まちづくりを考える 〜“まちづくり”ってどんなこと?〜

神戸&San Francisco発 “まちづくり”って何だろう? by Hiro Sasaki
 
ここではこのHomepageのメインテーマである“まちづくり”について色々と考えて行きたいと思います。将来的には“まちづくり”に関する私なりの考え方を系統立ててまとめて行きたいと考えていますが、“まちづくり”と言うテーマがあまりにも壮大で広範な概念なため、現段階ではとりあえず私自身が日頃考えていることを思いつくままに書き連ねてみました。全体としてのまとまりはまだありませんが、“まちづくり”に関して考えて行くひとつのきっかけになればと思っています。気軽に読み進みご意見をお聞かせください。
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はじめに 〜遅まきながらまちづくり〜
近頃日本で“まちづくり”と言う言葉が盛んに使われるようになってきました。まちづくりに関する様々な書籍や雑誌が出版され、新聞紙上でも連日まちづくりに関する記事が掲載されています。自治体関係者をはじめとする多くのひとびとがヨーロッパやアメリカの先進的事例を視察しに海外を訪れ、日本各地で様々なシンポジウムが開かれています。また、一般市民の中にも“まちづくり”に関心を持つ人々が数多く現れ、志を同じくする人同志で勉強会やサロン的活動を行ったり、NPOを組織したりして、積極的に“まちづくり”活動に参加し始めています。それぞれの場で展開される議論も都市空間・景観問題、環境問題、交通問題、コミュニティ問題、まちなみの保存・再生問題、エネルギー問題、中心市街地空洞化の問題、経済・財政問題、都市計画制度・法律問題、高齢化・福祉問題等々実に多様です。これらのまちづくりに関する問題は相互に密接に関係し、まちづくりに関わる様々な立場のひとびとが多角的かつ専門的に取り組んでいかなければ解決することのできない非常に厄介な問題ばかりです。
もっともこれらの問題は決してここ数年新たに発生した問題ではなく、10年、20年、あるいはそれ以上前から存在していた問題がバブル経済の崩壊や阪神淡路大震災による被害などをきっかけにようやく様々な場で取り上げられるようになったのであり、むしろわれわれがこれらの問題を認識するのが他国に比べあまりに遅すぎたと言わざるを得ません。しかし、たとえ遅まきながらもこのような問題が認識され、それぞれの立場のひとびとがまちづくりに関心を示すようになったのは日本の将来にとって朗報であり、今こそわれわれはこれらの問題に真剣に取り組んで行かなければならないのではないでしょうか。
私は今まで建築のバックグラウンドのもとにゼネコンという民間企業の立場でまちのつくり手の側からまちづくりに関わってきました。(ゼネコンの行為がここでいう“まちづくり”であったかどうかは甚だ疑問の残るところではありますが)。そしてその過程で幸いにもアメリカのまちづくりに関わる機会にも恵まれました。現在は米国カリフォルニア州立大学バークレー校大学院において都市地域計画学を専攻し、アーバンデザインと住民参加型まちづくりを中心に研究活動を続けています。それは、日本におけるまちづくりの現状に大きな疑問を感じたからであり、アメリカのまちづくりに学ぶべき点を少なからず見出したからです。また、将来にわたり建築のバックグラウンドを維持しつつアーバンデザイナー(この定義は別の機会に改めて)としてのまちづくりへの関わりを希望しながらも、住民参加型まちづくりをはじめとする多彩な視点を持ち、まちづくりへ多角的に取り組んで行きたいと考えているからです。
ここではアーバンデザイナーの視点を中心にしながらも、できる限り多角的にまちづくりに関わる問題を捉え、海外の事例なども参考にしながら日本のまちづくりのあり方に関して考えて行きたいと思います。
   
