I LOVE SOFT TENNIS 開設1周年記念企画


我が郷土箕郷町が生んだ世界的なテニスプレイヤー
清 水 善 造 の 生 涯 
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じめに
 清水善造選手は我が箕郷町が生んだ世界的なテニスプレイヤーです。
 いま、テニスを愛好する多くの人々、特にこれからテニスを学んで行こうとする若い方々に、彼の素晴らしい生涯を知っていただきたいと考え、このページをつくりました。
 この記事と写真は群馬県立高崎高等学校創立百周年記念誌「翠巒の群像」に掲載されたものの再掲です。快く掲載を承諾してくださった高崎高等学校同窓会の役員の方々と、執筆された清水吉二様にこの場をお借りして深く感謝申し上げます。
                                   (平成12年12月/maru)

一  プロローグ

 1920年代、ウインブルドン庭球大会やデビスカップ杯争奪戦で大活躍し、世界の庭球界に大さな足跡を残した清水善造は、また数々の伝説を生む男でもあった。
 そのうち最も有名なのは、大正9年(1920)のウインブルドン大会挑戦者決定戦で米国のW・T・チルデンと対戦中、転倒したチルデンを見て彼が起き上がって打ち返せるような、ゆっくりとした球を送ってやったという話であろう。 この話は舞台を翌年のデ杯戦に変えられたりしながら、戦前、戦後の教科書に「スポーツマンの精神」、「美しい球」、「やわらかなボール」などの題名で度々載り、美談の典型として多くの人々の記憶に刻みこまれた。
 この話とは別に、彼の死後しばらくして 『朝日新聞』(昭和52年4月26日夕刊)は「清水氏はチルデンに勝っていた」という大見出しの記事を掲戴して、その死を悼んだ。
 それによると、1921年のデ杯決勝戦で再度チルデンと戦うことになった清水は7−5、6−4と2セットを連取。三セット目も5−4となったあと、マッチポイントをにぎった清水のサーブはエースとなってセンターラインをかすめ、敗れたと思ったチルデンは清水に握手を求めるためネットにかけよった。しかし、アジア人にデ杯を渡したくなかったネット・ジヤッジが「レット」(打球がネットに触れるとサーブをやり直す判定)と宣告したことにより再び清水のサーブで試合が続けられ、結局この一球を境に試合の流れがチルデンに傾き、清水は敗れたというのである。当日、ネット・ジャッジをつとめたC・N・フオーテスクの「告白」によるという「この記事を読んだ人々はますます清水の偉大さにうたれたのであった。

 この他、清水のスポーツマンシップにあふれた潔いプレーぶりや、当時、欧米での「シミー(清水の愛称)人気」を伝える逸話は数多く残されており、彼の単にスポーツ選手としてだけではない、人間としての優れた生き方は多くの人々の感動をいまだに誘う。それでは我々の大先輩、清水善造とはどんな人物であったのだろうか。
    
  デ杯決勝戦で再度チルデンと戦う清水(大正10年:1921 9月2日ニューヨーク郊外foresthillsにて)


