第一部では、音楽をしようとする人達の疑問や、今まで間違って覚えた知識等に、答えを示して来ました。
この第二部では、その第一部での答えの補足と、全般的な音楽の解説していこうと思っています。
音楽とは、誰でもが楽しめる物であるはずでありながら、ごく一部の才能ある人達の独占物であるかの様に、言われている。
確かにこの300年の間、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン等の天才と言われる人達が、この世の中でもてはやされてきたために、
またその人達は、自分達の商品価値を高め、買ってくれる人達に、夢を売ると言う付加価値を付ける為に、自分のして来た努力や勉強の部分を、さらけ出さなかった。
文盲率も昔と違い、いつでもどこでも色々な知識を得る事の出来る今、才能と言う不可解な能力をうんぬんせず、音楽を皆の手に取り戻し、知識を得て練習をする事で、だれもが、音楽を楽しめる様に成るべきであると思う。
音楽、とりわけ演奏や作曲は、知識であり技術であるし、合奏合唱等の形態は、理想的な社会形態であり、理想的な民主主義が行われなければ良い演奏が期待出来ない。
その証しは、この様な大規模な演奏形態が発達したのが、あの自由、博愛、平等のスローガンの下、封建的社会から近代社会を作り出した、1789年のフランス革命以後である事だ。
確かにそれは、国家主義、全体主義そして独裁者までを輩出したが、それは、ある意味では人々の声であり、望みであったはずだ。しかしそれをも改革出来るシステムに育て上げられつつある訳で、音楽の様に、音と言う、イデオロギーを示す事の出来ない媒体の持つ芸術が、一歩先に理想社会を築けた事は、当然であったと思う。
カラヤン王国と言われるのは、彼が、独裁者たろうとした、と言うより、ビルゲイツの様に、ビジネスの制覇をねらったのであり、音楽的には、並の一流の評価しか受けないし、未だにベルリンフィルの前任者フルトヴェングラーを凌いだとは誰も言わない。楽団から最後には、拒絶されたのはいかにも音楽の世界が民主的であるかの、証明であろう。
そのきっかけにもなった、女性奏者をメンバーに加えるかどうかという問題は、その後完全に解消され、今では沢山の女性奏者が加わっている。
決して差別を行っていたのでなく、カラヤンの横暴に対する抵抗であることは、明白だ。
音楽には、自由や平等があるだけでなく、博愛すらある社会だ。
音楽は、有史以前、人類が生まれた時より始まる、最も古くからある人間の営みと言える。
その音楽を芸術としての価値を与えた最初は、ギリシャ、ローマ時代である。その頃の音楽は、今の音楽の範囲よりもっと広く、演劇、バレーも含まれた総合的なエンターテイメントであった。その頃の様式は、現在もオペラとして受け繋がれているが、音楽だけも単独の発展を遂げて来た。
音楽だけでなく、どの様な分野でも、常に利権は付き物である様に、様式として確立されると共に、受け繋がれる物としての音楽に成って来た。しかし利権として見れば、あまりに俗っぽいが、学問として系統だって来たといえば、意味合いは納得出来る。
どちらにせよ、音楽と徒弟制度は、起こるべくして起こった制度であった。
ただ、音楽の大きな要素として、その個人の資質が物を言う事がある為に、例えば、良い声をしている、指が早く動くなど、肉体的素質が一般の人より格段に優れている場合、天才と言われ尊敬を受ける為、新しい系統が出来る機会が比較的頻繁にある。
徒弟制度の短所については、よく述べられる所であるが、長所も少なく無い。
その最も良く、現代でも認められる長所は、師との人間的触れ合いや、反面教師も含め、親子関係よりもっと親密になる事もある人間関係から、学ぶ事ではないだろうか。
かく言う私も、沢山の色々な師に学んで来たが、何より自慢出来るのは、良い師に学べた事であり、脈々と繋がる師の系脈を感じる事である。
現代では、集団での教育があたりまえの時代に、音楽教育でマンツーマン教育がいまだに実践されているのは、心の触れ合いを扱う音楽教育にとって、当然の事かもしれない。
音は、誰でも何時でも接している感覚であるが、いつも接している響きは、一様ではない。
広い高原に立った時の感覚で、”しーん”とした音響感は、誰もが知っているし、その頼り無さや、不気味な感じを起こさせる静けさは、響きの無さの起こす感覚であろう。
ヨーロッパで留学し帰って来た、多くの声楽家達は、帰ってしばらくは、本当に豊かな声の響きを維持しているが、しばらくすると段々に響きが無くなって来てしまう。その原因は、生活環境の音響の違いからだ。
近頃では、コンサートホール等では、残響が十分にある様に設計され、ヨーロッパの著名なホールにも劣らない音響設計がなされていると聞くが、やはり何処か違うものを感じる。
かつて、ウイーンの楽友会館ホール(ムジークフェラインザール)の視察に来た日本の技術者が、機械での計測ばかりをして、会館の職員の案内した床下や、壁の中の構造には全く感心を示さなかったと、ウイーンの音楽関係者の中で評判に為った事があった。ウイーンの彼等にしてみれば、結果の問題より、材質や構造こそが、大切であると言いたかったのであろう。
また、日本の楽器開発者が、やはりウイーンの楽器の複製を手掛けている時に、響きの捉え方がまったく逆であったと言っている。
よく日本の演奏家が言う台詞に、”楽器が良く鳴る”と言うのがあるが、”良く部屋が響いている”とは言わない。この違いこそ我々の生活空間における、日常の響きを説明するものだろう。
ようするに、音響学と言えども、人間の感情を無視しては、語れないと言う事だろう。
この文章を書くにつけ、音楽を言葉で説明するもどかしさを、感じずにはいられない。
あるギリシャ文化の研究者が、”数学がギリシャ時代に発展したにのは、音楽を数式で表現しようとしたからだ。”と言った事があるらしい。むしろその方が、確かに解り易い気もしないではない。
音楽と感情は、切り離しては考えられないし、19世紀ロマン派の、感情を表に出した作品が中核を成している為、作曲家の心情や資質が捉えられ論じられる事が多いが、実際に触れ感じる事の出来る、音そのものの価値を取り扱う学問も必要ではないかと思われる。すなわち、作曲家の事のみ扱うだけでは、音楽の美を語るのは片手落ちであり、演奏家にも目を向けるべきだと思う。
ただその演奏の善し悪しを言うのでなく、その演奏の心情、あるいはその演奏家の思索に、注目する必要を感じるのである。
音楽演奏美学もあってしかるべきであろう。
音楽の、人の体や心に及ぼす様々な影響は、十分に考えられる事である。
特に、作品の持つ色々な感情が、聴く者の過去の経験や感情を思い起こす力がある。また、ちょうど視覚に於ける錯覚があり、振動による触覚、肌触りの様な感覚等、人間の感覚全般に対する問題として音楽を捉えれば、まだまだ、音楽の有意義な使い方や、存在を確かにする裏付けに成るだろう。
音楽に限らず、日常と違った何かを見たり聞いたりすれば、違和感がする物と成る。
特に音楽に於いては、時間の経過を伴うので、その流れ、動きには、十分な気を配る必要があろう。
最近では、コンピューター音楽が氾濫し、特に機械的な流れ、音程が、常に聴かれる様に成り、その融通の無さ、揺らぎの無さは、人々の感覚を緊張させ、いらいらした気分を引き起こしているのではないだろうか。
息を吐く隙の無い、どんどん進んで行く音楽は、切迫感を演出するとても効果的な演奏方法であるが、あまりに多用すればその効果も段々無くなってしまう。
しかし、その切迫感、緊張感は、どこかに気持ちの中で、違和感を募らせている様に思う。
音量にしても、同じ様に、自然界に於いてとてつもなく大きい音は、やはり何か不安感を呼び起こす事になる。
やはり普段聞きなれた自然界にある音が、我々にとって気持ちの良い音であろう。
譜例1.
一点イ音
一点ハ音
1秒間に440(Hz.) 回空気が振動する時の音を、日本語の音名で、一点イ音と呼び、欧米ではAの音。
通常世界中の音楽家は、ドイツ語読みで”アー”と言うのが一般的である。
しかし 440Hz.の基準音は、最近では、アメリカ以外では、あまり使われる事はなく、442Hz.
が主流である。
1939年の国際会議でそれまでのインターナショナルピッチ(435Hz.)
コンサートピッチ(440Hz.) 等の取決めを一本に統合し、440Hz.を国際標準高度とした。
18世紀初頭、モーツアルトや、ベートーヴェンの時代は、もう少し低く430 Hz. 前後で、今よりほぼ半音低かったと言われる。
しかし、なぜ基準の音がイ音(A)であるのに、ハ長調やハの音(C)が音楽では、中心になっているのであろう。
そこで、1Hz.の音は、何の音に成るのか探ってみた。
何と、ハの音に成ったのである。勿論おおよそではあるのだが、反対に1Hz.をハに取ると驚いた事に、一点イ音が、モーツアルト時代の、427Hz.になる。
勿論、1秒の単位にしても、最近の正確な単位としての取り決め以前は、1日の
1/86400 が、1秒に決められていたにせよ、その振動数を、ハ(A)の音にしたのには、神秘的なもの、或は人間の感覚の鋭さを、感じずにはいられない。
やはり人間にとって、心地好い音なのであろう。
音楽が目に見えない事で、抽象的だとするには、あまり意味が無く思える。
目に見えなくとも、音ははっきりと存在するし、感じ取る事も出来る。
音楽で表現する物を、抽象的な物だとするのは、近代の作曲家の1傾向に過ぎず、ほとんどの音楽は自然の音を具体的にまねをした物だ。我々日本人にしか判らないとされる虫の声や、静けさを”シーーン”と言う様な表現をしたりする事も含め、まったく具象の物として捉えても良いと言える。
一部の音楽学の人は、その様に音楽を捉えるのは、その音楽を深く考えていない様に発言するが、何でも難しく説明をするだけが学問ではないだろう。
ベートーヴェンのハ短調の交響曲”運命”のモチーフ(動機)は、どの様に言ってもノックの音に聞こえるし、ベートーヴェン自身も、”この様にして、運命は訪れる。”と言った様に、抽象的な運命と言う概念は残るが、実際の音としては、突然の来訪者のノックであると考えるのは、妥当だろう。
譜例2
ベートーベン 交響曲 第5番 ハ短調 作品67”運命”より、冒頭

