平成14年馬年

パパの不思議world
(パパの介護記)

<2002年の1〜4月期>

<目次>
2002年お正月を迎えて @新年明けましておめでとうございます。
1月1月12&16日 A排泄物がお風呂の湯船の中に・・・
2月上旬 B父の下痢には消化剤
4月11日夕刻 C叔父さんのお通夜で拍手(かしわで)!
4月12日午前 D叔父さんの告別式
4月12日午後 E両親そろって徘徊???
以下、ただいま記録中です。



2002年お正月を迎えて

〜パソコントラブルにより、ファイルどこかへ行ってしまったため、工事中
1月1月12&16日〜排泄物がお風呂の湯船の中に・・・

〜ちょっと表現しにくいので、まだまだ工事中
2月上旬〜父の下痢には消化剤

〜だれにでも当てはまる処方ではないが、下痢気味の父は、消化剤でその悩みほぼ解消。くわしくは工事中。
4月11日夕刻〜叔父さんのお通夜で拍手(かしわで)!

 享年94歳の大往生だった。父のお父さん(すでに死亡)の弟にあたる、つまり父から見ると、叔父さんが亡くなった。歩いても1分くらいの距離にお住まいだったので、ご様子伺いにお邪魔したり、ご近所を散歩される姿を見かけたりしていた。最近はデイサービスにも通われていたようで、自宅前で送迎車に乗り降りする叔父さんの姿を見かけたこともある。少しだけ老年性の呆けがあったようだが、寝付くことも無く、健康状態は良好だったようだが、先月初め腰の痛みを訴えて入院、そして急性肺炎を併発し容態急変して、昨日大往生された。わたしが幼いころも遊んでもらったりした上品な叔父さんだ。 
 
 お通夜と告別式の連絡が入って、さて、父を参列させたものかどうか???母と私は少し悩んだ。最近自宅では落ち着いて座っているのが少なくなり、ごそごそ歩き回り、飾り棚の中のものをいじったり、テレビの上の置物を触ったり、と落ち着かなく動く父なのだ。お通夜で、慣れない黒い服を着て、じっと座っていられるだろうか?それに尿意を訴えることでもあれば??

 おまけに最近の特徴として、大きな音で拍手(かしわで)を打つのだ。テレビで歌番組を見ていたり、食事の後や、帰宅したとき、など、いつ、どんなときに飛び出すか、予想がつかない。たぶん気分を晴れ晴れさせるために打つのだろうが、しんみりとしたお通夜でいきなり拍手(かしわで)?!?

 しかし、いちばん濃い親戚でもある叔父さんに、最期の別れをしたほうがいい。最期の顔を見せてあげたい。父にとって、もはや忘却のかなたのおじさんかもしれないが、今年のお正月にも、母と二人揃って、お年賀に行ってご挨拶もしている。他人と対面すれば、にこにこして人と話をあわせるのはうまい父〜これがアルツハイマー型の病気の特徴でもあるのだが。

 両親と私、3人揃って傘をさしてお通夜に出かけることにした。母が先頭を歩き、ついで父、わたしが後方を固め、叔父さん宅に歩いていく。悲しい別れに、春の雨が降っていた。

 親族の席は、祭壇のすぐ横に設けられていた。周りの人に会釈をしながら、空いているお座布団をお借りする。普通はごく小さな声で挨拶するものだが、そのような配慮は父にはできない。普通の声で「ここでいいですか。」などと話すものだから、大きく響いてしまう。お経はすでに始まっている。数珠を持たせようとしたが、父はすぐにポケットになおしてしまった。抑揚のある流暢なお経が続く。

 チーン、とリン(かね?)の音がした。お経の要所要所で鳴らす、あれだ。「う〜、まずい、パパが刺激されてしまう・・・・。」私の悪い予感は的中した。パン!父の拍手(かしわで)が鳴った。横に座っている母が、「今日は鳴らさないでね。」と諭す。「わかっている。」と父は答える。

 抑揚のあるお経がまだまだ続く。パン!再び父の拍手(かしわで)が鳴った。歌番組を見ていても、よくならしているので、当然といえば当然だ、きっと父は、「上手なお経だ。」と思って鳴らしているに違いない。母がまた諭す。そしてまた、拍手(かしわで)。母が制止する。「あそこでも鳴らしている(=お坊さんの鳴らすリンのこと)やないか。」今度は反論まできた。何度かそんなことがあり、しばらくすると父は、両手を合わせて一生懸命拝み始めた。(少なくともそのように見えた。)