二  善造少年の生い立ちと高崎中学入学

 清水善造は明治二十四年(一八九一)三月二十五日、清水孝次郎、デン夫妻の長男として群馬郡箕輪村西明屋(現箕郷町)で生まれた。身体は小さかったが、父親ゆずりの俊足と敏捷さで箕輪周辺の山中を走り回り、怪我一つしなかったという。メンコ遊びではメンコに独特の細工をほどこすことで戦利品としてのメンコが箱一杯になるほどだっ たし、蝉取りをすれば、蝉の習性を素早く見抜いて百発百 中の腕前を発揮する。ともかく機転のきく賢い少年として近隣でも目立った存在であった。
 地元の小学校で三年間学んだ後、教育熱心な父、孝次郎の計らいで隣村、久留馬村の高等小学校に進むことができた。この頃、清水家では僅かしかない田畑からの農業収入の補いとして乳牛を飼い、牛乳を販売して生計を立てていた。当時、牛乳はお金持ちか病人が薬として飲むくらいのものであったが、お得意先が増えるにしたがい清水家の牛乳だけでは不足するようになった。そこで善造が毎日、放課後、家から十キロ離れた高崎の問屋まで牛乳を取りにゆくのが日課となっていた。もっとも帰り道、飯塚の長泉寺で書道を習う楽しみもあった。
 さて、小学校同様、高等科でも抜群の成績だつたので先生たちは父親に善造の中学進学を強くすすめた。しかし、この頃、中学校へ進む者は村長や地主など金持ちの子供に限られており、僅かな耕地しかない上、子だくさんの清水家には無理な相談であった。それでも子供の教育に理解のある孝次郎は、善造の固い進学意欲と先生たちの熱意に動かされ、牛乳の販売代金の一部をまわせば、中学の授業料くらい何とかなるのではと考えるようになった。ただ、善造の中学進学には条件があった。牛の面倒から牛乳配達まで全て善造がひとりでやるなら中学へ行っても良いというのである。中学進学を夢見る彼が、この条件をのんだのは云うまでもない。
 明治三十六年(一九〇三)四月、第七回生として入学を許された善造は晴れて高中生となった。しかし、彼の中学生活は現代の我々にとっては考えられないほど苛酷なものであった。まずは登校前の乳しぼりと牛乳配達がある。地元の箕輪から始まって相馬、車郷、上郊、久留馬の村々を走り回ってから登校である。勿論、バスも自転車もない。二本の足に頼るだけである。上和田校舎まで、あちこち迂回しての距離は十五キロを下るまい。学校が終わると、道を逆にとって空きビンを回収しながら帰宅し、翌日牛に食べさせる草刈りをする。大きな籠が一杯になるまで腰をかがめ鎌を振るう。腰は痛くなり、手首はしびれて感覚がなくなる。ともかく、この日課が卒業までの五年間、一日として休むことなく続けられたのである。
 生来の俊敏さに加えて、足腰が鍛えられ、右手首が強くなって彼のテニスを支える基礎体力は、この苛酷な課業によって作られたといえよう。
 しかも、この往復三十キロに近い徒歩通学は彼の勉強の場でもあった。通学途中に英語の辞書一冊丸ごと暗記してしまい、高等商業の入試や三井物産での海外生活で大いに役立ったと云うから、記憶力もすぐれていたのであろう。
 ところで善造のテニスとの出合いであるが、これもやはり高中入学後のことである。日露戦争(明治三十七、八年)後の平和ムードに乗って群馬県でもテニスが急速に普及する。ただし、金のかかる硬式テニスではなく、簡単に楽しめる、いわゆる軟式、今のソフトテニスである。辛く厳しい生活にも漸く慣れた三年生の頃から、放課後のテニスを楽しむようになり、五年生の時には校友会誌『群馬』に、「庭球大会記事」「聯合庭球大会」の二つの原稿を署名入りで載せているから、主将格といったところまでテニスに打ち込んだものと思われる。
 とは云っても、彼のテニスは一風変わった独特なものだったという。普通、フォアハンドで打つ時は左足を前に出すものだが、彼の場合は右足が前に出る。しかも姿勢が低くて、へっぴり腰、ラケットをこねるようにして打つので見ている方は、なんて不格好なテニスかと思う。ところが彼の打つ球は正確に相手コートに返ってくる。長いラリーを続けるうちにいつしか相手がミスをしている。また、相手の弱点を見抜くのが早く、そこを巧みについて得点を重ねる。最初甘く見ていた相手は気がついてみると負けている。こんなテニスを彼はした。
 善造のテニスといえば、こんな話も伝わっている。当時、高中には「忠告」と称して下校途中、上級生が下級生に鉄拳制裁を加える野蛮な風潮があった。彼にも不良がかった上級生から「忠告」の予告があったが、彼はその上級生が待ちあぐねて引きあげるまでテニスの練習を続けて事なきを得、遂に一度も「忠告」を受けることはなかったという。臨機応変、機転のきく善造らしさがよく出た逸話である。
 卒業が近づくと、それぞれ進路先を決めなければならない。善造の希望は東京高等商業学校(現一橋大学)へ進学して商社マンとなり、外国人相手に商売をしたいというものであった。しかし、清水家の経済状態では、これ以上の進学は到底無理である。父親も、彼が高中を卒業すれば一家の中心となって働くものとばかり思っていたので大反対だったが、善造が東京高商へ入学できたら学資を出してもよいという人があらわれた。箕輪村の素封家、田中孫三郎がその人だった。田中は、高中生活五年間を無遅刻、無欠席で通し成績優秀な善造少年に郷党の希望を託してみたかったのであろう。明治四十一年(一九〇八)、この年の東京高商の受験生は二千人を超えたが、その中から選ばれた三百三十九人の合格者の中には清水善造も含まれていた。彼の夢は一歩実現に近づいたのである。