特にこの時代に限らず、ヨーロッパでの音楽の傾向は、オペラから脱していない。
すなわち、具体的な物語の一シーンの様な情景を音楽で表現していると言っても、差し支えはないだろう。
抽象的なイメージを表現しようとしたのがロマン派であると、言えなくはないだろう。
シンパシーと言う訳語が正しいかどうかは、問題は残るが、自分自身の体験に基づく感情が、音楽と言う刺激によって思い起こされる経験は、誰にでもあるのではないだろうか。
我々が共感する感情は、決して未体験の物は無いはずだ。
どんな感情にしても、覚えは無くとも、深層心理、幼児体験、ひょっとすると前世体験や遺伝子の記憶等、証明されていないものを省いても、確かに何処かで何時か体験した物を基に、新たな感情を引き起こしているはずである。
もし全く未体験の事と遭遇すれば、きっと我々は、唯唖然としているだけであろう。
あくまで芸術の表現は、作者の思いと、それを見たり聴いたりしている者との共感から、コミュニケーションが出来る物と言える。
受取るものは、自分の体験以上の物はではないし、理解も出来ない。
しかしまた送り手は、自分の体験以上の物は表現出来ないが、自分でも気が付かない様な深い部分にまで洞察をされる事も、知っておくべきだろう。
ただ全く同じと言う共感は、はたしてあるのだろうか。
演出と言う仕事は、演劇の分野ではあたりまえの仕事だが、音楽では、オペラやバレーでの特別な仕事の様に思っているが、音楽作品自体の性格は芝居と言ってもよく、楽譜の事をスクリプト(台本)と呼ぶ事も、欧米ではある。
”ドラマがある”といった作品に対する評価があるが、そのドラマの筋立てがその作品の構成であり、その作品の善し悪しの大部分を形作っていると言えよう。それこそが出来上がりの完成度であり、聴くものを感動させられるかの、大切な技術である。決して奇をてらうとか、大袈裟であるとか、計算して涙を誘う様にとかの、わざとらしい表現でなく、自然な盛り上りや、クライマックスへの緊張の高まり等、至る所にその効果が必要な事は、言うまでもない。
音楽の素になる素材は、普段自分が耳にしている音楽であり、決して全く新しく誰かが作り出した音楽では無い。もし全く新しい音楽であれば、きっと我々は、全く旋律とも音楽とも思えないであろう。
その様に、たとえ作曲家であろうと、旋律や、音を、作り出すのでなく、音楽を組み立てる、すなわちコンポーザーである。
そうするとその素材を手に入れたのは、何時何処でどの様な状況であったかだ。それが、その音楽に意味をもたらしている。
我々の耳には無数の音や旋律等が記憶されているが、いつ聞いたか、どの様な時に聞いたかは、定かではない。それに同じ音楽や旋律が、だれもが同じ様な状況で聞かれる事は多くても、必ず同じとは言えない。
その微妙な違いが感じる事が出来る世界である。
まさにその音楽家の心の奥底を、映し出す事に成る訳だ。
芸術と芸能の境は何であろう。
誤解を恐れずに言えば、プロとアマチュア、技術の差だけかもしれない。
くり返し述べて来たが、芸術家は、才能をあてにせず、知識を貯え、練習を繰り返す努力により芸術を作り出す。芸能の世界にも芸術と言えるものや人もいるし、反対に芸術だと言いながら、自分の資質だけに頼り、努力もせずただ売れる事のみに奔走するのは、商売のプロではあっても芸術家とは言えない。
またアマチュアでありながら正しい指導を受け、真摯に取り組む事で芸術の世界にたどり着く場合も少なくない。
特にアマチュアのコンクール等で、中学生等の演奏で思いもかけない高いレベルの演奏に逢ったり、名だたる演奏団体であっても実に貧しい音楽を演奏している場合等、例をあげるのに暇が無いほどである。本人達の思い入れもさる事乍ら、指導者、すなわち指揮者の見識を疑わざるをえない。
またプロフェッショナルの音楽家を目指す音楽大学の生徒に於いても、芸術家を目指そうとしない場合も多く、一奏者であるには、その様な勉強は必要無い様に言う人も居るが、それも寂しい事である。
芸術家の芸術家であるところは、謙虚さであり、飽くなき追求の姿勢であると言えよう。
音楽における解釈と言う言葉は、よく口にされるが、その多くは、自分の不勉強を隠す言葉として使う。
自分の事を振り返っても、十分に作品の内容が読み切れず、理解出来ない時に、”この様に(解釈)したい。”と言ってしまった事が何度もある。その時は、大変正しいつもりで、自分の個性はそれでなくては発揮出来無いと、思いっていた。
誠に赤面の思いだ。
確かに他人の心の底を読む事には限界が有り、その当時にタイムスリップ出来る訳でなく、誠に靴の上から足をかく感じだが、過去の事、それもほとんどが、たかだか2百年以内、古くても3百年の事で、その頃の事は、歴史学者でもわざわざ調べなくても良いほど前の事、ちょっと考えれば答えは意外に解るものだ。
しかしその安易さがかえって落とし穴に陥る事もある。
当然今と同じであろうと思い、楽譜の間違いであろうと思い込んでしまう事がよくある。
その例としては、ダイナミックの事だ。
ピアノフォルテ(楽器のピアノ)が出来、その名を与えられた訳は、言わずと知れた、音量が自由に出せると言う意味である。
という事は、それ以前の楽器には音量のコントロールは不可能であったはずだ。つまり今の様には、音量がコントロールされなかったばかりか、その様な事すら考えてなかった事は明白である。
しかし、今日の大演奏家達が、モーツアルトやバッハの演奏に、堂々とクレッシェンドやディミヌエンドを書き加え、演奏している。
その効果がとても人の感情を高める事を、最初に見つけたのは、ベートーヴェンではなかったかと思っている。
第9番目のホ短調の交響曲「合唱付き」の、第4楽章、大フーガになる前の所で、”Ahnest
du den Schopfer, Welt?(創造主を感じるや)”と、合唱が、最弱音から最強音までを一気に爆発させる様に歌う。
譜例3
ベートーベン 交響曲 第9番 ホ短調「合唱付き」 第4楽章より

この様な試みはかつて無かったし、この時も、とてもこの様な事は出来無いと言われたとある。1824年の事である。
当時メンデルスゾーン15才、シューマン、ショパン共に14才、リスト13才、ワーグナー、ヴェルディー共に11才、この年に生まれたのが、スメタナ、ブルックナーである。
この様な試みも、シューマンが最初の交響曲を発表する1841年までは、誰も試みなかった。
シューマンが、その表現法に気が付き、盛んにピアノの曲や交響曲で表現しているが、現在の音楽家や音楽学者は未だに、彼の精神の病理的資質だとしている。
もっと作曲された当時に興味を持ち理解しなければ、正しくは演奏されないし、当然良い演奏には成らないだろう。
ただ、それが正しいと信じていれば、それなりの説得力を持っているが、一旦それが解明されれば、もう正しくは聞えなくなるのである。
曖昧なところを、はっきりさせようと考える事が、解釈であろう。
譜例4
シューマン 交響曲 第1番 変ロ長調「春」 第1楽章より 冒頭6小節目より

譜例5
シューマン パガニーニのカプリッチォによるピアノ練習曲Op3より 冒頭
我々日本で育って来た者にとって最も残念な事は、オペラを観ずに音楽に接してしまった事だろう。
オペラは面白い。まったく難しい意味でなく、映画やテレビが無い時代、その代わりがオペラであった。
全く娯楽に富んだ面白味があり、芸術性もある。内容の深い楽しみである。
その要素の最も重要な点は、ストーリーがある事だろう。
オペラの筋は、ルネッサンス、バロック時代にはギリシャ神話であり、モーツアルトの時代は、当時の社会の動きに合わせた、貴族の退廃した生活ぶりと、その風刺、そしてその後の時代には、ベリズモオペラと言われる、社会に起こる日常の出来事をオペラにし、人種問題、植民地問題、宗教問題を取り上げ、娯楽に富んだ物は、オペレッタに譲った。
しかしそのオペレッタでも、風刺は重要な題材だあった事は、他の芸術分野と同じだ。
いきおい抽象的になりがちの音楽を、一般の人々の興味を引き付ける為に、その様なメッセージのはっきりした、ストーリーを持たす事で
アピールする事は、ロックや歌謡曲でも良くされている事でもあり、別段に価値を引き下げる事でもない。
交響曲等で、その様なアプローチを卑しむ風潮はあるが、それはその作曲家を神格化し、その神の神託者であろうとする偽善的行為にしか思えない。
筋だての無い人間の営みは、あり得ない。
人間の営みを表現する以上、普通の人達の嫌悪するものは、やはり嫌われるだろう。
特に肉体的なもの、例えば、まったく息継ぎの無い音楽等だ。
その様な事が出来れば良いだろうとは、声楽家や管楽器演奏家で考えなかった者はいないだろう。そして循環呼吸と言う技術を考案されたが、はたしてそれはどれだけの効果があっただろう。
聴いている者にとって、その時は息を詰めたまま聴いている。そして我慢出来なくなってしまう。
嫌悪感とまではいかなくても、不自然さを感じない訳はない。
その外にも、多くの例を挙げる事が出来るが、”サロメ”等、その作品の民族的な感覚の違いとして、理解出来る物もある。
昔から名優には二人のタイプが居ると言われる。
泣いている演技をする時に、一人は本当に悲しく涙を流す。もう一人は、いかにも悲しそうに泣いている様に見せるが、気持ちは冷静である。
音楽の世界では、後者の演奏は、見抜かれてしまう。もちろん今泣いていなかったと指摘出来るものでは無いが、何とも白々しい演奏に成ったり、押し付けがましい演奏であったりする。
例えば、同じ口先三寸でも、面と向かえば騙される事も多いが、意外に電話では、口調で判ったりする。
いくら上手な言い方でも、しばらく話せば相手の意図は、何となく判って来るものだ。
詐欺師が必ず会って口説くのは、常套手段だそうだ。
我々の耳はそれ程鋭いし、音はその人物を映す。
音楽において時間は最も大切な要素の一つだ。他には、演劇ぐらいだろう。
しかし演劇では、その時間を自由に変える事も可能であり、演出家の、俳優の裁量が物を言う。そこに演技者の意図を入り込ませる事が出来る。
音楽では、この部分が作曲家に既定され、そこからも作曲家の意志を読み取らなくてはならない。それだけにメッセージは、はっきりしている。
ただ時間の感覚は、捉えるには、訓練が必要だ。
電話のベルが鳴っている時と止まっている時とは、どちらが長いかを考えよう。
感覚的には同じ様に感じるが、止まっている方が3倍ほど長い。視覚の錯覚の様な働きだが、つい間違ってしまう。
譜例6
演奏をする時に、同じ長さの音符と休符が見えた時、つい音をとても短くしてしまう。作曲家は、正確にその音の長さを示している以上、それでは間違いに成ってしまう。
譜例7
左の楽譜を見て演奏すれば、右のようになりがち。
正確に演奏すれば、右のように聞こえる気がする。
もっと大切な事は、一度しかチャンスが与えられない事だ。
ちょうど、一刀彫で彫刻する様に、後からの修正は効かない。たった一度だけの為に日夜努力をするのである。
録音にしても、後から修正をするが、しなかったライブ録音の方が優れている場合が多い。その時の集中力、その時の状況が、2度出来ないのはあたりまえだが、たとえミスがあったとしてもその時の状況が産み出したものは、それなりに納得出来る物である。
まだ人類は、時間をコントロール出来ないと言う事か。
音色は、昔からその音に含まれている倍音の成分が違うので、聞き分けられると言われて来た。
それに異議が称えられ始めたのは、電子音の楽器で音色を作る試みの時であった。いくら倍音を変えても思った様には、音色が変わらなかったのである。
そこで心理テストがされ、被験者に色々な音を聞かせる時に、音の出始めを切っておくと、どれも同じ様に聞こえる事が解った。
この調査は、我々演奏家に多くの示唆を与える。
一つは、常に良い音を求めて、整った澄んだ音、すなわち倍音をあまり複雑にしない様にして来た事。
もう一つは、発音が意外に大切である事を教える事になった。
ピアノや打楽器それだけでなく、弦楽器に於いても、常にはっきりとした音の発音を持っているが、歌や管楽器にとっては、音楽のめりはり程度にしか考えていなかった。
その音色を声の発生で見れば、倍音の変化は、言葉の母音の変化に相当し、発音は、子音に相当する事は、容易に気が付く事だ。
と言う事は、言葉と音楽の関係は、まったく深い事になる。
それからすれば、我々の日常使っている日本語がいかに外国の言葉と違っているかを、知る事が必要だ。
特に注目する事は、生活空間での響きの違いであろう。
日本の家屋の響きの無い事は、特に注意しなければならない事である。
その中で生活して来た事によって、響きを豊かにする事よりも、響きに沢山の倍音を含ませた母音を発声する事となった。
その為におのずと口の中は狭くなってしまう。
またその微妙な響きの違いで色々な表情を演出して見せる事も覚えた。それだけでなく、発音の不明瞭な、母音だけの言葉さえ作り出している。
それは、”青い家(あおいいえ)”だ。
響きの豊かになる音響空間では、きっと何を言っているかは判らないであろう。世界にこの様な言語は他にないそうだ。
子音に付いては、反対にあまり明瞭であれば、きつい表現になり、いんぎんな調子に聞こえてしまう。そこであまりはっきりとした子音の発音は、舞台以外では、しなく成ってしまった。
音の響きは、口の中の形で決まるが、もっと深い響きを作るには、身体の中にある空間を使う事になる。
弦楽器の胴の形を見ても判る様に、体の形をしている。音の響きを声に近づけようとしたのか、あるいは一番響きやすい形なのかだが、
どちらもが目的であったのであろう。
体の中には、沢山の空間がある。額や、ほう骨の所にある空間、口、のど、肺の空間、胃や腸等の腹の中の空間。
どれもうまく使えば豊かな響きを作り出せる。
発声の教師が”額に響きを集めろ”とか、”頬骨を高く”とか説明するのもまんざら理由の無い事ではない。
その空間(前述)の状態を変える事の出来るのは、筋肉の緊張である。
また、太鼓の皮の様に筋肉を、ピンと張ったり緩めたりする事によっても、響きが変わったり、音程がうまく定まったりする事になる。
その方法は声を出す時に我々は自然に使っている。
例えば、色々な高さの声を出してみれば、特定の腹筋が緊張するのを確かめる事が出来る。
又、視線の高さを変える程度の目の筋肉の緊張でも、響きの変化が起こる等、非常に些細な変化でも、音の響きに影響する。
自分の手を前に出して指先を口の前の高さにする。今度は、鼻の頭に、更に目の高さにする。
それぞれの高さで、ハ長調の”ド””ミ””ソ”の音を歌えば、非常に安定した響きを得る事が出来る。
ちょっと奇異な感じではあるが、中世の教会音楽の指揮法で、ネウマ譜で記されているグレゴリオ聖歌の
音程も示した手の動きも、この様な物である。(キロノミー)
やはり手の動きで、体の筋肉の緊張が変わるのを応用した物であろう。
既に17.音色で説明した様に、かつては倍音の含まれ方が、その音色を決定付けられる様に思われていたが、
むしろ音の立ち上がりの時の雑音の成分や表情の違いの方が、大きな影響を持つ事が判って来た。
しかし、あくまで響きは、倍音の構成が問題になって来る。
特に音楽においては、音程が重要な要素だが、違った幾つかの音を協和させようとした時、それぞれの倍音の構成が違えば、
当然協和し合わない。つまり整った響き、ハーモニーは、生まれない。
この事は計算をすれば簡単に証明される。
例えば、最も良く協和する完全五度の関係、すなわち、”ド”にとって”ソ”は、3倍の倍音の音に相当する関係なので、
当然完全に協和するが、その完全協和する”ソ”の音を基準に取った倍音では、3の12乗倍の音が”ド(1594323Hz.)”になり、
元の”ド”の倍音1441792 Hz.の音より152531Hz.高い音程になってしまう。
その2つの音が同時に鳴らされれば、当然うなりを生じる事となる。
そこで、その音を出す時には、基の”ド”の音を基準に取った上で、倍音上の”ソ”の音を出さなくては完全協和しない。
その上、そうする事によって、完全協和の”ソ”の音程すら、わざわざ探らなくとも勝手に一番正しい音程で鳴ってくれる。
まったく反対に、元来協和してしまう音程でも、非和声音として、あえて協和させない時には、その”ソ”の音を基準に取った音を出せば、
その意味をはっきりと出す事が出来る。
音の発音の事は、くり返し述べて来たが、心理的にも物理的にも重要な問題である。
音色を決定する要素は、音が出る時に含まれる雑音や、立ち上がる表情だが、
それ以上に、音の持つ意味にとってその前の音との関わり合い、
つまり切れているのか繋がっているのかや、音の持つ表情そのものを決定する事になる。
もちろん当然だが、打楽器や弦楽器のピッチカート等は、音の立ち上がりだけで、総てを決定しなくてはならない。
ところが歌や管楽器では自由に行えるあまり、ついなおざりに成ってしまいがちである。
その為に発声法、発音のテクニックがある。
管楽器の教則本の第1ページに”Tu”と、音を発音するように、と言う所から始まっている。
この”T”の子音の部分がタンギングであり、最も大事なテクニックの一つである。
アマチュア演奏家達は、この第1ページを簡単な物として、素通りしてしまう為、いつまでも発音が満足に出来ないばかりに、
音程の問題や、アンサンブル、等の基本的な問題が解決出来なくなる。
早くその重大性に気が付いて欲しいものである。
タンギングの事を管楽器奏者は、よくアタックとか、タッチと言う言葉で呼んでいる。
どれも間違った言葉ではないと思うが、誤解を招きやすい。
はっきりとした発音をしようとした時に、力で解決しようとすれば、かなり攻撃的なニュアンスが出てしまう。
それが本来のアタックの意味になってしまう。
またタッチの方は、リード楽器で、リードの先端に舌先で触る方法ではなく、背の部分を舐める様にするのと、
タッチと言う言葉の意味合いが合ってしまい、やはり甘い発音になってしまう。
アタックは、十分な準備をして息を溜めておく意味。
タッチは、そっとリードを触りすばやく舌を引っ込める意味だと言う事を、説明している言葉だと理解して欲しい。
それに、当然楽器の種類によっても大きさによっても、発音のタイミングや表情が違ってしまい、
その発音のずれは、全体としての音の響きやハーモニーを壊してしまいかねない。
合奏にとって、欠かせない大切なテクニックである。
アンサンブルを説明すれば、”気を配る”と言う言葉が一番適切かもしれない。
普段我々は特別意識しないでしている事には、いざ考えて見ると大切な、それでいて説明の難しい事が多い。
その一つがこれだろう。何気なくする事であり、意識が強すぎれば、わざとらしくなるし、弱ければ、無視をしている様に思われる。
いつでも当然の様にそこに居る。しかし、いつも気に掛っている存在である。
その様に、相手を意識していなければ、一緒に音楽を進めて行く事は出来ない。
そして自分の意志をそれとなく、時にははっきりと示し、その相手のメッセージをはっきりと受け止め、
その働きかけに対して反応をする事が、アンサンブルである。
親子や、友達同士が散歩している様な、ほのぼのとした光景が見られれば、きっと良い演奏に違いない。
言うは易し、行うは難し。練習あるのみ。
音楽の様な時間芸術では、当然その時々の対応や反応が、興味のある所だ。
たとえ台本に書かれていても、あたかも今気付いて、反応している様に思わさなければ、現実感が伴わない。
その為には、本当にその様な状況にある様に、設定が認識されていなければならず、
いつもその様なリアリティーが表現されている事が必要である。
しかし、本当の即興は、随分多くの経験や練習をしなければならず、見よう見まねのアドリブは、ひんしゅくを買うだけである。
音楽は、即興的に音を決め、流れを作って行かなくてはならない。その為、テンポや音程も、その時々によって変わってくる。
音楽の音は、基本的には何時も有機的につながって行こうとしている。
つまり前の音から受け継ぎ、次の音を目指している。その目指した次の音が予想通りであれば繋がっている。
すなわち自然な関係にある事になる。
図1、

