パパの不思議world
(パパの介護記)

アルツハイマーの父の日常は、端から見るとまったく不思議です。
どこか脳細胞の一部が抜け落ちて、いままで出来たことが出来なくなっていきます。
すこしずつ少しずつ、アルツハイマーは父の記憶や思考回路を奪っていきます。
このコーナーも、「パパの不思議world」と改名。

<2001年の1〜3月期>

<目次>
お正月 @お正月ということがわからなくなっている
戎神社縁日のころ(1月上旬) A時として自宅にいることがわからなくなる
1月下旬ころ B母の手紙<母のしたためた、デイ・ケアあての父の様子を知らせる通信文>
C活力がなくなっていている〜昼間居眠り
D父の夜食タイム
E大阪での女子マラソンを沿道で声援
F父の74歳の誕生日
2月上旬ころ G自分の母親の名前を呼ぶ父
H周りの人間の感情の起伏はそのまま、父の感情に反映される
I新聞紙の上にうんちが並んでる!!!
2月中旬ころ Jふたたびおなかを壊す
K父と毛糸だま〜編物を手伝ってくれる父
2月下旬ころ L夜間の尿意に気づかなくなっている
M大阪でのハーフマラソンを沿道で声援
3月上旬ころ N春になって徘徊の虫がうずうず?〜迷子札をつけることを提案される
3月中旬ころ Oうんち事件第2弾!
P人の振り見て我が振りなおせ?!?
3月下旬ころ Qデイケアセンターに通いはじめて丸1年



2001年お正月〜お正月ということがわからなくなっている
 21世紀の幕開けで世間はおめでたい気分のようだが、父はそれを感じているのだろうか。
年末年始は、いつも行っているデイ・サービスもお休み、寒波もやってきて外はとても寒く、さすがに外出する気分にもなれないようで、食事を終えたら、椅子に座ったままこっくりこっくり居眠りをしている。
 年賀状に目を通すこともしない。昔からのお付き合いで、どっさり届く年賀状も、父にはなんの意味もなさないようだ。

 <父と年賀状>
◎3年前〜宛名カードを準備するも、お付き合い別に分類したり、年賀状を出すorださないを区別できなくなっていた。
とかく何をするにも、ごちゃ混ぜにしてしまい、必要以上に時間がかかって、結局できずじまい。

◎2年前〜父がやったら、同じ人に何枚も宛名を書いたり、何度も間違いの住所を書いたりして、「宛所にたずね当たりません」と帰ってきたハガキが多かった。見かねたわたしが、残りのほとんどを手伝った。

◎1年前〜母が発注して、印刷のできた年賀状に、宛名を書くのはわたしの仕事。父はノータッチ。

◎今年の年賀状〜すべてわたしの担当。父のお付き合いの範囲がわかりずらいので、母が年賀状を出すorださないを区別してくれた。

 <父とお正月>
◎2年前〜大晦日にはきちんと新しいお箸をそろえ、箸紙にはめいめいの名前を書く。
 お正月2日には、次女夫妻が尋ねてきてくれるのでおせち料理で簡単な会食。
 その後、家族そろって近くの神社に初詣。
 長年、変わることなく繰り返されている、我が家のお正月をなんとかこの年は過ごすことが出来た。

◎1年前〜日にちや時刻が認識できなくなって久しい。よって大晦日やお正月も認識できていないようだった。
 それでも大晦日は、なんだかそわそわして、いつも早く寝床に入る父なのに、このときは遅くまで居間で、見るとはなしに紅白歌合戦を見て、地元で行われた2000年へのカウントダウンイベントを母と一緒に見に行ったりしていた。

◎今年のお正月〜父にとってお正月と認識されていないようだ。
 ただ、いつも通っているデイサービスがお休みなので、のんびり過ごしているだけ。
 例年年始に訪ねてくれる次女夫妻が来てくれても、父は娘婿の名前や顔を忘れてしまった。
 いっしょに会食していても、たんなるお客さん、としか認識できていないようで、名前を呼びかけることは
 おろか、会話することも無かった。わたしたち家族とも、言葉のキャッチボールとしての会話は出来なくなっている。


