ナックルボールのページ


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−その歴史を簡単に−

●一体、誰がこの魔球を発明したのか、どうもはっきりしない。しかし最初にメジャーで投げたのはエディ・シコッティといわれている。1919年の”ブラックソックス”事件で球界から追放されたメンバーに入っている、あのシコッティだ。この投手は、1908年にはすでにナックルを実戦に投入していたそうだが、投球の割合としてはほとんど「つまみ」程度だったそうだ。いわゆる投球のほとんどがナックルボールというスタイルでメジャーに登場し、名前を残した最初の投手としては、エミル・レナードが有名で、現在まで脈々と続く魔球の歴史は、この人が開祖と言ってもいいのではないだろうか。1933年から53年までのプロ生活のうち、37年までは普通の投手だったレナードは、肩を壊してマイナーに落ち、この時にナックルを体得してメジャーに復活してきた。そして52年にメジャーに昇格したホイト・ウィルヘルムが、72年までの21シーズンの長きに渡ってナックラーの牙城を堅守した。64年にフィル・ニークロが登場、68年から本格的にナックラーとしてローテに組み込まれると、70年代は弟のジョー・ニークロ、チャーリー・ハフらによってメジャーに複数のナッ クラーが存在するという恐らく初めての黄金時代を迎える。87年にフィルが引退、衰えていくハフに代わるようにキャンディオッティが登場、90年代に入ってウェイクフィールドが新たに加わって、現在に至っている。一時絶滅の危機が叫ばれたナックラーは、決して本流にはならないが、息絶えることもない、まるでナックルボールの描く軌跡のように、その歴史もまた細く、蛇行を続けながら、今日も我々の目の前で投げ続けられている、ということになる。

−ナックルボールとは−

●この球を投げるには、他のどの変化球にもないテクニックが必要だ。
まず、手首は全く使わない。固定したまま腕の振りとはじき出す指の力だけでボールを18.44M先のホームベースに向けて放つ。爪をボールの縫い目に立て、ボールに回転を与えないように投げると、ボールは空気から受ける抵抗によって、予期出来ない変化をする。原理は下から空気が吹き出すろうとにボールを置いた時、空気はろうととボールの隙間から抜けようとするが、この時のボールの縫い目の位置等の状態によって吹き出す出口が変化し、ボールは小刻みにろうとの中で動くことになる。この現象がマウンドからホームベースの間で起きれば、それがナックルボールになる言われている。こう書けば簡単だが、回転を与えないように、というこの唯一のポイントを会得するために多大な努力を必要とする。少しでも回転すると、その回転による変化が始まり、それはすなわち打者にとっては見慣れた変化球(もしくは単なる遅い球)となって痛打される。また回転しないボールがバットの真芯で捉えられた時、インパクトで与えられるスピンの影響をまともに受けて、打球は他の球種の時よりも飛距離が伸びると言われている。回転しないことは、諸刃の刃、という言い方もできるのだ。

−握りの研究−

●3本指型●
御大フィル・ニークロをはじめとし、
球速80キロ前後で投げられるナッ
クルはこの握りから投じられる。
3本の指を立てるので、弾く指の力
を有効に使える反面、コントロール
をつけるのは至難の技。
ただし、これぞナックルという変化に
はこの握りが必要不可欠。
●2本指型●
立てる指は2本、残りの3本の
指でボールを支持するこの握り
は、コントロールがつけやすく、
球速も稼げるのでカウントをとり
たい時に使われる。
しかし回転がかかりやすく、ダ
イナミックな変化は期待できな
い。
●ウェイクフィールド型●
長く変化の無かったナックルボールの
歴史に新たなページを刻んだ、現レッ
ドソックスのティム・ウェイクフィールド
が生んだオリジナル技。3本指+親指
の4点支持という不安定な握りは、回
転させないことを意識した末の発案と
思われる。かなりの握力が必要で、後
継者が現れる可能性は低そうだ。