三  東京高商テニス部での活躍

 東京高商へ入学を許可された善造は、東京千駄ヶ谷で医療機械商を営む叔父、城田惣太郎方に下宿する事も決まり、愈々高商生としての生活が始まった。
 さて、東京のテニス界(これもまだ軟式)の王者は長い間、東京高商と東京高等師範学校(後の東京教育大学、現筑波大学) の両校であった。清水が東京高商へ入学した頃は、この二強の中に早稲田と慶応が割り込んで来て、高商、高師の覇権を脅かすようになっていた。それだけに多くのテニス部入部希望者は厳選され、十四名だけが入部を許されるきまりであった。善造も入部希望者の一人であったが、やっと十四番目に滑りこむことができた。それもテニスの技量ではなく、彼なら雑用を云いつけても、こまめに働くだろうという理由からである。
 入部してから彼の生活は明けても暮れてもテニス一筋、特に赤レンガ造りの講堂の壁にネットの高さの白線を引いて、壁に向かってボールを打つ練習を飽きずに続けた。煉瓦の角に当たった球はどちらに来るかわからない、それを咄嗟の判断で追いかけて打ち返す。また、煉瓦の一点に狙いをしぼって正確にそこに当たるように打つ。この清水の「壁打ち」も一橋テニス部の伝説となって残っている。
 勉強の方はどうしたかというと、山形出身の中村松助が農家育ちのよしみか親友となり、難しい講義ではノートを二冊ずつ作り、試験前に清水に一冊くれる。これが四年間続けられ、二人そろって三井物産に入社するのである。
 さて、記録として残る清水の初試合は二年生の時の対神戸高商戦であった。第三組の前衛(当時の対抗試合は全てダブルス) として出場した試合は清水組の楽勝に終わり、彼の堅実なプレーぶりは「清水は前衛として未だしなれど、その忠実なる、真価のテニスマンなり。君の将来は実に光明輝けり。自重せられよ」と『一橋会誌』に紹介されている。
 二年、三年と進むにつれ、「壁打ち」 の清水は高商チームにとって欠かせない選手となり、明治四十四年(一九一一)、最上級の四年生になった時には、遂に庭球部の主将に推される。この年の十月、これまで九連敗を続けた対慶応戦に高商チームは雪辱を遂げるが、稲毛正一郎と組んで大将戦に出場した清水の活躍を、やはり『一橋会誌』から紹介しよう。「最後の大将同士は、稲毛少しも当たらず、清水も抜かれて、第一ゲームは簡単に敗る。次いで清水大いに活躍し、スマッシュに得点し、稲毛のプレーシングこれに応じ、ゲームの進むにつれ清水のスマッシングは物凄く、しばしば敵の堅陣を突く妙技は一橋の花だった。かくて3−1で勝ち、往年の仇敵を屠るをえた」とある。

四  三井物産カルカッタ支店時代

 明治四十五年(一九一二)、東京高商を卒業した清水は希望どおり三井物産へ入社する。年号が大正と変わって九月、インドのカルカッタ支店勤務を命ぜられ、勇躍任地へ向かった。着任早々、彼は高商の先輩でもある支店長の阿部重兵衛に硬式テニスをやってみないかとすすめられる。三井物産は高級住宅街にある豪壮な屋敷を社宅として使っており、そこには本格的な芝のテニスコートがあった。高商を卒業して、もうテニスともお別れかと思っていた彼は喜んだ。球を打ってみると、軟式とそう変わらない。仕事を終えると、そのままコートにかけつけるテニス漬けの生活が再び始まった。
 彼が硬式テニスを始めてから三カ月後、大正二年(一九一三)の一月にカルカッタで第三十三回ベンガル州選手権大会が開催されることになった。明治十三年 (一八八〇)創始のこの大会は、インドが当時イギリスの植民地であった関係でテニス好きのイギリス人がいつも優勝をさらっていた。思いきって出場申し込みをした清水にとって、ローンテニスも初めてなら、シングルスで戦うのも初めてである。おそらく腕だめしのつもりであったろう。組み合わせが決まると、清水の一回戦の相手は優勝候補の筆頭であるイギリス軍人、キングスコート少佐である。会社の連中誰もが、これは駄目だと思ったに違いない。ところが大会が始まると、相手のキングスコートは指の負傷で棄権し、清水は労せずして二回戦に進出した。二回戦、三回戦と順調に勝ち進み、四回戦では前年度チャンピオンを破った清水は、準決勝でも英国選手を屠り、あれよあれよという間に決勝に進んでしまった。決勝の相手、英国のキヤロル選手にも3−6、6−4、6−4のスコアで勝った清水は、アジア人として初めてベンガルの覇者となり、新聞は終始笑顔を絶やさぬ彼のプレーぶりをほめたたえる記事を載せた。これで清水は一層カルカッタ上流社会の有名人になってしまったが、彼は一回戦、キングスコートの棄権という好運が勝利を呼び込んだことをずっと忘れなかった。
 翌年のベンガル選手権ではキングスコートに敗れはしたものの、大正四年(一九一五)から大正八年(一九一九)までの五年間、清水は常にベンガルの王者でありつづけた。 この間、大正六年(一九一七)にはイギリス経由で南米に出張し、商談をまとめる傍らブエノスアイレスで開かれた南米選手権に出場、ここでも優勝をさらっている。
           
           
 