その様にして出来た音列は、当然その音列の最終到達音の倍音から導き出された純正調の音律で、骨格は出来ている事になる。
しかし総てがその様な音になるであろうか。ならない、多分ならない。なぜなら予想に反した事は常に起こる。
それは、意図されたものとは限らず、突発的に起こる事もある。間違った時もあるだろう。
しかし出された音はもう消す事は出来ない。
その音がその時の基準。今までの流れに戻す事も出来るし、新たな流れも作り出す事が出来る。
そこに意志を反映する事が出来る。その様な関係こそ本当に自然な関係だろう。
前もって決められた音が、正しく自然な音ではない。
あこがれの職業の第一であると言われる、指揮者であるが、その通りでもあり、違うとも言える。
指揮棒の先で多くの奏者を、意のままに操る。まるで魔法使いの様に。
それは出来るが、その為には奏者の信頼を得て、その上に作品の理解を求め、間違いを正し、
自由なアンサンブルの成り立つ様な環境を作る為の練習を重ねた上で、
奏者達が共に音楽をするに足る人物であると認め合えばである。
その練習をしなければならない、大きなハードルである。
かつての名指揮者達は、オーナー。つまり奏者の雇い主であり、親方マエストロであり、逆らえばすぐに首になってしまう。
その様な状況での権力者として、指揮者をまだ見ているのではないだろうか。
未だにこの様な前時代的指揮者が存在するのは、アマチュアの団体だけである。
カラヤンでさえ、それは実現出来なかった。
晩年には、その様になりたい欲望に負けてしまった為に、ベルリンフィルの反感を買ってしまったのは記憶に新しい。
すべての決定権を持つ様な錯覚に陥る姿は、もう見苦しい。
それは、奏者の力を見くびり、共に音楽を構築して行く姿勢が見られない。
最近では、学者指揮者が目立って多くなって来ている。その様な状況は、理解出来る。
ただ人当たりが良く物分かりの良い、そして手を振り回す技術に長けた、
音楽を才能だと勘違いしている指揮者に、誰が指揮をされ、操られたいだろうか。
それよりは、少々棒の降り回しが下手でも、正しい音楽の知識を持った指揮者を選ぶのは当然であろう。
しかしそれも寂しい事ではないだろうか。
やはり演奏技術をしっかりと持ち、作品への興味を失わず、積極的に真実を求め、
自由なアンサンブルの中に、はっきりとした自分の意図を示せる演奏家としての指揮者を求めて欲しい。
フルトヴェングラー、トスカニーニ、クレンペラー、クレメンスクラウス等、
50年前には、なぜこの様に素晴らしい指揮者達が、たくさん居たのであろうか。
人間の集まりである合唱、合奏の形態は、それ自体が一個の生命体である様な反応をする。
作曲家や作品との相性、思考の方向や反応等。新陳代謝の激しい団体と言えども、その体質は、なかなか変わる物ではない。
それは音楽である為に、どんなにアンサンブルが下手であろうと、お互いの関係が無い訳は無いからだ。
新しいメンバーが来れば、先ずは拒否反応が起こり、少しずつ薬を使う様にして融合を図らなくてはならない。
何でも組織とはその様な物であろうが、音楽の団体ほど機能してしまう物はない。
新しい指揮者が立った時等の反応は、あたかも臓器移植の様に拒否反応が出る。
しかし一旦取り込まれると、今度は、身内意識が強くなり、他の団体との関係が始まると、ジェラシーも強くなる。
全く人体の様だ。
演奏家同士が一糸乱れずに進んでいく様子は、他の世界では、まず考えにくいほどの行動であろう。
よく、軍隊的であるとか、封建的な社会と勘違いされて見られる事があるが、全く当を得ていない。
経験をしなければ解らないかもしれないが、全くと言っても良いほど、民主主義的な行動だ。
一口に二人三脚と言っても、中々複雑な事をしている物だ。
ただ足を括っただけで有りながら、タイミングを合わせれば、失敗はしない筈であるが、難しい。
一つは、積極性の違いがあると途端に絡まってしまう。ちょっと違う事をお互いに考えただけでも又転んでしまう。
易しそうでも中々難しさがある。
いかにも機械的な合わせ方であるように思えるのだが、いざ機械にやらせれば、かなりの精度と、コントロール制御が必要になるだろう。
それを小学生でもうまくこなすのは、何故だろう。
お互いの気の使い合いが何よりポイントになる。一歩一歩を合わせるので無く、全体の流れや進んで行く方向、
つまり目的意識がはっきりとしていれば、問題なく進んで行ける。
しかし、ちょっと疑問を持ったり、ふと違う事を考えるとすぐに流れが止まってしまう。
難しいが、そこに、”あ、うん”の呼吸がある。人の意志がいる。
非常にデリケートだが、面白い。
いきなり最初に”ff”が見えたりすると、本当に力いっぱいの音で演奏する。
日本の音楽教育のすごさに驚かされる。何処にも力一杯に等と説明されていなくても、とにかく日本では、間違いなく力一杯だ。
欧米人は、フォルテと言う意味合いを、読めてしまうのだろうか。
彼らは皆、幅広く豊かな響きを出そうとする。
反対に”pp”の時も決して小さな音では演奏しない。豊かに、しかし静かな音楽を始める。
言葉として読んでいるのである。ただの記号ではないのだ。
また、12.解釈の項で述べたが、自由なダイナミックの変化は、19世紀も四半世紀も過ぎてからの事であり、
それまでは階段状にしか、変化させられなかった。
その為にオルガンや、チェンバロでは、2、3段の鍵盤があるものが普通だ。(上が”P”で下が”f”
の鍵盤に成っている。)
それでは、自由な音量の変化は、出来るはずはない。
実際に自由に音量を変化させたり、抑揚を付ける事が出来る様に成ったのは、それからの事である。
よく旋律の抑揚をはっきりさせる為に、クレッシェンドしたりデクレッシェンドさせる事が見られるが、
むしろまだアクセントでの説明の方が許される。
出版されている楽譜、特にピアノや合唱の曲等に、これらが書き込まれたものがよく見られ、
それを忠実にしなければ減点されるとばかりに演奏されている事がよく見受けられる。とても残念な事だ。
その編集者の罪は大きい。
また、専門家の間でも、モーツアルトのオペラ等の歌のパートに、ダイナミック記号があまり書かれていない為に、
オーケストラに付けられた記述を、そのまま付けさせたり、
書かれていないクレッシェンドや、デクレッシェンドを要求するする人が未だにいるのは、
不勉強の誹りを受けざるを得ないだろう。
楽器の歴史の中で最も古くから研究され、完成された分野は、弦の奏法だろう。
モーツアルトの父、レオポルドモーツアルトは、完成されたヴァイオリンの教本を書いている。
それは、今なお大切な教材として使われている、ヴァイオリン教則本である。
つまりそれが書かれた2百年前には、既に弦楽器の奏法は完成されていた事になる。
それに、楽譜に付けられる記号が、まだ統一されていないだけでなく、あまり使用さえされていなかった。
その当時の記号は、音を装飾する為のアドバイス的な意味で、音楽の表情等の意味では無かった。
以後、沢山の記号が現れるが、ほとんど、この弦楽器の奏法から発生した記号である。
その意味から弦楽器の奏者でなくても、弦楽器の奏法を知識として、知っておく必要があると思う。
ピッチカートは、指で弾くので解り易いが、豊かな余韻が残る事は、記憶しておかなくてはならない。
それだけでなく、弦楽器奏者はもっと余韻を残そうと、ビブラート(弦を押さえた指を前後に揺らせ響きを残す技法)を付ける。
ただウイーンやチェコ等の地域では、めったに付けない。余韻の多い演奏環境の為であろう。
スタッカート、スピッカート、メゾスタッカート、アクセント等の記号は、記号の形を見た通りに、弓を動かすのは、想像出来る事だ。
意外な問題は、スラーである。
滑らかに音をつなげる事は、その弓の動き通りであり、その動きが目に見えるので、良く理解出来る。
この弓の動き方は、声楽家や管楽器奏者にとって、息の使い方がこれほど良く解る手本は、他に無いだろう。
意外な問題と言うのは、弓の長さには限界が有り、どうしても方向を変えなければならない事だ。
息を吹いたり吸ったりして音を出すのは、日本や中国の楽器、笙(しょう)だけである。
この弓の仕草は、視覚的にとても美しい。オーケストラの魅力の一つかもしれない。
ウォルトディズニーの映画、”ファンタジア”の最初に、バッハの”トッカータとフーガ”に合わせて動く、弓のアニメーションは、とても面白い。
この動きは、それぞれの演奏家が勝手に決めたり、している様に思ったりするが、ほとんどは作曲家が決め、楽譜に書き込まれている。
その記号は、スラーである。
その為に、音楽のフレーズと合っている場合は問題がない。
しかし技巧的に付けられた場合に、誤って読んでしまうと、とんでもない所で旋律のフレーズが切れてしまう事が頻繁にある。
特に付点音符と次の音符に付けられたスラーは、まずこの意味と思って間違いない。
つい、拍ごとのかたまりに見てしまうので、日本語のイントネーションに慣れている我々にとっては、疑問すら起こらないが、
やはりおかしな旋律感になってしまっている事に、気が付くべきである。
その様な事は、弦楽器に堪能な作曲家の場合に、よく見られる。
モーツアルトもその一人。有名な”アイネクライネ
ナハトムジーク”の弓使いが、しっかり書かれて居るが、
出版された時に、随分書き込まれ、かえって元の旋律の流れを疎外している所がある。
モーツアルト自身の書いた自筆の楽譜の資料を見れば、総て納得する事になる。
ドヴォルジャーク、チャイコフスキーも、かなり意識的に書いている。
現代では、CD−ROM等も普及して来ているので、自筆譜をもっと手に入る様にし、正しい演奏の為に公開を望みたい。
今まで何度となく使って来た旋律とか、フレーズといった言葉の説明が必要であろう。
今まで私が使って来たこれらの言葉は、音楽用語ではモチーフ、”動機”と言う言葉が通常当てはめられているのだが、
少し違った意味で使っている。
有名なこのモチーフと言う言葉の用語に、ワーグナーが作った楽劇と言う大規模なオペラ作品を作る上での、
作曲書法に使われる”ライトモチーフ”と言う言葉がある。
これは、話しの中に出て来る人物、物、出来事、感情等を、それぞれに特定の旋律(ライトモチーフ)を当てはめ、
話しの進展に従って、その状況や、話しの裏側に流れる係わり合いを説明するのに使われ、
それらを織り込みながら、音楽を進めていく書法である。
しかし、この様な処方は、特にワーグナーが最初でもないし、特別な書法でもない。
モーツアルトや、ベートーヴェンにしても、同じ様に作曲しているが、その様な説明をなされていないだけである。
ただし、同じ旋律でも、出て来る毎に少しずつ形を変えて出て来る。
それは、日本でも同じ言葉や漢字を、文章の中で何度も使う事は、知性が無い様に思われるので、
出来る限り違った言葉や漢字を使う様にしなければならないと、いう事と同じである。
このライトモチーフは、短い物もあるが、大抵は数小節から成る旋律の事であるが、
今私の言う所の物は、最少では一つの音だけ、言葉で言えば、”あっ!”、”おー!”、”やっ!”等の感嘆詞の様な
あまり複雑な意味を持たない物。最大でも2、3の音から成る物で、意味を成す最少単位になる物の事を指す。
言葉の文節に相当する物だ。
ただし、この音に変奏を加えたり、飾られた場合も含むので、場合によっては、かなり長い場合もある。
実際に我々が言葉を話すときには、いちいちは考えていないが、何処までがどの言葉の塊かを、判って話している。
はっきりと判りやすく話そうとすればするほど、その塊を意識する。
このひと塊が判って来れば、音楽も、はっきりとして来る。
譜例8
ベートーベン 交響曲 第6番 ヘ長調 作品68「田園」より 冒頭

