トップ・ページに戻る

『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収

アダルト・チルドレンの語られ方

−雑誌記事の分析より−


加藤 篤志


0. はじめに

1) 「ACブーム」と「ACバッシング」


 「私自身はせいぜい部数二千ほどの本を書いてきた人間です。他人の責任にするようだが、「悩んでいる人が手に入れやすい書籍を」と言われ、大手から出版したのが間違いだったかも。万単位に売れたときの影響まで、予想できなかった。」(記事51より)(1)

 「アダルト・チルドレン(略称AC)」「共依存」などの概念をいち早く紹介し、摂食障害やアルコール依存症などの嗜癖に悩む人々の自助グループに自ら積極的に関わってきた斎藤学は、「アダルト・チルドレン」概念の流通とそれに対する「バッシング」について、上のような発言を残している。確かに人口に膾炙すればするほど、当初の予測を越えた誤解も多くなり、妥当性の有無に関わらず様々な批判の対象となることも免れないだろう。
 いまや「アダルト・チルドレン」という言葉を知っているのは、一部の研究者だけではなくなってきており、多少とも精神医学や心理学に興味のある人ならば一度は聞いたことがあるのではないかという状況になってきている。また、後にも触れるが、『女性自身』のような一般向けの女性誌、『週刊現代』のような週刊誌にまで「アダルト・チルドレン」の語が登場するに至っており、一度でもこの言葉を聞いた人はかなりの数に上っていると考えられる。そしてそれに伴い、研究者や自助グループ関係者からみれば明らかに「誤解」としか言えないような言説が、様々な場面で見られるようになったことも容易に想像できるし、事実そうなっていると言えるだろう。
 この「ACブーム」とでも呼ぶべき状況の中では、「アダルト・チルドレン」の存在と現代社会との関係を論じる議論も数多く登場しており、現代社会論やアイデンティティ論などの文脈の中で興味深い視点を提供している。しかし、本稿で問題にしたいのは、むしろこうした「ACブーム」とでも呼ぶべき現象、すなわち「アダルト・チルドレン」に関する議論や社会現象が注目を浴び、マスコミでも取り上げられたという事実である。
 心理療法に起因する言説が社会一般に注目を浴びたり、青少年を中心とする人々が自らの精神的な問題を追求しようとする姿勢は、「自分探しブーム」等の言葉でしばしば主題化されている(2)。「ACブーム」もまた、こうした「自分探し」の一端として位置づけることが可能である。この場合、「AC」に関しては、それが「自己」ばかりでなく「関係」にも関わっていること、その言説がもっぱらコミュニケーション能力に関するものとなっている点に特徴があるといえるが、これらの特徴は特に「AC」の概念に特有のものでもなく、その点ではごくありふれたものと言える。もっともここで、なぜ「AC」が問題となるのかということ、またこうした問題に関わる人々が、なぜ自己の問題をコミュニケーション能力や対他関係の文脈で語ろうとするのかということは、非常に大きな問題となるだろう。
 しかし、ここではとりあえず「アダルト・チルドレン」という概念を人々がどのような意味に解釈し、どのような文脈で受容あるいは反発していたのかに注目したい。それらを考えていくことで、現代社会における「自己」あるいは「対人関係」に関する「語られ方」を見ていく際の材料の一つにできればというのが、今回の作業の目標である。
 なお、本稿では、「アダルト・チルドレン」をめぐる一連の議論の妥当性については、あえて論じていない。ここで問題にしたいのは、「アダルト・チルドレン」の概念や自助グループの活動の是非ではなく、「アダルト・チルドレン」が問題にされるときの語られ方だからである。

2) 「アダルト・チルドレン」を論じることの困難

 ここで論じられる「アダルト・チルドレン」の概念が何を指すのかについては、それ自体本稿の主題とも重なるので、一概には言いにくいものがある。しかし、一応オーソドックスな「定義」として、ここでは斎藤学[1997]の記述を参照しておこう。
 斎藤によれば、「アダルト・チルドレン」とは、主に“adult children of dysfunctional families”、すなわち「機能不全家族のもとで育った子供たちが大人になった状態」の意味で用いられる概念であり、幼少時から両親のいずれかあるいは双方が何らかの理由で親としての機能を十分に果たしておらず、家族システムそのものが危機にさらされるという体験をしたことで、過度に「いい子」でいることを余儀なくされたり、他者の期待に過剰に敏感になるなどの状況に陥り、その結果として自己のアイデンティティの不安定さやある種の「生きにくさ」を感じるような人々を指している。
 ところで、多くの論者が指摘するように、「アダルト・チルドレン」という概念は、そもそも病名でもなければスティグマでもなく、「私はアダルト・チャイルドである」と自覚するための概念と位置づけられている(例えば記事13)。すなわち、「アダルト・チルドレン」とはそもそも他者によって「名付けられる」ための概念ではなく、自己を「定義」し、「認識」するためのツールなのである。そして重要なのは、当事者が「私はACである」と自己認識することそのものが、その人の「生きにくさ」の感覚からの脱出につながり、それに伴う様々な問題行動からの脱却につながるとされている点である。すなわち、「アダルト・チルドレン」とは、基本的には自己認識のための概念であり、「回復」のための手段でもあるわけである。
 だとすれば、その「アダルト・チルドレン」概念の是非をめぐる議論は、そうした「自己認識」のあり方の是非に関する議論となるはずである。すなわち、当事者が自らの抱える問題を「アダルト・チルドレン」という概念を用いて説明し、自己について語るためのツールとしてこの概念を用いるということの意味とその是非が問われるべきなのであり、「アダルト・チルドレン」として捉えられるべき実体的な対象が存在するか否かは別問題となるはずなのである(3)。しかし、実際にそこでなされている議論は、必ずしもそうした視点を踏まえているとは言い難い。筆者自身、学会や研究会その他でACに関する議論の場に参加しているが、そこになされる議論の複雑さと困難さは常に何人かの参加者によって指摘されてきた。それはあるいは、ここで挙げたようないくつかの議論の水準が、実際の議論においては必ずしも明確に区別されていない点にあるのではないだろうか。「アダルト・チルドレン」の概念を用いた理論図式を擁護するにせよ批判するにせよ、その概念は論者によって、特定の人格類型に対する客観的な説明概念と見なされていたり、客観的な対象の有無に左右されない一種の「語り」や「自己認識」と見なされていたり、さらには現代社会を代表する社会意識の一類型と見なされたりしており、こうした概念の位置づけの不透明さがしばしば議論の混乱を招いているとも思われるのである。
 ここで注意しなければならないのは、「アダルト・チルドレン」という概念それ自体は、少なくともその概念を生み出した臨床の現場においては、あくまでも実体的な概念というよりも主観的な概念なのだということであろう。ただ後に見るように、こうした概念の水準がしばしば現場の当事者においても混乱することがあり、それが議論の複雑さを招いているということはできるかもしれない。