 暖かくストーブの入っている部屋で、うつらうつら居眠りをする父。顔を覗き込みながら、「なぜこんなに壊れていくのだろう・・・。どこまでこわれていくのだろう・・・。」

 アルツハイマーという病気は残酷だ。父が父でなくなっていく。人間がどんどん破壊されていくのだ。今までできていたことができなくなる、わかっていたことがわからなくなる。今までの父を見てきているだけに、どうしてこんなふうになっていくのだろうというやり場のない悲しさがこみ上げてくる。

 わたしや妹の名前は覚えている。「わたしの名前は?」とたずねると、ちゃんと答えてくれる。でも、母の名前は、記憶として取り出すことはできなくなった。「かあさん。」とだけ、答える。「かあさんの名前は?」とたずねても、「かあさん。」という答えが返ってくるだけ。「かあさんはね、N子(母の希望により、匿名にて失礼します。)っていうんだったよね。」と、うながすように声をかけると、「ああ、N子だったなあ、N子だなあ。」と懐かしむように何度も繰り返す。

 けれども、その数分後にもういちど、「かあさんの名前は?」とたずねても、「かあさん。」と答える。いつもいつも、ちょっとでも家の中で母の姿が見えないと、「かあさんは?どこへいったんや?いつ帰ってくるんや?」と探している父だが、「N子」という名前は記憶からは抜け落ちかかっている・・・。母も、こんなふうになっていく病気だから、と納得しようとしているものの、悲しみは深い。

2001年戎神社縁日のころ(1月上旬)〜時として自宅にいることがわからなくなる
 この冬の始まりかけのころから、自宅でくつろいでいる父がよく発する言葉・・・

・ ・・「ここはどこかな?」
・ ・・「ここは誰の家かな?」
・ ・・「さあ、家に帰ろうか。」
・ ・・「ここに来ていることは、ちゃんといってあるのか?」

 お茶を飲んだり、夕食後にほっと一息ついているときのこの言葉。くつろいでいるのはわたしと母だけで、父は何かしら不安になっているようだ。家にいるのに何か落ち着かないのだろうか。そわそわして、あちこちの扉を開けたり、外に出て行こうとする。

 「大丈夫だよ、ここはおとうさんのおうちだよ。」「みんなここにいるよ。」

 何度もこんな会話が繰り返される。居間は、カレンダーを架け替えたり、生活用具があふれていたりするので、何か落ち着かないのだと気づいた母が、ずっと昔から趣が変わっていない座敷のほうへ父を促す。ぐるりと座敷を見て回って、やっと落ち着いてくるようだ。

 だんだんとこのような光景が繰り返される頻度が高くなってきた。すこしずつ少しずつ、アルツハイマーは父の記憶や思考回路を奪っていく。

2001年1月下旬ころ〜母の手紙

<母のしたためた、デイ・ケアあての父の様子を知らせる通信文>

 「最近、朝8時過ぎの起床が出来ず、こちらが起こしても返事はしますが、自分で起き上がろうとせず、毎朝困っています。尿意を感じないと一人で起きられない様です。夜は8〜9時までに就寝しますが、宵のうちは眠りが浅いようで、10〜11時くらいにたいてい一度起き出してきます。

 テレビの件ですが(デイ・ケアから、「家でテレビをご覧になりますか?」という質問に対して)、自分でスイッチオンにしますが、付けても画面をあまり見ようとはしません。時々テレビ前面のスイッチの位置がわからず、まごまごしています。集中力がなく、短時間見るだけです。

 だから、日々の話題に乏しく、その日のデイでしたことも覚えていず、連絡ノートを見て誘導しましても会話になりません。
 字は、熟語なども正しく読め、新聞のタイトルや本文もよく声を出して読んでくれます。しかし字を追っているだけでないようで、内容はなにもわかっておらず、さびしいいかぎりです。
 書くことは、自分の名前くらいです。手元が少し震えています。