ナックルボーラー列伝@ エミル・レナード Emil ”Dutch” Leonard

●投球の9割はナックル、というスタイルを確立したパイオニア、エミル・レナードは1909年3月生まれ、メジャー昇格はブルックリン・ドジャース時代の1933年で、24才の時ということになる。メジャー2年目に14勝をあげて頭角を現すが、この時に肩を壊してしまい、以降2年間を鳴かず飛ばずのまま過ごすことになってしまう。1937年はサザン・アソシエーションに送られてメジャーでの登板記録はない。しかし、このマイナー時代にレナードは魔球ナックルの体得に賭け、1938年にセネタースに移籍、ここから長いナックルボーラー生活が始まることになる。
レナードの特徴はバツグンのコントロールにあると言われている。投球の大部分をナックル、カウントが悪くなるとカーブ、ストレートを投げていたということだが、セネタース時代の9年間では1試合あたりの与四球1.9個という記録を残しており、これはストレート主体の投手でもなかなか実現するのは難しい。通算の四球数737という数字もコントロールのよさを証明するには十分なものだ。その部分も買われたのか、1950年からはリリーフ専門となり引退を迎えている。レナードの功績はナックルボールを”遊び”としていた当時のメジャーの見方を変える活躍を見せたことで、1949年にニークロの父親がレナードの投球を見、息子のフィルにその投げ方を教え、また当時高校生だったホイト・ウィルヘルムもナックルの習得を決意したという。後に続くナックラーにそのきっかけと道筋を残したことは賞賛されるべき功績と言えるだろう。ナックラーの宿命とも言える弱いチームで投げる悲哀も、やはりレナードからの”伝統”。37年を除く20年間でチームがAクラスになったのはたったの3回、もちろんポストシーズンでの投球は1度もない。通算成績191勝181敗、オールス ター選出5回、しかし登板は1回、記録だけを見ればこれといって特筆すべきものはないに等しいが、ナックルボールの歴史を語る上では決して忘れてはならない投手である。
年度 チーム 勝利 敗戦 防御率 投球回
1933 ドジャース 2.93 40回
1934 ドジャース 14 11 3.28 183回
1935 ドジャース 3.92 137回
1936 ドジャース 3.66 32回
1937 (マイナー)
1938 セネタース 12 15 3.43 223回
1939 セネタース 20 3.54 269回
1940 セネタース 14 19 3.49 289回
1941 セネタース 18 13 3.45 256回
1942 セネタース 4.11 35回
1943 セネタース 11 13 3.28 219回
1944 セネタース 14 14 3.06 229回
1945 セネタース 17 2.13 216回
1946 セネタース 10 10 3.56 161回
1947 フィリーズ 17 12 2.68 235回
1948 フィリーズ 12 17 2.51 225回
1949 カブス 16 4.15 180回
1950 カブス 3.77 74回
1951 カブス 10 2.64 81回
1952 カブス 2.16 66回
1953 カブス 4.60 62回

ナックルボーラー列伝A ホイト・ウィルヘルム HoytWilhelm

●ナックラーの歴史で中興の祖と言えるのがホイト・ウィルヘルムであろう。ノース・カロライナの高校で投げていた時(多分1940年頃)、エミル・レナードの活躍を新聞で知ってナックルの習得を決めたウィルヘルムだが、その技をメジャーで披露するまでには、この時から12年間も待たなければならなかった。第二次世界大戦に出征、マイナー生活も長く、ジャイアンツでメジャーのマウンドを踏んだのは1952年のことで、年齢はすでに28才になっていた。しかし、この年いきなり71試合を投げて15勝3敗11セーブを記録、しかもすべてリリーフでの登板だったのだからすごい。72年までの21シーズンで登板した試合数は1070、98年にデニス・エカーズリーが1071試合登板を果たして記録は破られたが、エカーズリーは24シーズンで到達しているので、ウィルヘルムの方が登板密度は濃いと言えよう。ちなみに40才の1964年のシーズンには自己最多の73試合、44才の68年には72試合登板もやってのけている。さすがナックラーは故障知らずの長持ち。
ウィルヘルムのナックルはその鋭い変化でしばしば話題を提供をしている。例えば1958年に解雇されたインディアンスを離れ、オリオールズに拾われた時、トリアンドス捕手がウィルヘルムのナックルを捕球できず、翌年の59年にはなんとパスボール49個を記録させるに至って、当時のポール・リチャーズ監督はたまらずウィルヘルム用の特大ミットを作らせた。通称”ピーチ・バスケット”と呼ばれるこのミットは、これ以降ナックラーが登板する試合の必需品となっており、キャンディオッティは自分でそれをあつらえて、自分が登板するときにはそのミットを捕手に使ってもらっている。
58年〜61年、そして63年には先発に転向して52試合に投げているウィルヘルムは、1958年9月20日の対ヤンキース戦でノーヒッターを達成している。この年のヤンキースはミッキー・マントル、ヨギ・ベラら錚々たる顔ぶれが並ぶ最強の打線を誇っていたが、8三振、2四球と全く手が出ず、最後の打者バウアーは、何とかしてノーヒッターを免れようとプライドをかなぐり捨ててバントヒットを狙ったが失敗、というおまけまでついている。晩年のホワイトソックス時代には5年連続防御率1点台、40才を過ぎてから54勝47敗129セーブという記録も驚異的だ。72年、49才になったところで引退したウィルヘルムは、ナックラーとして初めての殿堂入りも果たしている。