3) いくつかの留保

 ここでは、主に「アダルト・チルドレン」をキーワードとするような雑誌記事を抽出し、それらを概観していくことになる。ただし時間的な制約により、今回は資料紹介にとどまっており、詳細な分析は次の機会に譲ることになる。また本稿はいくつかの点で、留保を必要とする部分も含まれている。主な点を次に挙げておく。
・参照した資料が非常に限られたものであること。今回はいわゆる「一般読者」に向けた記事を対象としたため、学術雑誌や専門誌など、日頃から「アダルト・チルドレン」の概念に触れていたとしてもおかしくない読者を対象としたものはリストから省いてある。具体的には、『現代思想』『アディクションと家族』『ユリイカ』『現代のエスプリ』などが挙げられる。
 ただし、「一般向け」と「専門家向け」の区別は非常に困難であり、またリストを見れば分かるように、「一般向け」の記事だからといって専門性を全く欠くわけでもない。従って、今回の資料の選択はあくまでも暫定的なものにすぎず、さらに「専門家向け」の雑誌をも含めたより詳細な分析が必要であることは確かである。
・さらに記事の抽出にあたっては、複数のデータベースを参照したものの、それでも重要な記事がこれらのデータベースから抜け落ちている可能性は否定できないが、これについては作業の性格上やむを得ないといえるだろう。
・「一般読者」を対象としたものであれば、当然単行本や新聞など雑誌以外のメディアについても参照すべきであろうが、今回はそこまで至っていない。従って、これら雑誌以外のメディアの動向によって、今回の報告での考察が幾分修正される可能性は否定できないことになる。


1. AC記事の諸形式

 さて、今回雑誌記事の抽出に当たって参考にしたのは、次のデータベースである。
・日外アシストデータベース 雑誌・論文情報MAGAZINE(オンライン・データベース)
・G-Search 週刊・月刊雑誌タイトル情報(オンライン・データベース)
・大宅壮一文庫所蔵雑誌記事索引(CD-ROMおよび館内データベース)
 これらのデータベースから、「アダルト・チルドレン」あるいは「アダルト・チャイルド」をキーワードとするような記事(1998年3月まで)を検索した結果が別表のリストである。