“まちづくり”とは? 〜まちづくりは暮らしづくり〜 
“まちづくり”とは街路や公園、建物と言った単なるまち空間の創造(都市デザイン)ではなく、社会、経済、文化、環境等、生活の根幹を構成するあらゆる要素をも含めた暮らしそのものの創造だと考えています。従って“まちづくり”は自治体や民間企業、専門家などまちのつくり手によるプランニングやデザインと言った所謂“空間づくり”だけではなく、市民やNPOなどのまちの使い手による町並みの保存や再生、コミュニティ・ボランティア活動などを含めた総合的・複合的な行為によって初めて実現されるものであると言えます。また、“まちづくり”はまち空間の完成とともに完了するものではなく、そのまち空間が生活の場として使われていく中で、長い年月をかけて行われる継続的な創造活動です。
“まち”に関わる全ての人々がそれぞれの分野における高度な知識と様々な情報を共有しながら、生活を取り巻くあらゆる要素を総合的に検討・判断し、多角的・協調的・継続的な活動を通して真に豊かな暮らしを創造してゆくこと、すなわち“暮らしづくり”こそが“まちづくり”であると考えています。
これは決して空間づくりによるまちづくりを否定するものではありません。空間づくりと言う創造行為が“まちづくり”の中心的役割を担うことは事実です。問題は現在の空間づくりでは結果としてのデザインのみが重視され、そのプロセスが軽視されていることです。それはまちのつくり手によってのみ行われ、住民やNPOなどまちの使い手がそのプロセスに参加する機会が限られています。その結果、まち空間の完成とともにまちは放置され、空間づくりが継続的まちづくり活動へと発展することは残念ながらあまりありません。一方、市民、NPOなどまちに関わる全ての人々が参加する空間づくりでは、創造される空間以上に様々なものがそのプロセスにおいて生成されます。空間づくりの過程で住民は自らのまちを見直す機会を持ち、今まで気づかなかったまちの魅力に気づきます。まちの将来を真剣に考えることで、住民の中にまちの担い手としての自覚と責任が芽生え、住民相互のコミュニティ意識も醸成されます。勿論従来のつくり手も自分達の論理だけで空間づくりを進めることはできなくなり、使い手の意思が反映された空間が創造されます。まち空間の完成後も、コミュニティを中心にまちは継続的に維持、管理され、豊かな暮らしの場として発展して行きます。(勿論このようなプロセスが全て空間づくりにプラスに働くとは限りませんが、そのことは別の機会に考えてみたいと思います。)このように空間づくりは住民参加型で行われることにより、コミュニティにまちづくりの当事者としての積極的な姿勢を生み出し、何より空間づくりと言う実践的創造行為が暮らしの場としてのまちをつくり上げるのです。
    
    
『空間づくり』の捉え方 〜デザインとプランニングの融合〜
ここで私が使う『空間づくり』の捉え方に関して少し説明しておきます。『空間づくり』という言葉を用い職業としてまちづくりに関わるひとびと(特に建築系以外の方々)と話をすると、よく「ああ、ハードづくりね。」と言われることがあります。私は『空間づくり』をこのような建築・都市基盤(街路・公園・広場等)整備と言った単なるハードづくりや、最近よく使われる景観デザイン・ランドスケープデザインといった空間デザインよりも広く深い概念として捉えています。私の言う『空間づくり』とは、建築や都市といった空間のデザインと、その用途・機能の計画(プランニング)を一体化し、ひとびとのアクティビティを生み出す空間を創出する“暮らしの舞台づくり”です。したがって『空間づくり』においては、建築・都市のデザインは勿論のこと、各建物の用途複合、建物と都市空間とのインターフェイスの仕方(特に地上レベルでの)、そして何より住民参加によるそのプロセスが非常に重要だと考えています。このような『空間づくり』という概念はアメリカにおけるアーバンデザインという概念に最も近いのでしょうが、デザインとプランニングの融合の重要性を強調するためにここでは敢えてアーバンデザインではなく『空間づくり』という言葉を使います。
    
 日本のまちづくりの問題点 〜まちづくりシステムの不確立〜
先に述べたようにまちづくりとはまちに関わる全てのひとびとによる多角的・協調的・継続的な活動を通した豊かな暮らしの創造です。
ところが現在日本では、自治体による補助金獲得偏重の画一的なインフラ整備と民間事業者による事業性偏重の箱ものづくりが多くの地域において行われています。多くのケースで多角的視野と専門的知識の欠如が見られ、暮らしそのものの本質を見据えた“まちづくり”は残念ながらあまり行われていません。住民への情報の開示、参加機会の提供も十分ではなく、まちに関わる全ての人々の参加・議論を通した空間づくりの機会は極めて限られています。住民の問題意識・当事者意識は希薄で、まちの担い手としてのコミュニティによる継続的まちづくり活動も十分ではありません。残念ながら日本においては未だ住民・自治体・企業・専門家が一体となってまちづくりを推進して行くシステムが確立されていないように思われます。このようなまちづくりは過度の車社会の進行や交通渋滞、地域文化や歴史の消滅、まちなみ景観や環境の破壊、中心市街地の空洞化、コミュニティの崩壊など様々な問題を生み出しています。
これらの日本のまちづくりにおける問題の背景には多くの原因が存在しているように思います。中央官庁主導型の行政システム、まちづくり専門家の不在と職能の不確立、民間企業の社会性の欠如、住民の当事者意識と自覚の欠如、協議型まちづくりのシステムの不確立。これらはどれも相互に関連し合う非常に難しい問題で、関係者が互いに連携しながら同時に解決して行かなければ、まちづくりを取り巻く問題の根本的解決はできません。(個々の問題に関してはまた別の機会に考えてみたいと思います。)しかしこのように多くの問題が存在する一方で、地方分権関連法案による地方分権化の推進、建築家・都市計画家による草の根的まちづくり活動、住民やNPOのワークショップやグラウンドワークを通した積極的まちづくりへの参加、まちなみの保存や再生活動など問題解決への様々な動きが徐々に出始めているのも事実です。今後はこのような新しいまちづくりへの動きをさらに推進しながら、まちづくりに関わるそれぞれの立場のひとびとが自らの役割と責任を認識し、必要な知識を身につけるとともに、相互に協力し合いながら議論を重ねまちづくりを行っていくことが必要です。
     
