令ちゃんが由乃さんがSSの完成品(永遠に仮)
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令ちゃんの、声が聞こえた。
日曜日の人通りと雑踏の最中にいた由乃だが、かき消されそうな一瞬のか細い声を
確かに聞いた。そんな気がした。
 由乃は今朝から、いや少なくとも昨夜頃から嫌な予感としか言いようのない違和
感を感じていた。
もしかしたら考えすぎかも知れない、もしかしたらたまたま令ちゃんに出くわして、
そして由乃は気づかずに向こうから声をかけてきただけかもしれない。
 由乃は周りを見回した、由乃は自分の視界内であれば、例え数千人の群衆のさな
かでも令ちゃんを見つけ出す自信はあった。妹の自分でなくとも令ちゃんはそこに
立っているだけで十分に判別できる、少なくとも由乃はそう思う。
 信号が点滅し、青から赤になった。由乃はビルと寂れたオフィスと最近出来たば
かりのコーヒーショップと無数の人間とそして信号を通過する車を見回して、それ
でも令ちゃんは何処にもいないことに気づいて、やはり気のせいだと思うことにした。
 だって見落とすはずなんてないもの。
 それでもやっぱり気にかかった、もしかしたら嫌な予感を認めたくなかっただけ
かもしれない。改めて考えるまでもなく確実に令ちゃんは近くにいるような気がした。
根拠はない。
 自動車用の信号が一端赤を灯らせ、右折車が次々と加速している。右折車のエン
ジン音が一瞬高鳴って気の早い歩行者が車道に足をかけようとして、由乃もまた歩
きだそうとする、令ちゃんの声を再び聞いた気がした。
 こうやって眺めなければまず目にすることのないひどく地味な設計事務所の看板の
奥手に、さらに目立たない道が見えて、その道の奥から令ちゃんの声が聞こえたよう
な気がした。あまりにも一瞬で小さな声だったけれども、由乃にとってはそれを聞き
分けることなどわけのない話である。
 青信号になって前に進むだけの人混みを横断して、こんな晴れた日曜だというの
に少しも人気のない裏道を目指した。胸中に燻り続ける嫌な予感は勘違いであって
ほしい、だからこそ確認に行かなければならないと強く思う。
 だって…こんなところに令ちゃんがいるはずがないもの、令ちゃんが人前であん
な弱々しい声なんて出すはずがないもの、だって令ちゃんがこんな暗い道を通るは
ずがないもの、だって令ちゃんが、令ちゃんが。令ちゃんが。
 日曜の晴れた青空がビルの隙間から狭い路地に光を差し込んでいる。それでもや
っぱりこの路地は薄暗くて、ほんの数mを境に人の群れが横断歩道で信号の点滅を
待っていたようには思えない気味の悪い静寂が支配している。邪魔にしかならない
風俗店と思しき看板の残骸をすり抜けて、表通りからは死角となる角を曲がる。
 何故こんなに意味もなく角を作るの、由乃は自分でも理不尽と分かっていてもそ
れでも得体の知れない苛立ちを何かにぶつけたい、そんな感じで酷く腹立たしく思
えた。
 そう、令ちゃんがこんな所にいるはずがないもの。

 令ちゃんは、
 いた。

 ---ところで令ちゃん。
 どうして、どうしてこんなところにいるの。どうしてそんな格好なの。

 由乃は一端時間をかけて瞬きをして、もう一度目前のヒトを認識しなおした。
 まぎれもなく、かの人はミスターリリアン・支倉令。
 目に光が無いように見えたのは単純にここが薄暗いからという物理的な理由によ
るものではないと思う。由乃が知っている令は例え月の光であっても、誰しもが畏
怖の念を覚えうる強い光を眼球に宿している。茶色味の強い光彩からにじみ出る神
秘性は令以外の人にはまず見られないものであり、そしてロザリオを返した時です
らもここまで眼の光を弱々しくはなかった。
 茫然自失の令ちゃん。
 こんな町中に半裸のままで空を見上げる令ちゃん。
 髪と、令ちゃんお気に入りのくすんだデニムジャケットにへばり付いた白い何か。
 令ちゃんの首が動き目が連動するかのようにこちらを向く。