年度 チーム 試合 勝利 敗戦 セーブ 防御率 投球回
1952 ジャイアンツ 71 15 11 2.43 159回1/3
1953 ジャイアンツ 68 15 3.04 145回
1954 ジャイアンツ 57 12 2.10 111回1/3
1955 ジャイアンツ 59 3.93 103回
1956 ジャイアンツ 64 3.83 89回1/3
1957 カージナルス/インディアンス 42 12 4.14 58回2/3
1958 インディアンス/オリオールズ 39 10 2.34 131回
1959 オリオールズ 32 15 11 2.19 226回
1960 オリオールズ 41 11 3.31 147回
1961 オリオールズ 51 18 2.30 109回2/3
1962 オリオールズ 52 10 15 1.94 93回
1963 ホワイトソックス 55 21 2.64 136回1/3
1964 ホワイトソックス 73 12 21 1.99 131回1/3
1965 ホワイトソックス 66 20 1.81 144回
1966 オワイトソックス 46 1.66 81回1/3
1967 ホワイトソックス 49 12 1.31 89回
1968 ホワイトソックス 72 12 1.73 93回2/3
1969 エンジェルス/ブレーブス 52 14 2.20 77回2/3
1970 ブレーブス/カブス 53 13 3.40 82回
1971 ブレーブス/ドジャース 12 2.70 20回
1972 ドジャース 16 4.62 25回1/3
通算 1070 143 122 227 2.52 2254回

ナックルボーラー列伝Bティム・ウェイクフィールド TimWakefield

●現役ナックラーの中で、98年の勝ち頭と言えばレッドソックスのティム・ウェイクフィールドということになる。ペドロ・マルティネス、ブレッド・セーバーヘーゲンと不動の先発3本柱としてローテを守り、結局17勝8敗という見事な成績を残してチームのワイルド・カード獲得に貢献した。今、まさに絶頂期を謳歌しているように見えるウェイクフィールドだが、ここまでの道のりはナックラーの先達同様平坦ではなかった。
ウェイクフィールドは88年のドラフト8巡目にパイレーツから指名を受けてプロ入り。フロリダ工科大時代には1塁手だったが、マイナーでナックラーとして投手に転向した変わり種だ。92年にメジャーに昇格を果たしてシーズン終盤の2ヶ月はローテーションの一角に食い込んで、8勝1敗、防御率2.15の快進撃。プレイオフでの登板も経験して活躍が期待された93年、地元ピッツバーグではシンデレラボーイの登場に沸き立ち、なんと開幕投手にまで指名されるが、前年とは別人のような不振に陥って6勝11敗、7月にはマイナー落ちとなってしまった。94年はシーズンすべてを3A級バッファローで過ごしたが、ここでも5勝15敗、最多敗戦、最多与四球、最多与死球、最多被本塁打、最多失点でリーグ逆五冠王と目を覆うばかりの有り様。年を越し、ストライキが明ける頃には解雇を言い渡されている。しかしレッドソックスが救いの手を差し伸べて2A級ポータケットに行くと、ここで4試合に登板、2勝1敗と復調の兆しを見せた。一方この頃のレッドソックスは大黒柱のクレメンスが肩痛で先発陣はまさに火の車、これを受けて5月の終わりにウェイクフィールドはメジャーに昇 格、エンジェルス戦で勝利をすると、2試合連続完封を含む10勝1敗という驚異的な数字で一気に先発の中心に踊りだし、一時はサイ・ヤング賞最右翼とまで噂された。もしこの年に選出されていれば、ナックラーとしては初めて、そして史上初の前年マイナーの投手が受賞という恐らく最初で最後のシーンが見られたかもしれないが、結局終わって見れば16勝8敗、サイ・ヤング賞の投票では3位に甘んじることになってしまった。
この時のウェイクフィールドの復活については、御大にしてナックラー界の重鎮フィル・ニークロの助言があったと言われている。学生の頃から投手をしていたわけではないウェイクフィールドは、マウンドでのメンタリティについて経験が少なく、またコントロールの難しいナックルボールしか勝負球がない為に、コントロールを重視しようとするあまり神経質になって、結果制球を乱すという悪循環に陥ることが欠点で(あったが、この若きナックルボールの継承者に対してニークロは「ただ打者に向けて投げる」というナックラーの極意を伝授、ここからウェイクフィールドは立ち直るきっかけを得たそうだ。
ウェイクフィールドはナックルボールを投げることについて「ナックルボールに、そしてそれをコンスタントに投げられることに夢中なだけ。練習だけが完璧な結果をもたらし、ナックルボールを投げ続け、ボールを回転させないことだけに集中するのみ」と話している。このシンプルにして達観した彼の心意気は、フェンウェイのマウンドに立つ姿からも十分感じ取ることが出来る。4年連続二桁勝利を継続中、寿命の長いナックラーであるウェイクフィールドはまだ32才で、残された時間はまだまだ溢れるほど残っている。師匠ニークロの318勝に追いつくことだって、不可能ではないのだ。
年度 試合 勝利 敗戦 セーブ 防御率 三振 投球回
92 13 2.15 51 92回
93 24 11 5.61 59 128回1/3
94 マイナー
95 27 16 2.95 119 195回1/3
96 32 14 13 5.14 140 211回2/3
97 37 12 15 4.25 151 210回1/3
98 36 17 4.58 146 216回

