めるところとなっていた。 大学に進学してからも1年生で関東大学リーグ得点王、全日本候補選出と着実にステップを踏んでいく。 全日本での海外遠征経験は大きな糧となり、 更に力を伸ばした桑田さんは3年生で再びリーグの得点王に輝き、平均27.1得点を記録する。 これは谷口さんがそれまで保持していた記録(26.1得点)を更新する快挙であった。 昭和50年、慶応大学商学部を卒業し、名門・日本鋼管に入社。高校時代からライバルとして凌ぎを削ってきた同期の山本(能代工高→明大)、市川(中大付高→中大)とともに“鋼管の三羽烏”と呼ばれ、 30歳で現役を退くまでその期待に違わぬ活躍を見せたのだった。 ちなみに彼らのライバル関係を簡単に紐解くと、 桑田が高3のインターハイ決勝で敗れた相手が山本を擁する能代工で、その前年度のインターハイを制したのは市川の中大付。 桑田は3人の中で唯一優勝経験がなかったが、ナショナルチームに召集されたのは最も早かった。 大学時代は桑田と市川の2人で関東大学リーグ得点王のタイトルを2回ずつ分け合い、 山本は4年時にオールジャパンを制して昭和37年の立教大学以来12年ぶりの学生王者となっている。


常陸宮正仁親王 =1935年11月28日生まれ。=
昭和62年に日本バスケットボール協会総裁に就任。かつては学習院大の同好会でバスケットボールをプレーされて、住まいである常磐松御殿の庭にバスケットのゴールリングを設置するなど“バスケ愛好家の宮様”として知られる。また、三井生命で活躍した後にチームの部長を務めた石和俊夫氏とは学習院の同級生で当時からの友人らしく、バスケへの深い理解と愛情を持っているのも納得。


タケシ・ツツイ =生年月日不明。=
日本で生まれ育ち、中学校でバスケを習った後にアメリカへと渡る。 シューターとして名を馳せ、1948年にカリフォルニア州モントレーのアメリカ陸軍オールスターチームに選ばれている。


ジョージ・ゴトー =生年月日不明。=
40〜50年代にサクラメントの州チームや日系二世チームでプレーした日系人で、 現役を退いた後はSierra Collegeでアスレティックディレクター等を務めた人物。 1901年にサンフランシスコで刊行された日本人向けの新聞「北米時事」(後の日米タイムズ)にて1950年から受賞が始まった“スポーツ功労賞”を56年と83年に受賞している。


生井けい子 =1951年12月9日生まれ。栃木県出身。身長176cm。=
栃木市立東中2年のときにバスケと出会い、県内の名門・宇都宮女子商を経て日体大へ。 才能を認められて複数の実業団から誘いを受けるが、それを断り続けて母校のコーチとなり、 他の日本代表選手が高いレベルで練習を重ねる中、彼女は所属チームすら持たずに学生相手に練習をするという変り種として知られていた。 それでも75年の世界選手権で127得点をあげて日本準優勝の原動力となり、 MVPと得点王をダブル受賞。翌76年のモントリオール五輪では大会で最も小さい選手ながら5試合で102得点を稼いで世界選手権に続けての得点王となり、 2位のアメリカを破る快挙も演じた。そしてモントリオールオリンピック出場を最後に24歳で現役を引退。 何処までも自分の道を貫き、「忍者」と呼ばれたプレーそのままに颯爽と時代を駆け抜けていった。
最後に余談を1つ。 生井さんが世界選手権で得点王になった際、地元コロンビア・カリの子供達は背番号『8(スペイン語でocho)』を背負った彼女のプレーに熱狂し、 「オーチョ!オーチョ!」と呼び続けたそうな。



佐藤雅昭 =1953年5月27日生まれ。京都府出身。身長197cm。=
松下電器バレーボール部から同バスケットボール部に転部した変り種。 日本リーグの長い歴史を紐解いてもこのようなケースは極めて稀である。 佐藤さんは京都市立嘉楽中学校、京都府立朱雀高校を通じてバレーボール部で活躍し、卒業後松下電器に入社。 松下でもバレーボール部に所属し、富士フイルムの佐藤哲夫選手に次ぐ長身選手として注目を浴びたが、 伸び悩みと実業団の壁に苦しんでレギュラーに届かず、選手生活に見切りを付けてマネージャーに転身する。 そして197センチの大きな体を丸めて裏方として活動するようになった矢先のこと、 その体格を見込んだバスケットボール部の部長から声が掛かった。バスケに転向しないかとの誘いである。 思いもよらぬ話に途惑いながらもアスリートとしての血が騒いだのか、バレーボールからバスケットボールへの転向を決意し、 昭和50年の夏から52年度までバスケットボール部に籍を置いた。 とはいえ、素人同然の人間が名門チームで簡単にプレイできるはずもなく日本リーグやオールジャパンでは出場機会に恵まれなかったが、 京都招待バスケットボール大会(対京都学生選抜、京都府立体育館)など数試合に出場した。 ちなみに彼を誘ったバスケットボール部長というのは当時の松下電器労務担当取締役で日本バスケットボール協会の副会長・遊津孟(あそづ たけし)氏である。 遊津氏は明治43年生まれで大阪外語大卒(大阪外国語学校内教員養成所卒業)。 京都女子専門学校教授、大阪外国語大学講師、京都府・愛媛県保健体育課長を経て、昭和30年松下電器に入社し、 厚生部次長、理事等の職を経て労務担当取締役を務めた。長年、松下幸之助から直接薫陶を受けた人物でもあり、気さくな人柄であったという。