「由乃、何故由乃がここにいるんだ?」
 うつろな目で、感情の読めない調子で令ちゃんは口を開く。どう答えるのが最適
なのだろう。私見は混じっているにしろ、状況のおおよそは想像できる。
 おそらくは令ちゃんは誰とも会いたくない。なのに、なのに、よりによって島津
由乃が、私が目の前に来てしまった。何を、どう答えるべきなのか見当も付かない。
「なんとなく声が聞こえたから。」
「…ふうん」
 今までに聞いたことのない息の抜けた相づちが返ってくる。どうしようもなく絶
望的な気分、意味の分からない苛立ち、現状を認識しまいとする電気信号の錯綜、
酷く嫌な気分だと思う。
「令ちゃん、何があったの」
 自分でも馬鹿げた質問だと思う。答えなんて見れば分かることなのに。苦し紛れ
とは言ってももう少し気の利いた話を振ればいいのに。
「別になんでも。」
「この状況が何もないの?一体どうすれば何もなかったと説明できるの?」
 由乃は自分でも負けず嫌いな方だと思う。だからこそ言いたいことを反射的に言っ
てしまう時は多い。そして困ったことに言いたいことは必ずしも知性と判断に一致し
ないものだ。何かある度に一人苦労しては後悔する。でも、たとえ自分に責任があっ
ても他人の前では決して非を認めることはしたくない。
「五月蠅い、今日のことを人に話すな。そして……分かったら立ち去ってくれ。」
「分かったら、って。分かってない以上大人しく黙って立ち去るなんて---」
「黙れ。」
「そんな言い方は無いでしょ。私だって心配してあげているのよ。」
 何が心配して『あげている』だ。由乃、お前は何様なの。自分で自分の発言を否定
したくなる。理性とかそういうものが強い人はきっとこんな状況でも、ある程度は先
を考えて発言できるのだと思う。聖さまだったらどう声を掛けただろう。
「五月蠅いと言ったのが聞こえなかったか、由乃。」
 多分人を殺すときの眼ってこんな感じなんだろう、今の令ちゃんの眼には、そうい
う、一切の光が差さない漠然とした闇だけが広がってしまっているように見える。
「分かったわよ、勝手にしなさいよ。死ねばいいのに!令ちゃんなんか大嫌い!」
 言っちゃった。私の知る限り令ちゃんにとって最も残酷な言葉。
 大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い

 由乃は再び陽の差す表通りに戻ってきた。
 勢いだけで令ちゃんを置きざりにして飛び出してきた。今頃令ちゃんの所に戻るこ
となど出来そうにない。たとえ戻っても令ちゃんに何を言えばいいのかも分からない。
 ごめんなさい−−−謝って済むことでもないのに。謝って済むならなんて楽なんだ
ろう。多分、他の人から見たら私の、島津由乃の瞳には多量の涙を見て取れると思う。
もしかしたら気づいていないだけで頬を伝っているかもしれない。
 全てが夢であればいいのに、昨日の、下手くそな素振りに付き合ってくれる令ちゃ
んと由乃に戻れればいいのに。今日なんて無くなればいいのに。今日なんて要らない。
 買い物なんてどうでもいい。早く帰ろう。帰ってだらだらテレビを見てちょっと夜
更かしして、眼を擦りながら朝目覚めたら月曜日が来て、令ちゃんとからくりTVの話
でもして、気だるい昼休みを令ちゃんと一緒にパンでもつまみながら過ごして、放課
後は山百合会の人に文句を言われながら素振りをして、令ちゃんに笑われて…きっと
そういう、そういう日が来る。
 
 一睡も出来なかった。
 お腹がすいた、そういえば昨日の昼に食べたサンドイッチ以来何も食べていない。
 夕食は食欲がわかないからって食べなかった。
 気持ち悪い。全部が。カーテンの隙間から見える朝日といい、腹立たしいでしかな
い、意味もなく晴れた空といい、苛立ちを増長させるだけの水玉模様のカーテンとい
い。全部気持ち悪い。消えて無くなればいいのに。
「由乃、いい加減起きなさい。また支倉さんの前で寝顔見せたいの?」
 言われなくてももうとっくに起きているのに、いちいち癪に障る物言いだ。
「聞こえないの?もう7時過ぎてるわよ。」
 由乃が時計の読み方を理解したのは小学二年の頃だ。とはいえ算数の授業で習った
から読めるようになったというだけで、実のところそれまではアナログ式の時計は読
めなかった。どうすれば長針が10と11の中間にあるのに52分などと読めるのだ
ろう。この疑問が解けるようになったのは、長針と短針を同じ盤の上で動かす必要性
とを認識できた小学三年になってからだ。
 結局針はどちらかに妥協しなければならない。当時小学二年生のの由乃はこの理不
尽な読み方にどうしても馴染めなかった、長針と短針の盤を別々に作ればいいのに。
 そうすれば長針も短針も誤解を受けずに済むのに。子どもの頃は世界を揺るがす素
晴らしい発明だと信じて疑わなかった。だから早速令ちゃんに教えて上げた。
「聞こえているんでしょ、返事くらいしなさい!」
 由乃はいつもよりやや長針の進んだ掛け時計を見ながら、生意気な子どもだった頃
の記憶を再生していた。令ちゃんに話すと笑って散々馬鹿にしてくれたっけ。
 令ちゃんこそ馬鹿なんだ、だから理解できないんだ、そんな事をまくし立てたと思う。
「…起きてるって。朝食は要ら−−−」
「なんだ、起きてるじゃない。体調でも悪いの?」
「えっと、朝食は何?」
 食べる気は起こらない、けど何か食べないと。きっと顔色も悪いことだろう。
「ハムエッグとトースト。切れたって言ってたママレードも買い足しているわよ。」
 島津家は別段裕福というわけでもないが貧乏というわけでもない。敢えて言うなら
ば中の上くらいだと思う。こういうとき小笠原邸のような場所だったら、こんなに気
を紛らわせることができるのだろうか。
 白身と黄身が分離したまま固まったスクランブルエッグにいつものポンパのマーマ
レード。瓶のラベルに描かれたコック帽を着用したおじさんの笑顔が、今日だけはや
けに輝いて見える。
 テレビも新聞も判を押したようにトラック炎上の話をしている。どうでもいい話と
しか感じられない。そんなに珍しい話なのだろうか。ましてや関係ない人じゃないか。

