「ゴドーを待ちながら」の読み方(第一回〜第三回)

このページは、Maxnotes: Samuel Beckett's Waiting for Godot, Research & Education Association. 1996の訳です。オリジナルを買いたい人はAmazon.comへどうぞ。3.95ドル(500円位)です。訳の意味がわからない人、訳が下手で読みにくい人、誤訳を立証したい人、是非オリジナルを買って読んでください。

第一幕・セクションA-1

幕開けから "People are bloody ignorant apes"まで)

要約

 劇は、葉のない木だけがある田舎道で幕をあける。夕暮れ。エストラゴンは低い丘の上に腰を下ろして、靴を脱ごうとしている。彼はウラジミルが近づいてくる時、「どうにもならん」と言う。

 彼らはいつものように挨拶をする。彼らは、恐らく夜の間は離れていて、エストラゴンは溝の中で見知らぬもの達によって殴られていたということについて語る。ウラジミルは、エストラゴンの面倒を見ることの大変さを思い出す。自殺がより良い考えのようだ。彼は、エストラゴンと一緒に、何年も前に、エッフェル塔のてっぺんから手に手を取って飛び降りなかったことを後悔する。今ではもう遅いのだ。彼らはいまや、尊敬に値する存在ではなく、エッフェル塔に登らせてもらうことすら出来ない。

 エストラゴンは靴を脱ぐのを手伝ってほしいというが、聞き入れられない。ウラジミルには自分の問題がある;彼はズボンのチャックを上げるのをさえ忘れている。

 エストラゴンは靴を脱ぐのに成功し、それを調べる。ウラジミルは帽子を取り、エストラゴンも同じ事をする。ウラジミルは、悔い改めることにしたらどうか、と、提案する。「生まれたことをか?」と、エストラゴンは聞き返す。ウラジミルは笑うが、そうすることによって痛みの中にとらわれる。彼は体の痛みのために笑うことが出来ず、微笑するのがやっとである。

 ウラジミルは聖書の話を思い出し、エストラゴンは聖書についていた地図を思い出す。二人は思い思いのことを考える。ウラジミルが「みんな」の判断のことについて疑問を投げかけるが、エストラゴンは「世の中のやつはみんな馬鹿さ」という。

分析

 セクションA-1は「なすべきことが何もない」と言うことを冒頭で示す。それはエストラゴンにとっては靴と石の問題であり、ウラジミルにとっては帽子と木の問題である。ここではまた、自殺と「二人の盗賊」のモティーフが導入される。

 A-1は、小さな丘と木のある舞台で幕をあける。この最小限の風景はすぐに、一部の批評家によってvoid(空虚)と述べられた、虚無や、無のテーマを引き起こす。この劇の舞台を特定することは難しく、舞台はどことも取れるし、また時代についても限定することは出来ない。(ある批評家は、この舞台はダブリンの、グレンクリーという山の頂上で起こっているのだ、と言っているが、どこにもそのような証拠はない。)

 エストラゴンとウラジミルは浮浪者である。彼らは、パリで "clochard" (放浪者)と呼ばれていた、すばらしい過去を持ち教養もある人々の範疇に属しているのかもしれない。ウラジミルが「おまえは、詩人になればよかった」と言うとき、エストラゴンは「詩人だったさ」と言う。ある批評家とのインタヴューの中で、ベケットは、時々、エストラゴンとウラジミルは、まるで博士号を持っているかのような話し方をする、と指摘され、「どこにも持っていないとは書いてありませんよ」と答えた。明らかに住むべき家を持っていない彼らは、アイルランドにおける、アイルランド人でもなければ英国人でもなく、アイルランドの政治的環境における二つの文化の狭間に捕らえられている、アングロ・アイリッシュ系の中産階級を表しているのかもしれない。

 エストラゴンは、靴を脱ごうとして長い時間を費やす。ト書きには「彼はあきらめ、疲労し、休憩し、再び試みる。前と同じように。」と書かれている。この間、何の会話もなく、何も起こらない。こうしたことがこの劇全体を通して生じる。しばしば、ト書きに「沈黙」「間」と書かれ、待つことと無の重要なテーマを印づけている。

 「もし彼らが私の言うとおりに上演したら、劇場は空っぽになってしまうだろう」と、ベケットはかつて言った。彼は観客に、登場人物とともに待つことの苦悩を味わってもらいたかったのである。そうしたことがこの演劇の重要な点なのである。この演劇は経験されるための出来事である;誰もが待ち、何も起こらない。ベケットがフランス語でこの劇を書いたとき、タイトルはEn attendant Godotだった。これは文字通り「待っている間に」と言う意味である。