 アメリカのまちづくりに学ぶこと 〜言うべきことは言い、聞くべきことは聞く〜
過去2年間、私はアメリカでアーバンデザイナーの一員としてまちづくりに関わる機会を得ました。2年間の限られた経験であり、アメリカにおいてもまちづくりにかかわる人々がその現状に多くの問題を感じ、試行錯誤を重ねています。しかしそこには明かに現在の日本のまちづくりの現状と異なる一面がありました。
それは、まちづくりに関わる全ての人々が“言うべきことは言い、聞くべきことは聞く”という姿勢です。“聞くべきことは聞く”はともかくとして、“言うべきことは言う”という点においては自己主張を美徳とする国民性も相俟って、かなり徹底されていました。当たり前でありながら、かなり衝撃を受けたこの事実は、アメリカのまちづくりにおいて参加の機会が全ての人々に提供されていることを示しています。私はこのことが日本のまちづくりを変革する出発点になるのではないかと思っています。勿論、アメリカのまちづくりにおいても、この参加機会の提供の是非が様々な議論を巻き起こしているのも事実で、必ずしもそれが歓迎されているわけではありません。しかし、現在の日本においてはこの機会が限られ過ぎ、本来最もその機会を有するべき住民がその権利にさえ気づいてないのが現状です。
もし、現在の日本において、“言うべきことは言う”機会がまちづくりに関わる全ての人々に与えられたらどのようなことが起こるでしょうか?自治体は住民の意見を調整し理解を得るために、まちづくりの内容を誰にでもわかるように説明しなければなりません。企業は単に事業性のみを重視した箱ものづくりではなく、既存のコミュニティにとっても有益な開発を考えなければならなくなります。建築家・アーバンデザイナーも自らのデザイン的理想のみを追求するのではなく、周辺の街並みと調和したトータルな環境の創出を要求されます。今までまちづくりに関わってきた人々は従来通りの取り組みでは、そして自分達の論理だけではまちづくりを推進することができなくなります。
確かにこの様な機会を提供することにより、様々な弊害が噴出し、まちづくりが暗礁に乗り上げてしまうこともあるかもしれません。しかし、私が言いたいのは、少なくともこのような状況を想定することで、現在の日本のまちづくりが抱えている問題・矛盾が浮き彫りになると言うことです。まちづくりのあるべき姿が明確になり、まちづくりに関わる人々が果たすべき役割が見えてくるはずです。そしてそのために各人が今、何をしなければならないのかを自覚できるのではないでしょうか。
アメリカのまちづくりは“言うべきことは言い、聞くべきことは聞く”と言う大前提のもとに、理想のまちづくりを模索しています。日本もこのことに少し学んでみてはいかがでしょうか?

