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ご挨拶

このページは、「ゴドーを待ちながら」を読んで行く上で知っておいたほうがよい(私を含めて)と思われる基本的な事柄をまとめたものです。より詳しい解釈はLecturesでサミュエル教授(架空の人物)の講義をお読みになるかご自分でもっと良いサイトor研究書を見つけてお読みください。参考文献: York Notes on Waiting for Godot (Longman)

*ベケットの文学的背景〜モダニズムとポストモダニズム〜

ベケットの若いころの文学事情を仮に「モダニズム」とするなら、彼の作品はその後の「ポストモダニズム」ということになる。ポストモダニズムは1930年から現在まで続いており、モダニズムを極限まで単純な形式、単純な概念に圧縮することで、モダニズムの前提を変革しようとするのが常である。モダニズムのことを議論しようとすると、嫌が上にもジョイスとプルーストについて言及しなくてはなるまい。二人ともこの時期の巨人であり、ベケットにも大きな影響を与えたといって良い。ジョイスのもっとも有名な作品は1922年の「ユリシーズ」であり、これは特異な作品である。伝統的な小説というものは登場人物の全生涯を描いたりするものだが、ユリシーズは会合、会話、登場人物の思考や記憶、それもダブリンにおけるたった1日のうちのものを描き出す。ジョイスにとっては、二十四時間は一つの小説を書き上げるのに十分な時間だったわけで、この1日を埋め尽くす考えや出来事の複雑さをあらわすために、ジョイスは語りだけでなく、あらゆる言語を用いた。単純に言えば、ユリシーズという作品が、モダニズムの関心、例えば時間の複雑な性質、都市の広大さ、言葉の豊かさ、といったものを濃縮して表しているといえる。ベケットは、ジョイスの言葉の使用法に関して、「ジョイスは言葉を信じていた」と述べたことがある。ジョイスの考えとしては、「言葉を並べ替えるだけで、望んでいるものをあらわすことが出来る」というものだった。ジョイスのようなモダニストの作家たちは20世紀初頭のさまざまな様相をあらわそうとしてさまざまな種類の言葉を使った。ポストモダニストの作家、例えばベケットのような作家は、言葉を信じることが出来ず、せいぜい不確実なコミュニケーションに役に立つだけだ、と思っていたわけである。ベケットはかつて、現在の、今ここにある現実というものを描き出すことは不可能であるといったことがある。というのもそれは常に、非常に説明しがたく思われるからである。この、言語と存在に関する完全なペシミスティックな態度というのは、ラッキーのスピーチや、エストラゴンの最初の言明「どうしようもない」などに現れている。
ジョイスの「ユリシーズ」のように、プルーストの「失われた過去を求めて」も、社会の複雑さ、時間の複雑さ、言語の複雑さ、知覚の複雑さとかかわる小説である。ジョイスの「ユリシーズ」が、ダブリンにおけるさまざまな階層の人々のさまざまな生活の側面を描いたものだとすれば、プルーストの小説は、パリの中産階級、上流階級に得に注意を払い、Marcelという名前の若い作家の感情で、それを描こうとしている。プルーストもジョイスのように、彼の登場人物の感情を、言語を普通ではない方法で使うことで暴き出そうとしたのである。ジョイスが、さまざまな形式を混合させたとするなら、プルーストは大量の文で感情を表し、それは1ページにも登ることがあった。典型的なのは冒頭の六ページで、そこではMarcelが起床する際の感情、ほんの一瞬の感情を描くために使われている。
プルーストは人々と対象が見るたびごとに少しずつ異なって見えるということに気づいていたため、そのような詳細な描写を行ったのである。実際のところ、その「タイプ」に従って行動する伝統的な登場人物を描く変わりに、プルーストはMarcelにその都度異なった印象を与える複雑で錯綜した人格を与えたのである。
プルーストのように、ベケットは物事が見るたびに異なって見えることに惹かれていた。だが、ジョイスやプルーストの、基本的な、知覚や言語に関する不信は受け継ぎながら、それを多種の「言葉」で解決できるというジョイス、適切に現実の知覚の問題を解決する方法が見つかるというプルーストの考えは採らなかった。プルーストは、知覚の混乱の問題に対して二つの提案をしている。一つは習慣の問題であり、つまりは毎日行う物事から引き出される「確かさ」である。例えば、Marcelは家で眠ることに安心感を抱くが、それは彼の小さなベッドという彼にとっては見なれた現実において眠るからである、と書かれている。しかし、彼の習慣的な現実の確かさというのは、彼が休日に出かけ、見知らぬ部屋のみ知らぬベッドで眠るときに脅かされる。
「ゴドー」ではどうだろうか。エストラゴンとウラジミルは、ゴドーを待っている間に「確かなことは何もない」と嘆く。プルーストのMarcelのように、ベケットのウラジミルはこの不確かな世界において何らかの確かさを、習慣的行動が与えてくれると言明する。「習慣は偉大な弱音器だ」というわけだ。ベケットのプルースト研究は、時間というものが、昨日までそうであったものを別のものに変えてしまうために人間の習慣による信頼性を脅かす、というところに力点を置いている。同じように、ウラジミルとエストラゴンはその習慣による確かさというものが毎日毎日脅かされることに気づいており、第二幕のはじめに、ウラジミルは「昨日とは変わっている」と述べる。つまり、習慣はある程度「弱音器」として働くが、つねにそれが働かないことに脅かされる。
