パパの不思議world
(パパの介護記)

春を迎えて父の病状は落ち着いていますが、活動への意欲がなくなってしまっています。
と思っていたら、ついに夕刻より徘徊、6時間あまりのち、
保護されるという大事件が・・・。(5/21)

 ふらりと家を空けてしまい、心配したわたしたちが警察に「保護願い」を出すのは、これで3度目。
1度目は2時間ほど後に親切なご近所の方が、父の姿を見つけて、家まで送り届けてくださった。
2度目は、2時間ほどたってから、父は自力で家にたどり着きました。
「はい、帰ってきましたよ。」と嬉しそうに・・・。

 そして3度目、ついに警察に保護されるのですが、
父がとぼとぼと歩いていたのは、片側3車線の大幹線の真ん中でした・・・・。

<2001年の4〜6月期>

<目次>
2001年4〜5月ころ @活動への意欲がなくなってしまっているが、病状は落ち着いている
5月21日 A夕刻より徘徊、6時間あまりのち、保護される
5月下旬頃 B徘徊・父のその後
6月中旬頃 C完全防水シートの威力〜ご入用の方はご一報ください、送付させていただきます。
6月下旬頃 D毎日一緒だから、アルツハイマーの病状が良くわかる
6月終わり頃 E父はちゃぶ台をひっくり返してきたタイプ



2001年4ー5月ころ〜活動への意欲がなくなってしまっているが、病状は落ち着いている

 春を迎えて、父の様子は落ちついている。ありがたいことだ。一時心配した、うんち事件も単発で終わり、徘徊のそぶりも見られない。父はもともととても用心深い性格なので、いったん怖い目にあうと、単独では外を出歩かなくなっているのかもしれない。昭和2年の兎年生まれ、元気なころ(=正気なころというべきか!?!)も、女3人(母とわたしと妹と、女3人に男ひとりの家族である)に囲まれ、「いたって気の弱いウサギさん。」と、自分のことをおどけて見せていた。

 おなかを壊す周期は相変わらずだ。しっかりしたいいうんちを排泄するようになって、安心したら、また、おなかを壊す。デイ・サービスの日中に、また、朝の起きがけに、夜に、父のリハビリパンツは汚れてしまう。

 朝の起き辛いのも同様。朝寝坊も相変わらずなのだ。デイ・サービスに出かける日は、8時前くらいから何度も声をかけ、父の起床を待つ。悲しいかな、「〜しなくてはならない。」ということがわかっていない父は、「朝は起きなくてはならない。」ということが出来ない。「朝になったら起きて活動するもの。」ということも概念としてなくなってしまっているのだろうか。
 というよりも、「〜したい。」とか、「〜しなくてはならない。」という、活動への意欲がなくなってしまっているのだ。

 うまく父のバイオリズムに合って、父の起床が出来たならば、「今日はまた、どこかへ行くのか?」と、お食事会なるデイ・サービスに行くことを嫌がらないので、その点は見守る家族としては助かっている。
 ときとして、デイ・サービスのお迎えの時刻に間に合わず、母かわたしが付き添って送っていったり、そのままずる休み(?というのだろうか、小学生ならばそんな感じだが・・・)してしまうこともある。

 デイ・サービスからの帰宅が、3〜4時ごろ。一服のお茶を飲んで、しばし休憩。それでも、春から初夏を迎える頃、だんだんと日中の時間が長くなっているので、夕方遅い時間まで明るい。「ちょっと、家の周りを見てくる。」と父は、自宅のあるワン・ブロックを一回り。それでも必ず、短時間で帰ってきてくれるし、なんといっても、家を出るときに、「ちょっと行ってくる。」と声をかけてくれるのがありがたい。

 夕食を終えて、8〜9時くらいに床につき、10〜11時くらいに決まって起きだしてくる。わたしも母ももう、心得ているので、うまくトイレ誘導を済ませる。「何か(食べ物は)ないか。」と父は相変わらず尋ねてくるのだが、「もう、外は暗いし、寝る時間ですよ。」と促すと、素直にその気になる(=寝る体勢に入る)。

