体には自然治癒力がある


体には自然治癒力がある
 治癒は外からではなく、内からやってくる。それは失われた平衡を取り戻そうとする、体に本来備わった働きである。治癒が起こるのを防ぐことも出来なければ(その表現を邪魔することは出来ても)、外部の誰か、或いは何かから治癒そのものをもらうこともできない。治癒力は生まれながらにして備わっている。あらゆる動植物、そしてたぶん、あらゆる創造物がそうであるように、あらゆる人が生得の治癒力をもっているのだ。

 病んでいる人の言葉に耳を傾けてみる。彼らが求めているのは治す薬、治してくれる人、そして治ることだ。医薬や治療家は、治癒反応に触媒作用を及ぼし、治癒を妨げているものを取り除くことはできるかも知れない。しかし、最初からもっていないものを与えることはできない。治る力はその人に固有の属性であり、常に変化する諸条件が整えば、いつでも原状に復帰できることを保証する、生得権なのだ。


  病気の作因は病気の原因ではない
 健康という概念の思想的な起源をかくも曖昧にしてしまった唯物的医学はまた、病気と病気に導く作因との間の因果関係についても、危険で誤った信念を助長してきた。細菌は病気の作因である。細菌は人間に影響する特定の条件下で、直接的に作用して病状を起こさせる。たとえば、インフルエンザウイルスは気管支内膜に炎症を作って、違和感や咳を惹き起こす。マラリア原虫は、蚊を介して感受性がある人の血中に入ると、赤血球を増殖させてついには破壊し、マラリア特有の悪寒と高熱を惹き起こす物質を放出する。

 しかし、感受性があるとはどういうことだろうか?原虫の侵襲を受けた人がすべてマラリアにかかるわけではない。免疫系が働くか、未知の理由かによって、発病しない人もいる。インフルエンザウイルスが体内に入っても、さまざまな理由によって発病しない人はたくさんいる。病気の作因が病気を起こすわけではないのだ。作因は単に、危害を加えるチャンスを待ち受けている、病気の潜在的ベクトルに過ぎない。チャンスが来れば危害を加える。チャンスは、相対的に健康な状態のサイクル変動によってもたらされる。平衡がにわかに崩れたその瞬間に、病気の作因はめざとく活動の場を見つけ出し、そこで繁殖し、連鎖反応を起こしてついには宿主を亡ぼす。

 病気の作因はいたるところにある。ウイルス、バクテリア、原虫のみならず、発癌物質、アレルゲン、昆虫、毒性植物等々、無数の潜在的刺激物として存在している。相対的に健康という山の局面でしっかりと平行を保っている人は、そうした作因と相互作用してもめったなことでは発病しない。作因との関わり方を決定するのが内部因子である以上、病気の真の原因は内部にあるといわなければならない。内部にあると同時に、それはまた非物質的なものである。平衡が破れるという必然性、現実にさらされるという必然性に対処することを余儀なくされている非物質的なものだ、と思われるのだ。

 くどいようだが、その点だけは強調しておく必要がある。外部の、物質的なものは決して病気の原因ではない。それはただ、感受性のある宿主に特異的な症状を起こす機会を狙っている作因でしかない。感受性は確かに体組織の物理的・化学的変化を伴っているかも知れないが、その変化の始まりは別の領域で起こっているのである。

 この原理が示唆しているのは、現代医学に支配的な予防観及び治療観とは別の考え方だ。病気の作因を排除するという希望(空しい希望だと私には思われる)をもってそれらに戦いを挑むのではなく、それらに対する抵抗力を高め、それらとのバランスを保ちながら生きる方法を学ぶことに、努力を傾けるべきではないか。
(アンドルー・ワイル博士著、上野圭一訳『人はなぜ治るのか』「現代医学と代替医学にみる治癒と健康のメカニズム」より
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