ジェローム・フリーマン =1949年12月16日生まれ。身長177cm。=
“黒豹”“フック”のニックネームで知られた日本リーグ時代のスーパー助っ人。
シカゴ・クレイン高校からハワイ大に進学したフリーマンは昭和46年4月、日米韓親善試合に参加したハワイ大学の一員として初来日。 黒豹のニックネームは、日本代表などと対戦して8戦8勝で終えた同大会での活躍によってつけられた。 大学卒業の際にはショーバスケットチーム「ハーレムグローブトロッターズ」から声が掛かったが、 これを蹴って74年(昭和49年)にハワイ松下に就職。海外研修生として来日し、日本のコートに立った。



ラリー・ジョンソン =1954年11月28日生まれ。=
1977年(昭和52年)のケンタッキー大学卒業時にはNBAにドラフトされたが、シカゴにある松下の合弁会社「クエーザー・エレクトロニクス・カンパニー」に入社。 彼もフリーマンと同様に研修で来日して松下電器でプレーし、日本リーグMVPに5度輝いた名選手です。 ちなみに松下ではステレオ事業部人事課に勤務していた。


橋本きみ子 =1953年2月17日生まれ。千葉県出身。身長166cm。=
昭和50年代前半に第一勧銀でエースで主将を務めたガード・フォワードで、 群を抜く運動能力と男勝りな気性の持ち主だったことから「ボク」というニックネームを持っていた。 橋本さんは幼少の頃からスポーツ万能で小学生のときは主に水泳、中学校ではバスケットボールと陸上で活躍し、 千葉市立新宿中バスケ部で3年生時に県大会3位の成績を残す一方で、 陸上部では走り高跳び、100m、砲丸投げの3種競技をこなすなど幅広く才能を発揮した。 高校は県立千葉商業高校に進学するが、当時の千葉商にはバスケ部が存在しなかった。 すると彼女は、既存の小さな同好会をクラブに昇格させる為に学校側に働きかけ、バスケットボール部を発足させる。 橋本さんは力強いドライブインやジャンプシュートで誕生したばかりのチームを引っ張り、 1年のインターハイでいきなり県予選ベスト8まで勝ち上がると、 2年目には関東大会出場、3年目にはインターハイ出場を果たす快進撃を見せ、 躍進の原動力たる橋本さん目当てに多くのスカウトが集まるようになった。 そうして高校を卒業後、日本リーグの第一勧銀に入社する。 社会人となって2年目には早くもオールジャパンの合宿に召集され、 全日本の一員としてモントリオール五輪や第7回世界選手権、第5回アジア選手権、第7回アジア大会に参加した。 モントリオール五輪では膝の故障もあって出場機会に恵まれず5試合合計で29分の出場に留まり、 得点4、アシスト7、FG成功率33%、4リバウンド(OR=1、DR=3)の不本意な成績に終わっている。 日本リーグでは第8回から3年連続でベスト5に輝き、昭和52年に現役を引退した。


福井美恵子 =1956年12月3日生まれ。滋賀県出身。身長184cm。=
日野町立必佐小→日野中→樟蔭東高→ユニチカ山崎。ニックネームは「ラン」。
19歳でモントリオールオリンピックに出場し、心不全のために23歳の若さで亡くなってしまった悲劇の選手、福井美恵子さん。 当時の女子バスケ界最長身選手として高校時代から注目されていた福井さんは、 三人姉妹の末っ子として滋賀県蒲生郡日野町で生まれ、小学校高学年になると身長は170センチを超えていたという。 進学した日野中学校ではお姉さんが入っていた卓球部への入部を考えていたが、周りに勧められてバレー部へと入部し、そのまま3年間を過ごす。 この間もスクスクと伸び続けた身長は中2で178センチ、中3になると180センチに達していた。 やはり他の御家族も大きいのかなと思いきや、お父さんの身長は160センチでお母さんが157センチ、 二人のお姉さん達も160センチと155センチのごくごく平均的な身長で、何故か彼女だけが大きくなってしまったそうな。 (ちなみに男子バスケ史上最長身の岡山恭崇氏も家族は標準サイズで、父は176センチ、母は156センチで、妹さんが163センチとのこと。岡山氏曰く、曾お爺さんが途轍もなく大きな人だったそうですが・・・真意の程は不明)。 福井さん自身は中学を卒業した後は洋裁学校に通おうと心に決めていたものの、 180センチ超の女子中学生を世間が放っておくはずもなく、バレーに限らない様々なスポーツの有名校から誘いを受け始める。 樟蔭東高校の原田茂監督もそんな中の一人で、滋賀まで足を伸ばして熱心に勧誘を続けたという。 当初は全ての誘いを頑なに断っていた福井さんだったが、原田監督の熱心さに打たれてバスケに青春を捧げることを決意して樟蔭東高に進学する。 原田監督の家に下宿しての高校生活は厳しいものだったことを後に吐露していますが、 樟蔭東高では総体&国体で優勝を経験し、74年12月にフィリピン・マニラで開催されたアジアジュニア選手権(原田氏がコーチ)にも出場した。 そして高校を卒業後はユニチカ山崎に入社。 ユニチカ入社と同時にナショナルチームにも選出され、19歳にしてモントリオール五輪メンバー入りを果たしたのだった。 五輪ではセンターの控えとして3試合に途中出場(計20分)して4得点、7リバウンド(OR=2、DR=5)を記録。 この五輪への出場を境にして飛躍的に力を伸ばし始めた彼女は、 79年にソウルで開催された第8回世界選手権で全8試合に出場して87得点、35リバウンドの活躍を見せた。 所属するユニチカでも第9回日本リーグで新人王に輝き、第11回大会では4年ぶりとなるリーグ優勝に大きく貢献して自身もベスト5に選ばれる。 そして第13回大会まで3年連続で日本リーグのベスト5に選出され、日本一のセンターしての道を歩み始めた矢先に不幸が待ち受けていた。
実は福井さんは幼少期から内臓に疾患を抱えており、病院通いを繰り返しながらも持ち前の努力で乗り越えてきましたが、 1980年(昭和55年)11月30日、心不全でお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈り致します。

