『ゴドーを待ちながら』の読み方 第四回〜第六回

セクションA‐4

要約

ラッキーは元の場所に戻る。ポッツォはバスケットを開け、チキンとワインを取り出し、食べ始める。ウラジミルとエストラゴンはラッキーを注意深く見る。彼らはラッキーの顔を調べ、首の擦り傷に注目する。彼らは、ラッキーが精神薄弱か、白痴であるかと、語り合う。エストラゴンは、ポッツォが地面に投げたチキンの骨を欲しがる。彼は、それを食べて良いかどうかラッキーに聞いてみるようにいわれる。ラッキーが彼を無視したとき、ポッツォは彼に、それらを食べても良いという。ポッツォがパイプを吸っているとき、ウラジミルとエストラゴンはラッキーに対する仕打ちの非道さについて批判する。彼らは立ち去ることにする。しかし、ポッツォは彼らに、ゴドーとの約束を思い出させる。彼は彼らに行って欲しくないのだ。彼は二本目のパイプを吸う間、話し相手が欲しいのである。エストラゴンとウラジミルは、なぜラッキーが荷物を下ろさないのかと不審に思う。彼らはポッツォにこのことを聞くが、ポッツォのほうは自分自身のことを話すのに忙しい。彼らは再び尋ねる。今回は、ポッツォは自分の話に注意を呼びかける。(『みんな聞いておるかね?みんな準備はいいかね?』)彼は、ラッキーのロープを引っ張って注意を喚起しようとさえする。しかし、答える準備が出来たとき、彼は質問が何であったか忘れてしまっている。質問が繰り返されると、ポッツォは長い説明に入る。彼は、自分が今、ラッキーを市に売りに行く途中であるという。ラッキーは売られたくないため、ポッツォに自らの行動でもって印象を与えようとしているのである、というのだ。この時点で、ラッキーは泣き出す。ポッツォはエストラゴンにハンカチを渡し、彼の涙を拭いてやるようにいう。エストラゴンがそうしようとすると、ラッキーは彼の向うずねを蹴って、血を流させる。ウラジミルは、ポッツォの無感覚さに対して恐怖を感じる。痛みが引くと同時に、エストラゴンはウラジミルといっしょになってポッツォを非難する。彼らは、ポッツォがすすり泣いてあきらめるところまで非難する。『あれは昔はとても親切だった・・・とても助けてくれ、喜ばせてくれた・・・私の良い天使だった・・・だが今は・・・私を殺そうとする』しかし、ポッツォは、ほとんどすぐに、自分の弱さを見せた瞬間を忘れてしまう。彼はパイプを探し始め、それを見てエストラゴンは喜ぶ。ウラジミルは小用のために舞台の外に走っていかなければならなくなる。彼が帰ってくると、三人は空を見上げて、ゴドーとの約束について語り、彼らの所属についてさまざまな検討をし、お互いにくつろいでいる。ポッツォは彼の性格についての確認を求める。そして、それが得られると、ポッツォは自分には勇気が必要で、記憶力が弱っていることを認める。

分析

A-4は、ポッツォがウラジミルとエストラゴンに良い印象を与えようとして話す、その言葉の内容に焦点が当てられている。一時的に、ディディとゴゴはまっている時間を楽しく過ごしている。ポッツォとラッキーはいわゆる{劇中劇}となっている。彼らはエストラゴンとウラジミルに気晴らしを与え、二人は観客に、自分たちがひとつの見世物を見ていることに気がついていることを知らせる。