「ごめん、ごちそうさま。」

 関係ない人が死のうと焼かれようと困ろうとどうでもいい。何時の間に島津由乃は
そんな考えを持つようになったのか。
 由乃は自分が変わりつつあり、そしてその方向が、今まで自分の知らなかった方向
へと向かっていることを確信した気がした。
 まずい、早く学校へ行こう。動いていないと気がおかしくなりそう。

 令ちゃんが来る時間になっても、やっぱり令ちゃんは来なかった。
 やっぱり夢じゃ無かったんだ、寝てもいない夜に夢を見るとは思えないにしても、
先週の月曜みたく始まってくれればいいのに。無理とは分かってはいるけども。

「おはようございます、ロサ・フェティダ・アン・ブゥトゥン」
 セミロングの下級生が校門前で由乃に朝の挨拶をしている。今の由乃には有り難い
話だ、少なくとも応対している間だけは昨日のことを忘れられる。
「ここ数日よく会いますね。汐口伊織さん。」
「私の名前まで覚えて頂くなんて、本当に感謝に堪えません。」
 さすがによく挨拶してくれる娘は名前も含めて覚えられるようになった。一年椿組、
汐口伊織。あのクラスではおそらく少しも目立たない娘なのだろうと思う。
「あの、今日はいささか元気がないように思われますが。そういえばロサ・フェティ
ダご本人は今日はおられないのですね。」
 地だか悪意によるものなのか分からないがこの娘は結構人のいたいところをつく。
 少しだけ、いつもの挨拶からでは伺い知れない深層的な性格を理解した気がした。
「そうね、体調でも崩したのかも知れませんね。」
「…そうでしたか。失礼しました。」
 伊織は軽く一礼してマリア像の方に早足で向かう。
 由乃は瞬時に悟られたと思った。少なくとも令ちゃんとの関係に何か起きている事
くらいは悟られている。何時も以上に丁寧に応対したのが逆に徒となったかもしれな
い。令ちゃんの話題になって、はぐらかしたように答えたのに、唐突に話題を打ち切
って会話を終わらせて、これで何も感付かない方が鈍感だろう。
 マリアさまの像の前で手を組み必死に祈る。
 伊織はもう先に行っているらしい、ただ闇雲に祈る。
 カトリックでは絶対神に直接祈りを捧げることは認められていない、それでも神に
直接祈りを捧げたい気分だった。何を祈っているかは由乃本人にも理解できていない。

 外は雨が降り出していた。
 朝こそ薄曇り程度だったのに、窓の外は一面の雨が今も止まずに降り続けている。
 授業は何を言っていたのかよく覚えていない。
 祐巳さんとは不思議と話す機会が無かった、もしかすると祐巳さんが私の変調に気
づいて配慮してくれているのかもしれない。
 持つものは友人だとはよく言ったものだ、朝の下級生とは違う。
 祐巳さんには感謝してもしたり無いと思うし、実際ありがたかった。
 
 志摩子さんはかく言う。
「ロサ・フェティダが---」
 令ちゃんは学校に来ているらしい。
 藤堂志摩子、彼女はこういうときに限ると意外に気が利かない。
 例え知っていたとしても黙っておいて欲しかった、ねぇ、気の利かない偽善者さん。
 私の何が分かるって言うの。いつもすました顔で一人抱え込んで。何様のつもりなの、
善人気取りも程ほどになさったらいかが。
 令ちゃんは私に会いたくない、もしくは会えないという事なの。考えれば猿でも分かる
ことを。私は猿とでも言うの、藤堂さん?本当に何様。ふざけないで。
 
 四時限目の化学は、テスト前ということで進度合わせの延長授業が行われた。もち
ろん昼休みにも5分ほど食い込んでいて、クラスの空気には不満感で溢れている。
「起立気を付け、礼」
 日直が心なしか早口気味に授業の終了を告げる。何も悩めることのない---あって
も取るに足らない小さな悩みしか持たない---女学生達は数分の遅れを取り戻そうと、
ある者は廊下に小走りに向かい、ある者は早々と左右前後の机を並べようとする。
 祐巳は由乃に軽く目配せをして、やはり廊下を早足で駆けていく。
「じゃあ、薔薇の館にいるから。」
 去り際に残した言葉に祐巳さんの優しさを感じた気がする。
 今日は食欲はわかない、だから昼食を取る必要はない、だからといってここにいて
も好奇の対象になるだけだろう。図書室で埃をかぶっている司馬遼太郎全集でも読ん
でみようか、全集にはまだまだ未読の章も多く残されている。
 そうだ、それなら特に詮索されることはなさそうである。何もしないと気が滅入る
だけなのだから行くだけ行って読書した方が気は晴れる。
 図書室は教室からは少し遠い。仕方ないことではあるし、それは我慢しよう。一部
の方、特に新聞部連中と、そして……令様に遭わなければいいだけの話だ。
「ごきげんよう、ロサ・フェティダ・アン・ブゥトゥン。と、聞くまでもなくご機嫌
斜めのようね。」
「…蔦子さん。」
 想定外の人物だった。
「ご機嫌斜め、ってそんなことはありません。」
「そうね。確かに、ご機嫌斜め、というよりも、何かに後悔なされているような、そう
いう方が近いかもね。」
 日頃からファインダーを通して世界を見ている人にはそう写るのか。
 別に否定するわけでもなく、『何かに後悔』というのは自分でも正しいと思う。
 何となく漠然とした不安感がつきまとってはいる。そしてその不安感は昨日の出来事
を現実と認める不安、もしくは昨日という一日を過ごした私への侮蔑、そして後悔、
そのどれかだと思う。
「その様子だと正解かな。で、一人で何処かに篭もろうとしていた?」
 全てを見透かしてしまう蔦子さんには一生敵いそうにない。
「でもそれだと逆効果。悪いことばかりが考えに浮かんじゃうから。意外と考えるほど
大したことじゃないかも知れないしね。」
「…ありがとう。」
 救われた気がした。確かにその通りだと思う。蔦子さんにとっては何気ないアドバイ
スでしかないのだろうが、今の私にとっては救いの光に思える。
 助かるかも知れない。
 そう思える。

