1.サッカー研究序説

2.スポーツの「物語」・メディア・市場

3.身体の歴史と権力

4.身体文化論の
  パースペクティヴ

5.デンマーク民衆学校の視角と日 本の学校教育
身体文化論の可能性
-デンマークにおける「身体の知」を体験しながら

6.カヤックする私

7.サーフィンする身体

8.スポーツ文化研究のために

 

2.スポーツの「物語」・メディア・市場
スポーツする身体の市場

どんなにこうすれば勝てるという試案を彼らがもっていても、球団フロントがそれを実現してくれる可能性は少なく、毎回毎回選手の同じようなプレイに対する不満は蓄積され、彼らの身体によどみ、大きなものとなって堆積する。
それでも彼らがスタジアムに通うのは、群衆の中でプレイを見つめながら、大声で叫び、太鼓の音に合わせながらコールし、歌い、拍手し、跳ね続けるという身体のすべてを使って興奮し、熱狂することによる。それはスタジアムの周辺で野宿したりしながら試合開始まで待つなど、それに賭ける思いが強ければ強いほど、興奮と熱狂と失望を大きく、深いものにする。彼らは、自分たち自身の応援パフォーマンスと選手のプレイの引き起こす波動に飲まれ、陶酔する。そして、それが彼らのつながりをより強固なものにしていく。さらにまた、そうした興奮や失望を少しでも癒そうと、彼らは試合後、行きつけの飲み屋で議論し、叫び、帰っていく。そしてまた、スタジアムに集う。
シーズン中、チームがどこで試合があろうと、それについて国内を歩き、選手の誰かが代表に呼ばれ、国際大会に出場することになれば、海外へ足を伸ばす。給料の大半は、こうして使われる。
「気持ち的には、会社より完全にサッカーですよね。仕事は、がんばってても、だって、能力の社会ですからね。会社だって永遠でないんだし、全部会社に飼われてる状態が幸せかっていうと、リストラだってあるんだし。理想は、会社っていう解答をもっててですけどね、契約社員とまでいかないですけど、俺はこうなんだっていうのを認めてもらって、それで会社に役に立チてるんだぞと。それで、それなりに給料もらってるぞっていうのならいいんです。そういうんじゃなくて、例えば、会社にしがみついて、会社のいうこと、会社が第一でとかね(笑)・・・。そうやっていくと、うちの会社は転勤もあるわけだし、システム的には全部会社側の金でやってるわけですよね。衣、食、住会社もちだったりするわけですよ。・・・それでいいかっていうと、そうじゃないんですね。」
民衆は、その根源に興奮と失望を抱えながら、それぞれの「生」の中でスポーツという時空間を消化していく。こうした興行としてのスポーツを頂点としたシステムは、どのようにして成り立ったのか。

