尼崎市

尼崎競艇の誕生

誕生までの経過

阪本元市長の着想(阪本勝著随筆集「市長の手帳から」)

 どまんなかに十万坪の大湿地帯がある都市が日本中にあるだろうか。そのあり得べからざることが事実あった。尼崎市においてである。人家の密集しているどまんなかに、しかも阪神電車の線路に沿って何十年来大湿地帯が大あぐらをかいている。丈余の葦が密生し不潔な汚水がどんよりたまりむなしく蚊の温床となってきた。ここに発生する何億の蚊群が風に吹かれて全市にちらばり、おかげで年久しく「尼蚊崎」の英名をとどろかせてきたのである。
 歴代の市町村長はこれを如何ともできなかった。なぜなら尼崎という平原にもっとも不足しているものは実に「土」そのものであって、昔から埋立事業は至難のことに属していた。お隣の西宮や芦屋の山から土を運搬して来ては経費の面からとうてい算盤にあわない。といって市内の工場から出る廃物を当てにしていてはその量極めて少なく、とても大規模な埋立はできない。かような事情で何とかしなければならぬと知りながら永年放置せられてきたのである。市長に就任するなり一つこいつに手をつけてやろうと腹を決めた。歴代市長にできなかったことをしてやろうと野心を起こした。ところがどう考えてもいい手がない。私はつくづく土というものの貴さを知った。ところがまことに不思議な巡り合わせで私がかく苦慮を続けているうちに国会では議員提案のモーターボート競走法が審議せられ通過は必至とみられていた。事実をいうと私は始めから湿地帯と競艇とを結びあわせて考えていたわけではない。モーターボート競走法が国会を通過して法律となったときも全然問題にしていていなかった。従って競艇に関する何らの知識もなかった。ただ、この法律の発案者が熱海選出の代議士で熱海の海岸と沖合はるかの初島との間のボートを走らせる構想から出発したものだと聞いていたから使用のボートはかなり大型のもので相当の波浪に堪えるものだろうと想像していた。だから西宮の香櫨園海岸を競艇場にする計画を耳にしたとき、あそこなら立派にやれるだろう、いい思いつきだと至極簡単に考えていた。ところが何かの機会に競艇用のボートは非常に小さいものでちょっとした波にもひっくりかえる、とても海で走れる代物ではないということを聞いた。だんだん調べてみるとなるほどボートはごく小さく底も浅く熱海初島間を走るなんてとんでもないことであることがわかった。
 さらに研究してみると沼か池こそ理想的であって波浪のある海や潮の干満や流れのある川尻は駄目だという見当がついてきた。してみると伊丹の昆陽池などはどうかなあ−とまでは考えたが大きな池のない尼崎で競艇をやるなどとは毛頭考えなかった。ところが着想というものは夏の大空に突然雲が湧くように人間の頭の中に忽然と出現するものである。あるとき上京して宿舎でごろりと寝ていたとき、あの大湿地帯を掘って大池を造りその土砂で十万坪を埋め立ててはどうだろうという考えがふと浮雲のように頭に浮かんだ。みるみるうちに雲は大きくなり入道雲となり忽ちにして積乱雲に発展した。やや興奮した私は同行の商工課長松井君に私の構想を話した。市長やりましょうときた。とたんに機関車は走り出した。

競艇場の誘致

 昭和26年6月、市は戦災復興の財源を確保するためオートレース場の誘致を計画したが膨大な費用を要するので計画を断念した。明けて27年2月兵庫県下でモーターボート競走場の誘致が話題になり兵庫県が県下の地方自治体の長を集め協議した。競艇場の誘致については西宮市が積極的に運動し、すでに運輸省に認可申請書を提出し誘致内定寸前までこぎつけていたが、この席当時の事業課長松井唯一氏が尼崎市大庄地区に競艇場を誘致したいとはじめて立候補の意思表示を行った。そこで西宮、尼崎の競願となり県会総務委員会でもこの問題が熱心に討議されたが結論は容易に出なかった。しかし誘致については尼崎は西宮より出遅れたが人口密度が高く大都市大阪に隣接し、しかも阪神電車の駅のすぐ近くに競艇場が設置できるという地の利、池であるので波浪がなく天候に左右されないという有利な条件があったので専門家筋は尼崎を希望したようである。そうこうしている最中、松井課長はヤマト発動機の某氏を介して笹川良一氏に会い競艇場誘致をお願いし、一度阪本元市長に会ってもらいたいと申し入れたところ氏は快く承諾しすぐさま来尼して下さった。阪本元市長と笹川良一氏は戦前からの旧知の間柄であったので話はトントン拍子に進み、蚊の製造所である湿地を埋め立てて競艇場とし衛生面は勿論学校アパート建設の財源としたいので是非お骨折り願いたいと懇請したところ、氏は全力を挙げて競艇場設置認可のため奔走してくれた。