 もうすぐ誕生日ですので、話題にしますが、生年月日はなかなか思い出せません。昭和2年と、1月くらいまでは正確にいえるのですが、日にちは1日とか2日とか、まちまちです。」

(母は、下書きまでして、一生懸命、父の様子を知らせようとしていた。)
2001年1月下旬ころ〜活力がなくなってきている

 少しずつ、父の様子が変化してきている。秋のころに比べて、活力がなくなってきてるのだ。家にいても、デイ・サービスに出かけても、うつらうつらしている時間が増えてきた。デイ・サービスのレクリエーションでも、集中して出来ないようだ。その日の気分で、塗り絵なども一生懸命取り組んだり、いいかげんに仕上げたり、と、まちまち。

 機嫌屋、といってしまえばそれまでなのだが、機嫌が悪いときには、決まって何か原因がある。朝の不機嫌は、排尿の失敗。リハビリパンツのみならず、パジャマのズボン間でぬれてしまっていると、気持ち悪いようだし、本人も失敗したことがわかっているようだ。朝寝坊は認めているので、声かけをして起きてもらうようにはするものの、無理強いはしていない。

2001年1月下旬ころ〜父の夜食タイム

 食事を食べた後も何か口寂しいようで、「何か食べるものはあるか?」。その要求が満たされるまでは、なかなかうるさい。
夜は8時〜9時くらいの間に就寝するが、必ず2時間後くらいに起きてきて、

「さあ、もう晩ご飯、出来ていますか?」〜「えー、もう晩ご飯食べて、寝にいったのにー。」
「そんなにたくさん食べていない。」〜「えー、おかずもご飯もちゃんと食べたのにー。」
「何かちょっと、食べるものはあるか?」〜「(ぶつぶつ、もう、しゃーないなあ。食べ過ぎや。また、おなか壊しても知らないよお。歯も磨いてないのに。)ちょっと待ってね、今、おかあさんが作ってくれるから。」

 というわけで、父の夜食タイムが始まる。何か食べないと、本当に気が済まないようで、寝床から起き出してきたパジャマ姿のままで、食堂に居座る。仕方ないので、冬場ゆえ寒くならないようにカーディガンなどを羽織ってもらって、待ってもらうこと数分。

 わたしも母も、この夜食タイムを覚悟しているので、消化のよい、温まるものを、と考えて、湯豆腐を作る。お味噌汁などが残っているときには、その中にお豆腐を大きく切って入れて暖める。というわけで、最近、我が家では豆腐を欠かしたことがない。わたしと母の両方が、気を効かしたつもりで豆腐を2丁ずつ買ってきてしまうこともある。

 夜食タイムが毎日、湯豆腐!連日、湯豆腐!
ここばかりは、アルツハイマーで助かる(?)。直近のことを覚えていない父は、このメニューに文句は言わない。娘のわたしも絶賛する母の料理上手、温かい湯豆腐をおいしそうに食べて、満足げにふたたび就寝。

 「これでいいのかな。」と母と顔を見合わせることも多いが、父の病気にとっては、父の気持ちを荒げないことがいちばんの対処療法なのだ。明確な治療薬が未開発の今、対処療法で当たるしかない。

2001年1月28日〜女子マラソンを沿道にて応援

 ときおり雲は出たものの、比較的おだやかなマラソン日和の一日。大阪で大きな国際マラソンレースが行われ、長女のわたし(=R子)と、1年3ヶ月違いのわたしの妹(=T子、先にお嫁に行っている)が揃って出場。

 母はこの日に沿道で、わたしたちに声援を送ることを大変楽しみにしていて、父を連れて出かけることにした。〜「うーん、おしっことか、間に合うかな?大丈夫かな?」
 念のため、この日は昼間もリハビリパンツ着用、さらに万が一のときのために、着替え一式をかばんに詰めての外出となった。(わたしはマラソンレースを走っていたので、以下は、母の伝える父の様子。)