ウラジミル:いい晩だな。

エストラゴン:忘れがたい。

ウラジミル:まだ終わっていない。

エストラゴン:どうやらそのようだ。

ウラジミル:始まったばかりだ。

エストラゴン:ひどいもんだ。

ウラジミル:パントマイムよりひどい。

エストラゴン:サーカスだ。

ウラジミル:ミュージック・ホールだ。

エストラゴン:サーカスだ。

ウラジミルが舞台の袖に走っていくとき、エストラゴンは彼の後ろから呼びかける。「廊下の突き当りを左だ」そして彼は「席を取っておいてくれよ」という。このやり取りの中で、ベケットは一時的に、「第四の壁」(観客と舞台上の俳優を隔てている目に見えない壁に対して与えられる術語)を壊している。エストラゴンとウラジミルは今や観客となったのである。「なぜ荷物を置かないんだ?」エストラゴンはラッキーについてこのような発言をする。この台詞は、劇が進展していくにつれて繰り返され、ひとつのリフレインとなる。このセクションにおいて、ラッキーは決して荷物を下ろそうとしない。彼の、ポッツォの荷物に対する繰り返し現れる行動は、彼の性格を規定している。命令されると、彼はたたみ床几、バスケット、コートなどを持ち上げたり別の場所に置いたりする。ラッキーの身体的な側面を詳しく調べることによって奴隷的な生活によって作り出されたひずみが明らかになる。ポッツォはラッキーにとってのゴドーかもしれないが、結果的に弱らされた醜い人間の見本になっている。エストラゴンはラッキーに、初めに"Mister"と呼びかけ、再び"Mister"と呼びかけて近づいていく。こうしたDouble Mister (Misterを繰り返し言うこと)は、ダブリンの大通りでの情景をそのまま描いたものだ。ベケットはアイルランドの話し言葉を、ちょうどジョイスが『ユリシーズ』の中でそうしたように、劇で使用している。最終的に、ウラジミルは自らの人間的感情を『ひどいもんだ!人間を・・・あんな風に扱うなんて・・・まったく・・・いや・・・人間を・・・まったくひどい!』ということで表している。エストラゴンは、食べることに気を取られつつも、『人権蹂躙だ!』ということで彼に意見を一致させている。しかしながら、二人は、ラッキーがエストラゴンのすねを蹴ったとき、自らの身体的な事柄に再び注意を向ける。ラッキー・ポッツォのカップルと、ウラジミル・エストラゴンのカップルの間には非常に大きな違いがある。前者は目的を持ち、目的に向かって行動している。彼らには目標があり計画がある。過去があり未来がある。後者は計画も目的も目標もない。彼らはゴドーを待つことも出来るし、待たないことも出来る。しかし、待つことに唯一変わりうるものは死であるようだ。ポッツォは、エストラゴンとウラジミルに、自らの持ち物について印象付けようとする。彼は、大変な手間をかけて、食べ物とワインの入ったバスケット、のどをきれいにするための吸入器、時計、パイプを扱う。『私のパイプをなくした!』と、彼は、ダブリンの最も良いパイプの店のひとつで買ったブライアーに言及して叫ぶ。彼はそれから、彼らに、詩的な言葉で印象付けようとし、夜に関する独白をする。『それにはなんと言うただならぬものがあることか。なんと言う空だ。1日のこの時間のどんなほかの空にも似て、青く光り輝いている』という独白である。この独白の最後に、彼は『どうだった?』とたずねる。エストラゴンの答えは、(英語の発音のフランス語で)『オオ、トテモオ、ヨイ、トテモオ、トテモオウ』である。この言い回しもまた、ダブリンの大通りの会話から取られたものだ。ダブリンでは、良く知られたフランス語の言いまわしを誇張するところにユーモアを見出すのである。ポッツォの、この種の保証に対する必要性によって、彼は自分の性格の弱点を認めざるを得なくなる。彼はそれを『どうも記憶が少し弱いようだ』という言葉で説明している。

第四回はこれで終了です。第五回をお楽しみに。

***お知らせ***

Maxnotesの訳の終了後の予定が決まりました。現在のところ、英国Longman社のYork Notes on "Waiting for Godot"の訳をアップしていくつもりです。(企画は諸事情により予告なく変更する場合があります)先日Amazon.co.uk.から届いて、ちょっと目を通しましたが、Maxnotesよりも若干レヴェルが高めのガイドになっているようです。出来るだけ早くMaxnotesを訳出して、York Notesに取り掛かれるよう鋭意努力いたします。来年度(四月から)は、もうこうしたNotesやReaders Guideなどの領域を脱却して本物の(偽物があるのか?)批評書の訳を行っていきたいです。Waiting for Godotに関する良い批評書をご存知の方は是非Godotまでお知らせください。