第三部楽譜の読み方 参照※(未収録)
前の6.一点イ音の所で、説明した事でもあるが、不思議な事は、何故”A”が基準かだ。
いろいろな説明をする事が出来る。
例えば、中国の古代の王族の墳墓から出て来る副葬品の中から、調子笛が出土しその音が、”A”や”D”であったり、
日本の音律の平調子の基準が、”D”、尺八は1尺8寸の事でやはり”D”になり、その”D”の一番関係の深い倍音が、”A”である。
尺八は、両手の指を使う時に、押さえ易い長さが、ちょうどその”D”の音になる長さである。
やはり西洋の笛、フルートも、元は、”D”が基準の楽器である。
人間工学的に適した、長さだったからかもしれない。
やはり6.一点イ音の所でも1秒の事に触れたが、1Hz.の音が、”C”である事も大変不思議であるが、
更に計算をすれば、次のように成った。
| 1秒 (1") | ”C” |
| 1分 (60") | ”Cis” |
| 1時間 (3600") | ”D” |
| 1日 (86400") | ”G” |
| 1週間 (604800") | ”A” |
| 1月(29日)(2505600") | ”A” |
| 1年(365.2564日)(31558152") | ”D” |
倍音の説明からすれば、”Cis"は、”A”の5倍の倍音、
”G”と”D”は、”C”の3倍とその3倍の倍音である。
とすれば、1秒、1時間、1日、1年とは、”C”の倍音関係。
他は、1分、1週間、1月、どれもが、”A”の倍音関係となる。
計算方法は、1Hz.=C から、1オクターブは、2倍の振動数であるので、反対に、2秒、4秒、8秒、16秒も総て C の音であるので、それぞれの秒数に当てはまる音を探した。
とてもおもしろい関係が出て来た。
無理に結論を出せば、太陽の関係は、”C”、月の関係は、”A”つまり”陰”と”陽”。もっと無理矢理、長調と短調。
どうも音楽と自然の営みは、無関係ではなさそうだ。
ギリシャ時代、ピタゴラスは、惑星の動きと音律の関係を説いたそうだが、何かこういった関係を知っていたのかもしれない。
ちなみに、素粒子を説明する理論の、”ひも理論”は、この倍音の関係や、ピタゴラスの音律を導き出す原理から出来た理論だそうである。
譜例9

ハ長調で階名では、 ド、ド#、レ、レ#、ミ、ファ、ファ#、ソ、ソ#、
ラ、ラ#、 シ、ド
をドイツ語の音名で、それぞれ C,Cis,
D,Dis, E, F, Fis, G,Gis,
A,Ais, H, C
ツェー、 ツィス、
デー、ディス、 エー、 エフ、 フィス、 ゲー、 ギス、 アー、 アイス、
ハー、 ツェー
ハ長調で階名では、 ド、シ、シ♭、ラ、ラ♭、ソ、ソ♭、ファ、ミ、ミ♭、レ、レ♭、ド、
をドイツ語の音名で、それぞれ C, H,
B, A,As, G,Ges, F, E, Es, D,Des, C
ツェー、 ハー、
ベー、 アー、 アス、 ゲー、 ゲス、 エフ、 エー、 エス、 デー、 デス、
ツェー、
今の計算にしても、ある意味では、かなりいい加減に近似の音を当てはめている所もあるのだが、
音には融通性、もっと優しい言い方をすれば、お互いの仲の良さがある事だ。
それを、ある程度融通がきく程度の音で、1オクターブの中を分類をした音律が、平均律と言われている音律である。
それを音階の主音と属音(音階の第5番目に出て来る音で、主音の3倍の振動数の倍音で、主音以外の音では最初の物)の
関係を次々と取って行くと、ちょうど時計の文字盤の様に成り、12番目に元へ戻って来る円が描ける。
これをこの様に、五度円、あるいは、五度圏と言っている。
右回りに行くと、シャープが一つずつ増え、左回りでは、フラットが一つずつ増える。そして、それぞれ6ずつ付いた調は、”F#””G♭”に成り、平均律では同じ音となり、書き方は違うが同じ調子になる。
この12と言う数字も中々おもしろそうだが、まだ究明していない。きっと何か音楽との関係が出て来ると思っている。

楽譜自体がグラフであるが、最近の現代曲と呼ばれている楽譜は、誰が見ようとグラフ意外には見えない。当然の事である。
今ここでは、本当のグラフを示したい。すなわち、倍音の関係による音律、つまり純正律と平均律の違いを表すグラフ。
もう一つは、同じ純正律でも基音を違えた場合に、たとえ元の純正律の中にある音でも、重なり合わない音がある事を示したグラフである。
1.純正律と平均律
音の高い方が、純正律、低い方が、平均律。
2.純粋倍音のみの積み重ね
基音のカーブに、純粋倍音の成分を加えたグラフ