  発行年月日 誌名 ページ 著者 タイトル
1 1988/02 月刊アドバタイジング 71-75 楓セビル エイジ・オブ・アダルト・チャイルド(ニューヨーク特信99)
2 1996/01/25 週刊文春 152 増田晶文 著者と60分−西山明『アダルト・チルドレン 自信はないけど、生きていく』(文春図書館)
3 1996/02/15 週刊宝石 148 大桃美代子 私の選ぶ一冊(西山明『アダルト・チルドレン 自信はないけど、生きていく』)
4 1996/04 コスモポリタン 164-147 細貝さやか 著者インタビュー 『アダルト・チルドレン』 西山明さん
5 1996/04/08 AERA 89 速水由紀子 MAKING OF 「アダルト・チルドレン」(西山明著)
6 1996/04/12 週刊金曜日 38-41 北国浩二 自分のなかの子どもを癒す
7 1996/04/28 サンデー毎日 153 不明 サラリーマンのためのホームページ アダルト・チルドレン
8 1996/05 342-351 後藤淑子 現代人の心の傷「アダルト・チルドレン」って何?
9 1996/05 VIEWS 100 黒沼克史 心に問題を持つ4人の女性へのインタビューは、まるで優しいカウンセリングだ(本に聞け! 西山明『アダルト・チルドレン』)
10 1996/05/12 サンデー毎日 56 村上龍・斎藤学 Ryu's倶楽部連載対談18 村上龍の「日本はこんなにつまらない」
11 1996/05/13 日経ビジネス 120 斎藤学 診察室 アダルト・チルドレン
12 1996/06 THE 21 66-69 亀井肇 ビジネスマンのための新語事典 アダルト・チルドレン
13 1996/06 プレジデント 316-317 不明 著者インタビュー 斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』
14 1996/08/12 Bart 62-65 不明 アダルト・チルドレンって何?−あなたの「生きづらさ」を解明するキーワード
15 1996/09/01 文芸春秋 470 鴨下信一 世紀末ベストセラー予報◆丙愼3悄悒▲瀬襯函Ε船襯疋譽鵑伐搬押拆匆陝
16 1996/09/03 週刊女性 58-61 不明 あなたも“アダルトチルドレン”かもしれない!?
17 1996/09/26 女性セブン 99-100 不明 BOOK REVIEW (信田さよ子『「アダルト・チルドレン」完全理解』)
18 1996/09/28 週刊東洋経済 82 石川好 大人社会に蔓延する“アダルトチルドレン言葉”
19 1996/10 ACROSS 4-5 石坂晴海 AC瓩聾渋綣匆颪里海海蹐良(ACROSSCOPE)
20 1996/10 THE 21 129 藤谷繁人 書店人だけが知っている隠れたロングセラーはこれだ(斉藤学『子供の愛し方が分からない親たち』)
21 1996/10/04 anメn 214 不明 サイコロジスト・信田さよ子さんに聞く 静かなブームを呼ぶ現代のキーワード、爛▲瀬襯函Ε船襯疋譽鶚瓩箸呂匹Δい人?
22 1996/10/17 週刊宝石 165 不明 本のレストラン メインディッシュ2 「愛情」という名を借りて子供を支配する親との関係(書評・信田さよ子『「アダルト・チルドレン」完全理解』)
23 1996/11/22 週刊朝日 141 秋山仁 バット撲殺事件に親の爐笋気靴に塾廊瓩呂覆ったか(教育は仁術89)
24 1996/11/30 週刊ダイヤモンド 109 熊本功至 今週の書評 斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』
25 1996/12/03 女性自身 90-96 田村章 おかあさんの愛が苦しかった!(シリーズ人間No. 1348)
26 1997/01/01 女性自身 44 不明 NEWSナットクの15分 最近やたらと目にする言葉、「アダルト・チルドレン」っていったい何?
27 1997/01/13 AERA 10-11 保科龍朗 背後にチラつく母親の影
28 1997/03 ショッピング 55-57 北島章子 私の犲分嫌い瓩録討原因!?
29 1997/03 世界 110-136 西山明 帰る場所がない 「私」を愛してくれたオウム(特集 〈生きにくさ〉という問題)
30 1997/03 世界 149-159 信田さよ子 「家族解散」という選択 コントロールドラマの終焉に向けて(特集 〈生きにくさ〉という問題)
31 1997/04/01 世界臨時増刊 335-337 西山明 アダルト・チルドレン
32 1997/05 正論 290-298 花井等 世界を牛耳るアダルトチャイルドとミュンヘンの子
33 1997/06 THEMIS 14-15 不明 「橋龍=アダルトチルドレン論」を検証する
34 1997/06/19 週刊宝石 74-77 不明 旬のひと 週間日録 信田さよ子
35 1997/07/19 週刊現代 40-42 不明 “アダルト・チルドレン”橋本首相の「米国債売却発言」を徹底検証する
36 1997/08 コスモポリタン 38-55 三浦優香・村上早苗・本誌編集部 もしかして、わたしアダルト・チルドレン!?
371997/08 鳩よ! 34-35 斉藤美奈子 アダルト・チルドレン本が日本の社会にもたらす功と非
38 1997/08/04 AERA 6-9 坂本哲史 いい子たちのAC
39 1997/08/04 AERA 10-11 坂本哲史 各界有名人のAC度 日本人なら誰にもあてはまる?
40 1997/08/16 週刊現代 34-37 不明 橋本首相の「アダルト・チルドレン語録」を精神分析する
41 1997/09  諸君 220-228 与那原恵 斎藤学「アダルト・チルドレン」は新宗教か
42 1997/09/05 週刊ポスト 238-240 ビートたけし スポーツでも政治でも芸能でも世襲制が純粋培養の爛▲瀬襯肇船襯疋譽鶚瓩鮴犬鵑任襪鵑世辰討痢淵咫璽箸燭韻靴寮さ末毒談 第426回)
43 1997/09/17 SPA! 44-50 石丸かずみ・今一生・藤原暢子・小野澄恵・大久保かおり 「NO」と言えない女たち 〜綾波レイ症候群〜の怪
44 1997/09/24 SAPIO 77-84 小林よしのり 新ゴーマニズム宣言第51章 アダルト・チルドレンという自己愛
45 1997/10/01 宝島 35 不明 悲しい生き様が引き起こす! 風俗嬢の9割がアダルトチルドレンだった
46 1997/11 Voice 168-170 和田秀樹 「マザコン」万歳!
47 1997/11/01 AERA 126-133 坂本哲史 (38の再録)
48 1997/11/28 週刊朝日 136-137 狩生聖子 アダルトチルドレンな彼の「遅すぎた挫折」。そして事件は起きた(彼女の選択 55)
49 1997/12 月刊自由民主 22-23 小此木啓吾 「自称アダルト・チルドレン」の時代
50 1998/02/02 AERA 28-31 野口拓朗 親たちのAC
51 1998/03/09 AERA 10-14 坂本哲史 さようならアダルト・チルドレン

 これらの記事の内容は多岐にわたっているが、全体としてどのようなものがあるか見ていきたい。ただし、この分類は記事の内容に対するものであり、一つの記事全体に対するものではない。従って、記事の中には複数のカテゴリーに属する内容が盛り込まれていることがある。
 まず、それぞれの記事の形式を見ていくと、次のようなものが挙げられる(以下、カッコ内の数字は、別表リストの記事につけられた番号である。

