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★極東ヘビー級選手権★


極東ヘビー級王者 大木金太郎

1963年12月15日、力道山が急死した後、力道山の正当な後継者であることにこだわる大木金太郎は
”力道山襲名”を要請するが日本プロレス協会の某幹部の反対により断念。「せめて力道山先生ゆかりの
インターナショナルアジアのシングルベルトを形見として貰いたい」と熱心にアプローチ。しかし、これも
レスラー達の強い反発にあい、日本プロレス首脳部は「力道山の保持していたシングル・タイトルは故人
の偉業を称えて一代限りとする」という見解で大木を説得。日本で”第2の力道山”になる夢を断たれた大
木は1964年秋にアメリカ遠征に出発し、そのまま日本プロレス首脳陣の再三のシリーズ参加要請に対し
て韓国に腰を据えたまま1年半以上も日本のマットに上がる事はなかった。ついに根負けした吉村道明、
芳の里淳三らは1965年8月、極東ヘビー級王座のベルトを持って韓国の大木の元を訪れた。「インター
アジアの両シングルは譲れないが、その代わりに新たに極東ヘビー級王者を名乗って韓国のプロレス界
のトップに立って頑張って貰いたい」というメッセージと共に大木は極東ヘビー級のチャンピオン・ベルトを
贈られた。そして芳の里との王座決定戦に勝ち、初代王者となったのである。その後、韓国で防衛を続け
1966年12月16日、台東氏体育館での力道山4回忌追善試合で日本で初の極東ヘビー級の防衛戦を
行うが、13日前のインターナショナル選手権(王者ジャイアント馬場−フリッツ・フォン・エリック戦)が日本
武道館に14000人の観衆を集めたのにくらべ、客の入りもバラバラで盛上がりに欠けてしまった。これに
対して大木は「やはり、ベルトはメジャーな物でなければ駄目だ。こんな何の価値もない極東ヘビー級おベ
ルトなんか捨てて、俺はもっと上のタイトルを狙う」と王座返上。以後、このベルトは日本でも韓国でも、2度
と陽の目を見る事はなかった。その後、大木は1967年に韓国でWWA世界王者となるが、日本に持ち帰
る前に王座転落。1972年12月4日にはインターナショナル王者にもなったが、それでも最後までメジャー
なチャンピオンにはなれなかった。                                          

NO CHAMPION DATE LOCATION
大木金太郎
   王座決定戦=芳の里
   防○=カール・カールソン(1965.12)
   防○=リッパー・コリンズ(1965.12)
   防○=ジョー・スカルパ(1966.3)
   防○=キラー・カール・コックス(1966.7)
   防○=ターザン・ゾロ(ハンス・モーター)(1966.12.16)
※1966年12月、王座返上。
1965年8月11日 韓国・ソウル

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