3.純粋倍音だけの三和音
基音のカーブに、純粋倍音の三和音の成分だけを加えたグラフ。

4.倍音の違う三和音
基音のカーブに、純粋律の長三和音の成分を加えたグラフ。

基音のカーブに、純粋律から外れた音(平均律等)の長三和音の成分を加えたグラフ。
以上のグラフから純粋倍音の音が重なれば、響きが増幅し、
倍音から外れた音が混ざると響きが止まっていく様子が見て取れる。
音律を音階と一言で済ましてしまっても良いが、普通の音階の様な1オクターブの物とは限らないので、音律と言う語が使われる。
現在主に使われている音階は、長音階、短音階、半音階、ごくたまに、全音音階がある。
後の2つは、それぞれの音の間の音程が、音階の最少単位の半音ばかりで出来ているのを、半音階。
譜例10、
半音を二つ合わした全音ばかりで作ったのを、全音音階と言う。
次の二つは、その半音と全音が混ざりあって出来ている音階で、全音階と言い2種類ある。
その一つ、第3番目と4番目の音、第7番目と8番目の音の間の音程だけが、半音になる音階を、長音階。
第2番目と3番目、第5番目と6番目の音程だけが、半音になるのが、短音階。
そして、その短音階を更に、そのままの物を自然的短音階。
第7番目の音を半音高くして主音へ導く力を強めた、和声的短音階。
その為に出来た第6音と7音との1全音半の音程を解消する為、第6音も半音高くして主音へ導き、反対に下降する時は、自然な状態へ戻す音階を、旋律的短音階と言う。
長い解り難い説明になったが、この様な音階が出来た過程を、知る事が必要だ。
まず音階の発生は、やはり倍音であろう。
歌を唄って、出し易い音程の声を繋げようとするだろう。そうすれば、低い倍率の倍音が並ぶ事になる。
それは、和音の音で、順番に出せば、分散和音になる。それで出来た音楽が、ヨーデルと言われる、アルプス地方の民謡だ。
それをもっと滑らかにしようと、もう少し響きやすい音を探れば、今の長調や単調、また、各地の音律になったのである。
そしてギリシャ時代に、それを分類した理論が生まれた。
テトラコードと言われる、3つの音程を持った4つの音の列(音楽用語の完全4度)。
その3つの音程の内で半音の場所のある場所で、幾つかの組み合わせが出来、
またそのテトラコードを組み合わせて、1オクターブの音階を作る。
譜例11
テトラコード

この様な方法で幾つかの特徴的な音列を作り出し、それにそれぞれ、ドリア、フリギアやリディアの地域の名前を着せ、その音階の性格を決める等の、音楽理論(エトス論)が発展していた。
その様な音律についての研究は中世の教会でも盛んであり、それらを旋法論と言う。
その中世の旋法論で使われた、各々の音列の名称は、このギリシャの名称とは、異なっている。
17世紀のバロックの頃には、ほとんど今の様な音階に統一されて来たが、今だにかつての旋法は、旋律の中に聞かれる。実際今でも欧米の音楽教育では、教えられているが、日本では、ほとんど和声学しか習わない。
西欧人は民族的なルーツをそこに感じるのであろう。
主従と言えば、封建的な感じを受けるが、その様な観念的な意味ではなく、
例えば、地球と月、そして太陽と地球の様な関係で捉えたい。
図7
重力の関係にとてもよく似ている様に思う。
音楽の旋律は、最後には何かの音へたどり着こうとする。その音へ向かっていつも重力の様な、引き付け合う物を感じる。
その力は、倍音の関係と比例している。一番強いのは、属音と言われる、第3倍音。
その音から主音へ進んだ時の解消感は、誠に終わった感じがする。
音楽では、”解決”と言う言葉を使っている。
もう一つ、下属音と言う音がある。属音が、主音の完全5度上の第3倍音の音であるが、
これはその様な関係を、主音の下に設定した音、音階で見れば属音の一つ下の音(それで下属音と言うのではない。)
その音から主音へ進んだ時の解決感は、それ程強くはないが、何かの安らぎを感じさせる。
それを、アーメン終止と呼んで、宗教的な祈りの表現として使われている。
譜例12
主音と属音の関係が丁度先程の太陽と地球との関係にあり、更に地球と月の関係が生まれれば、それを転調と言い、その元の調を主調、5度上であれば、属調下であれば下属調と言い、主音が同じだと、同主調、同じ音律から出来る長調短調の関係を、平行調と言う。
そしてこれらの総ての関係を、近親調と言っている。
図8

主と属であるので、その関係は明白であるが、属音の主音へ戻ろうとする力が強いと言うのは、
主音の関係の及ぶ最も遠くにある音と言う意味でもある。
主音への進む力は、隣の音も強い。特に下から昇って来た頂上まぎわの第7目の音は非常に強く、
主音を導くので、導音と呼ばれる。導音はハーモニーや、倍音からしても、属音のグループと言う事が出来る。
主音と属音の関係が逆転し、その属音を新たに主音とした時、その属音を完全5度下に見る事になるので、下属音と言う。
イタリア語では、どちらもが、主と言う意味を持っているし、ドミナント(属音)は、支配すると言う意味がある。何故か解らない。
譜例13
ハ長調の音の関係

この主従の様な関係を、音楽から無くして見ようとの試みが生まれた。
今までの様な主従の関係により、主音の存在が大きくなり、まさに主になってしまう。
その様な状態を、調と言う。ハの音が主になった長調であればハ長調、ホが主に成った短調は、ホ短調と言う。
自然の中には、むしろその様な主従の関係しか存在しない。
調を感じない様な、音楽の感覚がしたのは、宇宙遊泳を見た時が最初であろう。
調と言う重力の関係から開放された音楽を、無調音楽と言っている。
代表的な、この様な音楽手法は、1923年シェーンベルクが考案した12音音楽と言われる作曲技法がある。
1オクターブ内の、12の音全てを平等に扱い、どれもが同じだけ出て来る様に、一つの音が出れば、
他の11の音が出てしまうまでは、同じ音は出さないと言う規則に従った、セリーと言う12の音で出来た音の列を作り、
そのセリーを素に作曲をしていく方法を12音技法と言う。
20世紀になりシェーンベルクが考案し、弟子のウエーヴェルンやヴェルクたちが用いた大変良く出来た作曲技法だが、
観念上の理論である事には違いない。
調をなくす試みは、その後あまり続かなかった。
譜例14
シェーンベルク 管弦楽の為の変奏曲 op.31 主題のセリー
フラクタルの状態の事であるが、簡単には、箱の中に箱があり又その箱の中に箱が入っている様な状態の事。
音楽では、今世紀初めの頃の音楽学者で、ハインリッヒシェンカーと言う学者が、旋律を解析して行くと、
表面に聞こえて来る旋律と、その素となる、旋律も聞こえ、またその旋律の元になる旋律が、やはり存在する
といった理論を展開し、色々な有名な旋律や曲を解析した物がある。ウアリニエ、原旋律と言う。
この理論の基に成った物は、バロック時代の即興法、インプロビゼーションと言い、装飾法と言う言い方もある演奏理論による。
すなわち、彼の解析とは逆の順に、まず簡単な旋律が有り、そのそれぞれの音に装飾的な変奏を加え、
またその旋律にそれぞれ装飾して行く、その様なくり返し装飾を加える事による、作曲法。
譜例15
ベートーヴェン 交響曲 第5番 のウアリニエは、
この2つの音からなる旋律、
になり、作品全体がこのモチーフで出来ている。
逆に作曲する方法としては、
譜例16

当時は、即興が普通であったので、演奏理論。
有名な物に、J.S.バッハの曲の色々な所に、自分の名前の音”B””A””C””H”を織り込んでいる。
まるでダリの隠し絵の如く、聴く者に気付かれない様に、自分の名前を入れている。
譜例17
その頃だけでなく、作曲家のみならず芸術家は、人知れずその様な細工をする事は、よくする事だ。
むしろ感情をいかに込めようか、などとは考えず、色々な音の組み合わせを楽しんでいる様である。
作曲家を大変尊敬されている方々には、申し訳無いが、芸術家ではあるが、音楽家は作曲家も含めて、極めて普通の人に近い存在だ。
作品も、”エイヤッ”と、才能を出したので無く、こつこつと積み重ね、組み合わせて、構築された物である。
”姿勢を正しく。”は、全ての基本だ。しかし、音楽でどの様な姿勢が大事かとなると、色々な事が言える。
”かまえ”と言う言葉がある。スポーツの受けて立つ時、どの様な攻撃にも対処出来る様な構え。
緊張と集中力が増し、しかも柔軟な体全体の筋肉の状態、特にフットワーク。
ヨーロッパでの姿勢の基本となるスポーツは、フェンシングだ。
フェンシングでは、相手の攻撃をかわす為に、なるだけ相手に的を狭く見せる様に、体を横にして構え、頭を高くする。
日本の剣道との大きな違いだ。
それに”頭を動かさない、”これは、本当に西洋人が頻繁に言う、姿勢の第一の基本だ。
音楽の演奏の時も全く同じと言っても良く、頭を動かさない。
演奏する時に、身体、特に頭を動かすと、とても表情を持たせている様に思ってしまうが、音にはその表情は現れない。
とても優秀な演奏家が、身体を動かしている場合があるが、表情の為でなく、音を出すための必然として
動いてしまう事がある。よく似ているようだが、全く違っている。よくみれば、その違いはすぐに判る。主客が反対だ。
音楽は、相手のミスを誘うのが目的でなく、心地好くラリーを楽しもうとするのだが、対処する緊張は、同じだ。
もう一つ大切な意味がある。
それは、これからしばらくの間に起る事を、一度に把握しておく為である。
難しそうな言い方に成ってしまったが、話しをする時、一つ一つの音や単語を、話そうとはしていない。一塊のフレーズを話そうとする。
話す内容がはっきりしていれば、最初から最後までの話しの内容全部が、一塊に頭の中に在る。
その様な状態にあれば、すべての事に対処しようと体が反応して来る。
音楽も、その塊全ての音が響き易い様に身体の状態が整って来るはずだ。
非常に良い状態で演奏に望んだ時には、今から演奏する音楽が、どんなに長いオペラの様な曲であっても、
一掴みの、一瞬の物として捉えているのに気付く事がある。
最後の巨匠指揮者と言われたチェルビダッケが、”最初の音が鳴った時に、最後の音が判った。”と、
言ったのを思い出すが、この事を言ったのであろう。
彼は、音楽現象学を説いたが、音楽は、イデーの集合であると言いたかったのではないだろうか。
物事を、一掴みにする事により、その本質を知る事になり、その本質から、個々の音を、導き出さなくてはいけない。
”色即是空、空即是色、”でしょうか。
東洋哲学に造詣の深い、彼の考え方である。
ヨーロッパでも、”All is one. One is all.”は、よく通じる言葉である。
ここで取り上げたい音楽の上でのストレスとは、響きのストレスから生じる色々な表現である。
もちろんストレスだけで感じるものでなく、それが解消された時に生まれる感覚だ。
先程の38.主従関係で説明をした、”解決”と言う言葉の事である。
釣り竿や、ゴム等がストレスを受け、曲がって行き、もう限界いっぱいになって、もう折れそうだと思った瞬間に、
元へ戻った時の安心感の様な物だ。
例えば、後ろ髪を引かれる思いを、振り切った瞬間の気持ち。
皆より一歩先んじて前へ出た時の不安と、後から追い付いて来た時のホッとした気持ち、
早く親許から離れようと思っても、なかなか決心のつかない時のいらいらとした感じ。
人をかき分けて行く時の抵抗感、突然事故にでも遭った時のびっくりした感じ等。
色々な状況の中での一寸した感覚を音に現したものである。
ただし、それぞれのお互いの意識なしには、生れて来ない事にも注意は、必要だ。
その色々なストレスの気持ちを現した音に、それぞれ名前がある。
後ろ髪を引かれる音は、掛留音。一歩先んじた音は、先取音。
離れようとしても決心のつかないのが、刺繍音(刺繍をする時の運針から名付けたのであろう)。
かき分ける抵抗の音が、経過音。突然の音が、い音。
譜例18
これらを、総称して非和声音と言う。
今はあまり使われなくなったが、不協和音を作る音である。
この様な音は、元々特別に述べる様な物でなく、滑らかな旋律の動きでは、揺らぎ程度に感じられる物である。
あるいは、ちょっと飛び出したり、遅れたりする事で、
最初は、演奏中に本当に飛び出したり遅れたりした時に、その効果を見付けた物であろう。
それに対して、いつも大勢のままに落ち着いているのが、和声音と言える。
生ぬるいが、気持ちが良い。
その和声については、解析しやすいので、音楽の説明がし易くなる。また学び易くもあるので、
作曲の基礎知識としても重要であるが、その理論に束縛されるのは間違いであろう。
ポップスのコードネームも同じアプローチと言え、束縛も大きく成りつつある。
和声学では全てを解析しようとする為に、大変複雑なハーモニーも規定している。
7th、は属7の様に、属音の上に出来た、3和音のその上に又3度の音を重ねたもので、よく使われるが、その又3度の9th、その又上に3度の音を加えた、11th、その上に、13th、ここまでくれば、何の音でもある事に成ってしまう。
譜例19