五  ウィンブルドン大会での活躍

 さて、清水のカルカッタ生活も八年目を迎え、三井物産の内規では三、四カ月のまとまった休暇がとれることになっていた。彼はこの休暇をワールドチャンピオンシップ・オン・グラスといわれるほど権威のあるイギリスのウインブルドン大会やアントワープで開かれる予定のオリンピック大会、それに八月末の全米選手権大会の出場に使ってみたいと思い、阿部に代わって所長になつていた千田牟婁太郎に願い出た。やはり東京高商の先輩である千田は休暇などと云わず、ロンドン出張にしてやるから好きなだけテニスをやってこいと太っ腹なところをみせてくれた。早速、ベンガル州選手権優勝通算六回、南米選手権優勝の経歴書をつけてウインブルドン大会に申し込むと、出場許可は容易におりた。大正九年(一九二〇)四月、勇躍ロンドン目指してカルカッタを出発した。清水、二十九歳の時である。
 イギリスに着いた清水は六月のウインブルドン大会までの間、腕だめしを兼ねてあちこちのトーナメントに出場している。ノース・ロンドン大会で優勝した清水は、ケント選手権にも出場、カルカッタ時代の好敵手、キングスコートと決勝で顔を合わせた。軍務を離れて帰国していた彼は、この大会に二連勝しており、今度勝てば銀製の大カップは永久に彼のものになる筈であった。決勝戦が始まり、第一セットを清水は5−7で失い、第二セットも接戦となった。この時、突然豪雨がコートを襲った。役員たちは、翌日第二セットから再開することにしたが、清水は棄権を申し出、キングスコートの三連覇は達成された。ザ・タイムスをはじめ、多くの新聞は一斉に思いやりあふれる清水の行為を大々的に報じ、いつも微笑を絶やさぬ小柄な「ミスター・シミー」はカルカッタ同様、ロンドンでも人気者になった。 ウィンブルドン大会直前のクィーンズ・クラブでのトーナメントにも清水は出場し、後に深い友情で結ばれることになる大男のチルデンと対戦している。三メートル近い高さから弾丸のように飛んでくるチルデンのサーブは、時速二百四十キロを超え、さすがの清水もこれには歯が立たず、1−6、1−6のスコアで簡単に敗れている。しかし、この敗戦がウィンブルドンでのチルデンとの好勝負を生むのである。
 全英選手権保持者、パターソン(豪州)への挑戦権を懸けた百二十八人の男たちの闘い(オールカマーズ男子シングルス)は六月二十一日から始まった。ウインブルドン大会の開始である。以下、大会での清水の活躍ぶりを詳細に追求したノンフィクション作家、上前淳一郎の『やわらかなボール』(文春文庫版)から清水の試合の様子を要約して紹介しよう。現在、最も信頼できる「清水善造伝」は、この書を措いて他にないからである。
  一、二回戦を簡単に勝った清水は、三回戦、フランスの選手権者で優勝候補の一人、ゴベールと対戦、三対二の接戦のすえ彼を破る。四、五回戦もストレート勝ちした清水は準決勝に進出、強敵、地元イギリスのマブロゴルダトを三対一で破る金星をあげ、遂に決勝で再びチルデンとまみえることとなった。まさか小さなアジア人が、ここまで来るとは誰も予想していなかった。しかし、六月三十日の決勝戦、センターコートでチルデンと戦っているのは間違いなく清水なのである。強打のチルデン対粘りの清水、異色の対決はテニス・ファンの話題を呼び、続々と会場につめかけた観客はスタンドに入りきれず、多くの人々が立っての観戦となった。
 クィーンズ・クラブでの敗戦を教訓に、清水はチルデンの弱点をつき粘りにねばった。それでも、第一セット、4−6、第二セットも4−6とチルデンに取られ、いよいよ第三セットが始まった。チルデンのキャノン砲のようなサーブや弾丸ドライブに村し、清水は球速に押されながらも球に食いついてゆき、ドライブ、パス、ロブと変幻自在に打ち返した。5−2とリードした清水は、あと一ゲームで第三セットをものにするところまでチルデンを追い込んだが、チルデンも負けてはいない。5−5、6−6と盛り返し、逆に6−7とリードを奪い返した。第十四ゲームに入ると両者、長いラリーの応酬となり、観客は二人のプレーに酔いしれた。その時である。右コーナーヘ来た清水のドライブを追ったチルデンの足がもつれ、やっと打ち返したものの、その場に倒れてしまった。ふらふらっとネットを越えて来た球を清水はどう打ち返すか、一瞬迷った。