 先日など、「さあ、寝床に行きましょう。」と促し、先導する母に向かって、「さあさあ、かあさんに付いて行こう、かあさんが居ないとどうもならん、かあさんが居ないと何もわからんからな・・・。」などとつぶやきながら、母の後を追っていった。

 この、父の独り言を聞いていたのはわたしひとり。あとで母に伝えると、「判っているのだか、判っていないのだか・・・。」ありがたいやら悲しいやらで、聞かされたものにとって、半分泣き笑いのような父の独り言である。

2001年5月21日〜夕刻より徘徊、6時間あまりのち、保護される

 この春になって、父の病状は落ち着いていたので、うっかり油断をしてしまった。

 いつものように、「ちょっと、家の周りを見てくる。」と言い残して、なかなか帰ってこない。大抵、5〜10分くらいで、ちゃんと家に帰ってくるのに・・・?

 母も冷静で、家の周りを闇雲に探そうとはせず、警察に「保護願い」を出した。「捜索願」とは異なり、警察が積極的に捜してくれるシロモノではないが、万が一遠くで見つかったときにも、「どこのだれそれ」というのが判り易くなるのだ。

 実は父が徘徊を始めたとき(=家を出て行方不明になっているとき)、わたしはヘルパーミーティングのため、外出していた。心配になった母は、ヘルパーステーションまで電話をかけたそうだが、ときすでにミーティング解散のち。いつものように帰宅途上で買い物を済ませて帰ってきたわたしに、ただただおろおろしている母。

 「心配なのはどうしようもないけれど、徘徊を始めたものは探しようがない。人も車も入り組んだこの街で探しても見つかるはずがないので、今は落ち着いて、最悪の事態も覚悟しつつ、警察からの連絡を待つしか仕方ない・・・。」わたしは探すことをはなから断念している。

 父が外出したのは夕方5時過ぎだ。だんだんと時間は過ぎていく。9時を廻り、10時になった。「おかあさん、晩ご飯、食べておこう。お父さんが見つかるまで、一晩中、かかるかもしれないし、もっと大変なことが起こっているかもしれない。そんな事態に備えるために、ちゃんとご飯を食べて、体力を養っておかなくちゃ。」「いま、夜もふけてきて、家に帰りたい一心で一番頑張って歩いているのはお父さんなんだよ。道も暗くて判りづらくって、一番不安なのは、お父さんなんだよ。」母もやっと、遅い目だが晩ご飯を食べる気になったようだ。

 そして11時を廻って、日付も変わるのを覚悟しなくてはならないころ・・・・ふた向こうも先の警察署から連絡があった。「お宅のおじいちゃん、保護しています。迎えに来てあげてください。」保護願いを出しておいたおかげで、いち早く連絡が出来たそうだ。

 取るものもとりあえずわたしがタクシーを飛ばして迎えに行くことに・・・、だか、母は、配慮してくれた。「6時間以上も飲まず食わずで歩きつづけるなんて・・・」。買い置きのバナナと、飲料水入りのペットボトル、おまけにリハビリパンツの替えと、下着とズボンの着替えまで。紙袋一杯の荷物を抱えて、タクシーに飛び乗り、父を迎えに行く。

 広い警察のロビーの長いすに、父は腰掛けていた。いつもと変わらない様子だ。わたしが近づいていって、「パパ!」と呼びかけると、やっと気付いてくれた。疲労困憊のはずだが、興奮状態にあるのか、ことのほか元気そうに見える。警察署員の方にことわりを入れて、とりあえず、バナナの糖質補給と、水分補給。ペロッとバナナの1本を平らげてくれた。

