第八峰 瓜生山 (「比良山岳」2000年6月号より)

 瓜生山へは一乗寺山、詩仙堂の前を通って狸谷不動尊、そこから三十六童子の南を辿って登るのがメインです。狸谷不動尊からは30分程の距離です。標高は301m。

 狸谷不動尊の入口、野仏庵の並びに大きな不動尊がワラジと共に奉ってあります。これを越えるとアスファルト道ですが登りはきつくなります。途中、修行の滝や白竜弁財天、光明院を経て本堂へ行きます。階段の多い道です。
 自竜弁財天は木食上人が享保三年(1720)奉安したものです。木食上人は、五穀を断ち.肉食せず、火で料理したものを食べず、塩味を取らず、ソバ粉の水溶きを常食とし、寝具を用いず、寒暖法衣一枚で、日本国中を回って千体の仏を刻みました。ころころ丸々した像は、自ず微笑んでしまいます。京都八木・清源寺に奉られています。
 光明院は弘法大師ゆかりの地で「お砂ふみ霊場」がありました。コンクリートブロック1枚が一番さんです。発心門をくぐって88枚辿れば成就門です。途中に木食上人参籠の地や如来様、菩藤様が奉ってあります。

 本堂を越えると瓜生山まで、一番こんがら童子、二番せいたか童子と三十六童子が始まります。厄除坂も通ります。童子が山頂まで導いてくれます。家族連れが多いコースです.

 石川丈山墓を通るコースは静かな登山路です。これの登り口は金福寺から波切不動尊に向かうと木の行灯塔があり、そこで道は左・山道、正面・波切不動尊、右・丈山墓と分かれます。右の道を15分で丈山墓です。
 この墓石は、丈山が自分で用意した自然石を友人・野間三竹が墓誌名を刻んだもので、昭和3年1月、国の史跡として指定されています。これを更に登って行くと、自然岩に囲まれた窪地「白幽子厳居之跡・夜船閑話発祥之地」に出ます。この窪地は少し変わった雰囲気です。白幽子(はくゆうし)は石川丈山の友人で、江戸時代中期の書家です。
 「夜船閑話」は白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師が肺病に罹った白幽子を治癒した体験をもとにした名著といわれています。その治癒の秘法は「気を静めて足の土踏まずで呼吸したり、心身の中心をへその下(臍下丹田・せいかたんでん)あたりに置き大自然の動きに合わせて無理なく生きる」ことだそうです。難しいですね。
 ここを少し登ると、「清沢口石切場」の案内に出会います。この石切場は1万年前、北白川扇状地に住みついた縄文時代原始人の石斧等生活用品の採石場だったそうで、石部沢よもぎ谷、雲母坂でも採石されたとありました。現場は花崗岩が木々の中に高く聳えていました。
 ここを越えると、33番ふこうおう童子と出会い、山頂は直ぐそこです。

 北白川のバブテスト病院から登るコースもあります。「北白川史跡と自然の道」として整備が図られています。この道も30分位の道程です。少し入ると「大山祇神社」があり、更に10分程で「白幽子厳居之跡・夜船閑話発祥之地」に着き、後は前述のとおりです。
 一乗寺から近江へ向かう道として、白鳥越と今路越がありました。瓜生山からバブテスト病院に出る、この道が今路越と考えられています。白鳥越は比叡山の近くを回って坂本へ行く道です。

 北白川ラヂウム温泉から地蔵谷を経由するコースや曼殊院から登るコースもあります。
コースタイムは次のとおりでした。道標が完備されています。桜が満開の時に行きました。

@(北白川ラヂウム温泉コース)北白川仕伏町〜25分〜ラヂウム温泉〜15分〜一本杉との
分岐〜10分〜東山トレール〜10分〜見晴台〜10分〜瓜生山
A(曼珠院コース)曼殊院〜20分〜比叡山との分岐〜20分〜東山トレール(後は@)

 瓜生山は狸谷不動尊の奥之院で、お堂が奉られ、その裏に元将(勝)軍地蔵石室があります。ここには、かって、将軍地蔵が安置されていたのですが、宝暦12年、北白川門跡寺高院の忠誉法親王が、山路の険阻から第九峰・北白川山に移しました。

 山頂は少しの広がりをみせ、案内坂も立っています。そこには、将軍地蔵は延文六年(1361年)戦国大名・六角定頼が戦勝祈願して地蔵堂を建てたものが、後には痘瘡無難の守り神となったこと、併せて、瓜生山頂周辺には瓜生城(北白川城)が築かれ、足利将軍家と細川管領、三好良慶、松永久秀が激しく戦ったことが書かれていました。
 地蔵信仰となるお地蔵さんは古代インドに起源する神様です。それが仏教に取り入れられて地蔵菩薩となります。
 仏教では三千年程前にお釈迦さん(釈迦如来)が出現して民衆を救いましたが、お釈迦さんが入滅してから次の仏である弥勒菩薩が現れるまでの56億7千万年は無仏の世となって、社会は混乱する宿命を持っているとしています。それを救うのが地蔵菩薩です。
 この地蔵信仰は中国で整えられて発展し、奈良時代に我国に入ってきます。地蔵信仰が盛んになるのは平安中期以降です。鎌倉時代に入って、僧形で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵の形が決まりました。
 仏教には輪廻の考えがあります。人間の命は六道‥‥つまり地獄、餓鬼、畜生、修羅、人界、天国を回るのです。平安から鎌倉の末法社会において、お地蔵さんはこの世と地獄の境に立って、地獄へ落とされる者を救うことが出来るとされました。