 昼休みになっても、雨は止まずに由乃のいる小さな世界を濡らし続けている。
 少し雨に打たれた位が由乃にとっては気持ちがよかった。
 後ろ髪に水滴を絡ませた由乃はビスケット扉を開ける、扉の内側にいるのは紅薔薇
姉妹、白薔薇姉妹、何故か瞳子ちゃん、そして…最後に令ちゃん。
 一応は勢揃いしていることにはなっている。でも、やっぱり何となく部屋の空気は
ぎこちなくて、やっぱり原因は令ちゃんだということは何となく想像できる。
「あら、はしたない。風邪引いて苦労するのは貴方なんですからね。そちらにタオルが
あるから早めにお拭きなさい。」
 察した限りでは祥子様は会話のきっかけを欲していた。そしてこれ幸いに私が来たか
ら、この気まずい空気を打破するには丁度良いとか、そういう事なんだと思う。
 本来の祥子様なら、まず最初にヒステリックに怒っている。
 多分私もそれを何処かで期待していた。
 祥子様に怒られている間くらいは、刹那的にでも昨日と今日を忘れて、幾ばくか気が
楽になれるだろうと思っていたのに。
「タオルでしたら、より綺麗なタオルを持って参ります。」
 乃梨子が立ち上がる。
 普段通りとは行かなくとも、穏和な空気は由乃には有り難かった。
 何時も通りに皆がいてくれる。
 十分すぎる。
 神にいくら感謝してもしたり無い。そう思う。
 瞳子ちゃんの抱えているスコーンの、独特の甘く香ばしい匂いが心地よかった。

 何を期待してここ薔薇の館に来たのか、支倉令自身もまたよく分かっていない。
 由乃の行動パターンを考えると、変に出歩くよりも薔薇の館にいる方が由乃に出会う
確率は低いかも知れない。そういう見通しはあった。
 しかしそのもくろみは裏目に出た。
 令自身でも情けないとは思う。
「あら、はしたない。風邪引いて苦労するのは貴方なんですからね。そちらにタオルが
あるから早めにお拭きなさい。」
 珍しく大人しく黙っていた祥子が来たばかりの由乃に話しかける。
 その様を見ると昨日の悪夢を思い出す。
 レイプそのものも十分に悪夢だが、それ以上に、よりによって由乃に見られ、そして
配慮の無かった自分が、そして恐らくは由乃も、昨日という一日を後悔する悪夢。
 忘れたかったのに。
 困惑したような、何かを探るような時に見せる由乃の顔を見ると昨日のことを思い出
してしまう。
 昨日という一日は、忘れようとして忘れられるものではないことは重々承知している。
 それでも、由乃が眼前に昨日と同じ表情を浮かべてやってきたことに少なからず苛立
ちを覚えた。自分でも八つ当たりなのは分かっている。それでも腹立たしい事に代わり
はない。
「タオルでしたら、より綺麗なタオルを持って参ります。」
 乃梨子は変に気が利く所がある一方、本人では気づきようのない部分ではどうにも間
が悪い。少なくとも令はそう見ている。
「じゃ、私はちょっと用事があったんで失礼します。」
 この場合、私の方から場を抜け出すべきだと思う。無意識下とはいえ私の存在が場を
重くしている事くらいは分かっている。
 ましてや由乃が来た今、この薔薇の館に居座り続けても祥子達に迷惑を掛けるだけだ。
 一人で落ち着ける場所がいい。
 時間が経てば何れはどうにかなる。
 ただ、今はそれだけの時間を経ていない。
 由乃と私とでは、両者の間に、高くそして堅牢な壁が未だ厳然と存在してる。

「待って、令ちゃ…ロサ・フェティダ。」
 令ちゃんは自ら席を外そうとした。
 この機会を失えば今度こそ話し合う機会は無くなる、由乃の勘はそう言っている。
しかし、何を言うべきなのか。
「何?」
 突き放すような令ちゃんの声が聞こえた。
 こんなにも心配して、そして後悔しているのに。
「ちょっとだけでも話出来ない?」
 精一杯の勇気だっだと思う。今の私には。
「悪いけど話すことなんて無いよ。そうでなくとも---今は話すべきじゃない。」
 何。
 何。
 私が何をしたの。
 その言い方は何。そんなに私を拒絶したい?ふざけないで。
「じゃあそういうことで。…あと、悪いけど、由乃。暫く…会いたくない。」