一、小林一三と正力松太郎
正力松太郎が販売部数わずか四万部そこそこの読売新聞を郷誠之助から譲り受け(一九二四[大正一三]年)、朝日や毎日に匹敵するまでにしたことはよく知られている。集金の徹底、刷り損ないの節約、人員整理など、合理化を押し進めながらラジオ版や新しい企画を次々に登場させて、新規読者の獲得に力を注いだことにその要因を見ることができる。そして、正力がとった販売拡張戦略の最大の特徴こそ大々的な見せ物を大衆の前に展開し、引きつけていくことだった。
こうした戦略は、すでに関西で、小林一三が宝塚戦略として現実化していた。小林は一九一0年代から二0年代にかけて、電鉄沿線を宅地開発し、新たに生まれてきた大衆に対して、都市部の駅に百貨店を作ってその生活スタイルを構築させるためのモノを売り、週末になれば郊外にある動物園、遊園地、温泉、歌劇場、スポーツ施設で楽しませようとした。それは当時、急増しつつあったホワイトカラー層に対して、新しい家庭生活のイメージを住宅、電鉄、百貨店、イベントによって演出し、消費の欲求を作り出そうとする戦略だったのである(阪田、一九九一、津金澤、一九九一、吉見、一九九一、有山、一九九七、清水、一九九八)。
そのなかで、一九一五(大正四)年に全国中等学校優勝野球大会(のちの全国高校野球選手権大会)を代表とするスポーツ・イベントも生まれてきた。このイベントは、朝日新聞社と日本高等学校野球連盟、のちにNHKの中継によって、「純真で、男らしく、すべてに正しく、模範的な『青少年』がスポーツマンシップとフェアプレイの『精神』で地方の代表として溌刺たる妙技を見せるもの」という「物語」を毎夏、再生産して伝播するメディア・イベントであり、この国の文化的コンテクストと深くつながった「物語」と若者たちのパフォーマンスに多くの人が引き付けられてきた(有山、一九九七、清水、一九九八)。
それに対して、東京で大衆を引き付けようとさまざまな手を打ったのが、正力だった。彼はまず、一九二四(大正一三)年の夏に国技館で納涼博覧会を行う。館内に幽霊や化け物をはじめとして、水や氷を使って涼しそうな見せ物を作り出した。これは、無料入場券を東京の下町一帯に配るなどしたため、大いに人気を博している。また、一九二六(大正一五)年に本因坊秀哉と雁金準一七段との大棋戦を実現させた。正力は、日本の棋界を二分するこの対戦の前から読売新聞紙上で煽り、対戦中は河東碧梧洞、横山健堂、村松梢風、菊池寛ら当時の文壇で活躍中の作家たちに観戦記を執筆させている。また、上野と日比谷の両公園広場には、一辺九尺の大碁盤が設けられ、専門棋士の解釈をつけた。ここには、戦後、街頭テレビのプロレス中継に大群衆を集めたのと同じような仕掛けを見ることができるだろう。
その後も、多摩川園での菊人形展や、日本名宝展覧会(一九二九[昭和四]年)を開催して、多くの入場者を得ているが、正力がその見せ物としての大きな力に注目したのは、ボクシング、野球、テニス、そしてプロレスなどのスポーツ、すなわち身体のパフォーマンスであった。一九三0(昭和五)年六月の日仏対抗ボクシング(読売新聞社主催)は、バンタム級チャンピオン、ブラッドネルと堀口恒男(これ以後、ピストン堀口として売り出す)の引き分け試合などで大いに人気を集めたし、一九三六(昭和一一)年チルデン、バインズ、シャープ嬢といった超一流のテニス選手を招待した試合も多くの入場者を呼んだ。
そして、野球。正力は、第一級の選手を呼び、「高い文化的意義に加うるに国家的、或いは国際的意義をもち、最大多数の大衆の感情を捉えるような事業(御手洗、一九五五、二一七頁)」としての野球に大きな魅力を感じていた。一九三一(昭和六)年と三四(昭和九)年には、アメリカのメジャー・リーグ選手を招待したが、三四年のチームには、ベーブ・ルースら超一流の選手が含まれていた。この時には、対戦する相手が学生ではまかりならぬとする文部省通達もあって、以後プロ野球の母体となる全日本軍を編成するようになる。