 母が、「さあ、もうすぐしたら、R子、来ますよ、続いて、T子も、走ってきますよ。」と、父に声援をうながしたところ、遠目から走ってくるランナーを見ては、「あれはR子か?あれはT子か?」と、どのランナーもこのランナーも全部わたしたち姉妹に見えるようで、落ち着かないらしい。

 いざ、わたしたちが通過するときには、母の興奮状態は極限で、沿道でもらった産経新聞社の小旗をちぎれんばかりに振っての大声援。ところが父は、きょとんとした状態だったそうだ。わたしは残念ながら、走りながら沿道の両親の姿を確認することは出来なかった(上り坂のさいごのところを集団で走っていて、給水に気をとられていたため)が、妹は母を見つけて、手を振ることが出来たという。しかし、父はそのとき、あらぬ方向を見ていて、顔もまったく妹のほうに向けられていなかったという・・・。

 事件はその後起こった。
選手の一団が通過して、少しくたびれたのか、父は沿道の石の上に腰掛けて休んでいた。この石の即席いすが、季節柄、冷えたようで、父は便意を催す。こういうこともあろうかと、綺麗なホテルの近くを応援ポイントに設定していたので、ここまでは予定通り。誰でも利用することのできるホテルのトイレをお借りしようと、数メートルの距離を移動するうち、あれよあれよというまに、漏れ出してしまったそうだ、うんちが。(お食事中の方、申し訳ありません・・・。)

 幸い、大きなホテルだったので、トイレの設備は申し分なく綺麗。トイレットペーパーも、備え付け。母は、意を決して男性用トイレに父と一緒に入り、父を着替えさせたそうだ。着替え一式を持ってきていて、正解!しかし、汚れ物を入れるビニール袋を忘れたようで、母は機転を利かせて、ホテルのフロントで、「ビニール袋、分けてください。」と大胆に申し出た。汚れ物なので、においが漏れ出さないか心配した母は、ビニール袋を2重まきにして、かばんの中に入れ、家まで持ち帰った。

 この事件のおかげで、同じ応援ポイントで、行きと帰りに2回選手が通過するのを声援するはず予定だったが、わたしたちの2回目の通過には、父とは母は間に合わなかった。
 わたしたち姉妹の晴れ舞台、大阪での国際女子マラソンだが、父にとっては、くたびれただけだったのだろうか・・・?

2001年1月29日〜父の74歳の誕生日

 きょうは父の74歳の誕生日。
 でも、今年は自分の誕生日ということもわからなかったし、日付自体、わからなくなって久しい。
「お誕生日ですね、お祝いしましょう。」といっても、「ふー〜ん」という感じ。「誕生日」という言葉の意味がわからなくなっている様子。何かをほしがる様子もなく、デイサービスも休んでしまって、一日中、こっくりこっくり居眠り。

 (父はじつは昭和2年1月生まれで、今年74歳。昭和元年が、1週間くらいしか存在しなかったため、大正15年&昭和元年&昭和2年早生まれの人たちが、同級生ということになります。)

2001年2月2日〜自分の母親の名前を呼ぶ父

 いつものように夕食後の「父の帰るコール」が始まる。
・ ・・「ここはどこかな?」
・ ・・「ここは誰の家かな?」
・ ・・「さあ、家に帰ろうか。」

 今日はそれにさらに、ひと騒動。
父:「かあさんはどこですか?」
母:「え、かあさんは、目の前にいる人でしょ。」(と、母は自分の存在をアピール。)
父:「そのかあさんと違う。」
母:「どのかあさんですか?」
父:「う・・・・ん。」
母:「かあさんのなまえは?」
父:「Yヱ。」

 この答えには、母もわたしもびっくり。「Yヱ。」というのは、なくなったおばあちゃんの名前。つまり父の実の母親の名前。母の名前(=N子)を、思い出せなくなって久しい父が、自分のおかあさんの名前を呼んでいる。

人は年老いてくると、子供に戻るというが、父も子供に戻っているのだろうか?幼少のころやんちゃ坊主だった父は、10歳をすぎてから、上の姉や兄を次々に亡くし、いきなり長男の役割が廻ってきたという。父の肩にのしかかる重圧は相当だったようだ。20歳になる前から、いろいろ苦労は耐えなかったらしい。何も考えずに遊んでいた、ほんの子供時代のことを思っているのだろうか?