普通の楽器や声では、現実にはかなり不可能に近いが、電子音の場合には、面白い音となって存在する。
その要因は、平均律に調律されている事や、それぞれの音のバランスが完全に取れる事、
そして最も重要な事は、お互いが干渉しない事だ。
つまり、それぞれ勝手に鳴っており、お互いのアンサンブル、気を使い合って譲り合う事が無いから起こるのであり、
まったく機械だからこそ、出来る音である。
最近の作曲家は、シンセサイザー等の電子音で作ってしまう為、平気でこの様な音を書くが、
実際の演奏の機微を知っていれば、とても非人間的な要求である事に気が付いてほしい。
ストレスの解消である事は、前にも述べた。
純粋に整った澄んだ音は、とても美しく、豊かに響けば身も心も洗われる様な心地がする物だ。
高いアーチの天井の教会などで聞く、コラールの美しさは、心に染み入る。
その美しさをより際立たせる為には、時々の曇りを演出する。
それが晴れた時、総てが解決する。(38.主従関係 43.ストレス の項を参照。)
響き、余韻、残響、反響、どれもよく似ているが、特に音楽においての意味合いには、かなりの違いがある。
響きについては、演奏家にとって最も感心の深い問題であり、常に追求している事である。
それだけに、それをうまく説明したり、会得したりする事が難しい事でもある。
音楽家は、”良く鳴らす”と言う言葉を使って表現をするが、力一杯出す事になってしまったり、
詰まった様な押さえつけた音に成ってしまう場合が多い。
反対に、非常にうまく響きが出た時に、力が無い、綺麗なだけだと言った批判が出る場合も多い。
実際に会場で聞けば、力ずくの音は刺激的で、強くても厚みや豊かさは出ず、
響いた音の方が、豊かでかえって大きく強く聞こえる。
なぜなら、倍音が整ってなければ、位相差で、振動が相殺されてしまうのだ。
昔から、”そば鳴り”と言って、近くで大きく聞こえる音は、良くないと言った戒めがあるのだが、
近ごろでは、練習場所が響きの無い部屋が多い為もあり、楽に大きな音が出るといった基準で、
楽器も選び、奏法を考えてしまうので、結局響きがうまく出せない事に成ってしまっている。
また楽器メーカーが、奏者に迎合されない様にしてもらえばよいが、
自分の耳を信用せず、器械に頼った制作姿勢の責任を感じて欲しい。
奏者も制作者も、本当に鳴っている状態を知らない事が、問題ではないだろうか。
私は昔、山の中にこもって練習をした事がある。山の頂上にある小屋で、見渡す回りじゅうが、山また山。
そこで向こうの山めがけて音を飛ばす。
力一杯出しても、山彦は返って来ないが、力を抜き整った音を出せば、難無く音は返って来た覚えがある。
それまで先生に何度となく、その様にする様言われ続けて来た事であったが、目から鱗の思いであった。
やはり身を持って知る事が必要だろう。
余韻と残響は、共に同じ事ではあるが、奏者の内の問題が余韻、外が残響と言う捉えかたで良いと思う。
山彦も反響だが、反響に付いては、反響板と言われる板が舞台の後ろや横、上にあったり、
客席の天井等に張ってあったりするので、誰でもよく解かると思う。
しかし、残響は必要でも、反響は邪魔にさえ成る事がある。直接の反射した音は、とても他の音と融合し難い。
かつて、名テノールのマリオデルモナコが、自分の声がはっきり聞こえる様に、鉄の反響板を作らせた事があるそうだが、普通は全体の響きの為には、かえって、違和感をもたらす事になる。
ちなみに、音響の測定機械では、反響と残響の区別は、出来ないそうだ。
先程の力いっぱいの音が何故鳴らないかを、説明して見ようと思う。
音の説明や、倍音の説明は前にしているので、それが解っていなければ、
もう一度、第1部の音とは何か?や倍音?、第2部の21.倍音をもう一度読み返してほしい。
音を、目に見える様に表示する器械で、オシロスコープと言う物がある。
音といえば、誰もがこの器械に表示される様な、波、サインカーヴ(正弦波)を想像するが、今はその波を頭に描いてもらおう。
まず最も単純な、完全な正弦の波を思って欲しい。
そして、その波を半周期だけずらし、元の波と重ね合わせれば、完全にその波は消えてしまうのは、想像出来るだろうか。
しかし倍音の波が重なれば、元の波を強調する様に、波の最初と終わりが尖ってどんどん大きくなり後は一様な、
幅の極端な形の音になって行く。
図9

特定の重なりあう要素が増幅し、相反する所が打ち消し合うからである。その事を、位相差に拠る物と言う説明が出来る。
逆にその位相差のずれた音は、増幅する所が減り、どんどん打ち消し合って、小さな尖った山が沢山出来る図になってしまう。
大きな山は無くなると言う事は、大きな音はしない。つまり響かない。しかし、騒音の様に、耳障りな固いやかましい音になってしまう。感覚的には、こちらの音も大きな音だと言っている。
反対に、位相の合った倍音を十分に含む音は、整って響く。その上出された音は、部屋等の空間で、又倍音を最構成し、益々良く響く。
優しく豊かに響く事になる。確かに、刺激的ではない。
ソロの時、他の音に埋没しない様に、少し違った倍音や、位相差を持たせれば、かえってくっきりと目立たせる事も出来る。
先程の、名テナー歌手モナコ氏のやった事は、その為だ。
しかし、皆がその様にすれば、ただ消し合うだけの事に成るか、小学校の休み時間の様な、雑然としたにぎやかな音楽になってしまう。
もしも、全ての音が協和する倍音の音ばかりで、旋律が出来ていれば、どう成るだろう。
位相差の説明でも、その音が増幅するが、主音ばかりがやたら目立って来るのは、想像出来る。
とても響きは良いが、旋律はもう一つはっきりしなくなる。そこで、あえてその響きを歪ませる。
その音が、非和声音である。
ヨーロッパの大きな教会でバッハを演奏した時、自分の音がいつまでも残り、ハーモニーする音は益々大きく成り、
歪ませた音は、出した時は窓が曇った時の様に濁り、次のハーモニーの音へ戻った時には、すかっと晴れ渡った空の様に、
今迄の曇りが一瞬に消えてしまった事を思い出す。
なる程この様な所で出来た音楽なのだと、改めて思った。
やはり教会にある、大きなパイプオルガンの奏者であったバッハが、平均律を好んだのも、
オルガンが、全くの純正律で調律されておれば、それほどの解決感は、むしろ望めなかった為でもあると思う。
西洋のこの様な音響空間に生活していれば、普段の言葉にも影響しない事はないだろう。
英語の、The、イタリア語の、Il Lo La Le 等、フランス語の、LeLa
Les ドイツ語の、Die Der Den 等、
定冠詞と呼ばれるものだが、どれもはっきりとした、子音を持っている。
それに引き換え、不定冠詞は、英語の、a、イタリア語の、un
uno una 等、フランス語の、un une des 、
ドイツ語の、ein 等の様に殆どが、母音で出来ている。
つまり、響きのある環境で、はっきりとさせたい言葉には、はっきりとした発音の子音の冠詞を付け、
そうでない物は、母音での冠詞で始める。
何時もはっきりさせれば、やかましくなり、はっきりしなければ、何を言っているのか判らなくなる。
しかし人の注意を喚起しようと、いきなり喋るのでなく、前もって少し音を発する。
最初の音は、少し位聞こえ無くても、コミニケーションには、差し支えない。
少し以前の宇宙船との交信が、省電源の話し始めれば電源の入るシステムの為に、
話す言葉の最初が途切れていたのだが、英語では問題はなかった。しかし毛利さんの言葉は、判りずらかった。
日本語には冠詞が無く、いきなり話される最初の音が聞き取れない時は、意味が解りずらい。
やはり、ロシア語やチェコ語等の、言葉も、冠詞が無い。
この冠詞の部分を音楽にする時、小節の最初から始まれば、当然強すぎて本来の単語の部分を解り難くしまう事になる。
そこでその少し前に付け加える様にする。これが、アウフタクトの意味である。
アウフは、〜へ〜をめがけて、の意味、タクトは、拍節の事。つまり、拍節を目指して、と言う意味になる。
ただ単に弱拍より始める、と言う説明より、はっきりと意味が解るだろう。
やはり、日本の旋律には、無いはずだ。又、ロシア民謡や、チェコの旋律にもあまり見られない。
その地方の言葉のイントネーションと、密接に音楽は、関係があると言う事だろう。
譜例20
ベートーヴェン 交響曲 第6番 ヘ長調 作品68「田園」より、第3楽章
冒頭

譜例21、ベートーヴェン 交響曲 第6番 ヘ長調 作品68「田園」より、第3楽章 後半
”田舎の人々の踊り”の部分。
(ここには、アウフタクトが、見られない。
ウイーンの田舎は、チェコやハンガリー地方のイントメーションの為であろう。
勿論だんだんと地球が小さくなって、色々な言葉が何時も聞えて来る様に成って来たので、
その様なイントネーションも段々無くなったり、関係が乏しくなって行くのだろう。
ロシア人作曲家の音楽には、アウフタクトがかなり頻繁に出て来るが、
宮廷での公用語が、フランス語であった事を考えれば、理解出来る。
シューマンの音楽は、アウフタクトが無い場合が多いが、生地ツヴィカウ辺りの言葉は、とても早口で、抑揚のあまり無いイントネーションであり、それからしてもやはり、理解出来る。
1816年ドイツのメルツェルが、拍を正しく数えてくれる機械を発明し、自分の名前から名付けた物が、メトロノームである。。
今でもよく使われている機械だが、電気の物に取って代わられ様としている。だがこの機械は、中々良く出来ている。
設定が、重りの位置だけで出来る事も良いが、何よりその動きが自然の動きである事だ。丁度ぶらんこを逆にした様に見え、
(実は、見えない所が重りを付けたぶらんこになっている。)自然なスゥイングが、見られる事だ。
リズムは、自然の中には、この様な動きが普通で、均等に分けられる方が、不自然な事である。
しかし、表現を身に付ける上では、この様な均等な拍子の感覚を身に付け、日々矯正が必要である事には、違いない。
その点この機械は、正確に刻む事も出来るし、動き自体はいたって自然な物である。
図10