二、文化史としての野球−「物語」の構築に向けて−
ここで、簡単に文化史としての野球について触れておこう。それまで、プロ野球チームは、冒険小説家にしてスポーツ愛好家の押川春浪やその弟で早稲田大学野球部OBの清、河野安通志らを中心とした日本運動協会(一九二一[大正一0]年〜一九二四[大正一三]年)があった。この押川春浪は、東京専門学校を卒業後、武侠小説家や冒険小説家として活躍していたが、野球を主としたスポーツに多大なる関心を寄せ、『冒険世界』や『武侠世界』といった雑誌に多くのスポーツ記事を掲載していた。彼はまた、中沢臨川とともに天狗倶楽部を組織(一九0九[明治四二]年ごろ)し、野球害毒論争(一九一一[明治四四]年八月二九日から九月一九日に至る二二回にわたる東京朝日新聞社の「野球と其害毒」キャンペーンに際して、安部磯雄、押川春浪、中沢、河野らが東京日日新聞紙上で対抗、さらに読売新聞主催で「野球問題演説会」を開催し、安部、押川春浪、河野に加えて、大隈重信、永井道明、横山健堂らが野球の健全性、身体発達に対する必要性などを説いている。また安部と押川春浪は『野球と学生』なる冊子まで廣文堂から出版して野球の発達を懸命に述べた)において、野球擁護派の立場で東京朝日新聞社や新渡戸稲造と厳しく対立した(横田、一九九一)。
この天狗倶楽部は、スポーツ界のなかで当時としては画期的な計画を次々に打ち出している。まず、早慶戦の復活の前提(応援団の過剰な盛り上がりに端を発して、一九0六[明治三九]年一一月一0日から一九二五[大正一四]年一0月一九日に復活するまで早慶戦は中止される)として、これに準ずべき大試合を行って野球熱を高めようとした。それは、東京倶楽部対慶応大学の試合となって現れ、一九0九(明治四二)年四月二五日満都の人気を羽田に吸収するにいたった。天狗倶楽部を中心とした早稲田、慶応大学の野球部OBたちが東京倶楽部を組織したこの対慶応戦は、往年の早稲田の選手をずらりと揃えていて、早慶戦を思わせるようなゲームだったのである。この意味で天狗倶楽部は、大衆が熱狂するスポーツ・イベントを東京を中心にして企画した嚆矢といえよう。
このほか、天狗倶楽部は、日本運動倶楽部を組織し、当時の内閣諸大臣をはじめ、そのほかの朝野の名士数百人を名誉会員として大いに野球の宣伝を行いながら、スポーツ界全体の発展に貢献した。日本運動倶楽部会長には、押川春浪、中沢が尾崎行雄に交渉して承諾を得、副会長には法学士の和田垣謙三を推挙、ストックホルム・オリンピック(団長:嘉納治五郎)選手選定競技会を羽田のトラックに催すことに協力し、三島彌彦、金栗四三を選出している。単に野球に限らず、日本のスポーツ界が国際舞台に出ていこうとする礎をスポーツ選手として活躍したわけではない押川と中沢が早慶両大学の野球部OBたちとともに、自主的なクラブの形から創造していったのである。さらに、羽田に野球のグラウンドを設け、誰にでも自由に使用させて野球の興隆を図っている。
このように押川春浪、中沢臨川らが中心となった天狗倶楽部が早稲田大学、慶応義塾大学の野球部、あるいはそのほかの運動部のOBたちを集めて、自主的、自発的な集まりのなかでさまざまなスポーツの企画を打ちだしていった。そこには、一高、早稲田、慶応といった学校を中心とするスポーツの形とは別の社交団体としてのクラブを基盤としたスポーツ・イベントの創造とそれに携わる楽しみがあったのである。
また、早慶戦の中止は、さまざまな野球やスポーツに関する言説をメディアに登場させ、のちの甲子園野球を含めたスポーツ界全体に影響力をもつ「物語」の端緒となった。たとえば安部は、応援団廃止論と「野球の見方」や「野球選手のあり方」をさまざまな新聞や雑誌を通して展開し、押川春浪、水谷竹紫、弓館小鰐、太田志蹴、針重敬喜など天狗倶楽部の面々も一大イベントとしての早慶戦の復活を唱えている。そのなかで安部の主幹する運動世界社の『運動世界』、押川春浪ら天狗倶楽部の運動選手や文士たちによる博文館の『冒険世界』、あるいは武侠世界社の『武侠世界』といった、当時メディアを支配していた早稲田大学系の者たちによって野球をいかに見るか、どのように行うのかといった枠組みが提示されていく。特に、安部磯雄の主幹した『運動世界』には、安部の野球、あるいは運動選手に対する見方や考え方が示されている。安部は、「運動選手の気風」と題して『運動世界』第3号のなかで以下のように述べている。
