わたしが話させていただきます


以前から申しておりますように、「〜させていただきます」という表現に対して、当方は少しく反発を覚えておりまして、そういうことを言われますと、
「だれも、あなたにそんなこと許してません。」
と、とりあえず言ってしまうのです。
今回のタイトルである「わたしが話させていただきます」ですが、この主語不分明なところに多分の問題がございます。すなわち、
「話す」のは「わたし」ですが
「させる」のは「相手」であり、さらにそれを
「いただく」のは「わたし」が「相手」に対してなわけであります。つまり、図示しますとこういうことになります。

「わたし」 ―「話す」許可の請求→
×←―請求の承認――
「相手」

「話す」許可を請求はしているわけですが、実際は請求に対する相手の承認は必要としていないのでありますから、慇懃に見せかけつつ、まことに無礼な語り口だと申せます。

さらに、これを文法的に考察すべく、英語に堪能な方には、噴飯ものでしょうが、当方の英語能力を総動員して英語に訳してみましょう。
まず、「わたしが話させていただきます」のうち、「わたしが話す」は
I talk it.
で宜しいでしょうか。さらにこれが「〜させる」という形になりますので
Let me talk it.
ということになります。そしてこの状態への許諾を相手にさせる(「〜いただく」)のですから、
I make you let me talk it.
そして、その許諾をさせる行為をお伺いするので(「〜いただきます」)、
May I make you let me talk it?
ということになります。

こんな英語が許されるのかどうかは存じません。たぶん、単純に「Let me talk it.」でコトは済むのでしょうが、委曲を尽してこその慇懃無礼であります。で、エキサイトの翻訳でこれを日本語に再び訳しますと、
「あなたに私にそれを話させましょうか。」
…やめときゃよかった。なお、世界的に有名なBabel Fish Translationによると
「私はそれを話すことを許可した私をあなたを作ってもよいか.」
だそうです。そのまんまですね。それなりに訳してみますと、
「わたしは、あなたに、わたしが、それを話させることをさせても宜しいでしょうか。」
…こんな日本語はないです。

こうして英語に致しますと、問題点が明らかになります。つまり、主体の喪失というヤツです。かつて敷島のやまとの国を開き給へるイザナギ・イザナミが、「国造りがうまく行かないんです」と神さまにお伺いしました。で、この神さまどもが何をしたかと申しますと、さらに神さまにお伺いした訳です。こうなりますと、本来的に決定している人間(神さまじゃねぇかと言う反論は却下です)がいなくなっています。
つまり無責任の体制ってことです。わたくしどもは、「〜させていただきます」というときに、みずからの責任を、みずから抛棄していると申せます。国会答弁なんかで、「それでは、お答えさせていただきます」とかいう表現はよく聞きますが、
っていうかオマエは答弁するのが仕事なんだろ?
と大変ツッコミたくなるのは、決して当方だけではないと思うのであります。

その昔、江戸時代の商家では、臨時休業の際に「本日はお休みさせていただきます」ではなく「本日は休みます」と書いたそうです。これは、近代的主体とかそんな難しい話ではなく、自分の稼業といいますか、自分が何者であるかということに対する意識が強かったせいであろうと思います。言ってみれば、身分制と強く結びついているのでありましょう。
身分制が宜しいというのではないのですが、今日の行政・立法の場面における無責任な政策を見るとき、あの国会答弁に現れた態度がどうしても想起されます。それは、自分が何者であるかということに対する意識が極めて低いことを示しているのではないでしょうか。わたくしどもは、このことばの無責任性を見逃すことなく、みずからが何者であるのかを普段に問いながら生きていく必要があると申せましょう。

それでは、ここら辺でお話を終らさせていただきます。



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