プルーストが述べている確実性の別の形態は、突如として想起される記憶として現れる。これは、習慣による確実性よりも強力なものとしてプルーストの中では現れる。日常的に、何か思い浮かんで、すぐ忘れてしまうことがある。それを、あるときふとしたことで思い出す。プルーストはこうした記憶を、時間を超えた現実の確かさ、確実さを与えてくれるものとして捉えているわけだ。過去と現在を結ぶ唯一の掛け橋というわけである。それとは異なり、ベケットはいかなる記憶も楽しんでいる様子はなく、それどころかむしろ、記憶を避けているようにさえ見えるのである。エストラゴンがウラジミルに夢のことを語ろうとするとウラジミルは断る。エストラゴンとウラジミルは、習慣を元にする確かさが完全には程遠いことに気づいているにもかかわらず、突然の記憶、悪夢も、彼らにとって深く考える対象とはならない。これは、彼らの世界の持っている現実性というものが、常に痛みと悲しみに帰結するために起こる。プルーストのマーセルとは異なり、彼らは生き生きとした記憶が喜びの元になるなどということはないのである。
ベケットと、プルースト、ジョイスの相違点について述べてきたけれども、この相違点というものはまさにモダニズムとポストモダニズムの相違点でもある。つまりモダニズムの楽天主義、ポストモダニズムの悲観主義とでも言えば良いだろうか。モダニズム、ポストモダニズムは、例えば言語の性質、時間の性質、知覚の性質、記憶の性質についての関心は同じであるけれども、その問題についての結論、あるいはそれらの問題の表現の仕方、そうしたものはかなり異なっているということだ。
「ゴドー」は、「どうにもならない」と言うことを示唆している。これは、ジョイスやプルーストがいわば楽観的に見ていた問題に対する悲観的見方だ。ジョイスとプルーストが、ダブリンやパリという都市の広大さを表現しようとしたのに対し、ベケットは「ゴドー」の舞台を、田舎道という最小限の設定に押し込めようとする。特定の社会的階級にスポットを当てるのではなく、ベケットの登場人物は何らクラスに属さない落ちこぼれであり、その単純さゆえに「人類の代表」たりうるわけだ。プルーストが行ったように、長年にわたっての事柄を描くのではなく、ベケットは出来事を二日間に限定する。この点において、モダニストのジョイスと類似しているということは出来る。だが、ジョイスがこの24時間を、複雑な感情、たくさんの登場人物の議論や会合で埋め尽くそうとしたのに対し、ベケットは単に、4人の登場人物の登場しか許さない。ジョイス、プルーストが「豊穣」の技巧で深い現実を捉えようとしたのに対し、ベケットは「枯淡」の技巧で捉えた、とも言える。それはやはり、ペシミズムとオプティミズムというところに行きつくに違いない。
ゴドーの単純性のため、ヴィヴィアン・メルシエはかつて、「何も起こらない、しかも二度」と評した。しかし、別の見方からすれば、ゴドーというのは「何かが二度起こる」劇なのだ。この行動、この「何か」が、二度起こっているというのは非常に重要だ。これに注目する必要はあるだろう。ベケットは、この作品を解くかぎがperhapsという言葉だ、と述べており、作者の言葉を鵜呑みにするのは危険ではあるけれども、これはおそらく、彼の、現実というものを最終的に解決の見出せないパラドキシカルな状況に濃縮するという技法を示すものだ。これの例はゴドーの到着だ。恐らく彼は来るかもしれないし、来ないかもしれない。この問題については何らの正確な解答も与えられていない。同じように、ポッツォは、快楽と痛みという問題に解決を見出さない。彼の言葉を借りれば、世界の涙の総量は不変であり、誰かが泣き出せば誰かが泣き止むということだが、そうしてみると世界が結局的に改善されているのかどうなのかわからないことになる。
ゴドーの二幕は、観客に同じようなパラドックスを与える。それぞれの幕で、ある登場人物は苦しみ、他の登場人物は苦しまない。第一幕では、少年は、ゴドーは彼を苛めないが兄を苛めるといっている。ポッツォは第一幕の圧制者から、第二幕のめくらへと変わっていく。どのような説明もこのパラドキシカルな状況に対してなされておらず、一般的に言って状況は決して改善されない。ゴドーが来ないからである。
この二幕は、ゴドーの完全な構造を示しているように見える、というのも、運命の曖昧な転変というものをバランスのとれた形で提示させることを可能にするからだ。それぞれの幕がお互いに呼応しており、結果的に、ある種の形式的なパターンをこの劇に当てはめることに成功している。言葉を変えて言えば、形式としては非常に厳然と定義づけられているのではあるが、その願意するところが定義されず、「恐らく」という言葉の限定つきでしか解釈できない状況になっているのである。
結論から言えば、「ゴドー」はモダニズムとポストモダニズムの両方を併せ持った作品であるといえよう。それは先ほども述べたように、全てのポストモダニズムに共通するものではあるが。ある程度までは、この劇はモダニズムの形式の拡張として捉えられる、というのもジョイスの言語観、プルーストの時間、知覚観と基本的なところで共通しているからだ。しかし、作品としては、ジョイスの言語に関する自身を打ち破り、プルーストの、非自発的な記憶…曖昧な知覚に対峙するために提示された確実性をもつ記憶の現前…といったものを否定しているからである。このペシミスティックな劇は特徴から言えば完全にポストモダンである。「ゴドー」は、その行動や場所、登場人物の簡潔性から言ってもポストモダンであるといえよう。同じことは、それが、意味を、解決できないパラドックスにまで貶める方法によっても言える。最後に、次の項が示すように、「ゴドー」は、「形式」と「形」に関する表現という点から見ても、典型的なポストモダンであるといえるだろう。