左はがら空きだから、そこへ強い打球を送ればよいのだろうが、チルデンも当然その事は予想して起き上がりざま左へ走るだろう。だったら逆に相手の裏をかいてチルデンのいる右後方へ打ち返した方が効果的か。決断のつきかねぬまま打った清水のボールはチルデンのいる方、右後にゆっくりと飛んでいった。起き直ったチルデンが激しく打った球は清水のわきをすり抜けてゆき、長かったラリーはチルデンのものとなった。しかし、くよくよせず頭を素早く切り替えるのが清水の取り柄である。さあ来いと、再び身構えた清水の耳に観客の万雷のような拍手が聞こえてきた。チルデンも「清水、スタンドを見ろ」とラケットで指さしている。清水はよく分からないまま、ラケット振って観客の拍手に応えた。この情景から、例の教科書にまで載る清水美談が生まれるとは、彼自身思いもしなかっただろう。
 この後も両者の激闘は続き、結局もつれにもつれた第三セットは11−13でチルデンのものとなり、清水はストレートで敗れ去ったのである。しかし、翌日ザ・タイムズは「彼(清水)はしなやかにコートを走り回った。それは、私たちが見たこともない独特のコートカバーだった。とうてい届かないと思える球に不思議に追いつき、追いついたと見るや鮮やかに打ち返した」と勝ったチルデン以上に清水を讃え、他紙も「ミスター・シミー」の奮闘ぶりを驚嘆と讃美のうちに報道したので清水のロンドンでの名声はますます高まった。
 しかし、この清水人気もインドやイギリスなど外国での話で、日本での関心は極めて薄かった。もっとも、さすがに地元群馬の『上毛新聞』は六月上旬から清水のイギリスでの活躍や人気ぶりを、その経歴とともに写真入りで大きく載せていたが、『東京朝日』などの中央紙は、ウインブルドンでのチルデン戦も小さく載せる程度に止まった。日本庭球協会すらない当時、JOC(日本オリンピック協会)の認識不足は清水のオリンピック出場を認めなかった。この頃、アメリカで活躍していた慶応出の熊谷一弥(アントワープのオリンピック大会で日本人初の銀メダル獲得)と清水の同窓、柏尾誠一郎の二人で十分とみたからである。彼らの留守の間に全米選手権に出場することを潔しとしない清水は、そのままカルカッタへ帰ってしまった。
 この年の世界ランキングでは清水は九位にランクされた。勿論、日本人として初めてのベストテン入りである。 翌大正十年(一九二一)、清水や熊谷の活躍に刺激されて日本にも庭球協会が誕生し、アメリカのドワイト・デビスが作った銀製のカップを奪い合うデ杯戦に日本チームも初めて参加できることになった。三井本社の計らいでヨーロッパとアメリカへの出張を許された清水は、まずウインブルドン大会に再び出場するためロンドンへ向かった。
 ウインブルドンでの清水は昨年同様、大活躍し、準々決勝まで全ての試合をストレート勝ちした。清水の周りにはにサインを求める人垣ができた。真夏のような暑さとなった六月二十五日、準々決勝の相手はイギリスのライセットである。二対二の接戦となって試合は最終セットに入ったが、第四セットの頃からライセットは暑さを理由にしばしば長い休憩をとり、気付け薬と称してシャンパンを飲むなど身勝手な行動をとった。対する清水は、常に微笑をたたえながら相手がプレーに応じるまで、じつと立っていた。試合は三対二で清水の勝ちとなったが、人々はライセットの不遜さを非難し、清水のフェアな態度を激賞し、ますます清水の人気は高まった。
 準決勝、スペインのアロンゾ弟との試合も大きな話題を呼んだ。やはり二対二と接戦で迎えた最終セット、清水のセカンド・サーブにアロンゾなす術もなく、清水のポイントと思われたのに、どうしたわけか主審はなんの判定もしなかった。フォルトなのかエースなのか、判定がないと試合はすすめない。この時、清水はダブルフォルトだと云い、アロンゾは入っていたと云う。ラインズマンを呼んで協議した結果、清水の申告ビおりの判定となった。ところが、これを潔しとしないアロンゾは、次の清水のサーブをわざとネットに当て、自らポイントを捨てた。この二人の行為を翌日の新聞は大きく伝え、スポーツマン精神の華とたたえた。試合はこのセットをアロンゾが取り、二年連続、ウインブルドンでのチルデンとの対決はならなかった。