セクションA-5

要約

ポッツォは、エストラゴンとウラジミルに、彼に対して礼儀正しかったことに対してお返しをしたいという。エストラゴンが金を提案するが、ポッツォは娯楽を提供する。彼は、ラッキーに、踊らせ、歌を歌わせ、物語を語らせ、考えさせることを提案する。エストラゴンが、ラッキーが最初に踊り、それから考えることを提案する。命令に従って、ラッキーは荷物を置き、同じステップを二回踊る。この試みが落胆させるようなものであったにもかかわらず、ウラジミルはラッキーが考えるのを聞きたがる。ポッツォはウラジミルに、彼に行動を起こさせるため、ラッキーの頭に帽子をもどすように言う。このことがなされると、ポッツォは『考えろ、豚!』と命令する。ラッキーはそうする。彼はさまざまな言葉を長々と連ねる。最終的に、ウラジミルは彼の帽子を奪う。ラッキーは倒れ、最後には沈黙に陥る。ポッツォは起こって帽子を取り、それを踏みつけ、『これでやつの考えも終わりだ』と宣言する。ラッキーがいまや死んでしまったのではないかと心配して、ウラジミルとエストラゴンは彼を持ち上げて立たせようとする。彼らはすぐにこの仕事に嫌気が差し、彼を転ばせる。ポッツォの主張で、彼らは最終的に、彼を一人で立たせ、荷物を持たせる。ポッツォは時計を探すが、見つからず、きっと家においてきたのであろうと思い、立ち去ろうとする。これは容易なことではない。『どうも、私は立ち去ることが出来ないようだ』彼は言う。『人生とはそう言うものですよ』エストラゴンは同意する。しかし、まもなく、ポッツォとラッキーは退場する。

分析

このセクションはラッキーに焦点が当てられている。彼はポッツォによって、どんな種類の芸当でも出来る人物として紹介される。サーカスの動物のように、彼は恐らく、命令によって踊ったり、歌ったり、暗証したり、考えたりする能力を持っていると思われる。しかし、彼のダンスはがっかりさせるようなもので、彼の思考は圧倒的である。ダンスの名前を当てることは、エストラゴンとウラジミルにとって、ゲームのようなものになる。実際、そのダンスに名前をつけることはベケットにとって一種のゲームであった。ベケットはそれに『アヒルの死』…アヒルはジョークや、悪意のあるうそを意味する…『点灯夫の死』、これはフランスの鉄道の駅で最も低い階級の労働者であり、彼にとっては死が慰めなのである…などの名前をつけようとして、いろいろ考えていた。エストラゴンは、『生贄の山羊の苦しみ』という名前を提案するが、それもまた、苦しみからの安らぎを暗示している。ウラジミルは『頑丈な椅子』という名前を提案する、これは陰謀に関わりを持つ。しかし、それを『網の踊り』と呼ぶことは、それに、果てしのないもつれという次元を加えることになる。ラッキーのスピーチが、この悲哀に満ちた踊りに続く。その言い回しと哲学という点で、それは人間の苦しみと衰退を表している。それは恐らく死のふちにある人々の心を表した長い演説の一種であろう。恐らく、それは、死に行く人々が言うことであるかもしれない。ラッキーの言葉と行動を通して、人間の形態に崩壊が現れる。一部の批評家は、この演説をわけのわからないおしゃべり、精神分裂病患者の言葉のサラダ(分裂症患者などに時にみられる極端に一貫性を欠くことば)であるとして無視しているけれども、スピーチ事態は慎重に組み立てられ、三つの部分からなる演説となっている。最初の部分はいまや感じず、感動もせず、語らない、崩れていく個人的な神、というテーマを描いている。(神的無関心神的無恐怖神的失語症、という台詞を参照) 第二部は"considering what is more"から始まり、縮小していき衰えて行く人間が描かれる。三番目は石化した地球に焦点が当てられ、considering what is more, much more graveで始まる。ラッキーのスピーチ、もしくは長広舌といったほうが良いのかもしれないが、これは、ルビー・コーンによって定義されている一種の言葉の繰り返しによって満たされている。(第二回を参照してください)例えば、Simple doubletsは、for reasons unknown but time will tell (日本語訳では『やがてわかるであろうがなぜかわからぬ』となっていました。)の繰り返し、winter winterなどに見られる。multipletsは、in spite of the tennis, I resume, alasなどに見ることが出来る。ラッキーが用いる言葉の一部は単なる効果をあげるために使われているものであり、混乱と恐怖の雰囲気を出すために用いられている。同時に、一部はベケット自身の嘲笑的なユーモア、言葉遊び、哲学、環境芸術に言及している。『そくそく測定学のアカカカカデミー』は、学究的な世界をからかっている。Fartovはfart(おならをする)を意味し、Belcherはbelch(げっぷをする)を暗示する。Camogieというのはアイルランドのゲームである。クロイエンの大司教のバークリーは、存在は知覚に依存すると信じていた哲学者であり、教育家である。Connemaraは、山、湖、大西洋の海岸などの彩り豊かな風景で有名なアイルランド西部の州ゴールウェイの西部地方のことである。スピーチの終わりに近くなると、単なる繰り返しと孤立した言葉に堕してしまう…『テニス…石…静かな…終わりのない…』そして、ラッキーは力づくで黙らせられてしまうのである。この独白は、二人の浮浪者、ラッキー、彼の主人と全ての人々の立場を集約的に表している。全ての人々は年をとり、地球上で死ぬように運命付けられているのだ。このメッセージを伝えた後、ラッキーは倒れる。彼はポッツォに蹴られ、ウラジミルとエストラゴンによって起こされる。彼は最終的に、従順な奴隷としての位置を回復する。彼はふらふら歩いているけれども、助けを得て、自分の足で立ち、荷物とバスケットを持っているのだ。このセクションにおいて、言葉は、adieu, yes, no, onという言葉の繰り返しと共に、ルビー・コーンの言うvolleyの性質を帯びている。そして、ポッツォの『前進!』という言葉と共に終わる。