1) 「著者・専門家紹介」(10, 21, 34)
 「アダルト・チルドレン」や自助グループに関する専門家の紹介・インタビュー・活動報告など。
2) 「書評・書籍紹介」(2, 3, 4, 5, 9, 13, 15, 17, 20, 22, 24)
 ACを扱った書籍の紹介や書評、著者へのインタビューなど。具体的には、西山明『アダルト・チルドレン』を取り上げたのが5件、信田さよ子『「アダルト・チルドレン」完全理解』が2件、斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』が3件、斎藤学『子供の愛し方が分からない親たち』が1件。
3) 「用語解説」(7, 12, 26)
 「アダルト・チルドレン」に関する簡単な用語解説。
4) 「著者・専門家の原稿」(11, 29, 30, 31)
 ACや自助グループに関する専門家や、書籍の著者が自ら執筆したもの。
5) 「当事者紹介」(25, 39, 48)
 ACに該当する特定の個人に焦点を当てたもの。
6) 「概念・事象紹介」(6, 14, 16, 19, 27, 28, 36, 38, 41, 43, 50, 51)
 ACの概念に焦点を当て、総合的なレポート形式で紹介したもの。
7) 「時事問題論評」(1, 18, 23, 32, 33, 35, 37, 40, 42, 44, 45, 46, 49)
 ACや自助グループ自体を対象としたというより、それらの概念を用いた社会批評や、AC概念の流通という事象に対する論評。


2. 記事の内容

 次に、それぞれの記事におけるACの語られ方について見ていきたい。ここでもまた、一つの記事が複数の内容を含んでいる場合があるし、記事の著者と異なる見解が他者の意見として引用されていることもあるが、これらについても全てカウントしている。

1) 肯定的内容

 「アダルト・チルドレン」の概念や自助グループの活動に対して比較的肯定的な記事。具体的な論点としては、次のようなものがある。

a) ACの概念や自助グループの活動と現代社会との関係を指摘するもの。
 これらはさらに、ACの概念の位置づけによって次のように分類されるだろう。

i. ACの概念を(多くの自助グループが認めるように)「自己申告の概念」であり、「自らをACと自覚した者」をACと位置づけた上で、「ある種の人々がACたることを自覚すること」の重要性を論じるもの(4, 6, 8, 13, 30, 31)。

 「人は他人のまなざしの中で生きざるを得ないし、極端な話、日本全体が他人のまなざしにあわせて生きる社会ですよね。そういう意味では、僕たちはみんなAC的要素を持っていると言えるのかもしれない。」(4)
 「「ACというのは特別なことではなく、ふつうの人のふつうの出来事なんです。ただ、今まで呼び名がつけられていなかったから、感覚的には漠然と感じていても認識されなかっただけなんですね。そういう意味では、現代人はみなACですよ。気づくか気づかないかのちがいだけでね」
 AC問題に詳しい精神科医・秋山正弘氏はそう言う。
 だれもがみなインナー・チャイルド(自分のなかの子ども)を心のうちに抱えている。その声に耳を傾けることで、ひとは自分の在りかを見つけることができるのだ。」(6)
 「現代社会には、医学用語ではとらえきれない心の病が蔓延している。その病の多くは、きしみ出した社会の価値観が生み出したものにほかならない。ACの人たちを見ていると、この社会のきしみのなかで自己の痛みに気がついた人たちとも思えてくる。」(8)
 「この本を書いたのは、一種の危機感があったからです。現代の青年にみられる種々の逸脱した行為を単なる社会現象として捉えているわけではなく、現代社会に通底する病理現象を捉えるためにACという言葉を使っています。ただ、ACは診断のための医学用語でもなければ、人を誹謗中傷するためのレッテルでもありません。親や教師・上司の期待が渦巻く環境で、自らの生きにくさの理由を自分なりに理解しようとする人が辿り着く、一つの自覚であり、自己認識なのです。それは生き方といってもいいでしょう」(13)
 「この定義付けのポイントは、「認めた人」という自己認知にある。決して他者に対して一方的に、診断的にスティグマとして投げかける言葉ではない。自分がACと思えばACなのである。「病気」やマイナスのレッテルでもない。」(30)
 「だが、このコンセプトが多くの若者にすんなりと受け入れられたという事実、そして、ACということばによって初めて自分の苦しみを表現することばに出会ったという人々が中高年にも多いという事実をどう解釈したらいいのだろうか。」(30)
 「ACは医学上の診断名ではない。「私」と出会うためのキーワードだ。ACというのは、理由が分からないまま、生きることに悩んでいる人達にとって、「そうなんだ、自分はそうだったんだ」と気付くような力を持った言葉といえる。
 日本の社会では、親たちは世間の評判を極度に恐れながら、完璧主義的な子育てをしたがる。そうした親の爛泪ぅ鵐鼻Ε灰鵐肇蹇璽覘瓩涼罎如家族を支えて生きるのが「いい子」だった。」(31)
 「ただACはあくまでアイデンティティの問題。自分自身をACと認めてもすべて解決するわけではない。」(43)

 ii. どちらかといえばACの概念を客観的なものとして捉え、本人の自覚の有無に関わらずACと把握可能な、あるいはACを自覚すべき一連の人々がいるという視点に立ったうえで、その意味を論じるもの(2, 3, 5, 10, 23, 24, 27, 50)。