*「ゴドーを待ちながら」の構造

この演劇の構造というのはcyclicであるといえよう。第二幕が、第一幕の構造をほとんどそのまま繰り返しているからである。従って、「ゴドーを待ちながら」の二幕は終わりのない連続の一部分という解釈ができ、Ihab Hassanが指摘しているのは、「この演劇の構造は循環的なもので、その出来事は永遠に反復するものだ。その二幕のそれぞれはシンメトリックな構造になっており、どちらも不在のイメージである。ベケットが言っていたように、二幕あれば永遠にまで拡張できる連続性を演出するのに十分だ、というわけだ。
ベケット自らが演出した1975年の初演では、演劇の循環的な性質のみならず、喜劇的な掛け合いや、演劇の中に内在する言語のリズムの視覚的、聴覚的リズムにも注意が払われていた。言葉は沈黙によって蝕まれ、動きは静止によって阻まれていた。その際のベケットの助手であったWalter Asmusは、この演劇の中に「繰り返し、変奏、類似、パラレル、エコー、他のテクストへの言及」などが見られるとし、これらの要素は具体的には構造と形式というものの中で実現されると述べている。ベケットがいくつかの要素を繰り返すのは、その作品に明確な構造性を与えるためと、演劇における現実性の反復するという性質と単調さを強調するためであった。現実は必ずしもドラマティックなものではなく単調な行為の繰り返しであり、同じことが何度も何度も繰り返されるものだ。ベケット自身、理想的な演出について次のように述べている。「繰り返しを通しての形、テーマの繰り返し。単に台詞の中に現れるテーマではなく身体によってあらわされるテーマ。はじめに、エストラゴンが石に凭れて眠っているが、これも数回繰り返されるテーマである。重要なモティーフとしては、全てが静止してしまい、沈黙が全てを飲み込んでしまうときがあり、そこから行動が再び始まる、という繰り返しが挙げられる」。1975年の上演はベケットの演劇における形と動きの哲学をはじめて実践したものだった。ベケットは次のように語っている。「プロデューサーたちは、動きにおける形式の意味について全くわかっていないようだ。音楽でも同じモティーフが繰り返されることがあるだろう。それと全く同じように、テキストも繰り返されれば、最初は奇妙なものでも、二度目、3度目には認識してくれるのだ」
要するに、「ゴドー」は典型的なポストモダンの作品ということである。明確な形態を作るための形式、構造にかかわる問いを強調するだけでなく演劇の、巧みに均整の取れた内容によって強調されている曖昧な内容をも焦点化しているからだ。

* ゴドーのスタイル
「ゴドー」には数多くの形式的な特徴、それも異常な特徴が見出せる。恐らくこの演劇のスタイルのもっとも著しい側面はそれが極端に短く単純な台詞のやり取りを非常に洗練された詩的な言語と並存させているということだろう。すでに1ページ目から、この傾向を見ることが出来る。
ウラ:(傷ついて、冷たく)閣下は、昨夜どこでお休みになったか伺えますまいか?
エス:どぶの中だ。
ウラ:どぶだって!どこの?
エス:あそこだ。
ウラ:ぶたれなかったかい?
エス:ぶたれただと?たしかにぶったさ。
ウラ:いつものようにか?
エス:いつものようにだと?私は知らん。
ほとんど毎行ごとに、前の行をエコーしたり、矛盾したりしている。相手の言ったことを鸚鵡返しに答えたりするだけでまったく議論としては成立していない。
しばしば、こうしたやり取りは、形式的に決まっていることがある。例をあげるならば、四つの言明からなる会話で、最後と二番目が等しいものがそれである。第二幕の次の台詞が典型的であり、ここではそれに加え、この演劇に特有の「沈黙」「長い沈黙」が使われている。
ウラ:ささやく。
エス:ざわめく。
ウラ:つぶやく。
エス:ざわめく。
沈黙。
ウラ:鳥の羽のような音を出す。
エス:木の葉のように。
ウラ:灰のように。
エス:木の葉のように。
長い沈黙。
同じような例は「どうにもならん」「ゴドーを待つんだ」などの台詞に見られる。これらは何度も何度も、しばしば形を変えて、繰り返される。
ある種の象徴的なイメージや物体もまた反復によって強調されている。会話とト書きの反復と、「ゴドー」の循環的な構造は、Walter Asmusのいう「反復の構造」の密接不可分の要素になっているようだ。
この「反復の構造」にとってのもっとも大きな例外は、ラッキーの長広舌、ポッツォの命の短さについての台詞、ウラジミルの最後のスピーチといった現実の真の性質についてのスピーチである。ラッキーの演説は例外的にバランスの取れない意味不明な言葉の羅列になっており、ポッツォやウラジミルのスピーチは非常な詩情が感じられる。これらのスピーチは人間の条件のリアリティに関する非習慣的な考え、概念によって引き起こされたものだ。それぞれの例において、従って、そのスタイルは登場人物の表面的な、習慣的なコメントとは全く異なる。従って、この演劇のスタイルとは、三つの異なった種類の言説(discourse)からなっているといえる。
@注意深く作られた台詞のやり取り、短いやり取り。
A完全に失敗したディスクールの瞬間。「沈黙」「長い沈黙」
B極端に集中した「詩的な」スピーチの爆発。
ウラジミルとエストラゴンの「習慣的な」台詞のやり取りは、その高度に単純化された形式と内容という点で、典型的なポストモダンのそれであるということが出来る。ベケットの、頻繁に用いられる効果的な「沈黙」の使用は、ポスト・モダニズムの、言語の単純化のもっとも極端な形式であるということも出来るだろう。