 警察の方には、ちょっとしかられた〜「かなり危なかったんですよ、片側3車線の大幹線の真ん中を老人がとぼとぼ歩いている、危ないから保護してくれ、という通報がありましてね・・・。」パトカーで直行してくださったそうだが、しばらく(15分ほど)見つからなかったそうだ。進行方向も、信号も、無視して歩きつづける、痴呆老人のゆえ、正常人の予測もつかない動きをするからだろう。パトカーに保護されるとき、とても大人しかったそうだ。

 よくぞ無事、保護されたことだ・・・。片側3車線の大幹線だなんて、車の運転手もまさか、人が歩いているとは思わないだろう、夜も更けてびゅんびゅん飛ばしているのが常だ。本当に無事でよかった・・・。

 警察の方には、さらにしかられた〜「徘徊があると判っていたら、迷子札をつけておいてくださいね。」迷子札とは、住所・氏名・連絡先電話番号・血液型等を記載した、名札のことをいう。冬の間から、ずっとセーターなどにつけていたのだが、春先になって父の病状が落ち着いていること&衣替えのシーズンであったことから、うっかり今日の父の着衣には何のしるしもついていなかった。見守る家族の気のゆるみから来ていた。

 そのような父の状態と見守る家族の状況を話して、警察署員の方とも打ち解けてきたとき、ふと、尋ねられた。〜「以前の職業は、教育者か何かですか?普通の勤め人ではありませんよね。」いつも礼儀正しく他者に接する父の様子から、ただ者ではない、と察していただいたようだ。「言葉がとても丁寧で、人に言い聞かせるような感触なので、そのように思いました。」とも言っていただいた。父の魂は、確固として残っているのだ。

 どろどろに汚れていた父の手を洗うべく洗面所をお借りし、ついでにおしっこも済ませ、警察署を後にするとき、「ありがとうございました。」とカウンター越しの当直警察官の方に挨拶するわたしと声を合わせるように父も、「やあ、お世話になりましたな、ありがとうございます。」警察署員の方も、心配顔とともに苦笑い風にわたしたちを送り出してくださった。

 帰宅途上のタクシーの中でも父は上機嫌だ。タクシーの運転手さんに、「大変な仕事ですね。」などと話し掛けている。父は本当に人当たりよく、物腰穏やかで人と接するのがうまい。(うまかった)。タクシーの運転手さんも「このようなご時世ですから・・・。」とちょっとおしゃべりをしていただき、父はそれにうまい具合に相槌を打っている。とても痴呆老人とは思えない話のテンポだ。しかし悲しいかな、話の内容はまったく理解しておらず、「そうですな。」「ごもっともですな。」の繰り返し。

 家の前にタクシーを横付けして帰宅する際にも、拍手(かしわで)を打ったりして本当に上機嫌(というか、興奮状態)。母も「お帰りなさい。」と明るく迎え、深夜過ぎの簡単な夜食ののち、父は床につくことになった。

 その後、2日間、父は眠ること中心だった。 何とか昼過ぎに起こして、食事だけは済ませるもすぐに床に戻る。そして夜まで眠りつづける。「丸一日中、寝ていたのに・・・、まだ眠れるのかしら・・・?。」と母もあきれるが、父はまた眠る。よっぽど疲れていたに違いない。致し方ない、6時間以上も飲まず食わずで、普通の道をたどったとしても9キロはある地点で、ふた向こう先の警察署に保護されたのだ。

 ランニング得意なわたしだって、のまず食わずで6時間、歩きつづけることはとても無理だ。

 しかし眠りこけた2日後、父は昼夜逆転に陥りかけた・・・・。(以下、次の号に続く) 
2001年5月下旬ころ〜徘徊・父のその後

 6時間の徘徊のち無事保護されて帰宅した父。さすがに疲れていたようで、次の日もその次の日も眠りこけた。あまり眠りつづけてもお腹がすくのでは、と何とか昼頃に起こしてみて、食事を用意しているものの、簡単にのどを通したらまたすぐに、「横になってくる。」と晩まで眠りつづける。 脚も筋肉痛なのか、少し引きずっているように見える。

致しかたない、徘徊というのは、休むことも忘れて歩きつづけることだという。脚は達者なほうとはいえ、普段、そんなに続けて歩くことはないし、散歩やハイキングを楽しむという気持ちはもう忘却してしまっている。

 しかし眠りつづけた2日目の夜・・・、なかなか寝付けなくなったのか、落ち着かない様子のパジャマ姿の父が食堂やら居間やらをうろうろし始めた。まずい!?!これは昼夜逆転の前兆だ?!?