 しばらく経った後、エストラゴンは「どうにもならん」と言う言葉を発する。この台詞が、劇を読み解く上でのカギとなる言葉だ。これは、何も起こらないし、何も起こり得ない世界なのである。

 ウラジミルとエストラゴンは、相手に話し掛ける前に独り言を言う。しばらくの間、彼らは分かたれた個人であり、それがやがて二人組みの片割れを形成するに至るというわけだ。彼らの機能の一つは相手の存在を立証することである。「やあ、おまえ、まだいるな、そこに」ウラジミルが言う。するとエストラゴンが「そうかな?」と、疑問に思って聞き返すのである。

 エストラゴンは、丘の上に座っているが、「彼は石に属している」とベケットは語っている。「ウラジミルは軽く、空に向いている。彼は木に属する」ということだ。石と木というのは、ペアのそれぞれに対する視覚的象徴である。

 このことは、身体と精神の分離、地上と空の分離を、哲学的に結び付けているように見える。この最初のセクションにおいて、エストラゴンは身体的なものに立脚し、どちらかといえば即物的な思考をする。彼は座る必要がある;靴と足に支障がある。ウラジミルはより機動力があるようで、より哲学的であるように見える。彼は立っていなければならず、帽子にこだわる。ウラジミルの聖書の記憶は文字の記憶であり、エストラゴンのそれは視覚的イメージである。

 エストラゴンとウラジミルの関係は、最初のこの場面からはっきりと輪郭が捉えられている。彼らは互いに異なっているとは言っても、お互いを理解し、お互いに依存しているように見える。彼らはお互いの苦痛は感知しないけれども、その結果についてはその限りではない。彼らのこっけいな態度は、ハリウッドの喜劇俳優Stan LaurelとOliver Hardyのそれに比較されてきた。ベケットは彼らのファンであり、彼らの映画から、帽子や靴についてのモティーフを得ることは容易だったろう。

 二人とも、言葉遊びで楽しむ。彼らはお互いを歓迎し、思い出を語り、冗談を言い、文句をいい、お互いに質問をし、物語を語り、お互いをしかりつける。彼らの会話はひとつの遊戯である。一度は、ウラジミルは考えるのをやめて、「さあ、ゴゴ、ボールに戻ろう」という…あたかも彼とエストラゴンが、ベケットが若いころ好きだったテニスコートでラリーしているかのように。

 ウラジーミルが、四人の福音史家と、二人の泥棒に対して覚えている話もまた、不安定なものというテーマに関わっている。もし、四人とも現場にいて、このキリストの生涯という神話の中で、四人の福音史家のうちの一人しか、キリストが、彼と一緒に磔にされた罪人を救ったことを覚えていないとしたら、その話に真実はあるのだろうか?どうやって、信ずるべきものを見出したら良いのか?

 「救世主と同時に磔にされた二人の泥棒」に関する言及は、この劇の中における宗教の重要性に関する、白熱した議論を生んでいる。ウラジミルによって語りなおされている福音書の物語は、その正確な典拠は明らかでないけれども、聖アウグスティヌスの著作に関わりがある。ベケットはその部分を、「絶望するなかれ;泥棒の一人は救われた。慢心するなかれ、泥棒の一人は地獄に落ちた。」と引用している。彼は、この二人の泥棒のテーマを、この劇全体を通して使用している。

 「私はキリスト教の神話を知っている、それは子供のころ聖書を読まざるを得なかったからで、また、それに影響を受けたほかの人の作品も、それをモティーフとして使っている人の作品も読んだ。すべての文学的な仕掛けと同様、それが合うところでは使っている。だが、それによって深く影響を受けたということは、…それは全くのナンセンスだ。」

 彼はまた、「母も兄弟達も、死に望んで宗教から何の価値も見出さなかった。危機において、それは古くなった制服のネクタイ同様役に立たない」と述べている。明らかに、『ゴドー』は宗教劇ではない。言及はあっても文学的なもので、宗教的なものではないのだ。