*「ゴドーを待ちながら」概観
ベケットは、自らの劇のキー・ワードは、perhapsであるといっていた。注意深く均整の取れた「ゴドーを待ちながら」の構造はこの演劇の矛盾する二人組みによって作られる曖昧性を強調することになる。それだけ余計に、矛盾が目立つわけである。
この演劇の世界観はオプティミズムとペシミズムの混合体としてみることが出来る。それはちょうどウラジミルの「二人の泥棒」に関するスピーチのように、両義的なものである。さらに、ベケットはしばしば、アウグスティヌスの言明に言及していた。例の「絶望するなかれ…云々」というものである。ルビー・コーンのような批評家は、「ゴドーを待ちながら」におけるいろいろなペアについて言及し、これらのペアは全て、ウラジミルによって言及されている二人の泥棒と状況的には類似していると述べている。だが本当にこれは当てはまっているだろうか。ウラジミルもアウグスティヌスも、二人のうち一人は救われるというシチュエーションについて述べているのである。「ゴドーを待ちながら」には実質的に3組のペアが入るが、誰一人として救われず、状況は改善されない。それどころか、幾人かの登場人物は状況が悪化する。ポッツォは盲目になり、ラッキーは耳が聞こえなくなり、羊飼いの兄のほうは病気になる。状況改善のかぎを握っているのは言うまでもなくゴドーの到来だが、彼は決して来ることはない。
せいぜい、良くて、登場人物はお互いに「やさしさ」のようなものを示している、というだけだ。最悪の場合は、お互いに残酷になったりする。通常の、彼らの状況は落胆しているもののそれであり、最もよく使われる発話は「助けてくれ!」である。エストラゴンは絶望のあまり「神よ救い給え!」と叫ぶが、神はすくわない。
劇中に現れる全ての証拠に拠れば、登場人物の誰一人として救われるものはなく、ポッツォとラッキーはいよいよ苦しむことになりそうである。この劇が完全にペシミスティックなものに見えないとしたら、それは以下の理由によるものだ。
@第一に、この劇には言葉、ジェスチュア、双方に大量の喜劇的要素があり、これが恐怖を減らしている。
A第二に、この劇の明らかにバランスのとれた構造がこの劇のペシミスティックな暗示のインパクトを減らすような美的満足感を与えてくれること
B第三に、この劇はたくさんのやさしいジェスチュアを持っており、それが残酷さの代わりになっていること
C第四に、そしてこれが最も重要なことだが、この劇は決して終わらない。この二幕は終わりのない状況の中の二日間を描写したに過ぎない。結果的にこの劇はオープンエンディングになっており、ゴドーが来るかもしれない「明日」にむかって開かれている。
「ゴドーを待ちながら」は、その大部分、非常にペシミスティックであるように見えるが、結局のところ、それすらも明らかではない、ということなのである。

* 登場人物
「ゴドーを待ちながら」には、七人の登場人物が現れる。ゴドー、ウラジミル、エストラゴン、ポッツォ、ラッキー、少年とその兄。ゴドーを唯一の例外として、それぞれの登場人物はこの劇のふた幕ともにあらわれる。二日間の違いは非常に重要である。「ゴドーを待ちながら」の登場人物は単に、お互いに反応するキャラクターとしてのみ重要なのではなく、時間に対し反応するキャラクターとしての非常に興味深いものを持っている。

ゴドー

ゴドーについてはほとんど知られていない。少年はゴドーが白いひげを生やし、生計を立てるためには何もしていないという。ゴドーは使者の少年を殴るが、羊を買っている彼の兄は殴らない。ウラジミルはゴドーに救われることを望んでおり、自分とエストラゴンがゴドーに「繋がれているか」はいないと確信するものの、約束を守らなければ罰せられると信じている。彼はまた、エストラゴンに、ゴドーが「はっきり来るといったわけではない」といい、彼に「何もはっきりしたものを要求したことはない」という。ゴドーが決して現れず、ほとんど彼については知られていないために、彼は曖昧なキャラクターとして存在している。FletcherやSmithは、ゴドーが白いひげを生やしているために救うことが出来ないという解釈をしている。老齢だからである。

ウラジミル

ウラジミルはどちらかというと沈思黙考、頭脳型の人間である。さまざまな瞑想的な台詞からそうした性格を窺い知ることが出来る。また、彼は比較的楽天家でもあり、泥棒の一人が救われたことを「確率としては悪くない」と言って安心を得ようとする。二人の台詞を信用するならば、彼はローヌ川から彼を吊り上げて、エストラゴンの命を救ったことがある。彼の情け深さは第二幕で、ポッツォを助けようとしていることからも伺える。ウラジミルはエストラゴンの精神的な悩みに耳を貸そうとせず、夢の話を聞こうとしない。にもかかわらず、彼はエストラゴンの習慣的な身体的苦痛には同情的だ。足を怪我したときは負ぶっているし、寝ているときもコートを彼の体にかけている。
エストラゴンと同様、ウラジミルも身体的苦しみを受けており、前立腺障害のためがに股で歩かざるを得ない。考え、語る人間として、彼は帽子を調べる癖があり、息がくさい。