「柔道及び剣道が武士独特の気風を養成せし如く、凡ての運動競技は勇壮活発の心を養ふことを目的とせざるべからず、武士が其手腕を錬磨して、其技神に入るといふ妙境に達するや、彼等は益謙譲して嘗て人に誇るが如きことなし。今日の運動選手も亦宜しく此武士道を学ばざるべからず。・・・運動と学問とを并行せしむべきは余が常に論じたる所にして、是は必ずしも実行し難きことにあらず。・・・運動家は質朴の風を貴び華奢に流るゝことに極力反対するを要す。今日の学生が如何に優柔なる生活をなしつつあるかを見よ。彼等の或ものは毎日幾度も石鹸を以て顔を洗ひ、香水を頭髪に塗り、以て得々たるといふにあらずや。・・・余は教場に於てすら或学生が奇麗に分けたる頭髪を気にして、殆んど課業に注意し居らざるを見ることあり。・・・余は勿論此の如き学生が尚ほ少数なるを信ず。然れども此の如き下等なるハイカラ風が漸次其勢力を逞ふせんとするは吾人が亦看過すべからざる所の事実なりとす(安部、一九0八a、四頁)。」
また、観衆のあり方についても、野球に対する熱が高まるほど観衆が「紳士らしからざる態度」を示すように見受けられる。その原因は、観衆が野球の技術より勝敗に重きを置いているからで、「馬鹿野郎」「間抜けめ」「止めてしまへ」など汚い野次は、愚行にすぎないと述べている(安部、一九0九、一−二頁)。
安部は、こうした勝敗にとらわれすぎる選手や観衆に対する思いを単に野球だけでなく、スポーツ全体についても抱いており、負け惜しみを言うことは男子の恥辱であり、まして、負けたことで悔し泣きをすることは慎まねばならない。敗北は運動家の面目を傷つけないと「男子」であることに触れながら述べている(安部、一九0八b、二頁)。
このように早慶戦中止の事態を鑑みて、安部と彼を取りまく人間たちは、スポーツマンは日常生活でも人格的に優れ、良き「青年男子」としてのモデルとならねばならないことを述べ、それを見つめる観衆にもスポーツの本質が勝敗にあるのではないことを理解させようとしていた。
この安部の思想は、その思想を体現した選手が卒業後、全国中等学校優勝野球大会の運営、競技方法を考案し、試合の批評や中等学校、高校野球界のあるべき姿などを新聞や雑誌に執筆することで、甲子園野球の「物語」形成に大きな影響をおよぼした。そのなかの一人、橋戸頑鉄は早稲田大学を卒業後、アメリカに渡り、ボクシングやロンドン・オリンピックの記事を『冒険世界』や『武侠世界』などに載せていた人物で、スポーツ記者の草分けといえる。そして、その後も万朝報、さらに朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会を計画すると、招かれて朝日の記者となり、大会運営や中等野球について「物語」を形成する存在となっている。このように、スポーツ記者としてスポーツ・ジャーナリズムの側に位置し、まさにこの国の野球の、さらにスポーツの「物語」を形成したといえる者には、この橋戸のほか、マネージャー役の弓館小鰐や、一九0七(明治四0)年から一九0九年まで早稲田野球部に席を置いた飛田穂州などがいた。
こうしたこの国における野球とそれを基盤にしたスポーツの「物語」といった文化史的基盤とともにシステムとしてのプロ・スポーツが生まれてきたことを忘れてはならない。その嚆矢である日本運動協会は、一九二三(大正一二)年の関東大震災により本拠地芝浦球場とクラブ・ハウスが関東戒厳司令部と東京市社会局に徴発されたのを直接の契機として、一九二四(大正一三)年一月に解散した(菊、一九九三、一三七頁)。しかし、宝塚戦略の一環として一九二二(大正一一)年に豊中グラウンドに代わる宝塚野球場を竣工していた小林一三は、それを引き受け、プロ野球というシステムが成立しておらず、財政難に陥って解散する一九二九(昭和四)年まで関西を基盤にして活動させた。また、奇術の天勝(村松、一九五七)や大阪毎日新聞社によってプロ球団は、作られはしていたが、いずれも長続きしないでいた。
こうした歴史にあって、正力はそのネットワークからプロ野球を紡ぎだしていく。