開設準備

競艇場の建設

 笹川良一氏の積極的な協力により競艇場の誘致に成功した市はすぐさま大庄地区湿地帯開発委員会を設置し昭和27年4月30日市会は大庄地区7万坪にモーターボート競走場建設を承認した。さてこれからが至難の業であった。9月初旬に第1回の競艇を開催するには3ヶ月の突貫工事を断行しなければならない。それにはどうしても2艘の砂掘り船すなわちサンドポンプ船が要る。しかも当時サンドポンプは日本で3艘しかなかった。並々ならぬ苦心の末、業者に交渉させ木曽川で稼働中の1艘をまずつかまえた。今一つは兵庫県が飾磨港の開発のために東京の某社に注文した新造船に狙いをつけ松井課長が時の寺井兵庫県会議長に日参し又兵庫県モーターボート競走会の斡旋で貸与が決まった。これで船の手配はできたがここに一つ面倒な問題が起こった。市内の業者、特に湿地帯近辺の土木工事を永年やっている業者は、この湿地帯の下はいちめんのヘドロで機械ポンプではとうていやれない。やれたとしてもヘドロは掘りあげてから1年は待たなければその上に建物を建てることはできない。どうしても掘るというのなら、すべからく10本くらいレールを引いて毎日500人の労働者を動かし終始人力でやるべきだと体験や実例を並べ立てて、まるで土の下へ見物に行って来たようなことを言い出した。これには市長始め首脳部も戸惑った。そこまでいうなら本当かも知れないとも思った。しかしまた、あの辺りは武庫川の造ったデルタ地帯だからヘドロの出るはずがない、必ず全部白砂に違いないとも考えた。数カ所ボーリングすればはっきりすることはわかっているが、もうその時間的余裕がない。ある日の早朝市長の自宅を訪ねた業者は市長と激論の末言った。
「市長、首をかけますか。」
「かける。」
と市長はきっぱり言い切った。
「ではヘドロが出たら市長やめるんですね。」
「そうだ。」
かくして首をかけての勝負が始まった。船はどんどん組み立てられていった。まもなくポンプの動く日がやってきた。市長は市長室に待機して電話連絡を待った。
「市長、きれいな白砂です。」
事業課長の歓喜に溢れた第一声を合図に尼崎市の地図を塗り替える大事業がスタートを切った。

 昭和27年5月14日工程の無事進捗を祈願して起工式を行った。工費は1億7,000万円であったが当時の市の財政状態はひっ迫しており競走場建設については一般市税は使えず競走の収益から支払うということで請負業者の阪神築港にその大部分は負担してもらった。又兵庫県モーターボート競走会からも資金面ならびに資材面において協力していただいた。
 工事の途中市は競艇場建設に必要な民有地6万坪を地主11名から坪550円と耕作補償費10円計560円で買収したが、その土地を借り水田を経営していた約20人の小作人がそれぞれの地主に対し離作補償費を要求した。これに対して地主側は土地を貸した覚えはない、みんな不法占拠だと反撃し市管理課の斡旋も空しく競艇場建設の前途に暗影を投げかけたが市の農業委員会の調停、管理課の努力で市が75円、地主が75円を離作料として支払うことで解決した。昭和27年8月30日尼崎競艇場は完成した。翌8月31日午前11時から朝田神戸海運局長(よたろー注:神戸海運局は現神戸海運監理部)ほか来賓500余名を招き盛大に竣工式を催した。