エストラゴン

エストラゴンはもと詩人である。考えるというよりもむしろ感じるキャラクターであるようだ。眠ることで平安を得ようとするものの、つねに自らの恐ろしい状況に引き戻されてしまう。つまり精神的苦悩から逃れられない。この苦悩が、悪夢や、その他の衝動的発作となって表れてくる。そうした苦悩があるお蔭で、エストラゴンは、生活が次第に悪くなってくる、と感じている。時に、シェリーを引用したり、劇評家の悪口を言ったりするが、全体的に見ると自分自身を言葉で表現することに困難を感じている。しばしば言葉の代わりにジェスチュアを用いることもそれと関係する。劇の終わりに行くに従って、エストラゴンは感情を、言葉でもジェスチュアでも表せず、単にwild gestures, incoherent wordsにあらわされているように乱暴な行動でそれを表さざるを得ない。
ウラジミル同様、エストラゴンも身体的苦痛に悩まされる。彼の足は常に痛み、灰の片方が弱い。語りや思考より眠りを好む「身体的人間」である彼は靴に問題があり、足がくさい。

ポッツォ

ポッツォは非常に命令的な…高圧的な人格を持つ。社会的な地位においても身体的な面においてもそうだ。ポッツォの上記の性質はその最初の発話に例示されている。つまり命令が多い。「恐ろしい声」ではなされており、ウラジミルとエストラゴンに対する最初の発話は自信に満ちた「私がポッツォだ」である。ウラジミルとエストラゴンが変化しがたい、循環的な関係に陥っているのに対し、ポッツォは誇り高く攻撃的な所有者の転落、という動きを表しているように見える。劇の初め、ポッツォは自分が地主であることを、「私の土地」と述べることで強調している。そして、彼はまた、ラッキーを市場に売りに行くといっているので、ラッキーも所有していることになる。その上大量の荷物も彼のものだ。そして、劇が進行していくにつれて、パイプや時計など、こまごまとしたものをなくしていく。最終的には全く無力な盲目になる。
ポッツォは、自分の財産を偶然に帰結させる傾向を持つ。奴隷のラッキーについて「私が彼の立場になることもありうる。それは偶然の作用によるものだ」とのべている。彼が突然盲目になることは、これと同じように偶然に帰結されるように思われ、ポッツォは偶然(あるいは運命)の恣意的な性質について、「運命と同様盲目」と述べることで強調している。ウラジミルもまた、「残酷な運命」によりコントロールされていることを認識していることに注意したい。
また別のところでは、昼から夜への変化を議論する際、ポッツォは「偶然」がこの演劇の後の部分で彼自身の運命を転変させる驚くべき方法を特徴付けているように見える。「小半時以来、次第次第に、少しずつ青みを増して、増しつづけて、ついには、スパーッ!終わりだ!」ポッツォの特徴は、従って、人間の状況、人間の状況の変化、というものが、人間の決定や行動の結果ではなく偶然によるものだという認識といえよう。ポッツォの、ウラジミルとエストラゴンに対するコメントは、人間関係に対する人間の必要性を例証している。彼は「仲間なしでは長いことやって行けない」といい、ウラジミルとエストラゴンに、自分のスピーチに関するコメントを求める。
同時に、ポッツォとラッキーの関係は、愛情、憎しみ、依存の複雑な混交を最もよくあらわしているといえる。あるときは、ポッツォはラッキーを、「昔はとても親切だったが、今は私を殺そうとしている」といい、しかしまた別のときには、ラッキーにほとんど関心を示さない。ラッキーの事を「豚」などと呼び、エストラゴンに彼をけるように煽りさえする。逆説的なことだが、ポッツォはラッキーを売りに行くことを計画しているにもかかわらず、決して彼と決別することは出来ない。これは恐らくポッツォが、荷物を運ばせ命令するのにラッキーの存在を必要としているからと思われる。最終的には、ポッツォは文字通りラッキーに繋がれており、道案内をしてもらうような状況になる。
時として、ポッツォは、エストラゴンやウラジミルと同じように、自分自身を表現する手法をあまり持っていないように思われる。困難を感じているらしい。

ラッキー

ラッキーの最初の発声は「恐ろしい叫び」である。舞台上では、彼は立ったまま眠っている。別の言葉で言えば、ラッキーは、上昇と降下(眠くなって下がる→驚いて立つ)というサイクルを続けているといえよう。死にかかっているようだが、はっきりとは決めがたい。ベケットはかつて、「ラッキーは何も期待しないためにラッキーなのだ」とのべたが、単にポッツォの命令を待ち、見知らぬ人々に蹴りを入れるだけの彼にはよく当てはまっている。ポッツォは、ラッキーが彼に美しさ、優美さ、真実を教えてくれたといい、以前はやさしかったが現在では殺されそうだといっている。だがこれらの事実を立証する証拠は何一つとしてない。ポッツォは、ラッキーがかつては楽しむために踊りを踊ったといっているけれども、現在ではラッキーは網の踊り、網にかかってばたばたやっている人の踊りを踊るだけだ。ラッキーは、ポッツォによってロープに繋がれているから、文字通りからめとられているといえよう。ポッツォは、かつて踊ることを拒否したと述べているが、そのことについては決して説明されない。頭が丸禿で、考える人というよりむしろ食べる人であるポッツォとは異なり、ラッキーは白髪で、帽子さえあれば考えることが出来る。ラッキーの首尾一貫しない長広舌は、自分自身を表現しようとするときに全ての登場人物が経験する困難を例証するだけでなくこの演劇の中心テーマ三つを提示している。すなわち、無関心な天、人間の縮小、存在の冷たい性質、の三つだ。ポッツォのように、ラッキーは突然の変化の犠牲者であり、突然おしになる。ポッツォが永遠に、ラッキーにその存在を依存しているように、ラッキーもまた、ポッツォに永遠に依存しているのである。

