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八幡様について

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1.八幡様とは 1)八幡神社の数 2)八幡様の御祭神 3)宇佐八幡宮
(八幡宮のはじまり)
4)(別縁起)
大隅八幡の八幡伝説
5)八幡菩薩
2.八幡様の
神威の高まり
1)発展の3つのステップ 2)託宣の神
としての八幡神
3)源氏の守護神
としての八幡神〜
3)武家の守護神
としての八幡神
4)一般庶民の神様として

1、八幡様とは
八幡神社の数
日本の神社の中で、八幡様をお祀りする神社は、全国で14,805社(神社本庁「祭礼データ」祭神名検索の結果から)、別の資料のデータでは4万6百余社ということである。おそらく神社本庁のデータは、小さな社はカウントしていないのだろう、4万6百余社の方が正しい数値ではなかろうかと思われます。全国に神社は、大小合わせると、11万社ということです。割合を見ればわかることですが、八幡社は、おそらく日本で一番多いだろうといわれています。

八幡様の御祭神
八幡様の御祭神の多くは、応神(おうじん)天皇(誉田別命・ほむだわけのみこと)神功(じんぐう)皇后(息長帯比売命・おきながたらしひめのみこと)比売大神(ひめおおかみ)の3神で、応神天皇の御父にあたる仲哀(ちゅうあい)天皇、御子の仁徳(にんとく)天皇をあわせて祀る場合もあります。また3神は、三座一体といいますが、その主神は応神天皇であり、他の2神、神功皇后や比売大神などは祀られていない場合もあるようです。
ところで、応神天皇についてですが、記紀伝承によると、第15代天皇で、仲哀天皇の第4皇子で、71歳で即位、在位40年で111歳で崩御となっています。長命で偉大な天皇であったことから、このような神になったのでしょう。現在、大阪府羽曳野市誉田町6丁目に応神天皇陵という日本有数の大きな古墳が存在しています(1kmほど西方には、御父の仲哀天皇もある)が、記紀伝承にあるその記録などを見ると(崩御の歳からみても)伝説的色彩が濃い天皇のようであります。

宇佐八幡宮(八幡宮のはじまり)
八幡神社の元祖は、九州・大分県宇佐市にある宇佐神宮(明治4年までは宇佐八幡宮)であるといわれています。八幡信仰は、氏神や産土神(うぶすなかみ)の性格をもって現在では、庶民的なものとなりましたが、もともとは菩薩信仰でありました。
宇佐八幡宮の所伝を略述します。わが国に仏教が伝来した(仏教伝来は552年)頃の欽明天皇の29年に、西海道(九州)は豊前・宇佐の地で色々な神異(ふしぎな事件)が起こりました。宇佐(現在の宇佐神宮境内)の菱形池のほとりの泉の湧く辺りに、鍛冶をする翁や、八つの頭を持つ龍が現れて、この姿を見た者は病気になったり、死亡したのでした。そこで、欽明天皇の32年(571年)、大神比義(おおがのひぎ)という修行者が、この祟りを治めようと、3年の間五穀を断って祈り神業を行なっていたところ、菱形池のほとりに鍛冶の翁が小児の姿で現れて、「我は誉田天皇広幡八幡麻呂・名は護国霊験威力神道大自在菩薩なり」とお告げになったといいます。そして黄金の鷹になって駅館(やっかん)川の東岸の松の枝上にとどまったといわれます。この翁の神童の霊(つまり黄金の鷹)のとどまった処に、約140年後、その村の長が、和銅元年(708)に鷹居社を造立し八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりといわれています(和銅5年(712)説も有り)。そして霊亀2年(716)には小山田社に遷座、さらに神亀2年(725)には、小倉山の丘陵(現在の亀山)にさらに遷座し、壮大な社殿の造営が行われたといいます。その後、天平10年(738)、これまで境外にあった2つの神宮寺を小倉山境内移建し、堂々たる伽藍の弥勒神宮寺として、宮と寺を一体化させた「八幡宮寺」なる特異な様式を生み出しました。(ただし、この社の創建年には諸説があります。祭祇に関わった辛嶋氏、大神氏の資料などには年代の異なる記述が見られます。)小倉山は、大分県は宇佐平野の中心部、御許山(おもとやま)の北北西の麓にあります。現在でも、この一帯には、多くの古墳群が存し、古くから開けていた土地であることを示しています。
さて、宇佐八幡宮の祭神ですが、一之御殿から順にいうと、一之御殿は八幡大神(御名:誉田別尊(応神天皇))、二之御殿は比売大神(御名:三女神(さんじょしん)=多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、多岐理姫命(多紀里比女命)(たぎりひめのみこと)、市杵嶋姫命(いきしまひめのみこと))、三之御殿は、神功皇后(御名:息長帯姫命)となります。また御許山には、現在大元神社がありますが、本殿はなく山そのものが御神体という自然信仰の残る山となっています。
このような由緒から、宇佐八幡宮は、古くから伊勢神宮に次ぐ「第2の宗廟」といわれ、全国に17社ある勅祭(天皇のお使いをお迎えする)の大社とされました。そしてその後、発展し全国で一番多いとされる八幡神社の総本宮となったのです。