音楽の本来のリズムは、わざわざ既定される物ではないが、踊り等、人間の体の動きを表現し様と思えば、
おのずと幾つかのパターンに分ける事が出来る。
歩いたり走ったりする時は、2拍子でしかない。誰も足は、3本は無い。
しかし、一歩は、人間工学の分析を待つまでもなく、振り子の様に動かしている。それをもっと弾ませれば、スキップになる。
そのスキップと、普通に歩くのを交互に繰り返す様なステップが、この混合拍子である。
変拍子と言って、ストラヴィンスキーや、バルトーク等が、近代の音楽に、民族的な素材を取り込んだ為に、
この様なギリシャや、カスピ海周辺にあるリズムが知られる様になったのだが、とても楽譜にすると読み難く、
複雑に成ったので、近代の、複雑な機械的な構造物を想像してしまい、やたら人工的なリズムになっている事が
よく見られるが、全く違う動きと言っても良いだろう。
5拍子、7拍子、8拍子、にしても2の部分の単純拍子と、3の部分のスゥイングの複合拍子が混ざり合って出来ているが、
どの拍も、同じスピードで繰り返す事は無い。はずんで、歩いて、のくり返しで、変化のある弾みが聞こえて来るはずだ。
たとえ2拍子の行進曲でさえ、もし無理矢理弾みの無い拍のくり返しをさせれば、それこそ、全体主義の時代の軍隊行進だ。
伸び伸びとした行進の様子は、見る事は出来ない。
拍子の分類
| 単純拍子(2XN) | 複合拍子(3XN) | 混合拍子(2N+3N) | |
| 2(4)拍子系 | 2,4 | 6,12 | 5(2+3,3+2) |
| 3拍子系 | 3 | 9 | 7(2+2+3,2+3+2,3+2+2) |
| 8(2+3+3,3+2+3,3+3+2) |
終戦の頃に進駐軍のキャンプで、ジャズのスゥイングに心躍らされた年代の人にとっては、この様な全体主義的な
不自然な抑圧から、開放されたかった気持ちの現れであったのだろう。
モーツアルトも反対に、フリーメーソンの教義でもある、自由、博愛、平等、の主張として、
あえて均等な拍の符割りを書いている。それが、後に、反対に、自由を束縛する表情になろうとは、まさか考えなかっただろう。
ただ、歴史的に言えば、ヨーロッパに起こった、音楽を、アメリカ大陸へ運んでいった人達は、ピューリタン達である。
新しい考え、やはり自由や平等の主張を持った人達であり、モーツアルトの様に、貴族社会の中で、音楽を武器に
戦っていた人と違い、何も音楽で主張しなくてもよく、昔ながらの自然なリズムをそのままに運んで行ったのであろう。
現在では、そのジャズもかなり形式的になり、ハーモニーのジャズの理論であるコード進行や、インテンポの維持や、
このスゥイングのリズムの符割りの既定等、逆に不自由さを感じてしまう。
ジャズの世界だけでなく、クラシック、オーケストラでも、かたくなな、権威主義的傾向を感じるのは、私だけであろうか。
商業主義の為か、国民性か、権威主義か、判らないが、何かのその様な物が、現れてきているのには、間違い無いだろう。
音楽は、社会の鏡なのだ。
リズムやテンポ感は、ある程度機械の助けで、矯正する事はメトロノームを使えば難しくない。
ぜひ音楽をする人は、しておくべきだろう。
だが、音程感に於いては、甚だ難しい。
平均律が不自然である事は前に述べた通りであり、純正律は、これと決めれる物ではないからである。
耳を自然な感覚にしておく様にするしかない。
近ごろ、またまた復活して来たものに、”絶対音感”の教育がある。
この絶対音感とは、何の器械的助けも無しで、ピアノの音等を、音楽の音程で言い当てる事の出来る能力の事である。
それを幼児期に訓練しようと言うのである。
この様な教育がもてはやされる背景は、幼児期に付けた能力を、才能と勘違いさせて、親の虚栄心をくすぐる何物でもない。
だれでも訓練さえ受ければ、出来る事であるが、その様な訓練を受けなかった人は、おとなになった時に、
音そのものを捉える事が出来るが、何の音でも音名に聞こえれば、微妙な自然の音の情緒を不可解な音に思え、
素直に感じる事は出来ないであろう。
かつてその様な教育をされた、高名なピアニストが、各地のピアノの調律が、色々なので、
我慢がなら無くなるとの、話しを聞いた事がある。
唯一便利なのは作曲をする時であろうが、前にも述べた様に、特別の能力は、普通の人にとって、
違和感を感じたり、実際に出る音との違いが想像出来なかったりするだろう。
音楽にとって、絶対は、危険を伴う。
一時はやった言葉で、ファジー等と言い、扇風機や、洗濯機の回転を変化させる機械のの理論回路に応用されている。
やはり何時も同じ状態が続くのは、不自然な感じがするのに違いない。自然な変化が必要だ。
ただその様な変化を意識的に起こそうとすると、今度は不自然に成ってしまう。
特にテンポは、その人にとっては自然でも、他の人には不自然に感じてしまう事は、多い。
その自然さをどの様に、或はどの段階で感じるのかだ。
演奏者の自然さは、演奏の為の色々なテクニックの段階で感じてしまうが、それは、技術の習得のレヴェルと
重なってしまい、音楽の自然さと違ってしまう事が起こる。
あくまで音楽の上でなくてはならない。
技術の目指す所も、技術の完璧さではなく、音楽が自由に演奏出来る技術を目指したい。
そうすれば、本当に自然な自由な音楽になるだろう。
その時には、インテンポも平均律も、リズムも、考えなくても、心地好い音楽の世界に入り込め、
作曲家の頭の中で会話する事が出来る。
その様になりたいし、その様になった音楽は、自然な揺らぎが存在している。
音(声)を揺らして装飾する方法は、世界の何処にでもある事だ。
日本での揺らしかたは少し特殊で、長く伸ばした音を、最後に揺らして終わる。
日本古来の雅楽や、能、神社の神主の祝詞でも聴かれる事だ。
まったく、日本的な音の飾り方だと言っても良いだろう。
西欧の飾りは、音の最初に飾る物が殆どだ。
この装飾の仕方は、元来、弦楽器のリュートの奏法から来たものと考えられる。
リュートは、日本の琵琶の様な形をした、ギターの様な楽器である。
弾き方は、指で弦をはじくのだが、ギターの様に響かず、音の伸びも少ない、そこで色々な装飾が考えられた。
一つは、指を押さえたり放したりを繰り返すと、か細い音ながら、何時までも音を出し続けられる。
これが、トリルや、モルデント(短いトリル)に成る。 また、一つの音を出し、すぐに他のポジションの指を押さえたり、ずらす。
それが、シュラーク(短く早く駆け上がる様な音形)や、前打音に成る。
後は、一つの音を弾き、一つ上や下へ、行きつ戻りつする音形が、ターン、に成る。
これらの装飾の方法は、フランスで盛んに使われたもので、フレンチスクールの方式と言う。
それに対して、イタリアンスクールの方式があるが、今のフレンチスクールの方式をゆっくりと動く音形したもので、
この装飾と言う言葉よりも、変奏と言った方が、解り易いだろう。
この様に音を飾りながら、即興的に音楽を進めて行くのが、バロックの演奏法であり、装飾法と言っている。
この音響的意味合いは、44.和声音、非和声音で説明した物と同じである。
しかし、J.S.バッハは、余り即興が得意でなかったのか、前もって楽譜を書いておいた。
それで今でもその当時バッハが、演奏をどの様にしていたか、楽譜を見れば解る。
その外の作曲家は楽譜をあまり残さなかったので、どの様に演奏されていたかは、想像するしかない。
その後、彼の息子達が即興だけでなく、今の様に楽譜上へ書き残す様にしていったのではないだろうか。
その様に、旋律を書き留める事は、あまり成されていなかった。
中世の時代に書き残された楽譜に、グレゴリオ聖歌と言う、ヨーロッパ各地のカトリック教会で歌い継がれて来た聖歌を、
7世紀頃の法王グレゴリオT世が、提唱し、編纂されたものがある。
その記述方法が、ネウマ譜と言われ、今の五線譜の基となっている。
その中には、聖歌ではあるのだが、いわゆる祈りの歌ばかりでなく、当時の流行歌等も含まれている、と言われている。
その編纂された旋律が、また各地で歌われて行く事になった。
幼いころから、教会に通っていた西欧の作曲家達は、その様な音楽を聞いて育ったのであり、彼らの作品の中に顕れない訳はない。
ベルリオーズの幻想交響曲に出て来る、”ディーエスイーレ”、ハイドンのディベルティメントの中の、”聖アンソニーのコラール”、
それを又ブラームスが、変奏曲にして彼の代表作となっている等、その影響からは、抜け出す事は出来ない。
ほかにヨーロッパでの昔からの音楽には、トロバドゥールと言われた吟遊詩人の歌が在ると言われている。
日本でも居た、琵琶法師や辻音楽師、門付芸人の”ごぜ”等の様に、各地を旅しながら、いろいろな伝承や
出来事を語って伝えた人達の事であるが、日本と違う所は、騎士のたしなみで有った事だろうか。
一種のスパイの様な事もしていた事は、ヴェルディーのオペラ、”トロヴァトーレ”の話しからでも解る事である。
この様な素材を素に、作曲家は音楽を構成して行くのだが、何より西欧の音楽の栄えた要因は、大規模な作品が生まれた事だろう。
もちろんワーグナーの四晩にわたって上演される楽劇、”ニーベルングの指輪”を頂点とするオペラは、言うまでもないが、
そこでも使われている、器楽のみの編成で演奏される作品の出来た事だろう。
器楽のみの演奏形態は、踊りの伴奏には別段珍しくはないが、音楽のみの演奏形態は、非常にまれであった。
特に大編成の物は、初期は、コーラスの入った物ばかりだ。
最初からオーケストラの音を想像しながら作曲する場合もあるだろうが、先ずは、手近かなピアノで作曲し、
それをオーケストラに置き換える作業をするが、その事を、オーケストレーションと呼んでいる。
このオーケストラで使われる楽器は、どれもがバロック以後に完成された楽器で構成されている。
一番中心になっているヴァイオリン属も、17世紀に発明されたがその世紀中は、まだヴィオール属が中心であった。
それがヴァイオリン属に取って変わられたのは、音量の問題であった。
ほかの楽器にしても最初は、オーボエ、ファゴットにホルンぐらいであったが、すぐに、フルート、
トロンベ(トランペット)、トロンボーンにティンパニーが加わり、その後クラリネットが入って、基本的な編成が定まる。
それぞれの加わって来る順を見ても、如何に音量の出せる楽器が増えたり、
昔からあっても、金属加工等の技術が、進んだ為に完成された様子が判る。
その前に使われた、リュートやヴィオール属、リコーダー等が使われていないのは、それらの点から納得出来る。
何時の時代も大きな音には憧れるのは、昔の人も、今のロックファンも、変わらない。
この様な器楽様式が出来たのには、この音楽の構成法が産まれた為であろう。
このソナタと言う言葉は、声楽を含むカンタータと言う形式に対して、器楽だけの音楽の言葉として生まれた。
テキストの無い音楽としては、作品の構築がし難く成るのは、想像出来る。
最初は、オペラの始まる前お客が席に付くまで、そのオペラに出て来る特徴的な旋律を集め、
予告編の様に、オーケストラだけで演奏された。それがシンフォニア、後には、オヴァーチュア、序曲と言う形式になった。
もっと後には、オペラの無い、序曲だけの作品も出て来る事になる。
そこから、旋律を論理的に展開して、順序良く起承転結に構成した形式が、ソナタ形式と言えるだろう。
起承転結にあたる構成の要素は、最初に提示部があり、特徴のある旋律が示され、それを説明する様な部分がある。
その旋律は、通常性格の違う2つの旋律が提示される。そして、その旋律を使い大胆に展開されるのが、展開部であり、
その後に、もう一度最初に出て来た旋律が再度提示される。それを再現部と言っている。
冒頭に導入部があったり、最後に終結のコーダを付けたりする事もある。
西欧人の物の考え方の論理法である、三段論法である事に違いない。また昔からの歌の形式である、
ダカーポ アリアの最初のテーマに戻って来る形も生かされている。
大変論理的であり、かつドラマチックな展開の出来る、優れた形式と言える。
シンフォニー、交響曲はこのソナタ形式で書かれている。
最もしっかりと構築された1楽章に、踊りの形式や、歌の様な叙情的部分等の曲で2,3楽章を作り、
最後にまたソナタ形式によって作られた第4楽章、終楽章を持って来るのが一般的である。
交響曲だけでなく、室内楽もこの様に作られるが、大概間の楽章は、ゆっくりとした、叙情的閑徐楽章だけにしている事が多い。
ルーツは、ギリシャ劇であり、ルネッサンスで復活された。
その最初の題材は、やはりギリシャの英雄伝説や、神話が題材で、バロックの時代まで続く。
ほぼ最後になるのが、グルックの、”オルフェオとエウリディーチェ”である。
その後、シリアスな題材のオペラセリアと、気楽な、オペラブッファに別れ、オペラセリアは、グランドオペラに成り
ワーグナーの楽劇に、オペラブッファは、オペレッタそしてミュージカルになった。
この系図は、西欧音楽の骨格を成すものである。
その外の影響は、教会の音楽も大きいが、オペラの影響を受けない物はない。
もちろん、オペラを聞かずに作曲をした者も、歴史上の作曲家の中には、あまりいないだろう。
前にも言ったが、日本の音楽事情は、少し違っている。
しかし、意外な事に大正の頃は、浅草オペラとして一般の人達に馴染まれた時代もあり、その頃に育った人達は、
コメディアンの出し物に、オペラの物真似や、パロディーをしていた事がある。
今の我々よりオペラを知っていた。
図11