少年とその兄弟

これらの二人についてはほとんど何も知られていない。ただ、ゴドーは羊飼いの少年を殴るがやぎを買っている少年は殴らないというだけだ。エストラゴンとポッツォのように少年は記憶力が悪く、ウラジミルに会ったことを覚えていない。ポッツォが盲目になりラッキーがおしになると同じように、少年の兄は第二幕では病気であると告げられる。

* ウラジミルとエストラゴン:その類似性と対照性

「ゴドーを待ちながら」の主要な関心を発見するためにはウラジミルとエストラゴンというペアについて考えてみる必要がある。身体的変化をこうむるポッツォとラッキーとは異なり、ウラジミルとエストラゴンの条件はほとんど同じである。
にもかかわらず、彼らの基本的な相違点(ウラジミルの楽天主義、エストラゴンの悲観主義、のような)にもかかわらず、彼らは自らの一般的条件を描写する際に正確に同じフレーズを用いることが良くある。彼らは、この演劇の冒頭で、「どうにもならない」という。そして、身体的な苦しみについて、どちらも「痛い!今さら痛いかと来た」というコメントをする。演劇の終わりでは「もうだめだ」という。
ウラジミルとエストラゴンの台詞の類似点と相違点は非常に重要である。

@
まず第一に、典型的なポストモダンの懐疑、つまり、ベケットが、人間の、自分の状況を把握する能力に関して持っている懐疑を明らかにするような発言を考えてみたい。ウラジミルとエストラゴンは、しばしば言葉を混同する。Pozzo, Gozzo, Bozzoといった具合だ。あるいは、「潅木」「喬木」、「大根」「にんじん」などの混乱も挙げられる。ウラジミルはそうした混乱が厄介なものと思われるらしく「お前は、人に疑いを起こさせるのだけは一人前だよ」というコメントをしている。

A
次に、ウラジミルとエストラゴンがひまを潰すために害のない方法を提供しているために生じる現象を考えたい。彼らはひまを潰すために「解くに何も、対したことではないことについて論じる」という方法を好む。エストラゴンはしばしば、彼らが言葉遊びが出来るようないろいろな方法を提案する。「お互いに質問を言い合おう」「悪口を言い合おう」「お互いに矛盾させよう」というわけだ。結果的に、彼らの会話の大部分は連続した、会い矛盾する単語の羅列ということになる。

B
第3の矛盾のカテゴリーが、ウラジミルとエストラゴンの演技を構成している。メタシアター的言明だ。
ウラ:だんだんつまらなくなってきた。
エス:まだまだだ。
という会話や、
エス:たまらない。
ウラ:パントマイムよりひどい。
エス:サーカスだ。
ウラ:ミュージックホールだ。
などという会話が挙げられよう。
C
四つ目の形態の矛盾は、登場人物たちが自らの判断や反応に対して疑問を呈するときに生ずる。そのような疑問は、ある種の一般的な問題を提起しているように思われる。全て人生というものはただの夢にしか過ぎないのではないか、という一般的な疑問は、ウラジミルが、「私は眠っていたんだろうか、他のものが苦しんでいる間に?私は今でも眠っているんだろうか?」と聞くとき、あるいはポッツォが「時々、私は今でも眠っているのではないかと思うときがある」と言うとき生ずる。
D
五つ目の、そして最後の、ウラジミルとエストラゴンの言葉による矛盾、言葉によるコミュニケーションの失敗は、ジェスチュアを使って、言葉の代わりにジェスチュアを使って意思疎通を図ろうとする際に見られる。しかしもっとも印象深いジェスチュアは愛情を伝達しようとするものだ。彼らが頻繁に、離れようとする意思を言明するにもかかわらず、そしてエストラゴンが、ウラジミルとはいっしょにいるだけでよく、触ったり話し掛けたりしないでほしいと言うにもかかわらず、彼らはしばしばお互いに非常な愛情を伝達する。このもっとも典型的なものは、ウラジミルが眠っているエストラゴンにコートを着せてやるシーン、しばしば登場する抱擁のシーンなどを上げることが出来る。ロジェ・ブランに拠れば、こうしたシーンは、この劇に漂うペシミズムを緩和、中和する働きがあるということだ。このやさしさは、恐らくテクストよりも舞台上の俳優によって演出されるべきものであろう。
これらの観察をまとめてみると、ポッツォとラッキーのペアによって
@
人間の条件は偶然によって決定される
A
人間の条件は避けがたく悪化して行く
というようなことが言明されているとすれば、ウラジミルとエストラゴンのペアは
@
二人の人々が同じリアリティを定義しようとするとき起こる避けがたい矛盾
A
時間が、二人の人々が真の状況を見まいとしていろいろな言葉遊びをやっているうちに時間は害なく過ぎて行くという事実
B
習慣的生活の退屈さ
C
個人は自らを矛盾に追い込むものであり、自分の判断に疑問を抱くものだという事実
D
言葉よりジェスチュアを使ったほうが感情をよく表せるという人間の能力
などと表しているといえる。