 しかしお経が最高潮に達しようとしたとき、またまたパン!パン!「次にあれ(=リンのこと)、鳴らすで。」と、解説付きだ。母も私も冷や汗もので、母は父の手を取り、手をつないでいた。そして父の予想通り、チーン、とリンの音がした。父も拍手(かしわで)で応戦したそうだったが、何せ母に捕まれているのでそれも出来ない、ちょっと不機嫌になったようだ。

 第2の難関は、親族の焼香だ。母に伴われて、焼香台の前にすすんだ父は、もちろん何をどうすればいいのか忘れてしまっている。焼香をひとつかみしたのは良いが、また、元の壷に戻したり、数珠を何度もポケットから出したりしまったり。ついには焼香を、赤く燃えている炭の全面に振りかけるようにしてまき散らしていた。

 しかしとにもかくにも、これでお通夜の席は退散だ。痺れのきた足を、「ちょっと待って。」と痛そうに動き始めようとする父。私たちにとって血縁関係の濃い、大事な叔父さんなのだが、そんな叔父さんの最期を見送るということ、父にはどこまでわかっているのだろうか?
 
4月12日午前〜叔父さんの告別式

 明けて翌日は告別式に参列だ。今日も親族席は、祭壇のすぐ隣、脚の不自由な高齢者もいるので、椅子がいくつか用意してあった。少しでも父が楽なように、母は椅子席を父に勧めた。

 そして、これが正解だった〜落ち着いて椅子席に座った父は、腕組みをして、こっくりこっくり居眠りを始めた。そういえば、午前中はなかなかエンジンがかからずに、デイサービスでも椅子に座ったまま居眠りをすることが多くなっている父。告別式のおごそかな読経も、父にとっては子守唄のハーモニーだったのだろうか。昨夜のように静まり返った席でいきなり拍手(かしわで)を打つこともなく、静粛に告別式はすすんでいった。 

 叔父さんに最期のお別れをして、いよいよ出棺だ。母の当初の予定では、斎場まで叔父さんを見送るのは父にとって困難(=落ち着いて行動できない、トイレが心配なため)だと思われたので、ここで失礼するつもりだったが、父は「(斎場まで)行く。」と言い出した。いったんは、父自身も「もう帰る。」と母に告げていたのに。

 告別式でずっと座っていて退屈に感じた父は、白い布ばかりを張った部屋から開放されたとたん、家に帰りたくなったのだろう。しかし、やはり亡くなった叔父さんは、自分にとって大事な人だったことが、なんとはなしにわかったようだ、だから、別れが惜しくて最後まで見送りたくなったのに違いない。ただ単に、斎場まで見送る人たちについていきたくなっただけ、とは思いたくないし、思えない。母に並んで霊柩車に続く黒い車に乗り込み、父は斎場まで叔父さんを見送った。これが本当に最後の別れなのだ。

 亡くなった叔父さんというのは、当家から婿養子に出た叔父さんだったが、当家の男子の筋ではいちばんの年長者だった。父は年長兄弟をすべて亡くし、長男だ。なんでもものは順番、というが、父と19歳違いのおじさんが亡くなって、次なる順番を考えると、ぞっとしてしまう。いくら病気でもなんでも、やはり父には、まだまだいてもらいたいに決まっているからだ。

4月12日午後〜両親そろって徘徊???
 94歳の大往生を遂げた叔父さんの告別式も終わり、天気は春うららか。外の陽気につられて、まだ夕方にもならないのに、父の「帰るコール」が始まった。だいたい、家に居るのに「家に帰る。」と言い出すのは、帰宅症候群、とも夕暮れ症候群、とも言われ、少し陽の落ちかけた夕方から夜にかけてみられるアルツハイマーの症状のひとつだそうだ。

 いつもこれを持て余す母は、それでも、「本人の意向に逆らわず、なるべく本人のさせたいようにさせる。」という介護者の心得をもって、父についていく。私が父を伴って散歩に出ることもある。たいていは、自宅のあるワンブロックをひとまわりして、また同じ自宅に帰ってくると、「さあ、帰って来ましたよ。」と父は安心するのだ。時には散歩も兼ねて、近くの公園などに出かけることもある。

 今日もそんなつもりで、3時ごろから母と父が出かけた。遠くに出かけるつもりもないので、たいていは手ぶらで出かけていく。以前は、父を伴ってスーパーに買い物に行ったりもしたが、棚の上にいっぱい品物が並んでいると、父は何やかやと触りまくり、あげくにはポケットに入れようとしたりするので、これは一大事!見る人が見たら万引きになってしまう!!!そんなこともあって、最近では、ただぶらりと散歩に行くだけだ。私は次の仕事が4時からの予定だったので、自宅待機である。