余談ですが、原田茂氏はこの数年後にも、テニスで高校日本一になった松田多佳子さんという身長181センチの選手をスカウトして、 樟蔭東女短大に入学させることに成功しています。 松田さんは中学2年のときにテニスを始めてすぐに頭角を現し、海外遠征などを経験。 女子テニスの超名門・園田学園高(伊達公子や浅越しのぶの出身校)に進学した後は、 高2でインターハイのダブルスで全国制覇を成し遂げて、園田学園の団体優勝にも貢献したテニス界の有望選手でした。 他スポーツ出身でバスケ未経験の大型選手をスカウト、と福井さんのケースに似ていますね。 78年に樟蔭東女短大に入学した松田さんはバスケを始めて5ヵ月後にはインカレに出場しています。卒業後は日本リーグの東芝に入社し、2年間プレーした。



メアリー・キャサリン・オニール =1958年8月26日生まれ。身長180cm。=
10年ぶりに1部復帰を決めた東芝の助っ人として第14回日本リーグに参戦し、 日本リーグ女子初のアメリカ人選手となったCF。愛称は“キャッシー”。
テネシー大卒業時に当時存在した女子プロバスケットボールリーグ「WBL」のニューヨーク・スターズにピックアップされたが、これを断って昭和55年に東芝に入社した。
キャッシーが誘いを受けた「WBL(Women's Basketball League)」とは・・・
1978年6月20日に誕生した女子プロバスケットボールリーグで、創始者はビル・バーンという人物。 彼がスポーツ用品会社の「ウイルソン」のバックアップを取り付けることに成功し、 さらにテレビやラジオの放送契約を結び、自らが会長職に就いてリーグをスタートさせる。 1年目は14チーム編成で、同年12月9日に行われた「シカゴ・ハッスルvsミルウォーキー・ドウズ」の一戦を皮切りに、 計136ゲームのリーグ戦が開幕。26勝8敗の成績を収めたヒューストン・エンジェルスが初代女王に輝いた。 2年目には3ディビジョンの地区リーグに分かれたディビジョンリーグ制に移行し、 平均有料入場者も3000人を超えるなど女子プロリーグとして順調な歩みを続けるかに見えたが、現実は厳しかった。 興行面の不振から徐々に財政が行きづまり、 14チームに増えたチームが9チームに減ってしまうと、そのまま80-81シーズンを最後に消滅。
以後、アメリカの女子プロリーグは出来ては消え、出来ては消えを繰り返します。 その他の女子プロリーグでは、
LBA(Liberty Basketball Association)
90年3月に発足したリーグ。 ワンピース型のユニフォームを採用し、小さめのコート、10フィートよりも低いゴールリングなど、独自のアイデアやルールを用いた画期的な女子プロリーグであったが、2年目のシーズンを迎えられず消滅。
WPBA(The Women's Professional Basketball Association)
90年にリンダ・ボルガーが創設。 24名ずつの選手で構成された2チームのみで各地を転戦していたそうですが、消滅。
・・・などなど。これら幾つかの誕生と消滅を経て、ようやく97年にNBA傘下として創設された「WNBA」に辿りついたわけです。



ジャメル・シャンブリス =生年月日不明。身長188cm。=
75年にウィスコンシン大パークサイド校を卒業した後、欧州などでプレーした188センチのガード。 その後アメリカでサマーキャンプに参加しながらプロ入りを目指すも夢叶わず、 新たな所属先を求めて82年(昭和57年)に来日。各実業団チームにアピールしたが、既に30歳を目前にした彼に興味を示すチームは現れず、静かに日本を去って行った。


千種信雄 =1945年10月20日生まれ。=
住友金属でシューターとして鳴らし、ミュンヘン、モントリオールの両五輪に出場。日本リーグでは第9回と第11回大会でベスト5に選出されている。
75年に日本代表がポートランドに遠征した際にはチームで最も高い評価を受けて、 NBAポートランド・トレイルブレイザーズの関係者から「うちのチームでやってみないか」と誘われたとか。