(別縁起)大隅八幡の八幡伝説

大比留女という王女が、7歳で神聖な皇子を生み、母子ともにウツホ船に流されたと伝えられています。そこで、八幡信仰の中核は、処女懐胎の伝承につながる母子神の信仰ではなかったか、とする説も生まれています。

八幡菩薩
神霊の言葉に、「菩薩」の言葉が、出てきていることからわかるように、八幡信仰は、はじめから神仏混交の菩薩信仰として登場しています。ではどうして八幡と菩薩がくっついたのでしょうか。これは、応神天皇の誕生伝説と本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)などが関係しております。
応神天皇の誕生伝説によれば、天皇が生まれた時に、それを祝福して天から八本の幡が降ってきて、産室を蔽ったとあります。この伝説から応神天皇イコール八幡様となったといいます。
また幡とは、仏教の場合、梵語のpataka(幡)のことを指し、仏・菩薩の威徳を示す荘厳具といいます。つまり仏を祈る時に、その徳を表すのに左右に旗を飾るしきたりが古くからあり、そのうち阿弥陀如来に参る時も八本の幡を立てるのが決まりになったことから、本地垂迹説なども加味され、八幡が阿弥陀如来の化身(垂迹身)とする説が生じてきたようです。本地垂迹説とは、本地(仮の姿をとって現れる前の仏・菩薩などの真実の姿のこと)の仏・菩薩などが、衆生を救うために、迹(あと)を垂(た)れて、つまり化身して、我が国の神祀となって現れるとする説のことです。
阿弥陀とは、西方の極楽世界を主宰する仏陀の名のことでありますが、ここでは衆生を救う菩薩の意味で用いられ、これらのことから「八幡様は菩薩である」となり、八幡大菩薩とか八幡菩薩という言葉が生まれてきたようです。
ただし、この文章を読んでも気づくかと思いますが、本地垂迹説ができて、八幡様が菩薩との説ができたのか、それとも実際には、八幡の意味のこじ付けから八幡が菩薩になって、後づけ根拠のために本地垂迹説ができたのかは不明です(私は後の方ではないかと思ってますが)。


2.八幡様の神威の高まり


発展の3つのステップ◆
八幡様が、神威が高まっていったのには、大きく分けて3つの段階があります。第一に、その託宣の力によるアピールです。そしてその次は、八幡神が、源氏の守護神、後には武士の守護神として崇められたことです。第3段階は、さらに全国各地に社殿ができることによって、氏神や産土神と結つき一般庶民とも親しい神となったことがあげられます。
ますは託宣の神として、大きく飛躍した古代の頃を見てみましょう。

◆託宣の神としての八幡神◆
1)託宣の神としての八幡様の始ま
八幡神が、小倉山に鎮座する前、養老4年(720)に、九州南部の隼人(はやと・はやひと)が叛乱を起こした時、宇佐地方の兵士が、征討に加わり、鎮圧の後、殺生の罪障を「放生会(ほうじょうえ)」(捕らえられた生き物を山野や池沼に放つ儀式)を修して消滅するよう託宣を下した、とあります。これが放生会の起こりといわれています。
余談ですが、放生会は、同じ八幡宮である石清水八幡宮で、陰暦の8月15日に行われるものが現在最も有名です。また富山県の射水平野の放生津という潟は、おそらく昔、放生会が催された潟と思わます。