 我国には古くから民間信仰の神仏として道祖神があります。道祖神は村境にあって疫病や悪霊を防ぎ、旅の安全を守り、縁結び、安産を願った民衆の神様です。
 お地蔵さんや道祖神は境(サヘ)の神として習合していきます。境(サヘ)の神・境神はサンスクリット語でシャグジと呼ばれ、漢字で「将軍」と当てられたことから、境神と習合した地蔵は「将軍地蔵」と呼ばれました。
 瓜生山の将(勝)軍地蔵は「戦国大名・六角定頼が戦勝祈願して……」と書かれており戦国大名としての気持は理解できますが、お地蔵さんとしては「……後には痘瘡無難の守り神となったこと・・」の方に重きがあったのではないでしょうか。

 末法社会では境の神・将軍地蔵として信仰されたお地蔵さんも南北朝・室町時代には更に深化して、子供の救済神として、子安地蔵、子育地蔵、子守地蔵と呼ばれるようになり子供にふさわしい形となり、赤いよだれ掛けをかける風習が広まりました。
 昔話と伝説の中で「笠地蔵」や「三途の川の賽の河原で石を積む子供」のお話を始めとして、生きとし生ける者に慈悲を注ぎ続けるお地蔵さんのお話は多く語り継がれています 江戸時代に入ると民衆は、慈悲深いお地蔵さんを現世利益の神として多彩な展開を遂げさせていった。中世の子育地蔵に加えて、長寿の延命地蔵、恋愛の文使(ふみづかい)地蔵、安産の腹帯地蔵、トゲを抜くとげ抜き地蔵、身代り地蔵等々となります。そして、今日に及んでいます。
 以前、読んだ本に「仏様で一番が如来様、次が菩薩様。地蔵菩薩は慈悲深く何時でも如来様になれるのに、いっまでも菩薩のままで、道の傍らに立って旅人の安全を祈っている通行人全員がその道を通過したら如来になるおつもり……」とありました。
 東海道や中山道、山陽道、九州道。淡路島や佐渡島、四国、各地の山々を漂白している私は、いつもこのお地蔵さんの心に慰められ、励まされています。

 恐竜たちが滅び、哺乳類の時代が始まった今から約6700万年前・・・、地下の深い所で出来たマグマが上がってき、そのために比叡山から大文字山までの地層は高くなりました。
 マグマが上がってきた時、地層にあった岩はホルンフェルスと呼ばれる非常に固い岩となりました。比叡山の将門岩もそれです。マグマは冷えて花崗岩となりました。
 比叡山、瓜生山、大文字山と連なる山は、永い年月、雨や谷の水などによって少しずつ浸食され、低くなっていきました。比叡山と大文字山はホルンフェルスが多く浸蝕は少なかったのですが、真中にある瓜生山はマグマが押し上げた時は一番高かったにも拘らず、ホルンフェルスの層が薄く浸食され、又、その下にある花崗岩はポロポロになりやすいのでドンドン削られて低くなっていきました。
 この後、西日本全体の山地を集った褶曲作用や花折断層の出現(2000万年前)により、いくつもの谷が出来、現在のような形となりました。
 比叡山、瓜生山、大文字山と連なる山は、こういう経過を辿って、今、優雅な姿を見せてくれています。
 比叡山から大文字山まで、音羽川、一乗寺川、白川とあります。各河川は風化の早い花崗岩の山地に源を発し、砂礫化した花崗岩を盆地低部に運搬し、いわゆる「北白川扇状地」を造りました。この扇状地は、修学院から吉田山までの広がりを見せ、そこに、京都盆地の湖沼湿地から人が住める乾燥した土地を造っていきました。
 昭和31年、京都大学の果樹園から二つの小さなナイフ形の石器が発見されたことに端を発し、修学院離宮の宅地造成の現場や一乗寺向畑町、北白川小倉町、別当町そして最古のものとして縄文人の土器が北白川上終町で発見されています。

 最古の京都人の先人達は「北白川扇状地」の高台に住んで、背後の山々で狩猟生活をしていたと考えられていますが、気候の温暖化に伴う植物の繁茂は豊かな生活を保障するものとして、扇状地の奥地から緩斜面の広野へと生活の舞台を変えさせ、又、上賀茂あたりまで人の広がりを見せていった。
 気候の変化に伴う食料危機等により離合集散を繰り返しますが、瀬戸内海沿岸の文化圏とも接触を持ちながら京都の先人はしたたかに生き抜いてきました。
 瓜生山は我々を生み出し、育ててくれた山でした。
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