セクションA-6

要約

エストラゴンは立ち去ろうとする。ウラジミルは、彼らがゴドーを待たなければ行けないことを思い出させる。少年が、ゴドーからのメッセージを持ってやってくる。彼が先を続けようとする前に、エストラゴンは彼をつかんで揺さぶる。ウラジミルが間に入って抑える。エストラゴンは、自分が不幸せであると認めるものの、どうしてなのかは思い出さない。彼は丘の周りを何とかびっこを引いて歩き回り、座って、靴を脱ぐ。最後に、少年が唐突に、メッセージを伝える。『ゴドーは今夜はこられないが、明日には必ずくる』と言うのである。ウラジミルは、少年に、彼の職業、兄弟、ゴドーとの関係について尋ねる。少年は彼に、彼がゴドーの山羊を世話しており、彼の兄は羊の面倒を見ている、という。ゴドーは彼に良くしてくれるが、彼の兄はゴドーに殴られている。少年は、ゴドーになんといって伝えたらいいのかたずねる。『私たちに会ったと伝えてくれ』と、ウラジミルは答える。少年は走り去る。夜である。月が出る。エストラゴンは地面に靴を脱ぎ捨てる。誰か、彼よりも足の小さな人のためである。彼はキリストのように裸足で行くことを望む。ウラジミルはエストラゴンに『明日は今日よりも良くなるだろう』という。ゴドーは来るだろう。エストラゴンは首をつるためのロープを持ってくることを望む。彼は以前の自殺の試みをまだ覚えているのである。彼らは別れることの可能性について考えるが、結局いっしょに留まる。彼らは立ち去ることで意見が一致するが、動こうとしない。

分析

このセクションは少年とのやり取り、夜の到来が述べられる。それは、ウラジミルが『時間が過ぎた』と発言した後の長い沈黙で始まる。三つのテーマが再びこの劇にもたらされる。沈黙と静止のテーマ、『何をすべきか』というテーマ、『ゴドーを待っている』というテーマである。これらは、リフレインやライトモティーフであるのと同様、この劇のテーマでもある。ある批評家は、この劇の全体のプロットが、『ゴドーを待つ』という言葉に集約されうると結論したほどである。ウラジミルがエストラゴンに、今しがた起こったこと、以前に起こったように思われる事柄を思い出させている短いやり取りの後、少年が登場する。この少年はゴドーの使者であり、二人兄弟のうちの一人として登場する。彼でさえも、カップルの片割れなのだ。彼は、彼らが以前に聞いたことのある同じ単調なメッセージを持ってくる。少年が立ち去ると月が出る。昇ってくる月は満月で、1日に終わりをもたらす。1日が終わろうとしている。完成のテーマがここにある。ゴドーはまだ着ていない。ここに未完成のテーマが見出せる。ウラジミルは言う「ついに」と。まるで安心したかのように。エストラゴンは詩的な表現を試み、靴を脱ぐときに、彼と、苦しんでいる、裸足のキリストとを比較する。

第六回はこれにて終了。第一幕はこれで終わりです。次回からは第二幕、ご期待ください。

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