 「本書がたくさんの方々を救うきっかけとなることを願ってやまない。」(2)
 「みんな一生懸命働いてきた。経済第一主義で父親不在の生活。日本のどこでも起こっていたこと。普通の家庭で起こっていることなのだ。その結果が幼い子供の心の傷となり、アダルト・チルドレンの大量生産になってしまっているのではないか。」(3)
 「ACとは親からの心身虐待を受けて育った人たちが悩まされる、存在の悲しさ、過剰適応と反動などを表した臨床心理的な言葉だ。」(5)
 「孤独な都会の片隅に、こうした出会いが生まれると考えただけで、ふと救われた気分になる。」(5)
 「村上 親にしろ、社会にしろ、これだけ問題をはらんでいると、まともに育つほうが珍しいですよね。」(10)
 「親が、それまでの自分の価値観を心底から変えるには時間もかかるし、一人では無理だろう。カウンセラーなどの専門家の助けも必要だ。」(23)
 「むしろ日本全体が共依存による紐帯で結ばれた不気味な社会ではなかろうか? そこでは個による自立は、存在し難い。」(24)
 「母子密着が引き起こす対人恐怖症は日本人に特有の自意識の障害だ。歪んだ家族の関係が、知らぬ間に、自意識をボロボロに浸食している。」(27)
 「どうしてこういう人が増えてきたのか。信田所長は、もともとあったのだが、経済発展のためとか、政治が悪いからだとか思い、気付かなかっただけと指摘する。」(50)


 iii. ACの概念の理論的な水準が曖昧なもの。あるいは複数の水準が混在しているもの(14, 19, 21, 34, 36)。

 「それでは、アダルト・チルドレンを生み出す親子関係、家族関係とはどういうものなのだろうか?」(14)
 「しかし、たとえば、人間関係に行き詰まったとき、自分のことをアダルト・チルドレンではないかと疑うことは有効かもしれない。」(14)
 「AC瓩聾渋綣匆颪里海海蹐良造ぁ(19)
 「それは人格じゃなくACという心の病なんだ、本人と周囲がそう認識するところからしか治癒は望めない。」(19)
 「ACは、非常に主観的な言葉であり、自己認知が重要だ。医者など他者が認めなくても、自分がACだと思えばその人はACである。」(21)
 「ある意味で牴搬沖瓩蓮△い滔造澆覆らカーブを曲がろうとしている変化の時期なのだろう。」(21)
 「このACの原因は、家族の変化、つまりは日本の社会の変化なのです。」(34)

 これらの論点は、斎藤学や信田さよ子などの研究者も早くから注目していた点であり、彼ら自身の原稿やインタビュー等を用いたものも多い(例えば6, 10, 13, 29, 30, 50など)。また、他の著者による記事においてもよく見られる論点であり、結果としては数量的にもっとも多いものとなっている。
 ただ、論理水準としてはi.よりもむしろii.の方が多く、iii.も少なくはない。特に注目すべきは、基本的にはi.の視点に立って議論を展開している(例えば13, 43)はずの斎藤や信田自身が関係している記事の中にさえ、ii.やiii.の文脈で解釈できるようなものがあるということである(例えば10, 24, 50)。本稿の筆者の解釈次第と考えればそれまでかもしれないが、斎藤や信田など臨床の現場にいる人々と、記事の筆者や編集者との意識のギャップを示しているとも考えられるだろう。

b) ACの可能性がある個人に対して「あなたもACでは」と問いかけたり、回復への処方箋として自助グループの紹介を行ったりするもの。
 1) a)に次いで数が多く、信田さよ子などもこの視点からコメントを残している(例えば17, 43)。ほとんどが可能性のある読者に対して「自らがACであると自覚すること」を呼びかけるものだが、その「自覚」をi.自らの必要に基づいた「名付け」を意味すると思われるもの(11, 14, 17, 21, 28, 43)と、ii.客観的な基準に立った場合の「発見」を意味すると思われるもの(4, 15, 26)、さらにiii.どちらとも取れない曖昧なもの(16, 36)に分けられるだろう。

 「そう言った人は、自分が「アダルト・チルドレン」であると認識を持った方がいい。」(11)
 「あなたの人間関係の悩みも、ACが原因になっているかもしれない。現実はそこまできている。」(14)
 「いま、生きがいを見失い、思い悩んでいるあなた。自分がACだと自覚することで、その悩みから解放されるかもしれません!」(16)
 「だから、この言葉を知ることで、もう中年だからなんてあきらめず、何才になっても自分は変われるし、人生は新しくしていけるという希望をもってほしいのです。」(17)
 「もし自分をACと感じている人たちがいたら、ACのつらさを共有できる人がいるんだということをまず知ってもらいたい。」(21)
 「自分に自信がありますか? NOと答えた人は自分のイヤな部分はどこですか? それはもしかしたら、あなたの親から受け継いだものなのかも。今月は102人の読者の声を通して、自分の心の中を旅してみませんか。」(28)
 「他人に求められていることを愛情と勘違いしないこと。単純なことですが、まともな男は強引に求めないものだと知るべきですね。」(43)

 「生きづらさ、居場所のなさを感じていたなら、あなたも、従順な「いい子」を演じ続けてきたアダルト・チルドレンかもしれない」(4)
 「それと、心の悩みを持っている子としてのあなたにも読んでもらいたい。」(15)
 「もしかして‥‥と不安になる人がいるかもしれないが、有効な治療法がある。」(26)