 昨年の頭蓋骨をくりぬく手術&入退院を繰り返したとき、病院での単調な生活ゆえか昼夜逆転に陥ってしまった。昼間する用事もない病室で、なんとなく居眠りをしてしまい、夜になったら目が冴えてしまう。病室のみならず廊下をうろうろして、ずいぶん当直の看護婦さんにも迷惑をかけたらしい。手術のあとが癒えたらすぐに、病院を追い出されるようにして退院した。 そのときの父が、昼夜逆転だった。(詳しくは昨年の父の介護記の7〜8月ごろを参照)

 またその悪夢再来か?こうなれば何とか父を寝かしつけなくてはならない。両親はずっと同じ部屋で休んでいるので、母が父の寝かしつけ役だ。一緒に2つ並んだ布団に横たわっていると、父も安心するのか、眠りにつくことができるようだ。その後、片付け物が残っていたりして、こっそり母が布団を抜け出してくると、父はその気配を察して、また、起きだしてくる。


 わたしの帰宅が遅くて、父がすでに就寝した後になることもある。遅く帰宅した後、食堂で母とおしゃべりしながら夜食を摂っていると、にぎやかな気配でまた、父が起きだしてくる。何とか少しのお茶菓子を食べてもらい、また布団につくように誘導する。何度もこんなことが繰り返され、わたしたちが遅い目の就寝時間を迎えると、父も何とか横になってくれる。

 それでも深夜2時や3時頃に、尿意を催しておきだすこともあるそうだ。(母の弁・わたしは階上の別の部屋で休んでいるので父の様子はわかりづらい。)無論そんな時は、トイレの場所もわからないことが多いようで、別の部屋に通じるふすまを開けたり、押入れを空けたり・・・。驚いて目を覚ました母が、トイレに誘導しているようだが、それも受け入れられずに縁側から庭に向かって排尿を済ませることも相変わらずだそうだ。

 何とか寝かしつけの方策がうまくいって、徘徊後3日後には、デイ・サービスに復帰できた。朝を起こすのがやっとこさだが、昼間にデイに行って適度な刺激を受けてくれることが父にとっても良いことだろうと信じている。

2001年6月中旬頃〜完全防水シートの威力
(ご入用の方はご一報ください、送付させていただきます。)

 父は昨秋の頃から夜のパンツはリハビリパンツを着用している。夜間に寝入ってしまったとき、尿意がわからなくなるので、おねしょ(失禁)してしまうからだ。このリハビリパンツ、450cc吸水用で、これはおしっこ3回分くらいだそうだ。それでも尿が吸水されきらずに溢れ出し、パジャマやシーツを濡らしてしまうことも多い。寝たきりではないので、より多くの吸水量のあるオムツをさせることも出来ない。

父の寝床はいま、敷き布団全体を覆う防水シートをかけている。少し前までは、腰の部分だけの防水シートだったのだが、そのシートが何の意味があるのかわからない父は、夜中に起きだしたときに几帳面にシートだけをはずし、丁寧にたたんで枕もとに並べたりしてしまう。これではなんとための防水シートかわからない。だからいまは、敷き布団全体を防水シートで多い、その上に敷マット(ベットパットのような汗取りマット)、さらに綿のシーツという具合に敷きこんで、表面的には一枚のシーツだけがかかっているように、寝具を整えている。

この防水シートがすぐれもので、完全防水のお墨付き。水をくるんで一晩吊り下げておいても、水は漏れ出さないという。ただし、汗をかいたら蒸れるので、汗とり用に敷きマットが必要。父の場合、おねしょをしてしまうと、一番上のシーツとこの汗とり用敷きマットを洗濯すれば良い。生地自体が少し滑りやすいのが難点。