ナックルボーラー列伝C スティーブ・スパークス Steve Sparks

●98年、エンジェルスのローテーションに組み込まれ、あれよあれよという間に9勝を挙げたスパークスだったが、実は1965年生まれで今年34才、すでにベテランの域に達している投手なのである。1987年にブリュワーズからドラフト5巡目で指名を受け、パイオニア・リーグのヘレナでプロのキャリアをスタートさせたスパークスは、最初からナックラーだったわけではない。しかしベロイト、ストックトン、エルパソとマイナー生活を続けても、なかなか2A級から上にいけない状態が続き、91年に投手コーチの薦めでナックルボールに活路を見出すことを決めた。が、問題だったのは師匠が身の回りにいなかったことで、独学で習得することに限界を感じたスパークスは、当時の監督の紹介でキャンディオッティに電話をかけ、ここで初めて投げ方、心構えを伝授される。キャンディオッティやウェイクフィールドがフィル・ニークロを師匠としている第二世代とすれば、スパークスはさしずめナックラー第三世代という風情である。しかし、いかにキャンディオッティに弟子入りを果たしたといっても、そう簡単に結果が出せるほどこの道もまた甘くなく、スパークスは94年までマイナ ー生活を続けることになる。しかし95年にようやくブリュワーズでメジャー昇格。この年33試合に登板したスパークスは最初の登板で7回まで無失点に押える好投を見せ、結局シーズンでは202イニングスを投げて9勝11敗という記録を残し、ア・リーグでもっとも多くダブルプレイをとった投手にもなっている。96年も11試合を2A級ニューオリンズで投げた後再昇格、20試合で4勝7敗とチーム力を考えればそこそこの結果を出した。しかし、97年に入るについて、ブリュワーズはスパークスの制球難を問題視(ナックラーにコントロールを求める方もどうかと思うが...)、その上キャンプ中に右肘を傷めてしまい、1年間を棒に振ることになってしまった。明けて98年、FAになったスパークスはマイナー契約でエンジェルスに拾われて、選手生活を再開。しかし、2A級ミドランドで0勝4敗、3A級ヴァンクーバーでも同じく0勝4敗と勝ち星を挙げられない苦しいシーズンを送ることになったが、この3Aでの4試合で防御率が2.89だったことが好評価を得たのか、ケン・ヒルが故障で離脱した6月中旬にメジャーに昇格、ここから22試合に登板して9勝4敗と、故障者 続出で崩壊に向かっていたエンジェルス投手陣を救う存在になった。99年に入ってエンジェルスは先発投手が不足することを見越して、スパークスと1年間の契約延長を決定した。エンジェルスは97年にデニス・スプリンガーを起用しており、3年間で2人のナックラーを雇う、当コーナーから見るとなかなか味のある人事を行なっている。今年、師匠のキャンディオッティと投げ合うシーンが見られるかどうかにも、注目したいところだ。
年度 試合 勝利 敗戦 セーブ 防御率 三振 投球回
95 33 11 4.99 96 202回
96 20 7.08 21 88回2/3
97 投球なし
98 22 4.34 90 128回2/3