 「チェック!! こんな人はAC(アダルトチルドレン)かもしれない」(16)
 「アダルト・チルドレンの特徴と背景がわかったところで、どうしたらその苦しみから自分を解放することができるか、具体的な方法を紹介していこう。自分を受け入れるためのこの処方箋は、AC以外の人にも、きっと役に立つはずだ。」(36)

c) ACを自覚した、あるいはACと見なしうる特定の個人を肯定的に紹介したもの(25, 29, 36, 43)。

 「拒食症、極度の潔癖症、アルコール依存症−。爛▲瀬襯函Ε船襯疋譽鷯標群瓩房 垢判韻錣譴拭画家・木村千穂さん(28)の出口を求めた絵!」(25)
 「子供時代の親との関係は、私たちの考え方や対人関係に、どんな影響を与えるのだろうか。ACという言葉をキーワードに、6人の女性たちが過去を振り返り、自分自身と向かい合ってくれた。その証言を通して見えてくるものは……?」(36)

 著名人、読者代表、画家など様々な人々が取り上げられているが、いずれにしてもACというアイデンティティと向かい合い自己を披瀝するという形式になっている点は一致している。ただ、当事者の主観に基づいた記述となっているため、ACの概念の位置づけについてはほとんど明確ではない。

d) 親の世代に対して、子供をACに育ててしまう可能性を警告するもの。(10, 11, 15, 20)

 「斎藤 結局、親が楽しそうに、ハッピーそうに生きてるかどうかなんです。本当にハッピーかどうかなんてわかんないんだけどね。」(10)
 「子供をもったのであれば、父親としての役割も再確認してほしいものである。」(11)
 「この本はアダルト・チルドレンの研究と臨床で第一人者である著者が一般人のために書いたものだが、家庭をもって父親・母親であるあなたにぜひ読んでいただきたい本といえる。」(15)
 「当店の主力客層でもある主婦の方々が本書を手に取り、真剣に読み込んでいる姿を何度となく目にしていますが、彼女たちにはわが子を「アダルト・チルドレン」に育ててほしくないですね。」(20)

 書評者、研究者、書店の担当者などによるコメント的な言明が主流だが、ACの概念を実体論的に捉えているものがほとんどといえる。「警告」という形式をとる以上、子供が将来ACを「自覚」しなければならなくなる可能性を警告する、というレトリックは採りにくいのだろう。但し、記事11については、子供をACに育ててしまう可能性というより、子供に精神的な傷を与えてしまう可能性を警告するという形になっているので、ACの概念の位置づけの問題とは無関係と言える。

2) 批判的内容

 「アダルト・チルドレン」をめぐる一般的な見解をすくなくとも全面的には肯定せず、いくらかの疑問や批判を呈しているもの。論点としては、次のようなものがある。

a) 親や家庭との関係に安易に遡ることを批判するもの(「親のせいにするな」)(8, 9, 42, 44, 51)。

 「ただ個人的には、それぞれの物語を果たして家庭のせいだけにしていいものなのかどうか、ひどく意地の悪い質問とその答えも読んでみたくなった。」(9)
 「オイラにいわせりゃ、そんな子供も悪いんで、何でも親のせいにするなんて虫が良すぎるっつうの。」(42)
 「自分のくだらなさを家族のせいにして安心しててどーする?」(44)

 批判的論点としてもっとも多く見られるものである。もっとも、これ自体はいくつかの自助グループで既に表明されていることと同じであり(例えばアスク・ヒューマン・ケア研修相談室(編)[1997:12-13])、容易に再反論されてしまうことが予想されるのだが、それでもACに関するネガティヴなイメージを表すものとしては代表的なものともいえる。

b) ACの概念があまりにも広すぎることに疑問を呈するもの(「何でもACになってしまう」)(44, 51)。

 「その特徴を読むと/もうわしのスタッフなんか/全部 アダルト・チルドレンだ」(44)
 「ACの概念は余りに多くの人々にあてはまり過ぎる。その結果、治療の必要のない人までが自分は病気ではないかと疑い、逆に病名が特定できるような人には、自分はACだからと、本来の治療を拒否する気持ちを植え付ける。」(51)

c) ACの概念そのものは肯定するが、あまりにも人口に膾炙しすぎて拡大解釈や誤解を招きがちになっている現状を批判するもの(37, 49, 51)。

 「アダチル本は両刃の剣だ。なんにせよ、ひとつの発想法ですべて切ろうとするのは、世界の単純化にほかならない。」(37)
 「ところが、「自分もアダルト・チルドレンだ」と思う人々の中に、ごく常識的な範囲の親のしつけや、感情的なトラブルによって親が子供に与える心の傷を、一生癒されることのない心的外傷と見なして、「自分がいまこんななのは、親が自分に心の傷を与えたためだ」と思う若者が急増している。」(49)

 ACの概念については一応意義を認めるという形を取っているのが興味深い。また先に引用した記事51における斎藤学の発言もこれにあたり、いわばACの概念を擁護する側にも見られる点は注意すべきだろう。

d) ACを否定的に捉えることに疑問を持つもの(「ACのどこが悪い」「よいACもあるのでは」)(39, 46)。

 「だとすれば、ACがいない世の中とは、すごくつまらない世の中のことではないのか。」(39)
 「来るべき超高齢社会を前にして、子のあり方は当然問題になってくる。その際に、親も子もお互いに愛し合い、親子の絆をしっかりもったよいアダルト・チルドレン、よいマザコンの存在を否定してはならない。」(46)