ホームページ作者Godotのコメント

作者に気をとられすぎているような気がします。作品について考えるときには作者は無視しなくてはだめだ、と思うのですが…別に作者がどう言おうと、それは解釈に関わるものではないし、もともと作品とは書かれた瞬間に作者の手を離れるものだと思うのです。作者は言いたいことをすべて作品の形で出すから、自注自解のようなものにこだわるとあまり良い結果が出ないように思うのですが…私はベケット崇拝者ではないので、彼のコメントには一切関わらないで行きたいです。ベケットを権威者のように考えるのはなるべく避けたいのです。そう言うこともあって、最後の「ゴドーは宗教劇ならず」という意見には首肯しかねます。

そうしたことを別にすれば、非常にわかりやすい解説で、(ベケットの参考書は難解なものが多い!)勉強になりました。ここで述べられているのは、主として「ゴドー」の舞台設定について、(その空虚性…確かに寒い舞台です)「待つ」ことについて(こんな劇を最初に見た人はキレたでしょうね。実際、ごく少数の、熱心な観客以外は席を立ったといいます。)登場人物の性質について(その対照性…以前から、この二人は、太ったエストラゴンとやせたウラジーミルという配役でキャスティングされたらしい。確かに、こういう言い方は単純過ぎると思うが、体育会系エストラゴンと文化会系ウラジーミルのコントラストは多くの批評家に指摘されるところではある。身体と精神のくだりはちょっと理解しかねました。)最後に、宗教性、というものだったと思います。彼らの会話について、言葉については、この後のほうでまた述べられることになります。第一回、セクションA-1はこれで終了です。次回はセクションA-2です。乞うご期待。

セクションA-2(ポッツォとラッキーの入場まで)

要約

エストラゴンは立ちあがる。彼は苦しんでいる。彼はびっこを引きながらあたりをうろつき、立ち去ろうとする。ウラジミルは彼に、留まってゴドーを待つことを思い出させる。エストラゴンは、正しい場所で、正しい日に待っているのかどうか心配する。ウラジミルは場所を調べ、木を明確な道しるべとして指摘するが、日にちについては混乱してしまう。エストラゴンは寝転がってうとうとする。ウラジミルは歩き回り、それから彼を起こす。「寂しいよ」と、ウラジミルは言う。エストラゴンは彼に夢を語って聞かせようとするが、ウラジミルはやめさせる。彼らは言い争った後抱擁する。自殺が、二人の頭に浮かぶ。彼らは、木を利用して首をつることの可能性について話し合う。「ぴんと立つにゃいいかもしれん」ウラジミルは言う。「すぐに首をつろう」と、エストラゴンは結論付ける。しかし、その方法が問題となる。木は、ウラジミルの重みを支えきれなくて、その場合彼は一人で残されるかもしれない。また、ゴドーが来て、望んでいたもの、求めていたものを与えてくれるかもしれないという可能性が残っている。そこで彼らは再び待つことにする。エストラゴンが空腹になったとき、ウラジミルはにんじんを取り出す。これがきっかけで食べ物について話し合い、ゴドーについて話し合う。エストラゴンは、彼らがゴドーに縛られているのかどうか、知りたがる。「縛られているって?」ウラジミルは尋ねる。「縛られていることをさ」エストラゴンは繰り返す。「でも、誰に?誰のために?」ウラジミルは尋ね、「おまえの言っているその人に」エストラゴンは答えている。この時点ですでに、エストラゴンはゴドーの名前を忘れてしまっている。この議論はこうして終わる。エストラゴンは再び「どうにもならん」を繰り返し、ウラジミルににんじんの残りを与える。このとき、彼らは近くに恐ろしい叫び声を聞き、パニックに陥り、恐怖に駆られて待つ。