阪神電車競艇臨時駅

 競艇場のすぐ前を阪神電車が走っているが出屋敷、武庫川間のちょうど中間となるので観客の足の便を考えて阪神電車に競艇場前に駅を設けるよう折衝、難航したが阪本元市長自らが阪神電車と交渉し結局競艇場前に尼崎センタープール前駅を特設することに決まった。しかし停車についてはまだ人家も少ないので競艇開催日の前日から最終日まで臨時停車することになった。その後付近住民は、人家、工場も相当立ち並んできたので競艇開催日だけでなく常時停車駅にしてもらいたいと阪神電車と交渉し、昭和36年1月18日より尼崎センタープール前駅は常設するに至った。

売店

 競艇場の売店は水道電気の設備を持つ甲型(10坪)を15戸、電気設備のみの乙型(1坪)を5戸建築し甲型売店は資格実績信用のある市内在住者で現に飲食業の許可を持ち調理師の免許のある者から公募して希望者数百名の中から抽選により選定したが乙型売店は公募せず未亡人で組織されている婦人共励会、身体障害者協会、周辺婦人会など社会事業を行っている団体の運営を助成するため優先的に割り当てた。しかし、競艇を開催し売店を経営する段になり、予想した入場人員1日5,000〜10,000人より大幅に下回り1日平均3,500人程度しか入場者がなかったため、特に甲型売店は経営が苦しく1ヶ月の家賃14,000円が支払えず店も閉めるという業者も出てくる始末であった。

オーナー

当時のオーナー権の考え方は施行者はボート・モーターは所有しないのが常識とされていた。しかし財政状態がひっ迫している尼崎市のこと絶対に競艇開催による赤字を出さないためにもボート・モーターを市が所有してオーナー支出をしないことが必要だと考えた。そこで事業課長松井唯一氏はこの問題につき笹川良一氏と話し合いを重ね、結局笹川良一氏が折れ尼崎市はエンジンを所有することになった。

競艇事業の歩み

思い出の開催

初開催

 初開催は昭和27年9月14、15、16、21、22、23日の6日間の日程で実施した。招待券10,000枚を関係方面に配付しAB級ボート60隻が水上に飛沫をあげ、期間中の売上げを4,500万円とふんだが9月14日の第1日目は3,860,100円、6日間28,867,900円の成績で終了した。レース運営については思ったよりスムーズに運び事故はなかった。

全国地区対抗競走

昭和32年5月28日〜6月2日の6日間、当時日本選手権競走と共に競艇界の2大競走の1つとされていた全国地区対抗競走を開催した。特筆すべきは総額50万円のファンサービスである。その内容は毎日先着有料入場者に入場券と引換で、
 1.スピードくじによる商品進呈
 2.毎日第3、第4レースに連勝式予想投票券を進呈し的中者に賞金20,000円を進呈
 3.毎日の有料入場者全部に入場券と引換で優勝地区及び優勝レース出場選手の予想投票券を進呈し賞金10万円を的中者で按分
したことである。売上額は6日間52,355,900円で新記録の好成績をおさめ優勝者は登録番号121金藤一二三選手であった。

競艇廃止問題

市長競艇廃止を言明

 昭和34年7月松戸競輪事件に端を発した公営競技廃止論の余波は全国に拡がり昭和35年1月兵庫県阪本元知事は「社会悪の根元を絶つ」と県営競輪の廃止を声明した。たまたま尼崎では当時派手な暴力事件が新聞紙上をにぎわし市民の間で暴力追放の声高く、又青少年の不良化防止が叫ばれていたこともあり、その声はボートレース廃止問題にまで拡がり昭和35年3月12日、時の市長薄井一哉氏は予算市会本会議施政方針演説で「昭和35年度限りで競艇を廃止する」と言明した。市議会の革新系議員はこれを支持したが保守系議員は議会無視であるとして市長につめよった。市長はその後出てきた競艇場従業員その他の補償等の事後処理問題のため1年延長して「昭和36年度まで競艇を開催する」と改めた。