2001年2月8日〜周りの人間の感情の起伏はそのまま、父の感情に反映される
 冬になってこのかた、朝が起きづらくなっている父。「あさですよ。」と呼びかけても、「うん・・・。」と返事をするだけで、一向に起きる気配なし。なんどもデイ・サービスのお迎えに間に合わず、そのまま休んでしまったり、あとから母やわたしが付き添って送っていったり・・・。

 ところが今朝は、尿意とともにうまく早い時間に起きることが出来て、デイ・サービスの送迎時間に1時間以上の余裕があった。ゆっくりと父のペースに合わせて、パジャマから普段着に着替えてもらう。更衣の順序がわからなくなる父は、いったん脱いだパジャマを、再び着込んだりすることもあるが、今日はのんびりゆっくり着替え。顔を洗うのも、父のペースに合わせる。食事もおだやかに。時間があると思うので、わたしたちもあせることなく、余裕を持って準備できる。

 すると、いつもは不機嫌な父が、穏やかな表情を見せる。わたしたちのゆったりした気持ちが通じたかのように。介助者がゆったりした気分で声かけすると、父も機嫌がよい。

 朝寝坊をして、大慌てで更衣・洗面・朝食と準備するときは、家族のわたしたちまで、いらいらして、父を急がせてしまう。すると父は、朝の寝起きの不機嫌に加えて、わたしたちのイライラが伝わったかのように、さらに怒りっぽくなる。やはり、周りの人間の慌ただしい様子やいらいらした様子をいち早く察知するのだ。

 それに、次々と次の手順を早口で指示されても、父の理解力を超えてしまい、そこで頭がいらいらしてしまうようす。
 アルツハイマーの父にとって、周りの人間の感情の起伏はそのまま、父の感情に反映されるようだ。

2001年2月9日〜新聞紙の上にうんちが並んでる!!!
 あ〜れ〜!!! ついに「うんち事件」が!!!
 いろいろなアルツハイマーの症例を頭に入れていて、覚悟はしていたが、ついにうんちまで。

 今日の父、便意を催したようで、トイレを探していた(家の中で、時々トイレの場所がわからなくなることがある)ので、トイレまで誘導。いつも、排便のときはズボンを脱いでからトイレに入るので、今日もそのように。
 しばらくたっても出てこない。中でがさがさ音がしてる。ちょっと不審に思ったが、トイレの扉は閉まっているので、父の自主性を尊重して、のぞくほどのことはしない。その後、さっぱりした感じで出てきた父。水洗トイレの水を流すことを忘却して久しいので、今日も、排便の出来具合(よく父はお腹をこわすので)を確かめるのを兼ねて、トイレチェック。

 すると・・・、洋式便器の横に、新聞紙が敷かれていて、その上に標本のような便が3本並んでる!!!信じられない光景だ。覚悟はしていたが、こんなこともある。「なぜ、便器の中ではなくて、わざわざ新聞紙の上に?!?」・・・それがパパの不思議worldだ。
 (注:標本のような便が3本、というのは、はしから順に、固い便、やややわらかい便、やわらかい便、と並んでいたからです。お食事中の方、すいません・・・。)
 すぐに父の手のひらを点検するも、手は汚れていない。どうやって、並べたのだろう???それにしてもうまい具合に並んだものだ。排便の出来具合をチェックするにはもってこいだった。

 とか何とか、感心している場合ではない。さすがにこの出来事にショックを受けたわたしは、市の福祉事務所の、気のおけない職員の方にそっと打ち明けた。
 「そんなこともありますよね。その新聞紙を、便器の中に詰めたりする人もいるんですよ。」
便をあちこちに素手でぬすくりつける人もいるらしい。(有吉佐和子氏の『恍惚の人』の中のおじいちゃんがそうだった・・・)
序々に進行しているアルツハイマーの脅威をあらためて感じた。