張炳耀 =1958年12月1日生まれ。台湾出身。身長182cm=
昭和58年に日本リーグ2部の愛知機械でプレイした台湾からの助っ人選手。1シーズンのみの在籍だった。 張は幼少の頃からバスケットボールに親しみ、実力を伸ばす為に強豪として知られる台北の滬江高校に進学する。 正確なシュート力を武器にフォワードとして活躍し、高校卒業後は台北のNo1チーム・裕隆に入団する。 徴兵制度により二十歳から約2年の軍隊生活に入ると、 この間は軍隊のバスケットボールチームに所属して軍主催の大会に参加するなどした。 兵役を終えた張は裕隆に復帰し、83年(昭和58年)にはジョーンズカップの台湾代表(B代表)に選出されるまでになる。 そしてこの年、第17回日本リーグ2部で最下位に甘んじていた愛知機械工業に秋期リーグから加入することになった。 ちなみにこの年は11月にロス五輪予選を兼ねた香港ABCを控えていた為、春に短期のリーグ戦を消化しており、 秋期には1部リーグが全日本選手抜きで「強化リーグ」と銘打って開催され、2部は秋期日本リーグとして開催された。


谷口正朋 =1946年2月6日生まれ。東京都出身。=
香林小→九段中→中大杉並高→中央大→日本鋼管。
谷口さんの輝かしい経歴は誰もが知るところなので、ここでは隠れた逸話を1つ。
谷口正朋氏といえばサウスポーシューターとして世界的に名を馳せた方ですが、実は利き腕は右。 幼稚園の頃に右手に酷い火傷を負って長らく包帯生活が続いた為に、 治るまでしばらく左手で生活することになったとのこと。 しかし小学校入学に際して今度は左手に包帯を巻かれ、右利きに矯正されて現在に至っており、鉛筆や箸は右手で持つそうな。



大山春美 =1959年2月26日生まれ。兵庫県出身。身長172cm。=
度重なる怪我に見舞われながらも不屈の精神力で乗り越え、 主将として臨んだ82年(昭和57年)の第16回日本リーグでシャンソン化粧品を初優勝に導いたフォワードプレイヤー。 名門シャンソン化粧品の礎を築いた選手であり、この人なくして現在のシャンソンはなかったといっても過言ではありません。 大山さんがバスケを始めたのは、生まれ育った兵庫県尼崎市の小田南中学校に入学した後で、 友達と遊び感覚でプレーしているうち面白さに目覚めたという。 生まれ持った抜群のセンスと負けず嫌いな性格が相まってたちまち県内でも注目を集める存在となり、 高校進学に際しては複数の強豪校から声が掛かるまでになる。 進学した甲子園学院高では1年からスタメンで活躍し、3年連続で総体に出場する。 この頃には、全国区とは言わぬまでも県内外で広く名前が知られる存在となっていたが、 関係者の間では、まだ原石といった印象が強かったという。 そうした中で、とりわけ、大山さんを高く評価する人物がいた。
当時ユニチカ宇治でコーチを担っていた中川文一氏である。のちのシャンソン化粧品監督その人だ。 甲子園学院高がユニチカ宇治の合宿先を訪れた際、 高校2年生だった彼女のプレーを目にした中川氏は一遍にそのセンスに惚れ込んだ。 翌年。中川は日本リーグ2部に所属していたシャンソン化粧品の監督に就任すると見事に1年でチームを1部に昇格させ、 これを手土産に、満を持して大山さんをスカウトしたのだった。 そうして大山さんは高校を卒業した昭和52年の春、中川文一率いるシャンソン化粧品に入社する。 中川監督の下、1年目から出場機会に恵まれるが順風な社会人生活も長くは続かなかった。 2年目のシーズン開幕を前にして高校時代に負った膝の古傷が再発。次第に悪化してしまい、手術に踏み切ることとなった。 以後1年以上に及ぶ過酷なリハビリを余儀無くされるが、彼女は苦しい日々を乗り越えて復活を遂げる。 リハビリを通じて一回りも二回りも成長して帰ってきた大黒柱を得て、シャンソンは初の栄冠に向けて走り出す。 1部に昇格して数シーズンは上位に顔を出すことがなかったチームが56年には2位に躍進。大山さんは初のベスト5に選出される。 迎えた翌57年の第16回日本リーグ。遂にシャンソン化粧品は創部以来初の優勝を掴んだのだ。 MVPに選ばれたのは、キャプテン・大山春美だった。 大山さんはまさにプレイヤーとして絶頂期にさしかかろうとしていた。 しかし、そんな矢先にまたしても怪我が彼女を襲う。今度は左足の靭帯断裂である。 選手生命を危ぶまれる大怪我にも、 自身の悲願である日本リーグとオールジャパンの二冠達成を成し遂げる為に、執念で再びコートへと戻る。 そうして昭和58年、シャンソン化粧品は日本リーグとAJの二大タイトルを獲得し、 自らに課した使命を全うした大山さんはそのまま引退を決意。25歳で現役を退いた。