分析

このセクションでは、待つことはより積極的な形をとっている。エストラゴンとウラジミルはあたりをうろつく。彼らは周囲の環境を調べる。彼らは食べ、歩き、木で首をつって自殺することを考える。このセクションは、ゴドーとして知られる登場人物がはじめて登場する。彼はこの時点では「人」である。彼は、二人に、木のそばで待っているように言ったのだ。彼は家族、代理人、銀行の口座を持っている。この劇の後のほうで、ゴドーは「概念」になる。彼は目に見えず、知られ得ない存在としてありつづける。何年も、学者達はゴドーという名前の重要性を議論しつづけていた。この問題についても、ベケット自身は説明する助けにはならない。「もし知っていたら、私は劇の中でそう言っていただろう」と述べている。英語圏の観客はすぐに、それを、神(ゴッド)と結びつけるであろうが、この考えは、この劇がもともとはフランス語で書かれたという事実によってすぐに消されてしまう。しかし、ベケットは、どの言語で上演されるにしても、必ずこの名前を、第一音節にアクセントを置いて発音するように主張しており、このこともまた議論を呼んでいる。何らかの理由によって、ベケットは、ゴドーの名前の性質についての、批評家のさまざまな説が出されることを好意的に受け止めている。1972年に、彼は「どんな(ゴドーに関する)物語でもいいから、私はそう言うものがほしい」といい、さらに、「多ければ多いほど良い」ということを述べたために、さまざまな時点において、さまざまな批評家によって、ゴドーは幸福、永遠の生命、愛、死、沈黙、希望、ド・ゴール、ポッツォ、バルザックの小説の登場人物、自転車レースの選手、未来、コールガールのためのパリの通りの名前、神の愛称(God+ot、otはフランス語の接尾辞で、愛称を作るときに用いられる)等、さまざまになぞらえられてきた。このセクションは、エストラゴンが立ちあがって、びっこを引きながら歩き出すところで始まる。そして、「どうにもならん」と彼が言って終わる。この発言は劇の中で何度も繰り返されるが、ここは四度目にあたる。エストラゴンの靴、ウラジミルの帽子、彼の身体的疾患、彼らの個人的特徴に関してはどうしようもないのだ。ここまでの部分を読めば、言語の繰り返しが、この劇の中のひとつのパターンであることに気づくだろう。ベケット研究家のルビー・コーンは、自ら、「ゴドー」の中で用いられる繰り返しについての術語を作った。それによると、

simple doublet: 言葉、もしくはフレーズが、言われた後またすぐに言われること。A-1では、ウラジミルは「慄然として」と言った後すぐ、「りーつーぜーんとしてだ」という。

interrupted doublet: あるフレーズを繰り返している語り手を、別の語り手がさえぎること。A-1で、次のような会話がそれに該当する。

ウラジミル:馬鹿な!死からだ。

エストラゴン:地獄からと言ったと思うが。

ウラジミル:死からだ、死からだ。

distanced doublet: 繰り返しの間があきすぎて、にわかに認識できないほどになっているもの。

echo doublet: フレーズが異なった登場人物によって繰り返される。A-1の例は、

エストラゴン:溝の中でだ。

ウラジミル:溝の中でだって!

triplet: 言葉やフレーズが三回繰り返されるもの。A-1の例は

ウラジミル:痛いか?

エストラゴン:痛い?こいつ、今更痛いかと来た。

multiplets: 言葉が何度も繰り返される。

a pounder: multipletsが一人の登場人物によって語られるもの

a volley: multipletsが、一人ないし、それ以上によって繰り返されるもの

the refrain: 意味のある言葉がこの劇ではしばしば繰り返されるため、観客はその繰り返しに気づくことが出来る。「どうにもならん」などがあげられる。

repeated negatives: nothing, not, I don't know等の言葉。フランス語のne(英語のnotにあたる)が、この劇で513回使われている。

ベケットは、このセクションの最後の会話を巧みに操作して、ポッツォとラッキーの到着を暗示している。

エストラゴン:縛られてはいないのか?

ウラジミル:聞こえなかった。

エストラゴン:縛られていないのか、と聞いているんだ。

ウラジミル:縛られている?

エストラゴン:縛られている。

ウラジミル:どう言うことだ、縛られていると言うのは?

エストラゴン:縛り付けられていると言うことさ。

ウラジミル:でも、誰に?誰のために?

エストラゴン:おまえの言う、あの人に。

ウラジミル:ゴドーに?ゴドーに縛り付けられているって!なんと言う考えだ!

この、エストラゴンの「考え」は、二人の登場人物が劇全体を通して感じている緊張感を作り出している。希望もなく目標を失って、彼らは絶えず続く、未知なるものと隣り合わせになっており、その未知なるものが作り出す、あいまいな、いろいろな音は、彼らに希望や恐怖を与える。このセクションは、パニックに陥り、脅威に恐怖している二人とともに終わる。創始ながらも、彼らは待ちつづける。