2001年2月10日〜ふたたびおなかを壊す
 昨日の「うんち3本事件」から、今日はおなかを壊してしまった。昨日のあれは、その前兆だったのだろうか? 便意を催して、トイレに向かおうとズボンを下ろすころまでにはもう、出てしまっていて、パンツの中にどろっとついてしまう。こんなことになってしまって、父がいちばん、気持ち悪いだろう。

 パンツを着替えるのを手伝うのは、母の役目になっている。わたしはまだ、父のふりチンを見たくないからだ・・・(ヘルパーとして、よそのお宅のおじいちゃんのおむつ交換や清拭は、平気)
 汚れてしまったパンツは、どうしようもないから、捨てることにしている。最近は「100円ショップ」がいたるところに出来ていて、男性用のブリーフも100円で買うことができる。これがぺらぺらの薄いものではなくて、けっこうしっかりしているから、大助かり。使い捨てのリハビリパンツ(紙オムツのパンツ)も使っているが、これは1枚単価100円以上かかる。どちらにせよ、ブリーフとリハビリパンツをうまく使い分けるように。

 お腹をこわしてしまった対策は、食事療法だ。母が気をつけて、おかゆや卵豆腐、やわらかく煮た野菜などを用意する。油ものやお肉類は厳禁だ。これでしばらく様子をみると、通常は治ってくる。

2001年2月の寒いころ〜父と毛糸だま
 この冬、わたしは久しぶりに編物をした。以前はよく、編みこみのセーターや、カウチンセーターなどの大物も編んだものだが、最近はすっかりご無沙汰。

 夕食後のゆったりした時間に、父に手伝ってもらおうと編物を取り出す。案の定、丸い毛糸だまから少しずつ毛糸が引き出されていって、わたしの手元で編み上がっていく様子が面白いらしく、毛糸を引き出すのを手伝ってくれた。

 今回のわたしの作品は、初心に戻って、マフラー。まっすぐに編み上げていくだけなので、機械的に編み針を動かすだけでよい。手元で編みながら、父の様子を観察してみた。毛糸を少しずつうまく引き出してくれる。そのうち、テーブルの上に列に並べ始めた。次にどんどん引き出して、うずたかく積んでいった。さらに、今度は自分の手に巻き始めた。また、それをほどいて、テーブルの上に列に並べた。どういう順序があって、このような手順になるのか、これまたパパの不思議world。

 それでも、こうやって父に手伝ってもらいながら、好きな手編みをするのは、至福の時間といえる。母も隣に座って、にこにこしながら見ていてくれる。外は寒いけれど、ストーブの入った部屋で、ゆっくりすごす家族団欒の時間。

2001年2月下旬ころ〜夜間の尿意に気づかなくなっている
 秋のころから、夜間の排尿に間に合わず、寝室からトイレまでの間に、ぽたぽたと尿を漏らしながら移動していた父。翌朝の拭き掃除が楽なように、廊下にずっと段ボール紙を敷いている。

 ところが最近、夜間の尿意に気づかなくなっているようで、夜にトイレに起きだすことがほとんどなくなっている。夜間に着用しているリハビリパンツは、朝には必ず濡れている。濡れているといっても、リハビリパンツは大変吸水性がよく、尿を吸い取ったら、表面的にはさらっとした感じで、濡れている感じはない。だが、父の夜間の数回の排尿を吸い取りきれずに、尿とり部分から漏れてしまうことが多々あるのだ。(リハビリパンツは、吸水量450ccのものを使っている)

 パジャマのズボンも濡れ、シーツも濡れ、朝には濡れぬれ。こんなに濡れていては、冷たいだろうに、と疑問に思う母とわたしだが、それでも父は明け方ほどぐっすり眠っている。今のところ、シーツは介護用品のちゃんとした防水シーツではなく、手近な防水シートで代用している。
 拭き掃除はしなくてよくなったが、洗濯が大変。それに第一、夜間の尿意に気づかなくなっている、ということは、尿意の喪失〜失禁へとつながるので、このことは父にとっては後退なのだ。