 自助グループがACを否定的に捉えたり、治療の対象としたりしているわけではないことを考えれば批判としては妥当性を欠いているが、社会一般の現象としてACの概念が否定的に捉えられる可能性を考えれば無視できないとも言える。ただ今回参照した記事はいずれも「AC」を客観的な説明概念として捉えており(すなわち、「AC」と客観的に規定しうる一群の人々の存在を認めており、「ACを自覚したものこそがAC」という視点には立っていない)、従って「ACを自覚した者」を擁護するものではないことに注意すべきだろう。

e) 単なる一過性の流行にすぎないとするもの(39)。

 「精神科医の香山リカさんは、「AC」「多重人格」「ストーカー」などの流行を、八〇年代以来の自己愛的な自分探しブームの延長として、冷ややかにみてきた。」(39)

f) 当事者の自己愛の現れにすぎず、問題の解決にはならないとするもの(41, 44)。

 「ネガティヴな安らぎをもたらす居心地のよい猝し瓩両貊蝓そこは、未来への不安も、周囲との軋轢もない、ゆりかごのようなコミューンなのだろう。」(41)
 「人との関係性を疎ましがって/自由がいい/解放されたい/個人だけでいいと/叫んでいても/そんなに人は強くない」(44)

g) ACの概念の科学的な妥当性を疑うもの(51)。
 この記事51では、主にトラウマ理論に対して疑問をもつU.ヌーバーの議論が引用されている。

h) ACの概念の日本社会における有効性を疑問視するもの(37, 51)。

 ここで注意すべきは、今回参照した記事の全てが、「ある種の問題を抱えた人々」の存在についてはほぼ全面的に肯定しており、批判はむしろそうした人々が「ACであると自覚すること」あるいは第三者がそうした人々を「ACと見なすこと」が有効か否かを問題にしている点である(d)に関してはACのカテゴリーが客観的に規定可能だと見なしている点で他と微妙に位置づけが異なっているが、ともかくもACと見なされるような一群の人々が存在するとする点では同じである)。要するに、ある種の問題をACという概念によって説明し、本人の自己満足を引き出すだけでは、(現代日本社会においては)問題の解決にはならないというわけであり、これは例えば「自己開発セミナー」を「一種の洗脳」とみなして批判する論調(芳賀・弓山[1994:122-138]を参照)と軌を一にするともいえるだろう。
 なお、実はACに関する一部の肯定的議論においては「ACにあたるような事例の存在を疑う立場」があることも示唆されていたのだが(例えば記事13)、今回参照した記事にはそれにあたるようなものは見られなかった。もっとも、そのような立場の人々が雑誌記事として「アダルト・チルドレン」を取り上げるというのも考えにくいことであり、「ACの概念に対する態度」一般の問題としては一概にその存在を否定することもできないだろう。

3) 中立的内容

 「アダルト・チルドレン」をめぐる社会的な動向を、特に肯定とも否定とも結論づけず、第三者的な視点から記述しているもの。もちろん、どのような記事であっても用語解説や事例紹介は多かれ少なかれ見られるものだが、もっぱらそのような中立的な内容のみからなる記事を挙げれば、次のようなものがある。

a) 単純な用語解説や書籍紹介(7, 12, 22)
b) ACを単なる性格類型の一つとして記述するもの。(32)
c) 簡潔に事実のみを記しているもの。(38, 45)

4) その他

 「アダルト・チルドレン」の語が、主に本来の意味から離れた意味で用いられているもの(1, 18, 33, 35, 40, 42)。「アダルト・チルドレン」に否定的な意味を持たせる場合が多い。多くは誤解や知識不足に基づく「勘違い」ではあるが、ACの概念がもつ位置づけを考える上では無視できないだろう。なお、全ての記事が「アダルト・チルドレン」を実体概念として解釈している。

a) 「アダルト・チャイルド」を「大人っぽい子供」と解釈したもの。(1)
 ただし、今回取り上げた記事1はマーケティング論の視点からの記事であり、いわゆる心理療法の文脈から見た記事とは異なっているので、記事全体の中では例外的なものである。
b) a)とは逆にACを「子供っぽい大人」と解釈するもの。主に有名人や社会的地位を持つ人物の「子供っぽさ」を批判する文脈で用いられることが多い。(18, 33, 35, 40)
c) 「親から自立していない者」の意味に解釈するもの(42, 48)

