『 第三次上田合戦勃発!本多・真田連合VS徳川軍団 』

1600年の関ケ原の合戦に於いて、一躍スターダムにのし上がった大名家がある。
ご存知、信州・上田城に拠を構える“真田家”だ。
本来の主家である武田家の滅亡後も、
智謀の限りを尽くしてこの小さな国を守り通してきた当主・真田昌幸は、
次男・幸村と共に上田城に立てこもり、
中仙道経由で関ケ原へと向かう徳川秀忠隊を翻弄
結果、信州に釘付けにされた秀忠隊は関ケ原合戦には間に合わなかった。

戦後、西軍首謀者である石田三成らと同様、打ち首となるはずが、
真田父子は九度山蟄居というカタチで助命されている。
これは、家康に叛く事無く東軍に居残った昌幸の長男・信之が、
自身の恩賞を返上して二人の助命を願い出て許されたからっていう説が有力だ。

けど、事の真偽はさておき、
「蜻蛉切」的にはやっぱ池波正太郎氏の「真田太平記」等で有名な、
あの一節をどうしても支持したい。

 
関ケ原の戦後処理に於いて、本多忠勝は娘婿・真田信之をいち早く呼び寄せ、
 家康に対して真田昌幸・幸村父子の助命嘆願を願い出た。
 しかし、今回の上田合戦を含め、2度も真田家に苦汁を舐めさせられた家康は、
 例え大忠臣・忠勝の懇願であろうと首を立てに振らない。
 自分の息子(秀忠)の戦陣遅参という大罪を許せたのなら、
 義理の息子(忠勝の娘・小松は家康の養女として信之に嫁した)とはいえ、
 信之の願いも聞き届けられてもおかしくないはずである、
 と忠勝が理詰めで迫っても首を立てに振らない。
 「…ならばそれがし、信之殿と上田城に立てこもり、殿を相手に一戦仕る!」
 と忠勝は家康に啖呵を切った。
 さすがの家康もこの一言には太刀打ちできず、真田父子を許す事になった。


…と概要はこんな感じ。 うーん、忠勝カッコイイっ!

けど、それでも家康が「うん」と言わなかったらどうなっちゃったんでしょ?
“宣戦布告したあと、下城する際に二人とも取り押さえられて何事も無かった”
ではちょっと夢が無いと思いません?

そこで、1999年7月の1ヶ月間に渡り、
『第三次上田合戦勃発!本多・真田連合VS徳川軍団』と題し、
本多忠勝・忠政忠朝ら本多隊3000人が、真田信之と共に、
真田昌幸・幸村が待つ上田城へ無事到着したと仮定して、
その後どうなっていくかを皆さんと熱く語り合ってみました。

尚、時間的な決め事として、以下の3点を設定しました。
 
◎忠勝・信之の直談判は9月30日とする。
 ◎本多隊・信之の上田入城は10月15日とする。
 ◎関ケ原合戦の論功行賞は行われていない 。


果たして、本多・真田連合は徳川軍団に打ち勝つ事が出来るんでしょうか?
それとも…
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