 令が自分の発言を失言だと気づくのにさして時間はかからなかった。
 幸い誰も追ってきていない。
 雨はまだ止んでいない。
 未だかつて降り止まなかった雨は無いと言う、しかしだからと言って、今降っている
雨が降り止むとは言い切れない。
 今日の雨が降り止む保証など、一体何処にあるのか。
 漠然と薔薇の館での一コマ一コマを再生する。
 由乃には悪いが、それでもこれでよかったのだと思う。
 折りたたみ傘を開く。
 由乃は、泣いていた。

 令ちゃんはビスケット扉を静かに締めて外に行ってしまった。
 令ちゃんは、私の。令ちゃんは、その、余所事なんか気にしなくて。その、令ちゃん。
 そう。令ちゃんの、気に病む事じゃないのに。
 私だけの、令ちゃんで、いてくれればいいのに。
  令ちゃんだって、私だけを見てくれてさえいればいいの。
 それが令ちゃんなんだから。
 馬鹿な考えかも知れないけれども、でも、令ちゃんは令ちゃんのままでいいの。
 私と、令ちゃん。
 また、剣道のまねごとでも一緒にしよう。
 きっと、私の構えを見て、やっぱり令ちゃんは笑うと思う。でも、私は真剣にやってるの。
 失礼な、よしのーごめんよー、もういいもんれいちゃんにはならわない。
 負けず嫌いで悪かったですよ。

「いいの?ロサ・フェティダ・アン・ブゥトゥン。」
 祥子は事情こそ察しきれなかったものの、令と由乃の間に埋めがたい溝があることだけは
見て取れることができた。
「…ええ。多分、分かっているのだと思います。私も、令ちゃ---ロサ・フェティダも。」
 由乃は凛として答える。由乃の表情は、祥子が思っていたほどには沈んでもいない。
「もうこの話は止めて頂けませんか。山百合会の仕事だってあることなんですから。」
 祥子の予想に反して、由乃の声は明るい。
「無理することないのよ。今日は特に仕事なんてないから。」
「いえ、気を遣われる方が恐縮しますので。それに…ロサ・フェティダとは、ちょっとし
たすれ違いみたいなものですから、私も、ロサ・フェティダも、きっと分かり合えるはず
です。今まで見たいに。」
 祥子が、---いや、祥子だけでなくこの場にいた全員が---由乃の真意を読みあぐねた。
由乃の発言には真意、というよりも得体の知れない違和感を感じ取った。
「では、何もないようでしたら失礼します。」
 由乃は祥子達に背を向けて、古びた真鍮製のドアノブを回す。
「…そうね。何かあったら遠慮無く相談するのよ。私でも、祐巳でも、誰だっていいから。」
「深いお心遣い、ありがとうございます。ロサ・キネンシス。」
 由乃もまた令と同じくまごつくかのような丁寧な動きで、でもギシギシと蝶番の軋む音
を立てながら不器用に扉を閉める。

 扉が閉まろうとする。由乃さんの後姿を見ながら、祥子様が人のことを言えるものなの
だろうか、と、祐巳はふとそんなことを思った。しかし、次の瞬間には、揚げ足を取るだ
けの些細な事を、一瞬でも頭に浮かんできてしまったことを恥ずかしく思った。
 雨が、地面から撥ねる音が、窓や木々の葉を叩きつける音が、深く部屋に響いている。
 どうやらこの雨は数日続く長雨になるらしい。目覚ましテレビでそう言っていた。

 祐巳はダージリンのファーストフラッシュとかいう、どことなく高級そうな字面の茶葉
をティーポットに敷き詰める。
 由乃さんと令様の様子を鑑みるに、今は紅茶を淹れるどころではないようにも思えたが、
祥子様がそうしろと強く仰るので仕方なく熱湯をポットに注いでいるのである。
 たぷたぷと湯が注がれる。茶葉がポットの中でぐるぐると回りだす。
 既に、令と由乃の二人が部屋を出て行ってから十分ほど経っていた。雨は、止む気配も
ない。
 根拠こそ無いものの、おそらく祥子様にも何らかの考えがあるのだと思う。
 ティーポットを盆に載せてテーブルに運ぶ。
 本来こういう仕事は下級生の乃梨子にやらせるべきだ、と祥子は常日頃から言っている
が、どうも乃梨子は紅茶の淹れ方が分かっていないような気がする。
 そもそも、紅茶淹れの仕事だけは、他人に任せる気にならない。
「祐巳。貴方は座りなさい。ポットは私が注いであげるから。」
「いや、そんな、その、これは、私の仕事です。お姉様の仕事ではありません。」
「あらあら。でもね、偶には注がれる立場になるのもきっと勉強になるでしょう。」
「それはそうですが、しかし−−−」
「いいの、いいの。さぁ、お座りなさいな。」
 祥子は立ち上がり右隣の椅子を引いて、祐巳にそちらに座るよう促す。
「では、でも、せめて、カップくらいは、私が配りますので。」
「あら、もう祐巳ったら。気にしなくて良いのよ。」
「し、しかし、そんなことまでお姉様の手を煩わせる事はありま−−−」
「お黙りなさい。いい、祐巳、人の好意は素直に受け取るべきよ。」
「は、はい。」
 これ以上粘ってみても意味がないように思われたので、大人しく厚意を受け取る事にし
た。
「そ、そ、そんな、ロサ・キネンシスのお手を煩わせる事はありません!ここは私め、松
平瞳子にお任せを。」
「いいの、いいの。瞳子も大人しく座っていてくれればいいから。」
「し、しかしそれでは示しが付きません!」
「まぁまぁ、いいじゃないの。」
「乃梨子さん、貴方は、山百合会の薔薇様という位置づけがまだ理解されていないよ---」
「へえ。そういう貴方こそ、薔薇様のご厚意を無碍にするなんて失礼ではないの?」
「それとこれとは話は違います!私が申し上げているのは薔薇様ともあろう方がかような
些事に---」
「いいの、いいの。今回は山百合会の中なんだから。偶には悪くないでしょう。」
「ほら、ああ仰っているんだから。」
「乃梨子さんっ!」
 気づかぬ内に、何時も通りの、楽しく、そして少しばかり騒がしい山百合会が戻ってい
た。素直に楽しむことこそ出来ないものの、それでも幾ばくか気は楽になる。
 それにしても瞳子ちゃんは何故こうも違和感もなく館にいるのだろう、祐巳は今更なが
らにちょっと疑問に思った。
 結局、紅茶を注ぐのは瞳子ちゃんに決まったらしかった。