競艇等廃止特別委員会を設置

 市長の提案を受け入れた市議会は佐藤俊夫委員長を含めた11人で競馬、競輪、競艇廃止に関する特別委員会を設置した。

伊丹市競艇廃止に反対の申し入れ

 この廃止声明に対し借り上げ施行者である伊丹市は財政再建団体として再建途上にあり財政計画に基づき競艇事業益金を財源としての継続事業に着手している現状にあり、事業の存廃が市政に及ぼすところ極めて大なるものがあるので廃止計画については承服できかねるので再考を促すと申し入れてきた。

県モーターボート競走会補償を要求

 兵庫県モーターボート競走会は競艇廃止により一挙にして社団法人としての法人格をも喪失すると共に一時に多数の失職者を出し生活の脅威を招来することとなるので従業員の年収の5年分の140,144,190円を市に対して要求した。

市長競艇廃止の意思変わらずと言明

 昭和36年3月市議会において薄井元市長は質問に答えて、
 1.競艇廃止の決意は変わらない
 2.廃止についての具体案については5月末までに提示する
と言明した。市長のこの言明をめぐって市会は揺れに揺れたが結局議会は全員一致で市長の提案を承認し昭和37年3月末をもって廃止することに決定した。

尼崎愛市の会陳情書を市に提出

 その後市民各層において競艇存廃について激しい論議がなされたが昭和36年12月15日尼崎愛市の会(代表者本岡芳一)は貧弱な文教施設の強化拡充こそ緊急の要務であり、今莫大な競艇収益を捨てる次期ではないとして「競艇廃止声明撤回についての陳情書」を市会に提出した。

伊丹市再度廃止反対の申し入れ

 伏見伊丹市長、垂同元市会議長は薄井元市長を訪問し競艇の存続を再び要請し、廃止ならば伊丹市の3年間単独開催又は3億円の補償を認めるよう要求した。

市民期限付き存続請願書を市長、市議長に提出

 昭和36年12月市会では尼崎愛市の会競艇廃止声明撤回陳情は審議未了で閉会となったが、市内各地の有力者より一部存続派市議の紹介で競艇の期限付き存続請願書が市長、市議会議長に提出された。

県モーターボート競走会2年延長の申し入れ

 こういう情勢の中で県モーターボート競走会は"競艇廃止に伴う補償金の要求については貴市が競艇場事業を今後2か年継続されることが決定せられた場合においてその申し入れを撤回いたします。なお2か年後において競艇場を閉鎖されたとき本会は貴市に対しこれに伴う補償等の要求は一切致しません。"との申入書を市長に提出した。

地元婦人会、福祉団体廃止延期を要望

地元東地区社会福祉連絡協議会、大庄東婦人会は当初廃止声明には歓迎の立場をとっていたが教育施設、社会教育事業、道路関係事業が近接都市より数段劣っており諸般の情勢からみて「当分の間理由付き延期とすることを希望する」と市に対して要望した。

市会浄政会条件付き廃止を申し入れ

 市会浄政会(幹事長菊本定一氏ほか10名)は昭和37年3月20日
 1.昭和37年度昭和38年度は競艇を継続し昭和39年3月限りでこれを廃止する。  2.これにより生ずる収益を特定財源として、
  ア)教育施設の充実を図る
   ・各中学校の特別教室の完備と体育館を建設
   ・各小学校の施設の完備並びにプールの建設
   ・地区公民館を建設し社会教育活動を促し地域社会の向上を図る
  イ)青少年対策の強化充実及び社会環境の浄化を図る
 3.昭和39年3月限りの廃止に際して県モーターボート競走会並びに伊丹市は本市の方針指示に協力すること
を市長に申し入れた。

市議会正副議長注目の発言

 これらの動きにより大石、梶本正副議長から市会各派正副幹事長会において「伊丹市、県モーターボート競走会の3年間存続すれば補償要求白紙還元するとの条件を考慮し存廃問題判断の1つとしてほしい」と注目の発言が行われた。

市長市会に判断を任す

 市長はこれらの情勢から昭和37年3月12日予算市会施政方針演説後競艇存続やむを得ずとの発言を行い市会に判断を任せた。市会競艇等特別委員会、廃止派委員会は市長の心変わりを激しく追及し、再度市会を開催し市長の決意を聞くこととなった。