実はこの防水シート、介護用品ではなく、単なる防水の効いた薄手の生地。友人の好意でなんと、反物単位で譲ってもらった。つまり、130センチ幅のものを100mも入手。今のところ、洗いがえ用に2枚だけシーツ(130センチ×240センチにカット)を作ったので、まだまだたくさん余っている。

ちゃんとした介護用品ではないのだが、もしこの記事をご覧になって、「うちもそのような完全防水のシートが欲しいわ。」とおっしゃる介護者の方がおられたら、どうぞご一報ください。送料分の切手をお送りいただいたら、直送いたします。

出来るだけ多くの方にご利用いただきたいので、お一人様シーツ2枚までとさせていただき、まとめ買いはご遠慮願います。介護用の品物ではありませんので、この点をご理解いただき、うまくご利用いただけたら、と思っております。
2001年6月下旬頃〜毎日一緒だから、アルツハイマーの症状が良くわかる

 毎日一緒に暮らしていても、少しずつアルツハイマーが進行していっているのがわかる。いや、毎日一緒だから、その様子が手にとるようにわかるのだ。

 たまに訪れてくれる叔母などは、父のにこやかな様子にとてもその病状を理解できず、「兄さん、一緒に旅行へ行きましょうよ。」と楽しい企画を持ってきてくれるが、とてもそんな状況ではない。

 気晴らしに、と誘って出かける散歩ですら、「どこへ行くのか?」「何しに行くのか?」の連発で、とても散歩を楽しむ気持ちを持ち合わせていない。(というか、そのような気分を忘れてしまった。)

 夕方に近所のスーパーに買い物に伴っていっても、出かける段には「行こう!行こう!」と乗り気なのに、いざ、品物を選ぶ段になってスーパーの通路を巡り始めると、「早く帰ろう。そんなものは買ってはいけない。そんなものは買ってもだめだ。」と買い物自体を否定してしまう。夕食の買い物はいつも大慌てだ。ゆっくり買い物を楽しむ気持ちもなくなってしまっている。
 夜の排尿の様子は、前回のレポート通り。梅雨時は洗濯も大変だが、防水シートも大いに役立っている。このような状態で、とても泊りがけの旅行なんて行けない。アルツハイマーの父にとって、周りの環境が変わることは、とても本人に不安感を覚えさせるものでもあるそうだ。

2001年6月終わり頃〜父はちゃぶ台をひっくり返してきたタイプ

 父はデイサービスには何とか嫌がりもせずに通ってくれる。家に居ても何もすることを見つけられないので、せめてデイに行って、多くの人と接して、刺激を受けて欲しいと思っている。家族が歌を歌ったり、お絵かきを一緒にしようとしても、受け入れられないのだが、デイでは皆さんになじんでそれなりに楽しい様子で過ごしているようだ。

 ところが、デイサービスに出かけるために、朝起きるのが大変。お寝坊さんなのだ。というのも、夕食後早い目に床につくのに、落ち着かずに何度となく起きだして、食堂にやってくる。父がいびきをかいて寝入っているのは明け方になってからだという。眠りにつくのが遅いのだろう。何とかなだめすかして起床を促し、それでも機嫌を損ねたときはけんか腰で更衣をする。朝の清潔行為(洗顔・歯磨きなど)を嫌がることも多い。朝食も自分の好きなおかずから食べ始め、完全な1点食べ。デザートのバナナや、甘い煮豆などが特に好物。

 デイでも気分の乗ったときには、ゲームや手作業に積極的に取り組むものの、機嫌悪いときにはスタッフに食って掛かるような荒っぽい一面も。そういえばもともと、若い頃から機嫌を損ねるとカッと怒って、ものを投げつけたりちゃぶ台をひっくり返してきたタイプ。亭主関白そのものの父だった。




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