 何も気にせずに4時から6時の予定でご近所にホームヘルパーの仕事に出かけた私。もう1年以上も通っているお宅なので、仕事の手順も慣れたものだ。ところが、そのお宅にかかってきた電話が、電話口に私を呼んでいるという。「??ヘルパーステーションから、緊急の連絡かな?」あわてて電話をとった私の聞こえてきたのは、母のあせった声。「今、自宅から二駅先の駅前の交番に、二人そろって保護されているから、帰りに迎えに来て。小銭も何も持っていなくて、どうしようもないから。電話も交番で借りてるから。」

 事情がほとんど飲み込めずに、とりあえず定時まで仕事をして、その後、あわてて教えられた交番に向かう。お巡りさんお二人の前に、くたびれたふうの母と、にこにこ笑っている父が座っていた。お茶まで召ばれていたようだ。父まで、「やあ、お世話になりましたな、ありがとうございます。」とこれまたにこやかに丁寧に挨拶して、交番を後にする。だれがお世話をかけてんねん!!!(大阪弁)〜お巡りさんも苦笑しつつ見送ってくださった。

 父の徘徊に付き合った母の報告はこうだ。いつものようにちょっと近所をひとまわりして帰ってくるつもりだったのだが、今日の父は、「ここを曲がる。」とか「あっちへ行ったらあかん(=ダメだ)。」とか、かなり強固に言い張って、ずんずん自分の歩みを進めていったそうだ。「家はこっちだ。」と指示する方向がことごとく自宅と反対の方角で、母は何とか軌道修正しようと試みたものの、「わしの言うことがきけんのか。」と、母の腕を取って引っ張っていったらしい。もちろんちゃんとした道筋ではなく、七曲がり八折れ、といったかんじで、無軌道に歩いていたという。

 くたびれた母が、「ちょっとあそこで休ませてもらいましょう。」とうまく警察署に導こうとしても、「そんなところはあかん。」と見向きもしないで歩きつづける。いよいよ疲れてきた母は、「タクシーで帰りましょう。」と促しても、「そんなものには乗らん。」
自宅周辺半径2キロまでのあたりだが、何せでたらめに曲がり角を曲がって歩きつづけているので、相当な歩行距離だ。父の足取りはとぼとぼではなく、しっかりと歩いているという。なんとか、うまく家に帰る方向へ導こうとして、誘導するにも母はくたびれてきた。それでも何とかかんとか、思いつきで2駅先の駅前の交番にたどり着き、「ここで電話を借りますから。」と、派出所の中に強引に入っていったという。時刻はすでに家を出てから2時間以上が経過していた。

 事情を話せば、お巡りさんも物分りが良い。電話帳で私の派遣先を調べてくださり、電話を掛けてくださったという。ここらあたり、古くから長く住んでいる人が多いので、当然お年寄りも多い、ということは、徘徊する人もいるのだろう。「長く歩きつづける人は、15キロも20キロも先で保護されることもありますよ。」とよもやま話もしてくださったそうだ。

 今日の父の徘徊が、母を伴ったものでよかった。それにしても、父は強気でどんどん歩いていったという。家の方角とはまったく異なる方向へ、「家はこっち。」と言い切って歩いたというので、一人で徘徊するときも、きっとこのように強い思い込みがあって、どんどん距離を進めていってしまうのだろう。ずっと頑固親父だった父の、アルツハイマー発病後の徘徊まで、ガンコだ。

 しばらく、強硬な徘徊はなかった。昨年の5月に夕方から6時間あまりかけて徘徊して、深夜になってやっと、片側三車線の大幹線道路の真ん中をふらふら歩いているところを「危ないから。」と見かけた人に通報され、警察に保護された父。そんなことがあってから、母も私も父の徘徊には注意を払った。いつ頃出て行きたそうにするか、四六時中一緒にいる家族ならそのモーションをキャッチできる。必ず本人の意向に逆らわないように、一緒に散歩に行ったり、また、気分をそらしてほかのことに関心をもたせたりして、徘徊を回避してきた。

 しかし今日の徘徊は・・・?たとえ亡くなった叔父さんの名前を思い出せなくても、告別式に参列していることが何を意味するのかわかっていなくても、やはり、おじさんが亡くなったことが、何か父の心に影響を与えたに違いない。

 
この後の父の様子は、パパの不思議world <2002年の5〜9月期>をご覧ください。



葉ホームヘルパー講習会
葉パパの介護記
葉娘のヘルパー日記
葉介護について思うこと

娘はマラソンランナー


メール アイコン
メール
トップ アイコン
トップ