2)東大寺大仏造立時の託宣
その次に有名な神託は、聖武天皇の東大寺建立の際に、宇佐八幡が託宣を下して大仏鋳造を助けたといわれる事件です。伝承では、天平勝宝元年(749)7月に大仏を拝したいと託宣を下すと、八幡が宇佐から平城京へやってきてお入りになり、大仏殿の横に鎮座し、梨原宮に新殿が造立されたといいます。これが、手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)です。
3)弓削道鏡に関わる託宣
次に有名な神託事件は、神護景雲3年(769)に起きた和気清麻呂の大隅左遷事件です。事件は、阿部内親王(後の孝謙天皇、祚後の称徳天皇)藤原仲麻呂(藤原南家)との政争に起因しております。阿部
内親王は、女性でしたが、聖武天皇の皇太子でありました。日本史上唯一の女性皇太子でした。聖武天皇は、天平感宝元年(749)7月2日に退位し、阿部内親王が践祚して天皇(孝謙天皇)となります。同時に年号も、天平勝宝と改元した。しかし、天皇になったとは言え、この当時実権はなく、藤原仲麻呂が握っていました。そのため、天平宝字2年(758)には仲麻呂の意向で退位させられ、天皇の地位は、大炒王(淳仁天皇)に践祚されました。天平宝字4年、仲麻呂の後ろ盾の光明皇后が亡くなると、孝謙上皇は、藤原仲麻呂に叛旗を翻し対立し、天平宝字6年6月3日、上皇は国の細事は天皇が決め、国の大事は自分が決定するとの詔を発しました。そして天平宝字8年9月11日、上皇と弓削道鏡の関係を訝った仲麻呂は挙兵、両者は武力衝突した。しかし仲麻呂は敗走し、18日には捕らえられて処刑されるという結果に終わっています。その後孝謙上皇は、9月20日には、弓削道鏡を大臣禅師に任命する一方で、10月9日には淳仁天皇に挙兵共謀の疑惑で軟禁して廃位させ、孝謙上皇が重祚して、再び天皇(称徳天皇)となりました。
この阿部仲麻呂と
称徳天皇との政争で、ブレーンの1人として活躍したのが先ほどの出た弓削道鏡です。彼は、天平宝字6年(762)孝謙上皇の病気を治したとして、孝謙上皇から彼は絶大な信頼を得るようになりました。それ故に法王という地位まで新設して、これに彼を任じています。称徳天皇は子供がいなかったので、道鏡を尊敬するあまり、彼を後継者に指名できないものか、と考えました。しかし、道鏡は勿論天皇の血統ではありません。ちょうどその頃、うまいタイミングで「 道鏡を天皇にすると国家は安泰となる」との宇佐八幡宮の神託が出たとの噂が流れます。(これは、当時、宇佐八幡を管理していた九州太宰府の長官は道鏡の弟だったので、そこから流したものと思われます。)
しかし、当時は、お告げが出たという噂が出た以上、真偽を調べねばならず、
称徳天皇は腹心の部下・和気広虫の弟・和気清麻呂を派遣して確認させることになりました。和気清麻呂は、最初は天皇の意向に則した神託を持ち帰ろうとしましたが、宇佐八幡宮の境内に入った途端に、神々しさに圧倒され、神官に、神に尋ねるべき案件を伝え待ちました。しかしその神官が伝えた言葉は「馬鹿なことをいうでない」であり、清麻呂が驚くと、疑うなら「自分で確かめるが良い」と神官はいいました。それで清麻呂は自分で、神殿の中に立ち入り神の声を聞くことにしました。中に入ると彼の頭の中が空白になり、心が裸になり、彼はその瞬間に神の意志を理解したといいます。
彼は帰京して、天皇に自分が聞いた通りの神の意志を伝えました。「古より天皇と臣下の別は明確である。臣をもって君に代えることはできない。」

称徳天皇は激怒して、清麻呂とその姉の広虫を遠流に処しましたが、天皇家と同祖(応神天皇)とされる八幡神の神託は重みがあり、如何ともし難く、失意陥った天皇は翌年8月4日に病気のため崩御した。これにより、天皇は称徳天皇の姉・井上内親王の夫である白壁王が藤原永手(藤原北家)の強力な後押しで新天皇(光仁天皇)となります。道鏡は、この時期坂上苅田麻呂が道教の奸計を密告したこともあり左遷され、和気清麻呂はすぐ復帰し、新政権で重用されます。またこれ以降藤原北家は、南家に代り、平家の台頭まで繁栄を謳歌することとなります。