六  フォレストヒルズでのチルデンとの再戦

 七月上旬、デ杯戦参加のため清水はアメリカヘ向かった。ニューヨークに着いて、熊谷、柏尾と合流し、デ杯戦の日本チームが結成された。
 一、二回戦は相手チームが棄権し、準決勝の対インド戦は八月十五日、シカゴ郊外オウエンシア・クラブで行われ、清水、熊谷の日本チームは5−0で圧勝した。デ杯保持国、アメリカとの挑戦権を懸けた決勝戦が、八月二十三日からニューポートで始まったが、相手は一昨年のデ杯保持国オーストラリアである。誰もが日本不利とみた。しかし、結果はダブルスを落としただけでシングルスには全勝、4−1で日本は優勝してしまった。
 いよいよデ杯を争うアメリカとの直接対決が九月二日、真夏のような暑い日差しのもと、ニューヨーク郊外のフォレストヒルズで行われることになった。熊谷がジョンストンに0−3で敗れた後、この文章の冒頭、朝日新聞の記事で紹介した清水対チルデンの戦いとなるのである。
 しかし、朝日の記事が拠りどころとした「ソフトタッチよ、さようなら」(『ワールド・テニス』一九七三年五月号所収)は筆者のバッド・コリンズの完全な創作であり、ネット・ジャッジのフォーテスクなどという人物はそもそも存在しないことを、やはり上前洋一郎が『やわらかなボール』の中で明らかにしている。
 ただ、この試合で清水が一、二セットを連取し、第三セットも5−4でリードしていたことは事実だった。ところが、清水のちょっとした気のゆるみからチルデンを立ち直らせてしまい、このセットを5-7で落としてしまう。第三セットが終わって十分間の休憩に入った時、チルデンはシャワーを浴び、着替えをしているのに清水はそのままで第四セットを迎えた。清水にとって不運だったのは、この時、急に太陽がかげり、冷たい風が吹き出したことである。第四セットの途中で右足に痙攣を起こした清水は足を引きずりながら、何とか試合を続行したものの、第四セット、2-6、第五セットも1-6で失い、惜しくも敗れてしまう。
 しかし、世界一のチルデンを、あわやというところまで追いつめた小柄な清水を称賛する記事が翌日の新開に大きく載り、「ミスター・シミー」はアメリカでも人気者になっていった。アメリカ戦は結局、0-5の完敗で終わったが、デビスカップに日本チームの名前が刻み込まれたのは後にも先にも、この一回だけである。
一九二一年、清水の世界ランクは四位に上がっている。

        

大正10年9月2日、ニューヨーク郊外フォレストヒルズにおける
デビスカップ杯チャレンジ・ランドにてチルデン(右)と清水選手(左)



七  十年ぶりの帰国と結婚

 この年十月、清水は十年ぶりに故国の土を踏んだ。親孝行で義理堅い彼は両親はじめ家族や恩師、恩人に沢山の土産を持って箕輪に帰ってきたのである。母校、高崎中学にも十月十二日に訪れて講演し、テニスの実技指導を行った。
 この講演の中で、チルデンとの試合の様子も語られているが、後で教科書に載ることになる美談については一切ふれられていない。「自慢話ではありませんが」と断って話しているのは、前述したライセットとの試合の件である。
 試合後、英国庭球協会が正式に謝罪の意を表明したり、オーストラリア人が「清水を生みし日本国なるものは立派な国」に違いないから、日豪間にトラブルが起こつたら外相に掛け合って解決すると誓ってくれたりした事を紹介し、真のスポーツマンは国境を越えうるとスポーツを通しての国際親善の大切さを訴えている。
 最後に「何卒諸君は学問に運動に自己の最善を尽くして修養を積まれ狭くは日本国、広くは世界各国に村して、立派な日本人として恥ずかしからぬ人物となられ猶大和魂を通じてスポーツを研究すると同時に、他の方面に於ても此の精神を発揮して、他日世界に雄飛せられん事を希望して已まぬ次第であります」と講演を結んでいる。
 翌大正十一年(一九二二)一月、同級生の紹介で仙台出身の福島節子と結婚、すぐに新妻をつれてアメリカへ旅立った。本社勤務の予定が急にニューヨーク支店勤務に変わったからである。
 清水がアメリカに居ても、この年、日本はデ杯戦に棄権した。熊谷が引退したため清水一人では戦えなかったのである。

八  デビスカップ戦での清水主将

 日本がデ杯戦に再び登場するのは大正十二年(一九二三)からである。国際試合に通用する若い選手が育ってきた日本は清水を主将に、米国ゾーン(デ杯戦は、この年から欧州、米国両ゾーンに分けて行われるようになった)に出場する。
 清水主将の大活躍でカナダには完勝したが、オーストラリアに敗れ、カップ挑戦はならなかった。
 この年の九月一日、東京を中心に大きな被害をもたらした関東大震災が起こった。日本救援のため全米各地で義援金募集のテニス大会が開かれ、清水は勿論、彼の好敵手チルデンもこれに参加し、日本復興に大きく貢献した。
 以後、昭和二年(一九二七)のデ杯戦まで清水は日本チームの主将として、また若手選手のコーチ役として大活躍を続けた。