三、正力松太郎とその周辺−プロ・スポーツの誕生−
一八八五(明治二八)年四月一日に富山県射水郡大門町に十人兄弟の五番目、次男として生まれた正力は、小学生の頃、トラホームを患うなど痩せて貧弱な身体だったが、高岡中学校在学中に水泳と剣道、四高在学中に柔道に打ち込み、勉学よりも身体を鍛えることに力を注いだ。
ある三高との柔道・剣道・野球・庭球の対抗戦の最終日、正力は柔道選手として出場した。最後に残った相手の大将は、武徳会の三羽烏の一人といわれるほどの力をもっていたが、三将の正力は、立ち上がった途端、巴投げから、送り衿締めに入り、彼に勝ってしまう。また、引き続き柔道だけ行われた六高戦でも、相手大将と引き分け、四高に勝利をもたらす大活躍をする。こうして、金沢に帰郷した際には、多くの人々の歓迎を受け、正力は英雄になった。そして、以下のように述べている。
「僕の生涯における最良の日はあの勝った日だった。・・・まともで勝てる相手ではなく、奇襲の外はない。そこで僕は捨身の奇襲をかけたのだ。・・・この勝負で僕は柔道の試合だけでなく、人生についていささか自得するところがあった(御手洗、一九五五、三一頁)。」 この身体的経験は、彼に見せ物としてのスポーツがもつ威力やヒーローの作られ方を自らの身体で体現させ、それを刻み込ませた。それはのちに、大衆をコントロールする側にたった際の大きな力の源泉になったと思われる。
さらに、東京帝大卒業後、内閣統計局を経て、警視庁に勤務した十年間は、正力の読売新聞社経営、プロ野球の創設、テレビ局の開業、政治家というその後の人生にとって、次の二つの点で大きな影響を与えたといえよう。
一九一八(大正七)年八月、正力が第一方面監察官だったときに東京でも米騒動が起きた。大竹寛一・小泉又次郎両代議士による政府糾弾演説会は、二千人以上の聴衆を集めて行われていた。正力はこれらに対して、大勢で取り囲み、追い払うといった従来からの鎮圧策をとらず、主催者と自ら会って話し合い、聴衆が騒がないように穏やかに解散させる新手法をとって成功させた。しかし、別の会場では、警視庁きっての精鋭部隊を率いて、突然群衆の中を突っ込んで行き、演壇で演説している者と周囲の関係者をひっ捕らえ、壇上から「穏やかに解散せよ、警官は決して抵抗せぬ者に手出しはしない」と叫び、群衆が退散していくきっかけを作っている(御手洗、一九五五、六六−六九頁)。群衆の性質を瞬時に見抜き、ある時は中心人物と直接話し合い、ある時は中核にいる者を群衆の目の前で捕らえて気勢をそぐ。これは、早大騒動(一九一七[大正六]年)や刑事課長時代の普通選挙運動(一九一九[大正八]年)の際に、熱狂した群衆に対処する仕方でも同じことがいえる。
このように、騒然とし、危険で無秩序な群衆を秩序づけられた方向性に変えていくといった群衆をコントロールする術を経験することは、のちに、大衆が何を一番求めているのかをいち早く察知して、さまざまな見せ物を提示するテレビ・メディアを経営していくことに大きなプラスだったに違いない。いいかえれば、正力は自分自らの身体を直接用いた力の行使とともに、見せ物を提示しながら、ある思考の枠組みを大衆に自然と身につけさせていくことの両方が、可視的であれ不可視的であれ、権力の視角から捉えられることを自らの身体を通して具現化したといえるのである。
また、正力は警視庁にいたことで、政界、財界、華族における人々に限らず、犯罪者など数多くの人間に出合った。彼は虎ノ門事件で警視庁を辞職し、浪人している際、後藤新平の工面してくれた十万円で郷誠之助から読売新聞を譲り受けたのだが、この二人と出会ったのは官房主事(一九二一[大正一0]〜二三[大正一二])時代である。正力は、後藤新平(満鉄初代総裁、寺内内閣閣僚、東京市長、帝都復興院総裁、京成電車専務を歴任。娘婿の鶴見祐輔は、プロ野球創設時、東京セネターズの設立に助力)の台湾、満州、そして東京に壮大な都市計画を立案する着想に刺激され(御手洗、一九五五、一二三−一二八頁)、絶えず自分の事業や政治家への転身の夢を支援してくれた終生の恩人として特別な感謝の念を表している。また、郷とは政治家との駆け引きをしなければならないこの官房主事時代に、阪谷芳郎(官界では大蔵省畑、数多くの企業の会長を歴任。妻は渋沢栄一の次女、長男希一は、元日銀総裁三島彌太郎[元警視総監三島通庸の長男]の長女と結婚)らとともに郷が男爵の貴族院議員派公正会を組織していたために特別親しくしていた。彼は、正力と中学から大学まで同窓だった河合良成(郷の勧誘で東京株式取引所支配人をしたのち、日華生命常務、満州国総務庁、東京市助役など後藤新平と極めて近しいところで勤務している。のち、小松製作所社長)、小林中(東武鉄道社長のほか、中島飛行機、日新製粉などとも関わりのあった根津嘉一郎に認められ、富国生命社長。のちに、正力や後楽園社長の田辺宗英[東京電灯勤務の後、異母兄小林一三の勧めで後楽園スタジアムの創設に参画]、五島慶太とともに川崎に競馬場を共同出資で創設している)、永野護(渋沢栄一の秘書をしたのち、東洋製油、神田銀行、帝国人造絹糸などの取締役。弟は、小林中、桜田武、水野成夫と共に「財界四天王」と言われた永野重雄。重雄は、富士製鉄社長で八幡製鉄と大合併して新日本製鉄会長になった)、後藤圀彦(京成電車専務)ら若手財界人を集めて「番長会」を組織していく。
正力が募った読売新聞社の匿名組合出資者にはこうしたネットワークに絡み合う財界の重鎮たちがいた。安田善次郎(安田銀行)、大倉喜七郎(帝国ホテルなど)、浅野総一郎(浅野セメント)は、渋沢栄一と親交があったし、後藤新平の秘書をしていた増田次郎(のちに日本発送電初代総裁)、山口喜三郎(のちの東京芝浦電気社長)、原邦造(東京瓦斯、東武鉄道、明治製糖社長、交通営団総裁、のち、電源開発初代総裁)、松永安左エ門(九州電力、中部電力など「電力の鬼」といわれた)など電気、電力系の大物たちからの出資も後藤や郷、さらに小林一三との関係があったからと考えられる。先の根津嘉一郎も出資者のひとりだった。
鈴木龍二は「読売新聞の巨人軍は、郷誠之助とか、小林一三とか、後藤圀彦とかいう財界の人たちをバックにして作った。財界の主だった人たちを、後援者にして作ったのが巨人軍だ(鈴木龍二、一九八0、一一頁)」と述べている。株式会社大日本野球倶楽部、すなわち「東京巨人軍」創立発起人には、林甚之丞(東京湾汽船専務、読売新聞とタイアップして大島ブームを作りだした)、後藤圀彦、そして、清水与七郎、林荘二といった東芝の重役や理事らの名前が挙がっているだけだが、水面下には正力が張り巡らした財界人のネットワークが存在していることを充分に認識できよう。もちろん、巨人軍以外にプロ球団を結成し、多くのチームの中で競争してこそプロ野球の繁栄があると考えていた正力は、貴族院重鎮の有馬頼寧を中心にして、貴族院をバックにした形で「セネターズ」が作られていくことを支援したし、国民新聞が中心となり、警視庁関係など官界をバックにした「大東京軍」などにも積極的に働きかけた。このほか、短期間で「大阪タイガース」、「阪急」、「名古屋軍」そして「名古屋金鯱軍」といったチームが設立できたのも、松方正雄、小林一三、新愛知新聞社や名古屋新聞社の関係者と正力がつながっていたからにほかならない。
こうしてプロ野球が興行団体として組織され、そののち彼がかかわって創設されたテレビを通じて、私たちはスポーツをほぼ日常的に楽しむことができるようになった。また、天覧試合を企画してプロ・スポーツとしての野球をこの国の人々に広く認知させただけではなく、プロレス、プロゴルフ、そしてJリーグさえも彼なくしては創設しえなかったと考えていいだろう。それらは、起業家としての正力の欲望と実践力、そして彼の張り巡らしたネットワークによるものだった。つまり、この国の消費社会を創造した起業家たちの宇宙ともいえる彼のネットワークからプロ・スポーツが浮かび上がってきたのであり、正力松太郎という身体こそが、見せ物としてのスポーツを紡ぎ出すメディアだったといえるのである。