 雨は止まない。
 同刻、令はマリア像の前に立っている。
「由乃。」
 志摩子が乃梨子にロザリオを渡したのもここだったと思う。
 小さな折りたたみ傘だけでは雨の全ては遮断出来ない。肩口や靴下は、一目で分かるほ
ど重く水気を帯びている。
 時間が経てば解決してくれる。
「由乃…。」
 時間が、時間が、何時になったら、解決してくれるというんだ。明日、明後日、いや数
年先だろうか。
 でも、由乃と、私に、必要な時間は、数分とか数時間だとかの短い間隔では無いと思う。
 傘に守られているはずの髪までもが、湿気を吸って重くなっているのが分かる。
 このマリア像の前で、一体何組のスールが生まれたのだろう。そんなことを考える。聖
母像に落ちた雨粒の一つ一つが、マリア様の全身を伝って地面へと滑り落ちる。

「ロサ・フェティダ。」
 背後から掠れた声が響く。
「…何の用?」
 髪の毛先に垂れた雨の滴がしたたり落ちる。
 ぽちょん。
「---ロサ・フェティダ・アン・ブゥトゥン。」
 由乃、ではなく、黄薔薇のつぼみ。
 令は普段からこの二つの言葉を使い分けている。
 アン・ブゥトゥンという響きは、島津由乃との強い絆を確認出来る。だから、まだ何処か
で繋がっていたいから、つぼみ、妹---ブゥトゥン。時間を掛けて、そう言葉を紡いだ。
「何も。ただ、通り道で雨に濡れたロサ・フェティダを見かけましたので、何事かと。」
「…そう。」
「傘も差さずにいては風邪をひかれます。折りたたみ傘で宜しければお使い下さい。」
 由乃は、持ち歩いていた手提げ袋から小振りな藍色の折りたたみ傘を取り出す。令ちゃ
んに、ではなく、ロサ・フェティダに、だ。
 何が不味かったのだろう。
 些細なすれ違いの結果なのかも知れない。いや、きっとそうだと思いたい。
「僭越ながら、傘は出来れば今週中に返却して下さるようお願いします。」
 由乃の口調に表情はない。
 アナウンス用の人口音声がこんな感じだったと思う。
「ではごきげんよう、」
 本当に、
「ロサ・フェティダ。」
 何が悪かったのだろう。
 きっと、私は、泣いていた。

 呆然と由乃の後ろ姿を焦点に合わせる。
 さー さー さー
 雨音が強くなる。力なく渡された藍色の傘の重みが今もなお掌の中にある。
 ほんの少しだけの温もりが、僅かに残った由乃の体温を掌の上に映してくれる。
 由乃の姿は木の陰に消える。
 まただ。由乃との距離は何時も、ちょっとした弾みで広がってしまう。そして、その殆
どは自分のせいだ。もっと、冷静で、それでいて由乃に信頼される支倉令で無ければなら
ない、毎度の事ながらそう思う。いや、思うだけだった。
 由乃が許すなら、一昨日の続きが明日広がっているなら、何でもやってやる。
             かーん
 昼休み終了5分前を告げる予鈴がリリアン中に鳴り響く。
             きーん
 普段通りに過ごした方がいいのかも知れない。
             こーん
 ここにいても、きっと、悪い考えしか浮かばない。
             かーん
 折りたたみ傘の留め具を外す。金属の凸を押し込み羽根を開く。校舎に向かって早足で
駆ける。自然と足は速くなる。水気を帯びた髪と、制服が、鬱陶しい。曇ったガラスの向
こうに深緑色の姿がちらちらと映る。正面から、やはり視界を暈かせるだけのドアをゆっ
くりと開く。下駄箱が広がる。入り口から一歩一歩歩きながら櫛の字に配置された下駄箱
の間を見渡す。心臓がばくばく言っているのが分かる。でも歩みは止められない。
 二年生用の下駄箱を過ぎる。
 再び、後ろを含めて、ぐるりと周囲を見渡す。
 やはり、由乃はいなかった。髪が重い。制服が重い。本当に、本当に腹立たしい。

