古流相撲(古代相撲)


本朝武芸事始

垂仁天皇七年七月七日

曲がった鈎を素手で伸ばすという大和の豪の者當摩蹶速(たいまのけはや) と出雲から来た勇士野見宿禰(のみのすくね)の一騎討ちの角力が天皇の御前で行われた。

いずれも天下に名を轟かせた力士である。その勝敗の行方は誰にも予測できない

向かいあって立った二人の間に緊張が走る。

次ぎの瞬間、二人はともに足を挙げて蹴り技を繰り出した。 交差する二人の体。

心技体に優る野見宿禰の必殺の蹴りが當摩蹶速のあばらを踏みくだいた。

もんどりうって倒れる當摩蹶速。

そのすきを逃さず野見宿禰はとどめの踏み蹴りを放ち、當摩蹶速の腰骨を踏みくじいて 殺した。

(原典「日本書紀」)





この古流相撲がもののふ達の間で鍛錬のために行われていたのは 間違いない。

頼朝はたいそう落ち込んでいた。それを元気づけるべく、武士たちが考えたのが「巻狩に連れ出すこと」だった。その宴会の中で、若い連中に相撲を取らせようという話になった。幾番となく取り進んでいくうちに、登場したのは俣野五郎景久。この男は「すまひの大番つとめに都へのぼり、三年のあひだすまひになれ、一度も不覚をとらぬものなり。其ゆへに院・内の御めにかゝり、日本一番の名をえたる」大物である。 31番を勝ち抜いた。しかしその行く手を阻まんものと、河津三郎祐泰が立ち上がった。河津は力一方で、技も何もない。いざ両人闘ってみると、河津は俣野の両腕を引っ掴み、そのまま捩じって膝を着かせてしまった。俣野は、「木の根に躓いた」とてもう一番挑んだが、今度は目よりも高く差し上げられ、そのまま叩きつけられてしまったのであった。<曾我物語>

建久二年    三月小 三日、辛亥、鶴丘宮の法会、童舞十人箱根の垂髪、有り、又臨時祭、馬長(あげうま)十騎、流鏑馬十六騎、相撲十六番、幕下御参宮…(巻十一)
 建永元年    六月小 二十一日、辛未、御所の南庭に於て相撲を覧る、相州、大官令等候せらる、南面の御簾を上ぐ、其後各庭の中央に進みて、勝負を決す、朝光之を奉行す、向後相撲の事を奉行す可き由と云々
 一番  三浦高井太郎   三毛大蔵三郎鎮西の住人
 二番  持波多野五郎義景   大野藤八
 三番  広瀬四郎助広相州の侍   石井次郎義盛の近臣の侍、
禄物有り、兼ねて廊根の妻戸の間に置かる、羽、色革、砂金等之を積む、事終りて後、左右に之を賜はる、勝負を論ぜず、悉く以て之を下さる、負方逐電すと雖も、之を召し返さると云々、(巻十八)
<吾妻鏡>

建長 6年(1254)閏 5月 1日、執権北条時頼が『近年、相撲などの武芸が廃れ』ていると慨歎し、武士を引っ張り出して相撲大会を催した

ここに武蔵国住人、綴党の大将に太郎、次郎とて二人あり。
ともに大力なりけるが、太郎は八十人が力あり、東国
無双の相撲の上手、四十八手の取手に暗からずと聞こゆ <源平盛衰記巻廿一小坪の戦の条>

この戦いに参加していた播磨国(はりまこく:兵庫県西部)住人の妻鹿孫三郎(めがまごさぶろう)という人は、薩摩氏長(さつまうじなが:注7)の子孫であり、力は人に勝れ、器量は世を越えていた。
(注7)古代の相撲の名人。
12歳の春の頃から好んで相撲を取り始め、ついには日本60余国の誰を相手に、たとえ片手で相撲をとったとしても決して負けないようなレベルにまで達してしまった。
<太平記>

承安4年7月
(1174) ■高倉天皇相撲天覧
この後、400年におよんだ相撲節会の典儀はまったく廃絶する。
安元2年12月
(1176) ■河津三郎と俣野五郎の相撲
元亀元年3月
(1570) ■織田信長上覧相撲
近江国常楽寺において相撲上覧。勝者宮居眼右衛門に与えた弓が弓取りの始まりと伝えられる。



そもそも我国における古き良き頃の合戦では正々堂々潔さを体現したじつに日本男児らしい 一騎討ちが行われていたものである。
この一騎討ちでは矢合わせ、太刀での斬りあいのあと組み討ちに至るのが一般的であったという。(「源平盛衰記」における藤平実光翁の証言より)
太平記巻第九には設楽五郎左衛門尉と斎藤玄基翁の馬上組み討ちが記されている。
その後、足軽等の出現等によりこの一騎討ちが廃れても日本の合戦においては組み討ちは 重要な戦法であったのである。
その理由は
一、盾を使わない戦い方
一、首狩りによる恩賞システム
に起因すると思われる。
このように我が国独特の合戦方法の中で組み討ちというのは重要な戦法の一つであったのである。

さて、この組み討ちのために武士の間で相撲が行われていたのはあきらかである。

「甲冑の戦いは十度に六、七度組み討に至ることは必定なり。」
「往古の武士の相撲を修行せしことここにあるなり。」
(木村柳悦守直撲「角力取組伝書」延享二年)

それではこの野見宿禰からの伝統を持つ古流相撲とは一体いかなるものであったのだろうか? 同じく「角力取組伝書」には慶長年間の相撲行司岩井播磨がこの古流相撲について語った 言葉が述べられている。

「近年、相撲に土俵というものを用い、あるいは膝をつき、指をつくを見て負けと定む。 かくの如きは古来あらざることにして、新法なり。 古法には、膝をつき、手をつき、尻腰など落ちても、詰まりをよく勝ち、敵を働かせざるを 勝とす。故に古来の四十八手のうち、反りの図にては尻腰などをつきたる者にて勝ちと なりたる例多く見えたり。畢竟相撲は組み討の一助たり。なお、また相撲の勝負詰めには、 組み伏せられては跳ね返して勝つ。これ遊興の芸にあらず」


古流相撲で当身が用いられていたのは野見宿禰の相撲の様子を見ればわかることであるが、 それがいつ頃までどのような形で用いられていたのかは定かではないが、江戸期の相撲 伝書には当身の急所が示されているものがあり、かなり遅い時期まで当身を用いた相撲 が行われていたとも考えられる。現在の相撲の張り手はこの当身の変化したものである。

このように土俵がなく寝技もありであった古流相撲には筋肉隆々の力士達が激しい戦いを 繰り広げていたのである。

その後、この相撲は現在の大相撲へと変化していくのであるが、一方では戦場での組み討ち技術 を残す柔術、鎧組み討ちとして武士の間で行われていき、伝承されてゆくことになったの である。
月光亭墨センの「写真学筆」の武芸十八種のうちに柔とは別に「鎧組」とあるのはまさにそれである。
また、幕末の「武芸立身館双六」には角力が武芸の中に数えられており、江戸期の武士が相撲を武芸として鍛錬していたことがわかる。

やがて柔術からは柔道、合気道、少林寺拳法、日本拳法などの各種武道が発展分化して現代に至るのである。 このように古流相撲とは現代の日本武道のまさに原点であると言えるのである。

古流相撲(古代相撲)
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相撲  柔術
     │
柔道、合気道、少林寺拳法、日本拳法


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