* 「ゴドーを待ちながら」が達成したもの
ベケットは、自身の「ゴドー」を駄作だとし、小説のほうが重要な作品だ、といったといわれる。また一方で、彼の小説は非常に難解で読めない。そこで、「ゴドーを待ちながら」は、ベケットの考え、文学的才能を、世界中の人々にaccessibleにした、という点において、最も重要である。
この演劇の魅力はその普遍性に存するものと思われる。これはいかなる人々にとっても、いかなる方法でも解釈することが可能だ。この普遍性はその単純さと一般性から生じるものだ。この演劇を、例えば第二時大戦中のフランスのような歴史的出来事と関連付けるのも、キリスト教のような宗教的倫理と結びつけるのも、ハイデガーやヘーゲル、サルトルといった哲学と結びつけるのも、ベケットの私生活に結びつけるのも自由である。
しかしながら、「ゴドーを待ちながら」の魅力とその成果は、この演劇がこれらの目的のどれにもうまくはまるということよりは、この劇がオープンエンディングになっているというところに見出されるのではなかろうか。
ベケットの演劇を、「何の答えも与えてくれない」という点で非難することは可能だろう。だが、一つの曖昧でどうにもならないような構造として、「ゴドーを待ちながら」は驚くべき業績をあげているということもまた否めない。この劇に何らの明確な道徳的メッセージを見出せないことを遺憾に思う批評家でさえ、ウィリアム・エンプソンの、「私は演劇に対して道徳的な検閲を提案することは唾棄すべきことだと考える。」という意見に反対するものはいないだろう。

学習の手引き(笑) 中学校や高校の国語の教科書にこんなのがありましたね
*主要なテーマ
「ゴドーを待ちながら」は、バランスのとれた形式と、曖昧な内容によって特徴付けられる演劇である。だから、主要なテーマの大部分が二重の可能性:肯定的と否定的、という形をとって現れることもうなづけよう。これらのテーマは大体五つのカテゴリーに分けることが出来る。@ゴドー、Aウラジミルとエストラゴンの友情、B人間の知覚の問題、C人間の行動の問題、D世界の一般的な状況、の五つである。

ゴドー
ゴドーに関するテーマはその行動と決断の不確かさと全てかかわっている。ゴドーはウラジミルとエストラゴンを救うかもしれないし、彼らを罰するかもしれない。ウラジミルとエストラゴンはしばらくの間自由になれるかもしれないし、ゴドーに縛られているのかもしれない。ゴドーは召使たちを親切に扱うかもしれないし、殴りつけるかもしれない。

ウラジミルとエストラゴンの友情
ウラジミルとエストラゴンにかかわるテーマは、その友情の不確かな性質と全てかかわっている。彼らはお互いに合って楽しいのかもしれないし、別れたがっているのかもしれない。時々は抱き合いたいと思っているのかもしれないし、エストラゴンとしては触られたくもないと思っているのかもしれない。彼らはお互いに話したいと思っているのかもしれないし、ウラジミルのように、相手の言いかけたことを聞くことを拒否するかもしれない。

人間の知覚の問題
人間の知覚の問題とかかわるテーマは全て、知識の不確かさと関わりを持ってくる。個人は目を覚まし、真実を見ているのかもしれないし、眠っているのかもしれない。人間は物事を覚えているかもしれないし、全てについて忘れてしまったのかもしれない。人間は、本質的な現実は変化しないと思っているかもしれないし、万物は変化すると思っているかもしれない。

人間の行動の問題
人間の行動とかかわるテーマは全て、個々の行動の不確かな価値と関わりを持っている。人間は、自分が何か役に立つことが出来る状況を見つけるかもしれないし、あるいはどうにも仕様がないのかもしれない。人間は、残酷さの例を見たときに抗議するかもしれないし、その反対に全ての権利を喪失しているのかもしれない。人間は救いの希望のもとに待ちつづけるのかもしれないし、自殺を計画しているのかもしれない。

世界の一般的状況
世界とかかわるテーマは全て、存在の不確かな性質と関わりを持っている。世界は神によって秩序付けられているかもしれないし、偶然性や残酷な運命によって支配されているのかもしれない。世界は時として平和に見えたり、あるいは運命の転変によって支配されているように見えるときもある。世界の悲しみの総量は不変なのかもしれない、つまり人間の条件は本当に悪くなっていはしないのかもしれないが、あるいはまた永遠に、とどまるところを知らず悪化しつづけて行くのかもしれない。

* 主要な出来事
「ゴドーを待ちながら」における主要な出来事は習慣的なものと非習慣的なもの、という二つのカテゴリーに分割することが出来る。習慣的な出来事というのはそのシンメトリカルな構造によって特徴付けられているものであり、通常存在の循環的性質を例証し、繰り返し起こる演技の娯楽的形態を提供するのに役立っている。非習慣的な出来事は、その異常なまでの密度によって特徴付けられる。通常、この劇のテーマとでも言ったら良いようなものを要約する感情的、情熱的スピーチの形をとって現れる。次に挙げる14の出来事を注意深く検討してみなくてはならない。最初の七つは習慣的な出来事である。(ページ数はロンドンFaber & Faber社1965年版に準拠。アメリカGrove社版ではない)
A: 冒頭の会話(p.9):主要なテーマのいくつかに対する導入。ウラジミルとエストラゴンの単純なコメント、お互いにエコーし矛盾し会う会話の初登場。
B: 第一幕の終了(pp.53-4):ウラジミルとエストラゴンがゴドーに縛られているかについての明確な例証。別れたほうがいいのかどうかについても考え、最終的に田舎道を去ることにするが、動かない。
C: ウラジミルの歌(pp.57-8):この歌が、この作品の循環的な世界観を表していることに注意。
D: ウラジミルとエストラゴンの会話(p.63):ウラジミルとエストラゴンが時間を潰すために注意深く構成された会話をしているということの例。ウラジミルが、自身の状況の現実性について考えているときに起こる長い沈黙に耐えられない様子に注意。
E: 帽子の投げ合い(pp.71-2):ベケットが繰り返し表れるジェスチュアで喜劇を構成しているということの例。ミュージックホール的要素。
F: 4人の登場人物が倒れる(pp.81-2):コミカルなジェスチュアの使用のいま一つの例。ベケットがこの転倒を「彼らの共通の状況の視覚的表現」と解釈している。
G: 第二幕の終わり(pp.91-4):少年との会話、ウラジミルとエストラゴンの最終的な出発への決意が、その閉塞状況を物語っていることに注意。