四、スポーツする身体のもつ快楽とその危うさ
こうして、都市における消費社会の進展の中で、小林一三や正力松太郎の起業家としての能力を基盤として築かれ、特にメディアの「力」の増大とそこにおいて「物語」の伝播がなされるスポーツ・イベントの構造は、大きな波となって私たちの身体に影響をおよぼしてきた。
その根本的な要因にこそスポーツする身体の特質が見えてくる。スポーツする身体は、現実に生きる身体とは異なった身体技法を用いたパフォーマンスとして、通常、言語を介さずに動き、解釈されるものである。私たちは、それを日常、テレビを通して「物語」をともないながら見る。そして、それをそれぞれの種目の理想とする身体技法に見合うように規律訓練され、鍛え上げられた身体による表現として読みとり、時に高度なスキルを披露してくれるアスリートとして、また時に、通常垣間見ることのできない人間の感情と理性とが混じり合った複雑な身体としてとらえる。さらに、私たちはそのスポーツする身体を自分の身体と無意識のうちに比較したり、置き換えたりするし、スポーツする身体をイメージとして「なぞり」、今ある現実の身体に取り込もうとさえするのである。
こうしたイメージ化された身体と現実の今ある身体とのダイアローグの繰り返し。こうした戯れこそが快楽を生じさせる。その上、現実の世界の解釈や生き方の提示をする「物語」がそうしたイメージする身体を被っていればいるほど、私たちは、スポーツする身体を自己の身体に取り入れようとする。私たちがスポーツを見たり、行ったりするその欲望の根源は、スポーツする身体そのもののなかに含み込まれているといってよいのだろう。
ここからは、消費社会における個人をターゲットにしたイメージの戦略が、スポーツを介して私たちの身体の奥深くにまで忍び込んでくる可能性を認識することができる。近代スポーツは、こうしたイメージとリアリティーが錯綜する消費社会のなかでこそ記号化され、「物語」の虚と実とが混同する場となるのである。私たちは、ファッションや化粧とともに、スポーツする身体とその「物語」をイメージとリアリティーとの間を行き来しながら戯れ、消費しているのである。
こうしたなかで現在、スポーツに関わったビジネスは、メディアとの共存関係を下敷きにして、スポーツする身体と企業、そして商品のイメージ戦略とが大きく重なり合うために拡張してきている。スポーツ組織・連盟−マーケット−メディア、そしてエージェントの四者が確固とした関係のなかで結びついているのも、こうしたスポーツする身体の特質にもとづいているからだと考えられよう。
一九八四年のロサンゼルス・オリンピックを契機として、スポーツ・イベントをビジネス・ソフトとして捉えることが当たり前になってきた。有料チャンネルを含むメディア企業がさまざまな技術革新にともなって事業を拡大していくなかで、ますますその傾向を強めている。その結果、オリンピックやFIFAワールドカップなど世界的に認知されているビッグ・イベントは、莫大な放送権料を要求するようになり、それと関連して、ユニバーサル・アクセス権の問題を浮上させている。また、メディア企業をバックにしたプロ・スポーツチームが多大な力をもち、そのことによってフィールド上の選手たちのプレイに不平等をもたらしていることも明白である。さらに、こうした市場のメカニズムによって、もともとさまざまなポピュラー・カルチャーから生じたスポーツ種目の間に差異化を生じさせ、市場メカニズムのなかで生き残ったものだけが私たちの目前に現れる傾向が強まっている。
スポーツする身体がイメージと自己の身体のリアリティーとの間を行き来する戯れや快楽を根源的に内包しながら、この国の文化的コンテクストのなかで歴史的に積み上げられた「物語」、すなわち言説をともなって私たちの前に現れている。そのことは、今日の消費社会の進展、特にメディア企業の「力」の増大のなかでスポーツをめぐる市場の隆盛を招いていると考えられよう。そして、こうしたスポーツする身体そのものは、規律訓練的な身体の加工プロセスを通して獲得されるものであり、さらには学校などで身体の規律訓練的な作用を体育やさまざまな学校行事、運動部を通して私たちの身体に刻み込まれていることによって、個々人の身体に実体験として記憶化され沈殿している。私たちは、通常、無意識のうちに刻み込まれている自己の身体的経験を改めて捉え直すことの重大さに気づかないし、何よりスポーツする身体のもたらす快楽に浸り、そこに永遠の楽しみさえ憶えてしまう。したがって、こうしたスポーツする身体とそれをめぐるさまざまな事象を問題視することさえ困難にさせるのだ。