島野直幸 =1953年1月22日生まれ。神奈川県出身。身長173cm=
東芝バスケットボール部がまだ東芝小向と名乗っていた頃のスター選手であり、173センチの身長でダンクを決められる選手であった。 兄は元プロ野球選手の島野修である。 東芝小向は昭和46年に明治大学OBの日森共氏(1946年4月16日生)をコーチに迎えて強化を図り(日森氏はその2年後に監督就任)、 昭和50年2月8日〜13日に東京・代々木第二体育館ほかで行われた実業団リーグ入れ替え戦を兼ねた第7回全国実業団競技大会にて決勝リーグ2勝1敗で2位(優勝は東京海上)となって念願の実業団リーグ(のちの日本リーグ2部)入りを果たした。 そして全国実業団リーグ初参戦となった第5回大会では一時首位に立つなど快進撃を見せ、3位の好成績を残した。 このとき新人賞に輝いたのが、驚異的な跳躍力と多彩なオフェンスで観客を魅了した島野直幸であった。 島野さんがバスケットボールを始めたのは中学生になった頃のことで、高校は地元神奈川の横浜高校に進学し、引き続きバスケ部に入部する。 当時の横浜高は無名校で、173センチの彼がセンターを務めたというから身長の低いチームであったのだろう。関東大会でのBブロック決勝進出が最高の成績であった。 高校卒業後は日本大学に入学。1年時から1軍入りしたものの、その高い運動能力を生かせず、4年間の控え生活を経ての東芝入りであった。 東芝は島野が新人賞を獲得した第5回大会に続く第6回大会で見事実業団リーグを制し、 昭和51年12月3日から5日まで行われた日本リーグ入れ替え戦(対日本鉱業。東芝が敗れる)に進出するなど徐々にその存在感を高めていく。 現在の強豪チームとしての礎はこのようにして築かれていった。 島野は主力として昭和55年度までプレイし、昭和56年2月7日〜11日に行われた第13回全国実業団競技大会優勝を置き土産に現役を引退した。


高木寛治 =1958年4月26日生まれ。福岡県出身。=
日本で最も“ピュアシューター”という言葉が似合う選手の一人で、80年代には日本代表でも活躍した名選手。 幼少時代は運動が大の苦手で勉強が得意な少年だった彼は、小学2年のときに不慮の事故で目に怪我を負い、全ての物が二重三重に見えてしまう後遺症を背負っていた。 そんな経緯もあって宮竹小学校ではスポーツとは無縁でブラスバンド部に所属し、那珂中学校に進んだ後もブラスバンド部に入部したが、バスケ部の顧問に強く勧められてバスケ部へと転部したのが中学1年の2学期。 これが人生の転機となり、あっという間にシュートの面白さに取り付かれてしまう。 元来真面目で勤勉な性格ゆえ、ひたすらシュート練習に明け暮れる日々の過程でメキメキと技術が上達し、中3になると控え選手からスターターに定着、全中で県予選ベスト4に進出するなど充実した中学生活を送った。 勉強が出来た高木氏はバスケの練習に没頭しながらも、決して学業を疎かにはせず、高校は進学校として全国的に知られる県立筑紫丘高校へ。二度目の転機はここで訪れる。 学校の眼科検診の際に、ある眼科の権威を紹介して貰ったことで手術を決意し、2度に渡る手術の末に正常な視力を取り戻したのだ。 その後の活躍は周知の通りで、中大1年時に全日本ジュニアの一員として77年アジアジュニア選手権(クウェート大会)に参加、 三井生命入社後は新人王やフリースロー賞、そして日本リーグ初代スリーポイント賞に輝いた。