セクションA-2はこれで終了です。第三回をお楽しみに。

セクションA-3

要約

ラッキーが、首の周りにロープを巻きつけて登場する。彼は、重い袋、たたみ床几、ピクニックのバスケットと大きな外套を持っている。彼の後ろで、長いロープの端を引っ張っているのはポッツォである。彼は鞭を鳴らし、命令を叫ぶ。はじめ、エストラゴンは、彼がゴドーではないかと考える。しかし、恐ろしい声で、ポッツォは自己紹介をする。彼は、エストラゴンとウラジミルが彼のことを知らないのに驚く。彼は眼鏡をかけて、彼らが人間であるか確かめようとする。ポッツォはゴドーについて尋ねる。ここはポッツォの土地なのだ、たとえ「道路は皆のものだ」と彼自身が認めているとはいっても。彼は、なぜエストラゴンとウラジミルがそこにいるのか知りたいと思う。ほとんどすぐに、彼は興味を失う。彼は自分の仕事がある。ラッキーを「豚」と呼びつつ、彼はラッキーに、外套を着せ、鞭を持ち、自分が食べることが出来るように床几を立てることを命ずる。ラッキーは言われた通りにし、もといた場所から前や後ろに動く。次の命令が下される間、彼は残っている荷物を持ち、じっと立っている。ポッツォ座る。

分析

このセクションは、二つ目のカップルである、ポッツォとラッキーを導入する。彼らは、ヘーゲルの「精神現象学」に書かれている、原型的な主従関係のカリカチュアである。この劇で登場する二番目のペアであり、ディディとゴゴの関係に対照的なものがある。それぞれのペアは、もう一方のペアのためにより意味のあるものになる。ポッツォとラッキーがこのセクションのはじめで入場するとき、彼らは文字通り、ロープでお互いに縛られている。ポッツォが自分の名前を、第一音節にアクセントを置いて発音しているため、エストラゴンが彼をゴドーだと間違えたのはごく自然のことである。ウラジミルとエストラゴンは、彼はゴドーではないという結論に至る前に、少しの間彼の名前をもてあそぶ。

ベケットが、登場人物の名前を注意深く選んだであろうということは確かである。エストラゴンとウラジミルは、どちらも八文字であり、三音節からなっている。また、彼らの名前はヨーロッパの横断面をコノート(暗示)している。エストラゴンはフランスの名前、ウラジミルはロシアの名前、ポッツォはイタリアの名前、ラッキーは英語の名前である。

この演劇において、すべての単語は注意深く選ばれている。ベケットは、翻訳においていかなる時でもその言語的な正確さを見せている。言語は故意に繰り返される;この劇においては、たったひとつの言葉も、無駄に使われたり、重要ではないアリュージョン(他の作品への明確ではない言及)が見られたりすることはない。

これらの登場人物の心理学的な重要さもまた、議論に上っている。この四人の人物が、現代人の四つの要素を表しているという批評家もいる。彼らがひとつところに留まっているかかわらず、彼ら全てを理解することは出来ない。ポッツォは、気取っていて暴君的な地主であるが、彼には他のものをコントロールする必要性がある。彼の奴隷であり犠牲者でもあるラッキーは守られる必要がある。ウラジミルは、ある意味で自分のことを気づいているとはいっても自分では何も出来ず、一方でエストラゴンは時々無意識の領域に言及する。

暗黙の了解で、ポッツォとラッキーはサド・マゾ的な関係に至っていると思われる。ウラジミルとエストラゴンは、不幸せなカップルの愛憎関係を象徴的に示している。もっとも、これはベケット自身の解釈ではない。彼はフロイトやユングの著作に精通していたけれども、めったにこの種の、精神分析家が好んで良く使う分析用語を用いたことはなかった。上演の際、俳優たちが彼に説明を求めると、彼は彼らに、説明の変わりに、物理的で視覚的なイメージを与えた。(エストラゴン=丘、ウラジミル=木、ポッツォ=鞭、ラッキー=首)。しかし、彼はかつて、ポッツォは過補償(心理分析用語のひとつ。防衛のひとつの補償が過度に行われることか。訳者は精神分析に詳しくないので良くわからない。知っている人がいたら教えてください。)が必要な、弱い登場人物だ、といったことがある。

この、カップルの考えの原型は、ベケットの小説Le Voyage de Mercier et Camierに見ることが出来る。この作品は長い間未発表だった。Mercierは心を意味しているのかもしれないし、Camierは身体を意味している、と解釈することも出来る。ディディとゴゴの類似性は明らかだ。第一幕におけるディディは精神として語り、ゴゴは身体として語る。ディディは精神的な救いに関して考え、一方ゴゴはその間食べたり、眠ったり、殴られることを恐れたりする。この二十性(ベケットはこのことをpseudocouple: pseudoは『偽の、擬似的な』という意味。擬似的二人組み と呼んだ)は、演劇の伝統における、かつての主人公とその敵対者という枠組みにとって代わったと言われた。

第三回はこれでお終いです。第四回をお楽しみに。

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