五、抵抗への新たなつながりの模索
それでは、こうした根本的な特質をもったスポーツとその身体性の波に、私たちは何も抵抗できず飲み込まれていくだけなのだろうか。
ここでもう一度、正力や押川春浪のネットワークに注目してみる必要があろう。確かに正力は、東京帝大を卒業し、その後、内閣統計局、警視庁、読売新聞社といったところでさまざまな人と出合い、プロ・スポーツというシステムを作り上げ、さらにテレビ局を開業し、政治家になり、原子力発電事業を国策化した。プロ・スポーツは、まさに彼のさまざまな関係のネットワークから浮かび上がってきた一つのプロジェクトであった。また、押川春浪とその周辺の人々が天狗倶楽部を組織し、さまざまなスポーツ・イベントを企画したほか、新聞や雑誌メディアにおいてスポーツを言説化し、さらに日本運動協会を創設したり、日本運動倶楽部を作ってオリンピック選手選定競技会を行っている。これらは、早稲田大学や慶応大学野球部ほか、さまざまな運動部関係者、あるいはそこに引き寄せられた人々のネットワークによるものであった。
こうした歴史をふまえて考えるならば、私たちは、スポーツをめぐる事象に集結する人々のネットワークを生かすことで、これまで述べてきたような一九八四年のロサンゼルス・オリンピック以降、顕著になったスポーツの市場メカニズムとは異なったスポーツを対象とする市場がもつ特徴に根ざした新たな「力」の創造が可能であるかを問う必要があろう。それはまた、マス・カルチャーとしてのスポーツとしてではない、私たちの身体文化、すなわち生きられた身体を基盤にした新たな運動を起こすことができないのかを問うことにつながるだろう。
この論文の冒頭にあるのは、プロ・サッカー球団である浦和レッズを応援するあるサポーターの言説である。彼のなかには、過去ではあるが地元の指導者が高校サッカーにおける「王国」を作った紛れもない事実と、それを同時代として生きた者としての記憶がある。そして、今日の地元高校のふがいなさと重なって、浦和レッズへの熱狂をより一層深いものにしていると思われる。彼は現在、浦和市に住んでないが、次のように語っている。
「本籍は、浦和にしてあるんです。本当は、浦和で子ども育てたいんです。地域に密着させて育てたい。サッカー見たりして。自分の地元にプライドもって、生きるっていうような。」
地元である浦和に対する愛着があればあるほど、浦和レッズというチーム、球団の行く末と市民との関わりに関心をもつのは当然である。彼は、次のように述べる。
「ゲームそのものよりも環境づくりの方が興味がありますね。浦和にもっと芝のグラウンドを増やしてあげられるかとか。運営だとかですね。」
これは、クラブハウスを作って、そこを基点にして新たな市民のつながりを築いていくなどサッカーチームとしての浦和レッズからさまざまな関係を生じさせ、広げていく構想である。こうした構想を民衆がもつことこそ、レッズという球団を作る楽しみ、すなわち、単にピッチ上のプレイを応援するだけでなく、サッカーを基盤にした民衆の意志と実践力が現実に民衆のつながりの核としての球団を作り上げようという壮大な社会実験ともいえるような運動への魅力が存在しているのである。つまり、サッカーというスポーツを媒介にして、民衆の「知」の活性化や「力」が発揮される可能性を見ようとするのである。
そして、こうした運動が地元ラジオ放送局のパーソナリティーを中心にしながら展開し、「マッチデー・プログラム」や「Eサッカー」などのレッズに関する情報誌や地域メディアが球団から完全に独立した立場を築きながら、議論していくことができれば民衆を動かす大きな力になるだろう。サポーターたちのなかには、一九九三年のJリーグ開幕以来、浦和レッズが抱えてきた問題を解決していないことへの批判(それは球団社長やGMらとサポーターとがレッズの今後について「語る会」などでも論じられた)が鬱屈している。しかしながら、民衆の浦和レッズへの思いと実践的な知、球団や企業、さらに行政がスポーツを核にして連帯し、その力を民衆の「生」の場に還元できれば今までにない公共空間が構築できるに違いない。そこには、均質化したマス・カルチャーの特質とは異なった、民衆の生きる場を基盤とした知と実践力を構築できる可能性が潜んでいると思われる。
小笠原は、その空間と実践自体が巨大な矛盾の集積と沈殿によって成り立っているどうしようもないほどに伝統視され、ナショナリズムの高揚と発露の元凶のように批判されるイギリスのフットボールにおいて、特定のクラブのファンが同じファンを読者として小数部のみ作成し、特定の流通経路で配布されるミニ・コミ誌といえるファンジンにおける発話の可能性について論じている。それは、「正式な統一原理に基づいた流通手段を持たないにもかかわらず、必ず相互交流の回路が作り出されるミクロなネットワーク性、そして、にもかかわらず、制度化された企業体の体裁を取る各クラブのポリシーに与える無視できないほどの影響力などを組み込んだ動的な実践」であり、「フットボール・ファンがその中で発話し、そうすることによって創出していく文化的空間」が確かにあるという(小笠原、一九九八、二八一頁)。
そして、そこにこそ「大きな代価を支払い続けながらも、社会の常識が作り出し、自らもまたその常識の中でしか言葉を見いだせなかった位置性から、既存の様々な語彙を組み替えながら、具体的に、局地的に、一時的に独自の意味を作り出しながら発話し続ける主体位置への転換とその継続性(小笠原、一九九八、二八一頁)」を見つけ出せる。
浦和レッズをめぐるサポーターの言説には、プレイへの熱狂をもとにした身体的なつながりを核にして、これまでの組織とは異なった新たな公共空間の模索と現実に対する抵抗が垣間見えてくる。それが、民衆の生きる基盤としての「日常生活での民主主義、さらに生活の首尾一貫性を強調」し、「家族と隣人、そして環境と身の周りを何よりも考える」新たなコミュニティー・アイデンティティを認める「脱中心化の社会」(アイヒベルク、一九九七、三五頁)へのほのかな兆しと捉えることができれば、まさにポピュラーカルチャーの「力」の源泉と考えることができるだろう。それは国家権力や強力な市場の「力」に対する「脱中心化」というよりも、民衆が多様な中心を創出し、そのうちのいくつか(スポーツを核とするなど)に寄り添って抵抗する基盤として考えてみたい。プロ・スポーツの成立が正力を中心とするネットワークによってなされたことを考えるならば、今に生きる私たちはそれらのスポーツに集う民衆の連帯から、自分たち自らの「生」を充実させる新たなネットワークを開いていく可能性を見いだせると思う。