一松康徳 =1967年4月24日生まれ。兵庫県出身。身長200cm。=
昭和60年の第38回石川インターハイや第15回選抜優勝大会で大きな注目を集めた2メートル選手。姓の読みは「ひとつまつ」。 一松さんは昭和42年に兵庫県に生まれ、小学校5年生からバスケットボールを始めた。 中学校でも引き続きバスケ部に入部したが、当時は半分遊びのようなものだったという。 そんな彼が本格的にバスケを始めるようになったきっかけは、中学3年の5月に参加した招待試合「加計杯」で岡山理大附高のバスケ部を目にしたことだった。 その年(昭和57年)の理大附は鹿児島インターハイに出場したチームで、大型チームとして知られた。 既に身長が190センチに達していた一松さんはそのチームに強い魅力を感じ、卒業後、迷うことなく理大附へ進学した。 高校入学当初はフリースローも届かない状態であったというが日々の努力により次第に力をつけ始め、 2年生になると昭和59年度全国高校ブロック別選抜チーム集中強化合宿に招集され、その敢闘選手に選ばれるまでになる (ちなみに四国選抜チーム名簿には、のちの日本代表センター山崎昭史の名がある。当時は松山城南の1年生。身長は205cm)。 彼の成長に引っ張られるようにチームは勢いづき、 理大附は2月15日〜17日にかけ広島市において開催された春の選抜予選中国大会で見事初優勝を飾り、第15回選抜優勝大会への出場(7年ぶり2回目)を決めた。 選抜では1回戦で四日市工(73-76)に敗れたものの、一松は38得点を挙げる大活躍を見せ、 更に最上級生で迎えた第38回石川インターハイ(3年ぶり4回目の出場)では、1回戦・対高崎商(71-62)で31得点、 2回戦・対北陸(78-65)で23得点、3回戦・対京北(119-80)で22得点を記録した。 高校卒業後はチームメイトの大長敬弘と共に青山学院大学に進学。昭和61年第38回インカレ(全日本学生選手権大会)にて1年生ながら2試合に出場し、 予選トーナメント1回戦・対道都大(92-55)で10得点、3リバウンド、1アシストを記録、 2回戦・対京産大(54-61)で1リバウンドを記録したが、このシーズンを最後にチームを離れた。 さて、最後に参考までに、この頃の青学の主力選手を挙げてみると、 一松さんの同級生には広瀬昌也(183cm、GF、明大中野)、大長敬弘(180cm、GF、岡山理大附)、 一つ上に外山英明(194cm、CF、千葉敬愛)、中村佳文(203cm、C、相模工大附)、南木拓二(175cm、G、東海大浦安)、 二つ上に田中秀明(188cm、G、専修大附)、三つ上に金子泰丈(190cm、F、鎌倉)、そして、一つ下には山田雄一(194cm、CF、川越南)がいて、 第38回インカレ時はG田中、GF広瀬、F金子、CF外山、C中村が主力であった。 外山は説明不要として、広瀬は青学のコントロールタワーとして活躍し、卒業後は熊谷組へ、 また、田中は三井生命へ、中村はアンフィニ東京へそれぞれ入社し、日本リーグでプレイした。 山田は関東男子学生リーグでリバウンド王になりながらも卒業後は日本リーグチームの誘いを断って就職し、現役を退いた。 ついでに、この頃(昭和61年〜昭和64年・平成元年)に活躍した大学バスケ界の長身選手としては、 山崎昭史(210cm、京産大)、濱松久士(207cm、大商大)、石橋貴俊(204cm、北海学園大) 、 中村佳文(203cm、青学大)、勺紹利(200cm、中京大)、古川和彦(200cm、日本大)、日下部大次郎(200cm、同志社大)などが挙げられる。


木葉一総 =1956年7月5日生まれ。=
筑波大−筑波大大学院修士課程(コーチ学専攻)。
筑波大、日立那珂女子、鉾田二高で指導を行った後にJOC派遣により92年にスリランカナショナルチームのヘッドコーチに就任した経歴を持つ。現在はレフェリーをされています。



神谷テヨリ =1971年10月5日生まれ。沖縄県出身。身長186cm。=
鋭いカットインプレーを得意としていた沖縄市出身のG/F。 市立山内中学校で2、3年時に県大会ベスト16まで進み、 興南高校時代には関口、古田、天野らと共に全日本ジュニア候補メンバーに選ばれていた。 一時代を築いた1971年生まれ組の有望株の一人であったが、その後は候補から外れている。


金子ロナルド =生年月日不明。=
身長192センチのフォワードで相武中学校から相工大付高へと進学。佐古(北陸)や佐藤信長(能代工)らが出場した88年の神戸インターハイに神奈川代表として出場した。 卒業後は新日鐵に入社し、日本リーグ2部でプレイしていた。


サラ・L・フォリー =1968年11月1日生まれ。イギリス出身。身長200cm。=
日本リーグ女子史上唯一のイギリス人選手。1990年に日本リーグ2部の鷺宮製作所でプレイした。 サラは1968年、イギリス南部のポーツマスに生まれ、13歳からバスケットボールを始めた。 やがてNCAAのコーチにその才能を見込まれ、17歳のときにアメリカへ渡り、高校を経て、NCAA Division IのAtlantic Sun Conferenceに属するステットソン大学に入学。 4年生のときにはカンファレンス優勝を経験した。卒業後、日本リーグ2部の鷺宮製作所に加入し、第24回日本リーグではその高さを存分に生かし、チームの初優勝(14勝1敗)に大きく貢献。自身も優秀選手(ベスト5)に選出された。 しかし日本通運(1部12位)との入替戦では日通のペネファーザー(シェリー・ペネファーザー、188cm、C、ヴィラノバ大学出身、第21回大会では得点王となった日通の絶対的エース)相手に思うような活躍ができず、第1戦はペネファーザー30得点に対してわずか8得点、第2戦はペネファーザー26得点に対して19得点、第3戦はペネファーザー22得点に対して10得点に留まり、チームも通算1勝2敗という結果(60-80、79-66、56-57)に終わって日本リーグ1部昇格は果たせなかった。 サラはまだ23歳と若かったが、この1シーズン限りで現役を引退した。鷺宮のチームメイトによると、勤勉で真面目な性格であったという。


タミー・ジャクソン =1962年12月3日生まれ。フロリダ州出身。身長190cm。=
85年にフロリダ大を卒業してスウェーデンリーグのソルナやスペインリーグのC.D.Xuncasなどで活躍し、90年にシャンソン化粧品に入社。当時の日本リーグはシャンソンと日鉱共石の2強時代で、共石には91年に入社したクラレッサ・デービスというリーグ得点王に輝いた外国人選手がいたが、彼女が最も嫌がっていたのが、このタミー・ジャクソン。 中村和雄監督がマンツーマンでの対応を要求しても従わずに、終始ゾーンで通してしまったのだ。シャンソンに全勝優勝を許してしまった一因がここにあるわけですが、タミー・ジャクソンの実力を物語る逸話と言えるでしょう。