市長競艇存続を繰り返す

 再開市会では新政会は競艇存続発言の市長の真意を追及したが市長は教育施設の遅れを認め体育館プールをつくりたい。競艇存続は情勢の変化によると繰り返した。

伊丹市、県競走会1年間存続認めれば補償要求しないと申し入れ

 ここに至り伊丹市及び県モーターボート競走会は廃止に伴う補償は競艇が1年間存続されるなら一切要求しないと文書をもって申し入れた。

市会友正クラブ浄政会存続賛成、新政会競艇廃止貫徹声明を発表

 昭和37年3月20日市会競艇等廃止特別委員会において市長は2年間の期限付き存続を表明し収益金でプール、体育館、校舎改築を約束した。これに対し市会友正クラブ浄政会はそれぞれ会合して市長の提案に賛成の共同声明を発表した。また、新政会は競艇廃止貫徹声明を発表した。

議会運営委員会に競艇存続に伴う議案を提出

 昭和37年3月23日市会議員総会において佐藤競艇等廃止特別委員長が廃止貫徹決議文を朗読、薄井元市長は競艇2年間存続を表明した。新政会は責任を追及し浄政会は英断と讃えた。そして競艇存続に伴う3議案を議会運営委員会に提出した。議場は野次と拍手にわいた。

市会総務委員会競艇存続でもめる

 翌3月24日大石市議長は30日予定の本会議を繰り上げて26日再開と決定し競艇存続に伴う諸案をこの日上程するよう市に要望、市はこれを了承した。市会総務委員会は競艇存続でもめた。佐藤委員等は市長を鋭く追及したが市長は廃止は信念だが2年だけ収益を教育費にと繰り返し答弁した。

競艇事業執行予算承認さる

 3月26日市会本会議が開催され昭和37年度の競艇事業執行予算を提案し承認されここに存続が決定した。

2年間の存続後も引き続き競艇開催が決定

 その後昭和37年度昭和38年度において競艇事業は引き続き平穏無事に執行され廃止期限の昭和39年3月が来たが、この間売上げも順調に伸び教育施設の充実に努力したので大いに実績があり市民各層から"現在においては社会的に好ましくない点は多いが弊害をできる限り除去してこの財源をもって教育施設、社会福祉事業に貢献してほしい"との陳情要望が数多く市議会においても多数をもって競艇事業の存続が議決され昭和39年度以降も引き続き競艇事業を実施することとなった。

競艇存続決定後

施設改善

 競艇事業存続決定当時の競艇場施設は相当老朽化しており危険性を伴うため運輸省から改修の必要を再三勧告されていた。もし施設改修を行わぬ限り開催させぬとの強硬な通告を受けたものでこの改修勧告内容は競艇場内ほとんど全般にわたる広範囲なものでこれには相当巨額の経費を必要とするものであったが競艇場施設と併せ水面と緑に包まれた広く利用される憩いの場所にすべく場内外の環境整備も含め設計を進め改修工事は競艇開催時を避け実質月間半分の作業可能時に工事を実施するので長期にわたると予想され一応第一期工事費として1億7,000万円をもって39年10月より着手することとなった。まず第一期工事として39年7月よりモーターボート競走場敷地と外部を遮断するための塀、メインスタンドは1階は投票所、2階は執行本部、競走会、警備本部、会議室としこれを併せ指定席に投票所、払戻所、記者席、委員長室を設けさらに環境整備の一環としてゴミ焼却場の設置を行い艇庫関係については選手の控室、選手食堂、医務室を一棟にまとめ新設し旧施設は撤去し競技指揮所は2階建てとし1階はピット係員詰め所、検査員詰め所、2階は競技関係事務所として新設を図りその他油庫の拡張、ボート置き場、出走用ピットに屋根を設けるなどの工事を進め、さらに手荷物預かり所、消防署員詰め所、入場券売場等の改築を含め逐次改善を図り昭和40年5月に第一期工事の完成をみるに至ったもので開設当時からのスタンドと比較すれば目を見張る近代施設として偉容を誇り、見やすい買いやすい尼崎ボートとして好評を博したのも記憶に新しいところである。こうした施設の改善がなされたなかで本競艇場の北部には東西に走る阪神国道、南部には第二阪神国道と大都市を結ぶ動脈として産業面、レジャー面に活用されている重要路に位置し、またこれとほぼ平行に北部は東海道線、南部は阪神電鉄と交通の好条件に恵まれた中にあって日一日と隆盛の一途をたどり入場者にして昭和39年度は延べ815,000人、売上47億、昭和40年度に至り入場者99万人、売上66億と入場者にして22%、売上にして40%と急激な増加を示し、この異常な伸び率に本市関係者はうれしい悲鳴をあげたものである。このように本競艇場が急激な売上上昇を示した原因は、前述の恵まれた立地条件もさることながら何といっても競艇実施面におけるレースの絶対公正を期する心構えと大衆娯楽として、常になごやかな親しまれる雰囲気をもたらすための場内環境とがファンにムードと信頼感を博しているたまものと申してあえて過言でないと思う。