 もちろん、こうした分類はあくまでも便宜上のものであり、中には複数の項目に分類可能なものや、微妙な判断を要するものもある。


3. 最後に

 今回取り上げたのはとりあえず雑誌記事のみであり、「アダルト・チルドレン」に関する「語り」のごく一部にすぎないが、これだけでも「アダルト・チルドレン」に関する語りの一端を見ることができたように思う。
 「アダルト・チルドレン」という概念が生まれた本来の文脈においては、もともとこの概念は自己を認識し語るための実践上のツールとしての位置づけが主であり、それ故に「ACは病名でもなければレッテルでもない」という主張はかなり頻繁になされている。今回取り上げた記事を見ても、斎藤や信田などの臨床家たちは、機会あるごとにこのことを主張している。
 しかし、にもかかわらず、「アダルト・チルドレン」の概念に肯定的な記事においては、しばしばこうした論理水準が曖昧なものになっており、それは斎藤や信田などの臨床家たちにおいても時々見いだされている。すなわちこれらの記事においては、しばしば「アダルト・チルドレンと自己を規定する」ことが「アダルト・チルドレンであることを発見する」ことと混同されており、また、本来ならばあり得ないはずの「彼(女)はアダルト・チルドレンである」「あなたもアダルト・チルドレンかもしれない」といった二人称的・三人称的な用法も少なくない。そして多くの批判記事は、まさにこうした混同がもたらす理論的あるいは実践的な困難に向けられたものとなっているのである。
 自己を「アダルト・チルドレン」と認識することが問題の解決につながるのかどうかを論じるためには、そもそも構成主義的な心理療法全般の有効性について議論する必要があるため、別の機会に譲ることにしたい。ただ、いわゆる「ACバッシング」は、「アダルト・チルドレン」のようにきわめて主観的な契機を重視する概念が、一般雑誌というメディアにおいて取り上げられる際の困難を意味しているとも考えられるのである。具体的には、次のようなことが考えられるだろう。
 たとえば、「あなたもACでは?」という言説などは、読者を「アダルト・チルドレン」の概念を用いた「語り」の場に導入するためのレトリックと考えることも可能である。この点で、「アダルト・チルドレン」の語を客観的な意味内容を持つものとして捉える言説も、それだけの理由で批判することはできないだろう(4)。しかし、今回取り上げた記事のいくつかは、記事の目標自体が曖昧であり(ACを自覚することで解決可能な問題を抱えた人々への呼びかけなのか、社会一般にACの存在をアピールするものなのか、あるいはACを生み出すような社会への警告なのか、等々)、それが問題の所在を不明確にしているとも考えられるのである(5)。さらにACに関連した問題の場合「当事者」と「当事者以外」の区別が曖昧なものとなってしまい(「現代人はみんなACかも知れない」というとき、どこまでを「当事者」と見なすべきなのだろうか?)、「当事者向け」の言説と「一般向け」の議論の水準が明確に区別されないままになってしまう可能性も大きいと思われるのである。
 記事51において斎藤は、あまりにも誤解されすぎた「アダルト・チルドレン」に換えて「トラウマ・サバイバー」の語を用いると宣言している。だが、どのような語を用いるにせよ、それが語られる議論の水準に敏感でない限り、同じ問題が繰り返されることになるだろう。それは、自助グループのような比較的小規模な人間関係において有効となる「語り」のあり方が、雑誌記事のような形で不特定多数に向けてなされてしまう場合の困難と言うことができるのかもしれない。この意味で、「本が売れすぎた」(記事51)という斎藤の言明も、重要な点をついていると言うべきなのだろう。



(1)以下、雑誌記事については、表1で記した記事番号によって示す。
(2)日本におけるこうした現象に関する具体的な研究としては、芳賀・弓山[1994]、石川[1992]、井上[1992]等があげられる。
(3)現代社会における「自己認識」「アイデンティティ」「自己についての語り」などの概念の重要性について論じた研究の例としては、Giddens [1991]、White; Epston [1990=1992]、浅野[1995]、石川[1992]などがある。いずれの研究も、現代社会に生きる個人にとって「私は○○である」というアイデンティティを持つこと、あるいは自己をそのようなものとして「語る」ということの意味について主に論じているが、こうした議論は、実際に彼らが何であるかという問題とは水準を異にしている。なお、WhiteとEpston[1990=1992]のように、当事者の自己認識を転換させることによって問題の解決を図ろうとする立場は、「構成主義療法(constructionist therapy)」として知られている。
(4)ただし、物語が有効に機能するために、必ずしもその偶有性(他の物語でもあり得ること)が隠蔽されている必要はない(例えば浅野[1995:133]による議論を参照)。この点で、「アダルト・チルドレン」の概念が当事者の主観的な認識によるものでしかないと当事者が気付いていたとしても、それが当事者の抱える問題の解決につながる可能性はあるのである。
(5)また、ベイトソンは、当事者の認識論的枠組みを変換することで問題の解決を図ろうとするアプローチについて、アルコール依存症からの回復を例にとって説明しているが、その際そうした認識論的枠組みの変換が、当事者の「底つき」すなわち既存の認識論的枠組みの破綻を前提とすることを指摘している(Bateson [1972=1990:445-446])。同じことがACについても言えるのだとすれば、ACに関する雑誌記事は、「まだ底をついていない」多くの当事者に対しても認識論的な枠組みの変更を迫っていることになり、メッセージが有効に働かない可能性も高いと思われるのである。



文献(分析対象となった雑誌記事を除く)
浅野 智彦 1995, 「家族療法の物語論的転回:その社会学的含意について」、『東京学芸大学紀要 第3部門』46:125-134。
アスク・ヒューマン・ケア研修相談室(編)、1997, 『アダルト・チャイルドが人生を変えていく本』、アスク・ヒューマン・ケア。
Bateson, Gregory 1972, Steps to An Ecology of Mind, Chandler. =1990, 佐藤良明訳、『精神の生態学』、思索社。
Giddens, Anthony 1991, Modernity and Self-Identity, Stanford University Press.
芳賀 学・弓山 達也 1994, 『祈る ふれあう 感じる』、IPC。
井上 芳保 1992, 『苦悩する自己開発セミナーの研究』(文部省科学研究費補助金研究成果報告書)。
石川 准 1992, 『アイデンティティ・ゲーム』、新評論。
西山 明 1995, 『アダルト・チルドレン −自信はないけど、生きていく−』、三五館。
信田 さよ子 1996, 『「アダルト・チルドレン」完全理解』、三五館。
斎藤 学 1996, 『アダルト・チルドレンと家族』、学陽書房。
 ――  1997, 「トラウマ理論とアダルト・チルドレン」、『現代のエスプリ』358:22-55, 至文堂。
White, Michael; Epston, David 1990, Narrative Means to Therapeutic Ends, W. W. Norton & Company. =1992, 小森 康永訳、『物語としての家族』、金剛出版。

(なお、HTML形式の制限に伴い、本文中の傍点をアンダーラインに改めるなど、レイアウトを適宜変更した。)