外山英明 =1967年3月13日生まれ。東京都出身。身長197cm。=
197cmの高さを感じさせないスピード溢れるカットイン、安定したシュート力。 長身選手の新しいプレイスタイルを確立し、個性的な髪形や日本初のプロ契約等、日本のバスケットボール界に新しい風を呼んだ先駆者・外山英明。
東京都墨田区で生まれ、幼稚園に上がる前に千葉県四街道へ引っ越した彼がバスケットボールを始めたのは中学1年生のとき。 本当はバレーボールをやりたかったそうだが、中学に女子バレー部しかなかった為、已む無く友人の誘いでバスケ部に入部。 当時は控えのガードで身長は169センチ。公式戦に出場する機会も殆ど無いままに中学生活を終える。 千葉敬愛高入学後はサッカーをやろうと考えていた外山。しかし、バスケットボールに導かれる運命にあるのか、またも別の友人に誘われるままにバスケ部へと入部する。 入部当初は、やはり控えで2軍チームのガードに甘んじていたが、2年生になった頃から急激に身長が伸び始める。 そして2年の新人戦で初めてスタメン入りし、3年生でスタメンに定着。インハイと国体を経験する。 青学大進学後は2年よりスタメンとなり、4年生時にはインカレ敢闘賞を受賞。卒業後、熊谷組へ。 熊谷組では海外本部海外管理部総務課に勤務する一方で、日本リーグ新人王(89年)やMVP(90年)、ベスト5(90、92、93年)に輝き、新時代の若きスターとして注目を集める。 94年、熊谷組の休部に伴って移籍した大和證券で嘱託契約選手になり、97年8月には日本人プロフェッショナル競技者第1号選手となった。 (ちなみに大和證券時代はアメリカのサマーリーグにも参戦している⇒こちら
プロ選手の増加や日本初のプロクラブチーム・新潟アルビレックスの誕生で様変わりしつつある近年の日本バスケ界ですが、 外山は誰よりも早い段階から「プロ」を強く意識していた選手でした。
熊谷組に在籍していた1993年当時の外山のインタビューから幾つかの“外山語録”を抜粋し、紹介します。

感動を与えるプレーヤーになりたい。もちろん技術的に高くなければなりません。 しかし、テクニックだけでは、なかなか感動にまでは至らないという感がするんですよ。 高度なテクニックに加えパフォーマンスも必要だと思うんです。だから、ただ巧ければ良い、強ければ良い、というものではない、と。

かつては‘演歌的’プレーヤーだったとするなら、‘ロック’のプレーをしたい。あるいは魅せたい。そうすることで観客にアピールし、それによって技術的に向上したい。

プレーヤーが楽しんで試合ができなければなりませんよね。僕はまず‘楽しもう’と思ってます。 自分が楽しめなければ、観衆だって楽しめるはずないでしょう。 だから誤解されようとも、スター意識は持つべきだと考えています。試合をしている意識、良いプレーをする意識、勝たなければいけない意識の中にも、見られている意識を常に敏感に持っていなければならないと僕は自分に言い聞かせています。 そうした自分を与えてくれている熊谷組って良いと思いません? 僕は熊谷組でプレーできることをとても幸せだと思ってるんです。

もっとスターが出てくるようにならなければいけないと思う。僕らは残念ながらオリンピックに出場できるまでに至っていない。 そんな実力でデカイことを言うと不快に思われる人もいるでしょう。 でも、‘井の中の蛙’でも良いと思ってるんです。それが全体の実力アップになれば、と。オリンピックは段階を踏んで出場したい。 僕の時代では無理ですけど・・・。

プロチームの誕生、その方向へ進んでいって貰いたいですね。プロチームができれば全体のレベルが必ず上がるはずですから。 僕が現役中にプロチームができて貰いたい。しかし無理ですね。僕が学生時代にプロチームができていたらと思うことがあるんですよ。 どんなに嬉しかったろうし、夢を膨らませたろうって。

僕が現役中ではプロとしてプレーするなんて考えられないことだけど、そのために尽力できればという思いは持っています。 もしプロ化の一助になれれば栄誉なことですから。

プロがオリンピックに出られるようになって(世界的に)関心が高まっているのに、僕たちはオリンピックにさえ出る力がない。 プロ化が夢ならオリンピック出場だって夢。夢を描けないから全日本の合宿に参加したくないというプレーヤーだっているんですからね。 これじゃ、レベルだって上がるはずがない。

ウチの監督が言うんですけど、全日本の選手として選んだからには、それなりの待遇でなければならない。 なのに、選んだだけの尊厳と自負を選手に与えていない、と。僕もそう思いますね。超一流のホテルに泊まらせろとは言いません。 金品を惜しみなく与えろとも言いません。しかし、僕らが全日本の選手であるという、それこそ尊厳を持たせるようにしてもらいたい。 それでいて精神主義的なことを言う。根性主義というか。 だから勝てない。待遇がよくないだけではないんです。高揚させる精神の支えがないということが問題なんですよね。 だから全日本に参加するよりは、所属するチームの為に頑張り、貢献したほうがいいと思うようになってしまう。 だって、そのほうが楽しいですからね。しかも個々が楽しめるバスケットを熊谷組はやらせてくれている。 僕は指揮しているんじゃないんです。楽しいバスケットをしたいからなんです。それで観客にも喜んでもらえるようなら、それでいい。