八幡神は、こういった国事に関わる託宣や様々な行為を行なうことによって、その時々の政権とも巧妙に結びつき、国家守護・皇室守護・王城守護の神様として、平安時代・藤原の時代まで驚異的に発展を遂げました。

源氏の守護神としての八幡神
1)八幡宮が源氏の守護神となった理由
八幡神が、源氏の守護神となった機縁とされるのは、普通、源義家が、石清水八幡宮で元服し八幡太郎義家となってからといわれている。しかし、それ以前にも源氏と八幡社の関係はないかと調べてみると、少なくとも義家の祖父の頼信や父・頼義の頃には、石清水八幡宮に限らず各地の八幡宮に盛んに祭文を捧げたり、また各地に八幡宮を創建している。源
頼信は、石清水八幡宮に近い河内石川地方に勢力を蓄えていたから、石清水八幡宮は身近な神であったし、また武家としては弓矢、戦勝の神である八幡様は最も守護神にふさわしかったのだろう。
また別の理由も考えられる。源頼信は河内源氏の祖といわれるが、清和源氏としても最初に源氏姓をもらった経基から3代目であるし、清和天皇から数えても5代目である。このあたりの代から天皇に繋がる家系とはいえ、皇族とは縁遠くなりかける頃だから、かえって皇族の血の意識をしたことも
考えられる。そして天皇家と同祖とされる八幡神を守護神としたことも考えられる。
2)石清水八幡宮
京都府綴喜郡八幡町の男山に鎮座する八幡宮です。創建は、貞観元年(859)8月で、豊前国の石清水八幡宮から大安寺の僧行教が、勧請したことにはじまります。京に近いことから皇室の崇敬あつく、70余度の行幸を仰いでいます。また先ほどもいいましたように、弓矢、戦勝の神としても武家の崇敬を集め、特に、源頼信が祭文を捧げ、その孫の義家がここで元服して八幡太郎義家と名乗ったあたりから、源氏の守護神として定着したようです。現在の社殿は徳川家光の造営による八幡造の建物です。徳川も、はなはだ素性は怪しいとは言え源氏を名乗っていましたから、家光が
石清水八幡宮に肩入れしても不思議ではないでしょう。建物はすべて重要文化財です。

武家の守護神としての八幡神
1)鶴岡八幡宮
八幡神が、弓矢、戦勝の神として武士達の崇敬を集めていたとは言え、それに拍車がかかったのは、源氏が政権をとった、すなわち源頼朝が政権をとった後、頼朝が、鎌倉に鶴岡八幡宮の社殿を造営したことからのようだ。ただしよくある説明では、この鶴岡八幡宮も頼朝が勧請したことになっているが、実際には八幡太郎義家の父・頼義が康平6年(1063)に、京都の石清水八幡宮より、この地に勧請したのがそっもそもの起源のようです。
頼朝以降、武家の頭領は源氏の頭領がなるものだ、という考え方が生まれましが、それと並行して、武家の頭領の守護神イコール、武家の守護神という考えも生まれたようです。頼朝以降、他の武家も、こぞって八幡宮に祭文を祈願したり、八幡宮を各地に勧請創建するようになったようです。

一般庶民の神様として
鎌倉時代以降、公家が治める時代から武家が治める時代に変わると、各地に八幡宮が建てられ、次第に庶民にとっても、最も親しみの深い神様になっていったようです。そして、八幡様の性格も、弓矢、戦勝の神から、意味を拡大し、疾病をやっつける神様、すなわち病気平癒の神性をもたされたり、その強いイメージから治水の神性をもたされたりと、色々な有りがたい神性を付与されていったようです。まら各地に八幡宮ができると、そこの神として土着し、さらにはその社からまた他の地へ勧請されたりもしたようです。そのため産土神や氏神ともかかわりをもったようです。すなわち、時には、それらの神が合祀されたり、また時には、それらの神は八幡様の化身であり、それらの神=八幡様とみなされたり、色々あるようです。このようにして、八幡様では、現在では日本で最もメジャーな神様となったようです。