 無数の大粒の水滴を纏った教室に入る。
 苛々する。
 5限目は数学だったことを思い出す。教壇にまだ人影はなかった。糸崎先生はまだ来て
いない。幸いだったと思う。

 雨は何時止むのだろう。
 そんなことを令は考える。ふりやまない雨はない、それは今までの経験則の積み重ねに
よるものだ。つまり、今降っている雨が止むという保証は何処にもない。確か聖さま辺り
だったはずだ、今更ながらつまらないことを教えてくれた物だと思う。
 本当に、そんな事を思い出すと、雨が止む気がしなくなってくる。
「支倉さん、どうしたのですか。授業中は集中なさいとあれほど。貴方らしくもない。」
 …五月蠅いなぁ、もう。確かにそう言った。本音に他ならない。放っておいてくれ、ま
ったく気の利かない教師もいるものだ。
「どうしたの、支倉さん。そうね、一応聞くけど今何頁かしら?」
 小声過ぎて、どうやら糸崎先生の所までは聞こえなかったらしい。でも間違いなく周囲
の人たちには聞こえていると思う。でも、糸崎先生の普段のたゆまぬ努力のお陰か、特に
何もなく軽く流してくれた(ふりをしてくれた)のは幸いだった。
「何頁なの?聞いていれば分かるでしょう。」
 教壇まで本音が届かなかった事そのものは、幸いだったことに思う。間違いなく失言で
あったことは流石に即座に理解出来た。しかし先生が腹立たしい事に代わりはない。
「聞こえているの、支倉さん。」
 聞こえているよ、糸崎先生。分かるわけ無いでしょうが。ここでタウンページとでも答
えてやろうか、本気でそう思えてくる。その先が見えている、糸崎先生は顔を真っ赤にし
て怒り出すはずだ。それもいいかも知れない。
「いい、支倉さん。私が言うまでもないでしょうが貴方は薔薇様の一員なのよ。つまりね、
模範で無ければならないの。それがなんですか。理解されているとは思いますがね。」
 その響きにはっとした。薔薇様。鬱陶しい響きだと思う。でも、それでいて甘美で厳格
な響きだ。必要とあらば、我をも殺せる。本当の薔薇様とはそうでなければならない。
「…済みません、ついぼおっとしてしまいました。」
 起立して頭を下げる。もういい、形だけ薔薇様でいればいい。この先生も、ミスター
リリアンとか勝手に祭り上げた無責任な外野も、形だけ整っていれば満足する。
「そう。座って良いわよ。今は168ページの中段です。いい、支倉さん?」
 大人しく反省した振りをして頷いた。彼女は一瞥し、そして授業を再開させる。これ
だけで納得したらしかった。周りの同級生は、素直に感心しているような仕草を見せる。
 本当に、浅い奴らだと思う。

 5限目も後半にさしかかる。
 祐巳は幾度か左前に座る由乃を流し見たが、由乃の様子は明らかに普段の由乃のそれと
違っていることに薄々と感付いていた。
 祐巳にとってあれほどまでに大人しく微笑みを絶やさない由乃は新鮮以外の何者でもな
かった。
「次、3のかっこ4の問題ですが、まずこのままでは見れば分かるとおり分母が0になり、
解けません。したがって分母を別の形に変形しなければなりませんが…うーん、では島津
さん。」
「はい。」
「えー、じゃあ、どうすればいいと思う?」
「分子を因数分解してx-2を括りだして分母のx-2を消す…んじゃないかと思います。」
 祐巳がいくら教科書を読み直しても分からなかった問題を由乃はあっさりと答えた。
「うん。で、まぁこれ丁寧にしたをカッコで括ってくれているけど普通はないんよ。」
 祐巳にとって、数学の授業ほど頭が痛くなる授業は他にない。回りくどい式の変形やら
何処にも書いていない条件の設定などといった、迂遠な作業が昔から嫌いなのだ。
 その点、由乃さんはしばしば祐巳とは正反対の事を言う。パズルみたいな物、だとか、
マイナス40分かかりますだなんて言わないでしょう、だとか、とにかくも由乃さんは祐巳
の数学を嫌う要素を悉く否定してしまう。その割に、数学は嫌いらしい。
 由乃さんを観察していて気づく。由乃さんは数学のノートとは別に一枚のルーズリーフ
を取り出して、板書の合間合間を縫って何かをにこにこと記している。祐巳の位置からは
中身や字こそ見えなかったけれども、数学のメモや伝言ノートといった類の物ではない事
は確かだ。
 祐巳はひどく興味を抱かせられる。
 きっと、令様への何かの心持ちなんだとは思う。
「福沢さん。」
 いきなり祐巳の名字が呼ばれた。
「じゃあ、簡単だけど、どうやってこの形から答えの形に持って行こうか。」
 由乃さんが簡単に答えた問題の続きらしかったが祐巳にはさっぱり分からなかった。
 何処が簡単なのだろう、と祐巳は思った。