週末には、ふたたび大阪の町でハーフマラソン大会がある。大阪城周辺もコースに入っていて、ちょうど梅のシーズン、花が大好きな母は父と一緒に応援に沿道にでてくれるという。今度は大丈夫かなあ。父はわたしを見つけてくれるかなあ。今度は参加するランナーも3000人いる。フルマラソンよりもさらに速い速度で走っているわたしが、ちゃんと両親の姿を発見して、手を振ることができるかなあ。

2001年2月25日〜大阪でのハーフマラソンを沿道で声援
 表記のマラソン大会を沿道で声援する予定だったが、前日にお腹をこわし、出先のデイサービスセンターで便失禁(軟便)。下痢をしていたために、便意をもようしてから、トイレに駆け込むまでに間に合わなかったらしい。父は若い頃から腸が弱く、ちょっと食べ過ぎるとよくお腹をこわしていたという。最近では、母が消化の良いものを心がけているにもかかわらず、お腹をこわすことがさらに多くなってしまった。

 そんなふうだから父はとても痩せている。もう少し、ふっくらしてくれたら、より穏やかな表情となるのに・・・。

 というわけで、お腹をこわしてしまったため、外出は見合わせることになった。ちょうど1ヶ月前の、おなじ大阪市内でのマラソン大会に、父と母、揃って出かけたものの、寒さがたたって父は道中で下痢をしてしまった・・・。母は、そのことに懲りたようだ。

2001年3月上旬〜春になって徘徊の虫がうずうず?〜迷子札をつけることを提案される
 デイケアの施設から、ふらりと出て行こうとしたらしい。幸いそのデイケアセンターは玄関に受付があり、係りの方が父の様子に気づき、父が玄関を出たところでいち早く制止してくださったため、大事には至らなかった。

 これから春に向けて、外も暖かくなり、気分的にもうきうきしてくる季節に向かい、「歩きたい、(外に)でたい。」という気持ちが強くなってくるようだ。そうなってくると、辛抱できず、すぐに外に出て行きたくなるのだろう。じっとしていることが辛く、立ったりうろうろしながら出口を探し出しては外に出たいと、それだけを考えて行動するようだ。

 家庭では、なるべくその気持ちを尊重して、父の見守りを続け、少しでも外に出たいようなそぶりだと、散歩や買い物、または郵便局などの用足しに付き合ってもらうようにしている。「おとうさん、今日はたくさんお買い物をするから、ちょっと荷物を持ったりして手伝ってくださると助かるな〜。」「郵便局にたくさん小包をもっていくから、ひとつ運んでくださると助かるんだけど〜。」などと、父の気持ちを促す。

 しかし大勢の方を預かってくださっているデイケアセンターでは、そうもいかない。迷子札ともいうべき名札を、衣類の表側の下部につけることを指示していただいた。もともと父はよく散歩に出かけていたので、万が一のことを考えて、1年程前から衣類の裏地に名札を縫い付けている。しかしそれでは一見して見難いので、表側につけるといいそうだ。

 これには少し抵抗がある。衣類に名札をつけるなんて、「わたしは徘徊癖のある痴呆老人でございます。」と、世間様に向かって公表しているようなもの・・・。しかし親身になってお世話してくださっているデイケアセンターからの提案なので、せっかくだし、試しにつけてみることにした。

 以下は、初めて衣類の表側の名札を縫い付けていった日の父の様子・・・(デイケアセンターの職員の方の記録より)

 『本日、紺のカーディガンの右下の名札の取り付けを見つけられ、白い布が見えないようにくるくると巻かれ、手で少しの間押さえておられました。まだその名札を見てハット恥ずかしがるお気持ちが嬉しく思います。何か言おうとしていらっしゃったので、「今日は雪が降ったりやんだりですね。」と話し掛けると、「そうですなあ。」とお答えくださった次には、名札のことは忘れてくださいました。』

 とはいえ、その後の父は、落ち着いた様子を見せてくれているので、また、名札をはずしてセンターに通所したりしている。今日、落ち着いているから、明日も穏やかだろう、という保障はないので、見守るわたしたちの油断は禁物なのだが・・・。