九  日本での生活

 一九二八年、三十七歳になった清水は家族とともに帰国、商社マン生活に戻る。翌年、二年前に設立されたばかりの三井生命に移った。テニスの清水の名はここでも大いに役立ったことだろう。昭和七年(一九三二)には大阪支店次長、昭和十年(一九三五)には神戸支店長と順調に昇進し、住まいも神戸に移した。
 翌年、すでにプロに転向し、世界を巡業して回っているチルデンが日本にやって来た。チルデンは忙しいスケジュールの合間をぬって神戸を訪れ、甲南高校コートで清水と心ゆくまでテニスを楽しんだ。
 昭和十六年(一九四一)、不幸な戦争が日本とアメリカの間で始まった年、五十歳になっていた清水は、中学三年の次男を肺結核で失った。そんな中、熱心なクリスチャンであった妻のすすめもあって尼崎のキリスト教会で彼は洗礼を受けた。受洗の銀杯は、一九二〇年、ウインブルドンでチルデンと戦った時に得た準優勝杯である。「鬼畜米英」、「アメリカを屠れ」と叫ばれていた戦争中、アメリカ人に情けをかけた軟弱な男、敵性宗教に改宗した男、清水への風当たりは強かったに違いない。
 戦争は昭和二十年(一九四五)、日本の敗戦で終わるが、この年、本社に戻り、料金部長、取締役と昇進した。しかし、後この取締役就任がたたって公職追放となり、三井生命を退社、昭和二十三年(一九四八)、家族とともに神戸に戻って貿易会社を経営する。この頃、すでに清水の頭髪は真っ白になっていた。
 清水が再びデ杯戦に監督として登場するのは昭和二十九年(一九五四) のことである。宮城、加茂兄弟らを率いてメキシコに渡った時、清水は六十三歳になっていた。試合は二対三でメキシコに惜敗するが、帰途アメリカに立ち寄り、前年、不遇のうちに亡くなったチルデンの墓参を果たした。
 帰国した清水は郷里、群馬を訪れ、十一月二十日には母校、高崎高校で講演、テニス部員の指導を行っている。講演で「若い諸君に言いたいのは充分に苦労していただきたいことだ。精神の集中、摂生、協力、一致ということを怠らないようにと私は確信をもって皆さんに贈る」と語った。
 これは、かつて実業界の巨人、渋沢栄一が「士魂商才」という言葉をつくつたことにあやかり、「士魂」を四コンに置き換えた清水流のテニス哲学を披露したものである。精神集中はコンセントレーンョン、協力はコンビネーション、それにボールのコントロールとゆるざない自信、つまりコンフィデンスの四コンである。 
 翌昭和三十年(一九五五)、高崎市の市営高松町コート(現在はない)で開かれた東日本庭球大会では清水善造杯が制定されたし、生まれ故郷の箕郷町でも昭和三十八年(一九六三)、第一回清水杯庭球大会が開催され、多くの町民がテニスを楽しむ、この大会は今も続いている。
 昭和四十年(一九六五)二月、七十四歳の清水は突然の脳内出血で倒れ、右半身不随の生活を余儀なくされるが、懸命なリハビリを続け、長女の嫁ぎ先、京都に移ってからは、御所外苑のテニスコート周辺を夫人とともに散歩できるまでに回復する。しかし、昭和五十二年(一九七七)四月十二日、神は清水を天に召した。享年八十六歳であった。