”音楽こそ総ての人間の文化を代表する物である”と、言えばなかなか否定も難しいほど、色々と書いて来た。
音楽が、人間の営みを題材にし、演じて見せる芸術である事は判って頂けたと思う。
エリックサティーの家具の音楽の様な考え方は、なかなか面白いと思う。
そこまで行かずとも、バロックの音楽で、ターフェル
ムジークと言われる
貴族の食事中のバックグラウンドミュージックが、その頃から有った。
意味をあまり感じさせない音楽、環境音楽と言う分野も最近出来て来ているが、もう三百年前から存在していたのだ。
その為に、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルトは、作曲をして居た。
彼等は、決していつも高尚な音楽ばかり創って来たのではない。むしろ反対かもしれない。
その作品から、高尚な芸術性を見て取る事は、良い事だが、その価値ばかりを唱えているのでは、
本当の価値が解ったとは言えないのでは無いだろうか。
今、音楽の無い生活の方が珍しいぐらいだ。どこに居ても音楽が聞こえ、また聴こうとしている。
その様な中で、音楽の音楽だけの価値観に走る傾向は、常にある。
音である事から離れ、または、音楽だけの世界で物を考えたのでは、価値は無くなってしまう。
今までの意外なほど浅い、三百年程の歴史の近代音楽であるが、小説も、科学も、同じ様な歴史であり、
その歴史の中から生き残って来た作品は、それだけ人類が価値を認めて来たのであり、
そこにその芸術としての存在があると思う。
音楽だけでなく、芝居や、映画、バレー等、時間の経過と共に進めていく芸術は、沢山あるが、音楽にしか出来ない、
あるいは音楽ほど効果的に出来る事はない要素がある。
それは、一度に幾つもの事を、同時に進める事が出来ることだ。
それを、全てを意識の中に置きながら、関係したりしなかったり、それを総て感じ取ってしまう事が出来る。
回りくどい言い方だが、先程の環境音楽でもそうだが、何か他の事をしながらでも聞いていられる。
テレビもそうかもしれないが、総てを意識しながら係わり合っては居られない。
沢山の物を、まるで天上から眺めている様に、刻々意識していられる芸術である。
その刻々の様子が全体と個々が、混ざり合いながらそれぞれがその個性を発揮する。
小説や、映画は、同時進行的には見せられないが、音楽では、まったく関係無い様な関係、混沌とした状態も作り出せる。
まさにカオス状態を作り出せるのである。
その様に作られた音楽は、多声部音楽として、10世紀ごろ中世の時代からある。
その後の同じ旋律の追っかけ合いのカノンや、それをもっと複雑にした形式の、フーガも出来た。
それも今では考えられない位に、複雑に作られたものが沢山ある。
それに、この音楽の作られた時代は、大変に長い。
この、ポリフォニーに対し、1つの旋律でハーモニーを重視したホモフォニー、今盛んに行われている様な、
ソロと伴奏のヘテロフォニー等の形式がある。
コンピューターで音楽を演奏しても、スピーカーから音が出ているので、ある程度の良い音響空間で、
十分な音量があれば、純正律の音の関係になるので、音程は問題にならないが、小さな音やヘッドホーンの様な
音で聴けば、実際には、かなりの、違和感がある。
ウォークマンで音楽を聞いている人達が、歌やライヴ演奏のCDを聴くのも、その為かもしれない。
シンセサイザーで純正律を出す事は難しくはないが、一応に決めてしまえない音程の難しさがある。
もっと問題なのが、リズムだ。
やはり、時間のタイミングとしてだけで、捉えてしまっている間は、何時までも受け入れられないだろう。
確かに、コンピューターの音楽は、これ迄に無かった画期的な物を産み出す可能性は、十分にあると思うが、今までの既成の楽器を手軽に扱う目的だけに使えば、その存在は危うい。
しかし、もっと憂慮しなければならないのは、人間の奏者が、コンピューターの様に演奏しようとしてしまっている事だ。
正確である事は良い事だが、その揺らぎが認識されなければならない。古い楽器の方が、雄弁であるのかもしれない。
反面教師としての、コンピューター音楽も有意義だ。
バロック時代では、60.ソナタ形式の所で説明した様な、3楽章から成るソナタを、世俗ソナタと言い。
最初にゆっくりとしたソナタ形式の楽章を置き、速い楽章へ休まず続き、改めて、遅い楽章を始め、
また引き続き速い楽章に成る形式の、教会ソナタと言われる物もある。
バロックの時代のソナタと言われる曲の編成は、通常トリオソナタと言われ、通奏低音と言うチェロの、
その当時はヴィオラダガンバのパートと、旋律のみのパート、その2つのパートのみが作曲されており、
それにチェンバロで、左手は、通奏低音と同じ旋律を、右手は、即興で演奏したパートを加え、全部でトリオソナタである。
このチェンバロは、きっと作曲家自身が受け持ったに違いない。
またこの楽器、チェンバロは、19世紀になってピアノに取って代わられるまでは、その当時最も活躍した楽器であった。
形はピアノと同じ様で、もっと繊細な貴婦人的な美しさを持っているが、発音機構は、全くピアノと異なっている。
発音原理は、弦を叩かず、爪の様な物が一本ずつ付いており、それではじく様になっているので、あまり色々な音色音量は出せない。
弦は、動物の腸を引き伸ばした、ガット弦で出来ている為、あまり強く張れない為に、やはり大きな音は出ない。
音量を増す為に、弦を2本3本と重ねて音を出す方法で解決している為、鍵盤が、2段3段に成っている。
鍵盤の黒鍵と白鍵の色が、今のピアノと逆に成っている物があるが、黒鍵が多いと、指が白く美しく映えるとの理由である
と言われているが、白鍵の材料に象牙を使っていて、高価な為なのが真相だろう。
このチェンバロを中心に、低音とオブリガートのパートで、トリオソナタ、そしてそれに打楽器を加えれば、
ジャズのクワルテットと同じに成る。
この打楽器は、バロックの前の時代、ルネッサンス又は中世の、世俗的な音楽によく使われている。
最後に戻って来るのは、やはり楽譜になってしまうだろう。
即興的に演奏され、最新の録音技術で記録されても、それは、生活の中の装飾品であり、それなりの価値はあるが、
その音楽の中へ入り込み、コミニケーションを持つ事は出来ない。楽譜を通して、作曲家とコミニケーションする事が出来、
その上又それを他の人に伝え、またそこでコミニケーションする訳だから、今、作曲家がそこに居る。
過去の写真を見るのでなく、生身のその人物と、直接に会って話す事が出来る。まるでタイムスリップの様な事が行える。
勿論楽譜を見ているだけではない。読み取り音にして、初めて生き返って来る。
音楽を書き留める発明が有ってこそ出来た事であり、一過性の即興だけでなく、それを書き留め、
音楽を構築する事を始めたからに他ならない。
芝居も同様であろうが、言葉への依存や、障壁が存在してしまう。
音楽は、その点が自由であるだけに、時代を越え、地域を越え、全ての人達と、コミニケーションする事が出来る。
よく言われるが、一方通行では、コミニケーションとは言えない。その為の楽譜であり、演奏データーの様に考えては、
せっかくの大切な意味が無くなってしまう事になる。
色々考えながら音を重ねていくと、次にそれが正しいと良い響きに成り、好くないと、響いてくれなかったり。
既に楽譜は、答えがかかれているだけでなく、その時に応じて答えが解るように書かれている。
19世紀中頃から、作曲家達は、音楽の速度や表情の標語を、自国語で書き表す様に成り、イタリア語を余り使わなくなって来た。
それは、作曲家にとって、大変に使い易く、意味が伝え易いと思ったのだろう。しかしそれは、間違いであったと思う。
微妙な表情は十分に音楽の中にある。それ以上の説明が必要だろうか。
確かにまったくの白紙では、クイズの様で、その真意を誤ったり、到達するのに時間がいる。しかし、言葉を書き込んだ為に
誤解を招き易くなる。
昔は、最も早いものは、馬だとすれば、今は、飛行機。”馬の様に”と記せば、我々は、競馬馬の様に感じ、
それなりに速さや、躍動を感じるが、最も速い物を見た感動は、もう無い。
あまり良い例えでなかったが、時代によってその価値や、感じ方が変わる言葉を使えば、その真意は伝えられなくなる。
音楽が時空を越えた芸術である為には、なるだけ、共通の認識を持てる表記であって欲しい。
演奏技術の習得の目標は、先ずは、自分の声で話す様に音楽が出来る事だ。
それ以上は、最初は望めない。その段階を越え、音で考える事が出来る様に成れば、声以上の表情を持たせ、訴える事も可能だ。
声が目標なのは、自分が一番長く使っている楽器であり、一番よく練習をしたからだ。
ちなみに、楽器の発音原理と声とは、全く同じと言ってもよい。
弦やリード、唇、何でも先ず振動する物は、声では声帯の筋肉。それに刺激を与える、弓、バチやハンマー、爪、等、
それは息(空気)。響きを作るのは、楽器本体や体は同じ。
全く同じと言える。
もちろん話し方や声の悪さは、これからも習得しうまくなって行ける。それに伴って、音楽の表現もうまくなる。
学び、練習をする事だ。
バッハの例を持ち出すまでもないが、音楽は、才能が大切であり、その才能は、遺伝すると言う考え方は、
根付いてしまっている様だが、それは家庭環境によるものだ、との見解の方が一般的になりつつある。
その良い証拠が、在る。
確かに、優秀な演奏家の一族には、沢山の演奏家が生まれるのは、親達が、立派な教師、トレーナーでもあるからだ。
声楽家は肉体を受け継ぐので、生まれた時から、高価な良い楽器を持っているのと同じだが、音楽のやり方は、直接教えなくとも、いつも近くで聞いていたり、練習を見ていたりしていれば、自然に親達の音楽をする姿勢を、学び取っている。
しかし、一族から、立派な同じ仕事の音楽家をあまり輩出していない人達が居る。
指揮者だ。
親子で、立派な指揮者になったのは、エーリッヒ、カルロス、クライバー親子ぐらいだ。
その理由を考えれば、とても興味深い事になる。それは、この本全体で述べて来た事であり、いかに音楽が、
色々な事の集積であるかの証明と言える物である。
特に、自ら音を出さない、音楽の内容だけを扱う仕事としての指揮者にとっては、沢山の知識の集積や人生経験等の、
目にみえない、素質では達成できない領域の部分の仕事だからだろう。
ただ、その人の素質では出来無いと言う事だ。
最後にこの項目になったのは、何か特別の物を感じる。
音楽こそ、人間らしく素直な感情の表現であり、思惑や悪意等をすぐに見て取れる物であるのだが、騙され易いのも事実だ。
その最たる物が、天才音楽家説だが、自分が本気でそう思っていれば、別段何も悪い感情は、伝わって来ない。
悪意がある訳ではないのだ。
子供達は、戦闘シーンの音楽が好きだ。そこには、戦争の悪いイメージでなく、
正義の為の行為を見ているからだ。当然好きになるだろう。
いろいろな論理や、方法論も、最初から悪意はない。伝えて行く間に、大事なものが削られたりぬけ落ちてしまう事がある。
言葉で伝えるからだ。そして、そこに自分の権威を守る為の悪意も、入り込む事が出来る。
音楽で悪意を伝える事は難しい。出来ないかもしれない。
あの、モーツアルトでさえ、”魔笛”の中で、悪の権化である夜の女王を表現する為に取った方法は、
極限の高い音を歌わせる事で、その様にしか表現出来なかった。そこには、悪人であっても子供を思う心には変わりが
無い事を、むしろ語らせる結果になり、全体の話しを混乱させる原因にすらなっている。
人の善意が出て居るのが音楽ではないだろうか。
ただ、知らず知らずに不快な表現をしてしまわない様に、しなければなら無い。
皆に、心地好い事が、音楽だ。
第2部終わり。