 しかしこうした中にあって、事業の性質上より以上の施設、そして近代化にマッチした設備として失格板、払戻掲示板、着順決定板と逐次電化時代にふさわしい設備に着手したもののこれが万全の施設とはいえない状態で昭和41年8月より第二期工事として東スタンドの新設と併せ投票所払戻所を工費約1億4,000万円をもって施行にとりかかったのである。この工事の施工にあたっては、特に非常事態に備えるべく地下通路を設備し、これにより投票所、払戻所を結ぶ施設内の動脈として何よりの自慢のひとつとして今も効果的に使用している。また、この間に全国で初使用のTIC制正副2コ入り大時計を設置し、考案者は連合会より表彰を受けるなど、これも本競技場の1つの自慢といえるであろう。このようにして数々の施設の整備を図り昭和42年9月に完成をみたもので投票所発売窓口472窓、払戻所窓数140窓、計612窓として周辺競技場にみられないマンモス施設として15周年記念を迎えたのである。これが施設の充実したことにより今までにない好売上げを示し、6日間を通じ119,400万円と盛況裡に終了したものであった。施設の改修と相まって場内環境整備の一環として場内舗装及び既設の補修を行い43年3月に施設改善レースを開催し、この間において主審台の移設計画を進め更に場外にあっては急増する車の駐車場対策に、又43年度において、一層のファン対策の1つとして施設を考案中でコマを進めている現状である。この大改築工事を進めながら売上金総額は39年度より42年までで336億9,000万円、収益金59億6,000万円として、この財源をもって本市として急激な産業の発展と共に工業都市に人口の集中する傾向が強く、従って学校、住宅、社会福祉施設、河川公園交通網など都市整備並びに開発事業に投入している中で競艇収益が財源に益々重要視されている。

ファン実態調査

 昭和39年11月22日競艇事業運営の資料とするためファンの実態調査を実施した。午前11時より入場口において先着順入場者3,000人に調査票を配布、調査票記載所において随意記入させ回収した。調査票回収枚数2,223枚、回収率は74.1%であったが、その結果は別表のとおり。(ここをクリックしてください。

騒擾事件

 昭和42年4月10日(昭和42年度第1回第1節第5日大阪兵庫選抜対抗競走)第10レース発走時において発走信号用時計が故障し、第10レース以降の競走を中止したことから一部ファンが騒ぎ競艇場内の施設が破壊されるという事件が発生した。

 第10レースは15時45分発走の予定であったが大時計が故障のため動かず発走できなくなった。大時計担当の係員が点検したが故障の原因が容易に判明せず、16時2分、この故障は電気関係ではなく機械関係であると究明したが短時間では修理できないことがわかった。そこで開催執行本部は第10レース以降を中止することに決定、ファンに対して中止の決定、舟券の払戻、おわびの放送を繰り返して行った。約12,000名のファンは「やれやれ」「何をしているんだ」等野次をとばしていたが大半は払戻所に行き換金していた。しかし数十名は管理事務所へ押しかけ喚声をあげ「入場料を返せ」等口々にののしり不穏な空気となり、また別グループ数十名は新刊1階1,000円券窓口付近に集まり数枚の窓ガラスを叩き割った。これを見て執行本部は警察へ機動隊の派遣を依頼し、派遣警察隊5名、ガードマン15名、自衛警備員28名でファンの説得鎮圧に努め場内予想屋30数名もファンに対して個々に説得に当たったが残った約500名のファンは一部ファンの扇動もあり騒ぎは容易に収まらず、執行本部へ乱入した。