十  エピローグ

 冒頭で述べたチルデン戦での美談について、生前、清水自身はどう語っていたのだろうか。このことを聞かれると、彼は「もともと僕の球はゆるいからね。そんな風に見えることがあったかもしれない」と答えたという。真のスポーツマンなら常にベストを尽くすべきだ。転倒した相手に、わざとゆるい球を送る方がスポーツマン精神に反している。
 それでは何故こんな美談が生まれたのだろうか。美談の広まるきっかけは、昭和八年(一九三三)、三省堂から発行された文部省検定女学校教科書『新制女子国語読本』巻二に「スポーツマン精神」と題した文章が矢島鐘二の著名入りで載ったことによる。
 矢島は倉賀野の出身で清水より八歳年上、前橋中学から日本体操学校(現日本体育大学)を卒業、岡山や群馬の師範学校教諭となり、「矢島式体操」を考案、普及させた当時の体操界の著名なリーダーである。
 彼が兵津県の体育主事をしていた大正十三年(一九二四)、『スポーツマンの精神』という教科書に載ったものと同名の本を出している。その中の一章、五十頁近くを割いて清水を紹介しているが、美談は「美はしき球」として描かれた。教科書の文章は「美はしき球」そのままである。ただ、矢島によると、美談の舞台は一九二〇年のウインブルドン大会ではなく、翌年のデ杯戦となっており、チルデンは転倒したのではなく足を滑らせただけである。
 矢島は本の中で、清水の両親や兄弟と親しく交際していると語り、事実、清水から両親宛に送られた写真や手紙を幾つも紹介している。彼は一九二一年、郷里に帰った清水の話を直接、間接いずれにせよ聞いていることは間違いない。細部の記憶違いはどうあれ、矢島は手段をえらばず勝ちさえすれば良いという風潮の当時の日本スポーツ界に警告を発する意味で『スポーツマンの精神』を書いたのである。相手を野次り倒してでも勝とうとする日本とは、一味も二味も違う欧米のテニス界に接した清水も、その精神において矢島に共鳴するものがあったのであろう。
 しかし、やがて此の美談は矢島や清水の手を離れて一人歩きを始める。三省堂以外の出版社が発行する多くの教科書にも、武士道の精神を謳いあげる話として、此の美談がとりあげられる。清水は国威発揚の担い手として欧米で闘った英雄となり、日中戦争から太平洋戦争に向かって軍国主義一色に染まりつつある日本の「銃後の青少年」を育てあげる恰好の教材となってゆく。米英との戦争が始まる一九四一年以降は、敵のアメリカ人に塩を送るような、この話は一旦教科書から遠のくが、戦後再び蘇る。
 戦後の昭和二十三年(一九四八)、文部省が初めて編集した小学校五年生用教科書『国語』に、美談はデ杯戦での「やわらかなボール」として復活する。今度は「武士道の精神」を謳歌するためではなく、敗戦国日本の子供たちに日本人としての誇りを取り戻させるためだつた。翌年、民間の教科書会社が作ったものを文部省が検定する現在の制度に変わってからも、多くの会社が文部省版をそのまま転載したし、ウインブルドン説をとる光村図書刊、六年生用『小学新国語』も、「名選手のおもかげ」として美談を取り上げた。もっとも、美談の載った教科書が使われていたのは、日本経済の高度成長が始まる昭和三十五年(一九六〇)頃までで、経済大国日本が誕生するに至って美談を載せた教科書は姿を消す。心やさしい日本人に代わって、GNP世界一を誇る日本人がふえ、清水美談の必要性がなくなったからである。
 淡白で人がよく、そのくせ機を見るに敏な上州人の典型ともいえる清水の言動が、美談を一人歩きさせてしまった原因かもしれない。しかし、世界的テニスプレーヤー清水善造は一人しかいないし、ウインブルドン大会での事実も一つしかない。上前淳一郎の 『やわらかなボール』の解説を書いている女子テニス選手、佐藤直子も一九八四年十一月のナショナル・パナソニック・ウーマンズオープンのー回戦、柳昌子選手対デンマークのティナ・ラーセン選手との試合で「やわらかなボール」と全く同じハプニングが起きたのを見たという。テニスの世界では意図しないでも「やわらかなボール」が送られることを佐藤は証明しているのである。

 最後に、この文章を書くに際し、ほとんど全ての資料を福地豊樹群馬大学助教授から提供していただいたことを付記し、感謝したい。

(清水 吉二)


清水善造 略年譜

明治24年(1891) 3月25日 群馬郡箕輪村西明屋(現箕郷町)の農業父清水孝次郎・母デン夫妻の長男に生まれる。
   36年(1903) 第七回生として高崎中学校入学。
   41年(1908) 高崎中学横卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)入学。
   45年(1912) 東京高等商業学校卒業。三井物産入社。
大正元年      カルカッタ支店勤務。
    2年(1913) 硬式テニスのベンガル州選手権大会初優勝(大正4年以降、同選手権5連覇)。
   6年(1917)  同南米選手権大会優勝。
   9 年 (1920) ウインブルドン大会オールカマーズ決勝(現在の準決勝)で米国のチルデン選手に惜敗。
   10年(1921) デビスカップ戦決勝で熊谷一弥と組み米国チームに挑戦するが惜敗。
            十年ぶりに帰国し母校高崎・中学校で講演する。
   11 年(1922) 仙台出身の福島節子と結婚。
昭和2年(1927)  この年のデ杯代表選手を最後に長かった海外生活を終える。
   3年 (1928) 帰国し、商社員生活に戻る。
   4年 (1929) 三井物産退社。三井生命本社秘書役兼庶務課次長となる。
   7年 (1932) 三井生命大阪支店次長となる。
  11年 (1936) 来日したチルデン選手と再会、テニスを楽しむ。
  15年 (1940) 三井生命大阪支店長となる。
  16年(1941)  尼崎の教会でキリスト教の洗礼を受ける。
  20年 (1945) 三井生命本社に戻り、取締役となる。
  22年(1947)  三井生命取締役退任。
  23年(1948)  家族と共に神戸に移り、貿易会社を始める。
  29年 (1954) デ杯戦監督として加筏兄弟、宮城選手等を率いてメキシコ遠征。
           帰途、米国でチルデン選手の墓参を行う。帰国後、母校高崎高校で講演。
  30年(1955) 東日本庭球大会が高崎市営コートで開かれ、清水善造杯が制定される。
  38年(1963) 故郷箕郷町で第一回清水杯庭球大会が開催される。
  40年(1965) 脳内出血で右半身不随となる。
  52年(1977)4月12日逝去。

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