アメリカのまちづくりにおける住民参加の現状に関しては、世界のまちづくりの中のトライアングルスクエア住民参加型まちづくりレビューでも紹介しています。ご参照下さい。

    
 “パブリック”という概念 〜公共空間の集合体としての都市〜 
まちづくりの根幹を形成する概念として“パブリック”が挙げられます。アメリカでまちづくりに関わり、学ぶうちにこのことを強く意識するようになりました。サンフランシスコ都市計画局長を長年務めたアラン・ジェイコブス教授はしばしば“Public Realm”と言う言葉を口にします。公共領域を表すこの“Public Realm”こそが都市そのものであるとの認識に立っています。都市は元来全ての人に対し開かれるべきものであり、この“Public Realm”の使用を限られた人に限定するような計画を強く否定します。すなわち都市とは全ての人に開かれた公共空間の集合体なのです。
ところが日本においてはこの“パブリック”と言う概念が西欧に比べ希薄であり、そのことが公共空間としての都市の形成に、ひいてはまちづくりにマイナスに作用しているのではないでしょうか。“パブリック”とは非常に広範な概念ですが、ここでは“パブリック”のフィジカルな側面である公共空間について考えてみます。
欧米の都市では公共空間と呼ぶに相応しい外部空間をよく目にします。街路樹豊かなストリート、青々とした芝生の公園、ペイブが施された広場、滝の流れるポケットパーク。建築物によって囲まれた青い空の下の“公共空間”で人々は思い思いに寛ぎの時を過ごします。都市の外部空間は彼らにとって重要なコミュニケーションの場であり、リビングルームの延長なのです。ところが日本では概してこのような空間はアトリウムとして内部化され、通りから切り離された空間、そして一部の人々に限定された空間として計画されがちです。人々は屋根で覆われた空間を好み、芝生よりも椅子やソファを好みます。街路は個々の建築を結ぶ通路と見なされ、人々の視線は建築物の中へ中へと向けられます。
このように欧米と日本の都市空間に対する意識を比較した場合、欧米では建物によって囲まれた外部公共空間が『図』、すなわち人々の興味の対象であり、建築物の内部は『地(じ)』として機能している印象を強く受けます。それに対し日本では建築物の内部が『図』であり、外部公共空間は『地(じ)』、強いて言えば建築物の周囲の余った空間と言う印象さえ受けます。
家の中で靴を脱ぐ風習、名前を持たないストリート、雨の多い気候、高い地価等、日本における様々な要因が、ひとびとの公共空間への関わり、そして“パブリック”と言う概念の形成を妨げているようです。特に家の中で靴を脱ぐ日本の風習が内部と外部を極端に区別する意識を生み、外部空間において家の中と同じように寛ぐことを苦手にさせているのでしょうか。この点、日本的美意識からは顔をしかめたくなる最近の日本の若者の公共空間における地べた座りも、一概に否定ばかりもできないかもしれません。
もちろんこのようなフィジカルな面以外にも日本における“パブリック”と言う概念を希薄にしている要因は多々あるとは思いますが、少なくともフィジカルな面において“パブリック”“公共空間”と言う概念がこのような文化的背景により貧困な日本では、より積極的に公共空間を創造し、ひとびとをそこへ導く仕組みづくりをすることがまちづくりにとって不可欠ではないでしょうか。

Bryant Park, Manhattan, New York
マンハッタンのど真ん中、42nd St. と6th Av.のコーナーにある公園。まさに都市のリビングルームと呼ぶに相応しい“公共空間”。思い思いのスタイルで寛ぐひとびとでいつも賑わっている。
    
 ニューアーバニズム 〜悪いのはニューアーバニズム?それともニューアーバニスト???〜
今では日本でまちづくりに関わる多くの人にも馴染みある言葉となった『ニューアーバニズム』。ミックストユース、TOD、歩行者中心のまちづくり・・・等々、その基本理念は今さらここで紹介するまでもないほど広く浸透し始めています。そしてこの魅惑的な言葉の実態を一目確かめようと日本からも多くの人たちがアメリカにやってきます。この『ニューアーバニズム』熱、決して日本だけの現象ではありません。御本家アメリカでもこのキーワード無しにはアーバンデザインを語れないほど浸透し、書店には関連書籍が山積み。年一度開催されるCongress of New Urbanismは大盛況。ところが世の中やはり「出る杭は打たれる」?。痛烈な『ニューアーバニズム』批判も後を絶ちません。これは日本からはるばるやって来る人たちにも少なからず当てはまるようです。まぁ、忙しい仕事のスケジュールの間を縫って胸ときめかせやってくるのだから、実際のプロジェクトが期待はずれならば無理からぬ事かもしれません。ラグナウエスト、ザ・クロシングズ、ケントランズ・・・。『ニューアーバニズム』を謳い文句にしたプロジェクトをはしごするにつれ、ときめきは失望に変わり、日本に帰る頃には『ニューアーバニズム』熱はすっかり冷め切ってしまいます。だけどちょっと待ってください。本当に皆さんを失望させたのは『ニューアーバニズム』の理念ですか?それとも『ニューアーバニスト』の作品ですか?『ニューアーバニスト(と呼ばれている人)の作品』=『ニューアーバニズムの理念』と短絡的に結びつけてはいませんか?『ニューアーバニズム』の鎧をまとった典型的従来型グリーンフィールドの住宅開発を見て、勝手に『ニューアーバニズム』の理念まで否定してはいませんか?ただ単に日本での限られた(偏った)情報を元に、間違ったプロジェクトを選択してしまっただけではないのですか?
『ニューアーバニズム』の旗印の下、開発された多くの退屈なプロジェクトがある一方で、真摯に『ニューアーバニズム』の本質を追求しじっくりとつくり上げられた『まち』もあります。自らを『ニューアーバニスト』と呼ぶ事に抵抗を覚え、ブームとは一線を画しながらその本質を追求しているアーバンデザイナーも数多くいます。『ニューアーバニズム』に見切りをつけるのは、そんなデザイナー達のプロジェクトを見てからでも、決して遅くはないのではないでしょうか?もう一度、『ニューアーバニストの作品』ではなく、『ニューアーバニズムの理念』に目を向けて見てはいかがですか。そして、今一度本当の意味での『ニューアーバニズム』批判を始めてみて下さい。そうすればより『ニューアーバニズム』の本質に近づけるはずです。確かに『ニューアーバニズム』、決していいことばかりではないようですね。
   
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