2001年3月中旬〜うんち事件第2弾!
 先月の、「トイレ内うんち3本並び事件」は、単発で終わった。その後、同様の事件は今のところ繰り返されてはいない。
 しかし春になって新たな事件発生。

 冬の寒い朝、父はよく、寝室から縁側に出て、縁側に仁王立ちになり庭に向かって気持ちよさそうに放尿している。もちろんわたしは目撃したわけではない、庭先に残っている水のしたたりにより、その様子を想像している。縁側にもわずかばかり水滴の飛ばしりがついているので、雑巾で拭いたり、バケツに汲んだ水で庭を流したり、と、水洗トイレと違って後の始末はけっこう重労働。

 とはいえ、痴呆が進むと、トイレの場所がわからなくなることと、尿意を我慢できなくなることで、部屋のところかまわずおしっこをしてしまうこともあるらしい。今のところ父は、縁側から外に向かっておしっこをしているだけだし、そのくらいのことをとがめるつもりもなく、父の行動に任せている。

 という具合に、縁側が父にとって、簡易小用便所になっていた。なるほど、小用ならまだ良い、庭を掃き清めようと箒を持って外に出た母が、素っとん狂な声を出してわたしに助けを求めている。「縁側の下に大きなうんちが転がっているんだけど、ねこかな?いたちかな?」

 あわてて確認にいった私の判断は、「おかあさん、あれはどう見ても人間の仕業だよ。ねこがあんなに大きなうんち、するわけがないでしょ。猫のせいには出来ないよ。」う〜ん、残念ながら、おそらく父が縁側からお尻を突き出してうんちを庭に落としたとしか思えない・・・・!?!それにしても、ものすごいバランス感覚だ。何かにつかまっていたのだろうか?そのうんちは、軟便や下痢でなかったことが幸いだった。

 念のため〜「縁側うんち事件」も、今のところ、この一度だけの単発である。

2001年3月13日〜人の振り見て我が振りなおせ?!?
 デイケアセンターでのある日の様子。

 先日、デイケアセンターに新しい男性の方が見えたそうだ。その方は、なれないせいもあってかウロウロとよく歩き回られるとのこと。それを見ていたら、父のほうが落ち着いて座っていたという。
 まだ、人の行動を見て、それを理解する力を発揮してくれるのが、何よりも有難い。

 ただ、今日出来たからといって、明日も出来るとは限らないし、少しずつ出来なくなっていくのがこの病気。一日のうちにも調子により、出来ることと出来ないことがある。だから、一瞬ずつを大切にしていかなくてはならないし、一日一日を無事に過ごせたことに感謝することができる。

2001年3月下旬〜デイケアセンターに通いはじめて丸1年
 早いもので、デイケアセンターにお世話になりだして丸一年がたった。昨年5月に不慮の交通事故に遭い、入退院と手術で3ヶ月以上、お休みをしたが無事復帰でき、今まで通いつづけることが出来ている。

 周りの雰囲気にも慣れて、父の良いところもちゃんと発揮できているようだ。まず、言葉使いが丁寧なこと。標準語、もしくは敬語できちんと周りの人に応対しているのは、常からの習慣である。

 姿勢が良いこと。子供の頃からの習慣だろうが、身体がそれを覚えていて、自然と背筋がまっすぐに伸びるようだ。

 そして唱歌が好きなこと。若い頃には小学校教諭をしていたこともあって、歌の中でも特に唱歌が得意である。デイケアセンターでは午前中に歌の時間があり、背筋もピーンと伸ばして姿勢よく歌ってくれているようだ。「歌っているときの顔は、とてもやさしい顔になっています。」と、センターの職員さんからもお褒めの言葉をいただいている。

 父もわたしたち家族も、周りの人のおかげでこうしてすごすことが出来ているのだ。



葉ホームヘルパー講習会
葉パパの介護記
葉娘のヘルパー日記
葉介護について思うこと

娘はマラソンランナー


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