夢を見るのは辞めようと、一面で冷めたところはありましたけど、熊谷組というよりは自分の為に燃えてもいるんです。 悪気でなく、‘暗いヤツは大嫌い’と、この場で言えるのもバスケットで今ある人生を精一杯楽しみたいからなんです。

以上。当時の日本リーグでプロという言葉を頻繁に使っていたのは外山だけでしたね。



関口聡史 =1971年4月5日生まれ。埼玉県出身。身長206cm。=
206センチ、140キロの巨漢を生かした力強いリバウンドは今も強烈な印象を残している関口さん。 中学1年生で身長は既に2メートルに達していたというから驚きです。 彼がバスケを始めたのは中学校時代。荒川中学校に入学した当初はバレー部に入部したが、その後に友人の勧めで1年生の11月中旬にバスケ部へと移る。 所属の荒川中バスケ部は決して強いチームとは言えず県大会にも進めないレベルでしたが、 関口の名前は次第に全国の関係者が知るところとなり、高校は名門・能代工業へ。 能代工では長谷川誠と同期で、3年時に日本一を経験する。 進学した日大でも長谷川と共に1年からスターターとして活躍した後にトヨタへ入社。 トヨタ在籍時には日本代表でも活躍しましたが現在は第一線から退き、東京都のクラブチーム“ファミリー・テンス”に所属しています。


金子寛治 =1967年11月22日生まれ。東京都出身。身長193cm。=
能代工から筑波大、そしてNKKという王道中の王道を歩み、94年にはジョーンズカップと広島アジア大会で日本代表の主将を務めた。 外角シュートのほか、オフェンスリバウンドでも能力を発揮し、フォワードとしてもセカンドガードとしても一流の選手でした。 ちなみに筑波大ではバレーの中垣内祐一やサッカーの井原正巳&中山雅史と同期で、彼らと“全日本会”なるものを作って飲み会を開いていたそうです(笑)
現在は引退し、愛知の安城学園で教員をされてます。



高橋マイケル =1974年9月5日生まれ。東京都出身。身長198cm。=
アメリカ人の父と、高円寺の英会話学校で教師として働いていた日本人の母のもとに、東京都国分寺市で生まれる。 (マイケルの本籍は母親の出身地である福島ですが、マイケルが生まれたのは国分寺。) 母に連れられて3歳のときにアメリカ・ロスに移住し、中学までは水泳の選手として活躍していた。ラ・シェラ高校で本格的にバスケを始め、シアトル大(1年)→ロサンゼルスシティカレッジ(2年)→カリフォルニア州立大ノースリッジ校(3年)と進んで、95年(平成7年)にいすゞ自動車に入社した。 “日本語が話せない混血の青年”だった彼が日本に来たのは、幾つかの偶然が重なった為だった。 マイケルがジュニアカレッジでプレイしていた当時のコーチが偶々ドエン・ケーシー氏の友人だったことから、ケーシー氏が橋渡しをする形でいすゞの小浜監督に紹介され、カリフォルニア州立大ノースリッジ校在学中にいすゞ入りを果たしたのだ。ドエン・ケーシーは1957年4月17日生まれ、ケンタッキー大を卒業し同大学でAコーチなどを務めた人物で、79年に初来日。 各地でクリニックを繰り返した後に女子2部の積水化学ヘッドコーチに就任し、「1部なんて意識したこともなかった」という選手たちに基礎から徹底した指導を行って同チームを1部に昇格させ、1部リーグ最初の年に4位に導いた。 94年にNBAシアトル・スーパーソニックスのAコーチに就任したが、その後も男女日本代表の短期指導を初めとして日本バスケの為に力を注いでいる。


レビイ・ミドルブルックス =1966年2月4日生まれ。身長200cm。=
“レビィ”の愛称で知られた記憶に残る好選手で、個人的に大好きな選手でした。
高校時代にはカリフォルニア州の地区大会で準優勝の原動力となりオールアメリカンに選出、ペッパーダイン大ではWCACで3年連続リバウンド王(2〜4年)&リーグMVP(4年)に輝く。 大学を卒業した後はスペインやギリシャのリーグを渡り歩いて93年に来日、豊田通商に入団した。 体重115キロのブ厚い体でゴール下を制圧し、1年目から2位以下を大きく引き離して第27回日本リーグのリバウンド王を奪取した。 アノ愛嬌のあるゴリラ顔も旺盛なファイティングスピリットも強く印象に残ってます。



コーリー・ゲインズ =1965年6月1日生まれ。身長193cm。=
日本人の祖母を持つクォーターで、ミドルネームは泰斗(Corey Yasuto Gaines)。 ロヨラ・メリーマウント大から88年にシアトルにドラフトされてNBA入りし、ソニックス、ネッツ、シクサーズ、ナゲッツ、ニックスでプレー。 94年からは欧州に渡ってイタリアのペサロとヴェローナに在籍した。97-98シーズンには日本リーグのジャパンエナジーでプレーしている。