【引用文献】
・安部磯雄、一九0八a「運動選手の気風」、『運動世界』、第三号、運動世界社、三−六頁。

・安部磯雄、一九0八b 「競技運動と勝敗の感念」、『運動世界』、第九号、運動世界社、一−三頁。

・安部磯雄、一九0九 「観覧者の練習」、『運動世界』、第一一号、運動世界社、一−三頁。

・アイヒベルク・ヘニング、清水諭訳、一九九七『身体文化のイマジネーション』、新評論。

・有山輝雄、一九九七『甲子園野球と日本人』、吉川弘文館。

・菊幸一、一九九三『「近代プロ・スポーツ」の歴史社会学』、不昧堂出版。

・御手洗辰雄、一九五五『伝記 正力松太郎』、講談社。

・村松梢風、一九五七『魔術の女王』、新潮社。

・小笠原博毅、一九九八「文化政治におけるアーティキュレーション」、現代思想第二六巻第四号、青土社、二五0−二九三頁。

・阪田寛夫、一九九一『わが小林一三』、河出書房新社。

・清水諭、一九九八『甲子園野球のアルケオロジー』、新評論。

・鈴木龍二、一九八0『鈴木龍二回顧録』、ベースボール・マガジン社。

・津金澤聰廣、一九九一『宝塚戦略』、講談社。

・横田順彌、一九九一『熱血児押川春浪 野球害毒論争と新渡戸稲造』、三一書房。

・吉見俊哉、一九九一『博覧会の政治学』、中央公論社。

【参考文献】
・ボードリヤール・ジャン、今村仁司、塚原史訳、一九七九『消費社会の神話と構造』、 紀ノ国屋書店。

・佐野眞一、一九九四、『巨怪伝』、文藝春秋。

・清水諭、一九九九、「スポーツの近代と現代、そして・・・」、『iichiko』第五二号、日本ベリエールアートセンター、五五−六四頁。

・内田隆三、一九九六、「消費社会の問題構成」、『デザイン、モード、ファッション』、七−四0頁、岩波書店。

・清水諭、飯田義明、一九九九、「プロ・サッカーチームと市民との関係に関する研究」、『プロフェッショナルスポーツ研究助成報告書』、第二号、筑波大学大学院体育研究科、三一−四九頁。

・清水諭、二000、「浦和レッズのサポーターであること」、『プロフェッショナルスポーツ研究助成報告書』、第三号、筑波大学大学院体育研究科、三四−五八頁。〈清水諭「スポーツする身体の市場」栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉(編)『越境する知[5]文化の市場:交通する』東京大学出版会, pp.285-304, 2001.〉