 不思議な物で、時間という物は何もせずとも過ぎるし、授業という明白な目標のある時
間は余計に早く過ぎ去ってしまう。
 令の中で、昨夜から続く動揺は少しも止まる気配がなかった。高らかに鐘が鳴る、7限
目の授業が終了する。ひどく馬鹿らしい音だと令は思った。
 他の生徒は黙々と教科書やノートといったものをバッグに仕舞い込み、各々掃除の持ち
場所へと散っていく。令は今週まで生徒昇降口の担当となっている。
 酷く気分は優れないままだ。周囲の無責任で我が儘な期待に応じ、役柄を演じるだけの
薔薇様というのは意外に疲れなかった。全てが建前の暮らしも悪くない、そう思えた。階
段を下りる、掃除箱から箒を取り出す。
 生徒昇降口、要するに下駄箱で埃を集める。雨のせいで水気を持った埃は箒の枝の細い
一本一本では掠め取ることが出来ない。しかたなく自然と集まった細長い埃の塊を手で拾
う。背中を屈めて一つ一つ灰色の塊を拾う。
 令の組の下駄箱にさしかかる。気づく。自分の下駄箱だった。支倉令、丁寧に名前入り
のプレートが挿してある。半透明のアクリルのパネルの奥に、本来のグレーの壁材とは異
なった白い壁が見える。
 少しは落ち着いていたはずの動揺が再び走る。今すぐにでもパネルを開け、白いその紙
のその中身を観たかった。令は、それでも、幾分かも気にかけない振りをする。
 その紙の差出人と、その字を見るだけで、泣き出すかも知れなかった。薔薇様として、
それはやってはいけないことだと思った。
「どうなさいましたか令様。」
 唐突に、クラスメイト---名前は菜穂とかいったと思う---に話しかけられる。驚いたな
んてものじゃなかった。
「ああ、いやなんでもないの。こっちはもう粗方終わったと思うけど、そっちは?」
「少しは残っておりますが…雨の日は限度があります。それくらいです。私どもは十分と
思うのですが完璧という訳でもないので、令様が不満と言うことでしたら従います。」
 令は下駄箱で形作られた櫛形の先端から、見晴らしの良いエントランスに向かって歩く。
ひとまず周り、特に床を見渡す。大きいゴミは無いが細かな部分で不届きな箇所もある。
菜穂さんの言葉は実に的確に状況を説明出来ていた。
「あのね、菜穂さん。完璧でないと思うと言うことは汚れがあるということでしょう。
それでは掃除の意味がないのではないの。」
 薔薇様なら、きっとこう言うだろう。咄嗟の割には上出来な台詞だと令は思った。
「はい、その通りです。失礼を致しました。」
 菜穂さんと、後ろで様子を見ていた玄関掃除担当の生徒達数人は、令の言葉を聞いてい
そいそと散らばる。誰の目にも付かないような隅の部分や窓の支え、そういった部分を彼
女らは雑巾で拭き上げ始める。余りに丁寧すぎて、その様子を見た令は得体の知れない苛
立ちを覚えた。
 私が終わりというまで、彼女らは黙々とつまらない箇所を拭き続けることだろう。
 露の間ほどの時間すら惜しかった。
 早く終わればいいのに。馬鹿。
 大体、私は先生でもなんでもない、終わりたいなら終わればいいのだ。
「令様、これ以上時間を掛けると終礼に間に合わなくなります。」
 既に分かっている。この子に悪意は無い、
「そうね、では終わりにしましょう。」
「あ、はい。」
 後方で聞き耳を立てていた生徒達に安堵の色が広がるのが見て取れた。
 薔薇様の、果たして何が羨ましいものだろうと令は思う。

 ほぼ同刻。
「歯が痛い。」
 祐巳にとっては不意打ちだった。
 机を並べている最中、由乃が祐巳に呟く。今日の由乃さんは、何があったかを窺い知
ることは出来ないが、とかく愛想が良くて、そして機嫌が悪かった。
「虫歯?なら早めに行っておいた方が後々楽だよ。我慢しても治るものじゃないし、
その間ずっと痛い思いをするだけなんだし。」
「うん、ありがと。祐巳さん、心配してくれてるんだ。」
「まあ、そりゃ、さぁ。」
「…ねえ、やっぱり私って演技下手なのかな?」
 由乃が唐突に発した問いは、祐巳にとっては想定範囲の遙か外にあった。
「どういうことか分からないんだけど…。」
「いや、ごめんね。やっぱりいいや。さ、掃除掃除。」
「…よくないでしょ。」
 祐巳の口からは、自分にとってみても思いも寄らない言葉が飛び出す。
「何時も意地張ってさ、結局のところは、よく知らないけど、由乃さんの、由乃さんの、
由乃さんの、その由乃さんの思いこみと意地だけなんでしょ。今の今までだって、令様と
由乃さんなら、何時だって、由乃さんの問題だったじゃない。貴方は何様だったの?」
 黙れ私。
「いっつも、令様は後悔してる。由乃さんも後悔する。違う?それとも楽しいの?」
「ねえ、ロサキネンシス・アン・ブゥトゥン。紅薔薇様に伝えてくれる?今日はそんなわ
けで薔薇の館には行けませんって。」
「どういうこと?令様に会いたくないから?それは分かるけど−−−でもね。」
「いいの、もう。今更だから。」
 由乃さんは一呼吸置いて俯き加減に続ける。
「歯が痛いから、今日の山百合会は休ませて頂きます。」
 これ以上言うのは酷だ。祐巳の中で、ようやく理性が歯止めを掛けてくれた。
 気付くと教室は静まりかえっていた。無理もない話だと祐巳は思った。祐巳自身でも
よく分からない状態だったのだから、周りからすれば十分注目に値していたと思う。
 やはり少しばかり恥ずかしかった。そして、由乃さんなんてどうにでもなれと思った。



久々に書こうとしたけど何を書いていたのか覚えていなかったっ!(´ー`)

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