 そこで執行本部はファン代表5名と話し合うことを決定し委員長席で話し合いに入り、その結果残ったファンに入場券を渡すことを約束しファン代表はこの結果を残ったファンに説明したが納得させるまでにはいかず、狂ったファンは特別席の机、椅子を壊し、特別席投票所、番組編成室、記者室のガラスを滅茶苦茶に破った。この状況をみて警察は器物損壊現行犯で7名、公務執行妨害で2名を逮捕し未だ不穏な空気が消えないので18時30分執行本部と協議の上退去命令を出すことを決定し「5分以内に競艇場より退去して下さい」と放送、まもなくファンは全員競艇場より退去した。

 警察官は尼崎西署、尼崎北署、甲子園署、県警察本部、須磨機動隊より逐次増員され制服私服あわせて336名が動員され、そのうち3名が負傷した。施設の損害はガラス105枚、椅子114個、机2個、鏡3面、蛍光灯1個、腰板6枚で損害額は約20万円であった。

売上日本新記録

 昭和43年5月19日昭和43年度尼崎市営第2回第2節第4日最終日において我が尼崎競艇は全国最初の3億円を越す売上げ新記録を出した。
 売上額  310,554,600円
 入場人員 30,860人  である。

当面の問題と今後の尼崎競艇

 本競艇場の特徴としては大阪、神戸の大都市を控え、しかも南側は阪神電車がすぐそばを通り都市の真ん中に位置している。従ってファンの動員には都合が良くその7割近くは尼崎センタープール駅前から徒歩2分という好条件である。

駐車場の問題

 自動車の処理には全くお手上げの状態である。現在500台収容の駐車場を始めとして150台平均の収容の駐車場が7ヶ所あるが日曜日ともなれば全部満車となる。そのため路上駐車が目立ち町内からの苦情がたえない。これが対策については現在警備員、ガードマン、学生アルバイトによる自動車整理、警察に依頼して駐車禁止区域の拡大を図っているが、何と言っても駐車場の設置が急務であり少しずつの空き地を借りての駐車場設置であれば間に合わない。抜本的駐車場の立体化或いは地下道化を進めなければならない現状である。

地元周辺地区住民の問題

 自動車電車利用以外のファンはなるべく無料バスの利用を願っているがそれを利用しない徒歩のファンは大通りは自動車に占拠されているため住宅地のいたる路を通って一斉に帰りを急ぐため立ち小便をするとか、舟券をまき散らす、干し物をいたずらしたり盗んだり、植木を折ったり、玄関に置いてあるものを盗むとか、道路が悪い、側溝が悪い、自動車による事故をどうしてくれるとか苦情が多くこの処理を如何にするかについてはできるだけ部落に対して補償金を交付せず直接執行、つまり道路舗装をするとか側溝を付けるとかまたは周辺地区の清掃で処理していきたい考えである。

施設問題

 懸案であったスタンドも舟券売場(払戻所を含めて612窓)も昭和43年8月をもって一応完成したのであるが、当初25,000人ほどを予想していたものが現在34,000人のファンを集めた実績と最近の社会情勢から来る騒擾対策として積極的な環境整備を図るため緑化スタンドの増設、耐寒設備などの計画を進めている。

終わりに当たって

 余暇の利用については昭和43年11月に内閣の審議会でオートメーション化による労働時間の短縮で国民は余暇の利用が多くなりレジャーブームは益々高まりレジャーを楽しむ人が先行しそれを受け入れる観光地、娯楽施設、輸送機関は全く立ち遅れている現況と今後の余暇の利用については受け入れ側の速度を早めないと大変なことになると中間発表がなされていたが、公営競技についてもその通りであり1日も早く施設の整備を図らねばならない。当尼崎競艇場もこれからやらねばならぬことが山積みしている。


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