次の七つの出来事は非習慣的な出来事の例である。
H: エストラゴンの悪夢(pp.15-16):ウラジミルが、エストラゴンの悪夢を聞こうとしないのは、彼が非習慣的現実に眼をむけようとしないことを例証しているが、それはまたエストラゴンの「この夢だけで十分だって言うのか?」という台詞を導出し、これは、彼ら登場人物がすでに十分苦しんでいるという感情へのいくつかある言及の一つを形成している。
I: ポッツォの涙についてのスピーチ(p.33):ポッツォのスピーチは悲しみの総量が不変であるという考えを提示する。実際にこの場面ではエストラゴンの痛みがラッキーの悲しみにとって変わられる。劇の終わりの部分で、ポッツォとラッキーが崩壊して行くところは、世界が永遠に増加しつづける悲しみを含んでいることを示す。
J: ラッキーの演説(pp.42-5):この思考の異常な例はいくつかの機能を持っている。それはまた、この劇の主要なテーマのいくつかを提示してもいる。それは登場人物が自分のことを言葉で表す際に感じる困難をはっきりと示しており、喜劇的な要素もある。
K: ウラジミルとエストラゴンの、葉についての議論(p.63):この議論の大部分はいわゆる「習慣的な」ものであるけれどもウラジミルの問い「彼らは何と言っている?」に対するウラジミルの「それだけでは十分ではない」という発言はこの二人の話しての運命を例証している。葉のように、生きているだけでは十分ではない。時には、それについてはなさなくてはならないのだ。また、p.66で、現実の状況よりも「特に何でもないことについての話」を好んでいることにも注意したい。サラに、次の三つの出来事が示すように、「ゴドーを待ちながら」の中の登場人物は時として自らのジレンマを告白する。
L: ウラジミルの議論(pp.79-80):このスピーチの中で、ウラジミルは次のように述べる。つまりidle discourseは意味がないものであり、ウラジミルとエストラゴンは全人類であり、「残酷な運命の犠牲者」である。そして、彼ら自身、非常な混乱の中に生活している、といっている。この計画、個々で述べられているウラジミルの計画は、彼らがゴドーを待っていることを思い出すにつれて忘れられて行く。
M: ポッツォの最後のスピーチ(p.89):このスピーチの中で、ポッツォは時間について議論してもしかたがないと述べ、誕生と墓を結びつけることで存在のもろさを強調する。ウラジミルがこれを再び繰り返すことに注目したい。ポッツォは、ある日、という概念だけで十分だと主張する。というのも、人間というものはたった1日で重要な変化を経験するからだ。このスピーチは、かつての、彼の夜の急激な到来に関するもの(p.38)や、ウラジミルとエストラゴンの、一晩のうちに木が変わってしまうということに関するコメント(p.66)のエコーになっている。ポッツォのenoughという単語の使い方は非常に重要である。我々は、エストラゴンが、一つの宇宙で十分(enough)だといっているのを見てきたし、ウラジミルとエストラゴンが、単に生きているだけでは十分ではないので話している(p.63)ということを見てきた。これらを総合的に検討すると、これらのコメントは、enoughという単語を使って「ゴドーを待ちながら」の登場人物の抱えるディレンマを例証しているということが出来る。彼らは十分生き、話、考え、苦しんだと感じているが、それでもやはり、生き、話し、考え、苦しみつづけなくてはならないのである。
N: ウラジミルの最後の長いスピーチ(pp.90-1):怠惰な話をして時間を潰す代わりに、ウラジミルは自らの置かれた真の状況について明らかにするような質問を自問する。彼はさめているのか、眠っているのか。明日になったら何か覚えていることがあるのか。何かを覚えているとしたら、それらの記憶は真実を語っているのか。ポッツォによって用いられた出産と墓石のイメージをエコーさせながら、ウラジミルは「習慣」というものが非習慣的な認識を弱めてしまうと思う。彼は、自分が眠っており、誰かが彼を見ていると想像する。ちょうど、彼自身がエストラゴンが眠っているのを見ているように。ついに、彼は結論付ける。「どうしようもない」そして、彼が今まで言ってきたことに対して、「なんて言っていたっけ?」と聞くことで、懐疑を呈している。人生のはかなさのペシミスティックなイメージに対する深遠な質問から変化して、ウラジミルの、存在の非習慣的側面に関する思考は、習慣が認識の苦痛を減らしてくれると認識し出して失速する。混乱して、ウラジミルは自分が眠っていなかったかを自問し出し、最終的には自分のいっていることすらわからなくなってしまう。簡潔に言えば、このスピーチは「ゴドーを待ちながら」における全ての主要な感情を例証しているように見えるのだ。つまりそれらは以下に挙げたものである。
@ 深い自己懐疑(私は眠っているんだろうか?)
A 深い絶望(私はもうどうしようもない)
B 習慣的行為によるつかの間の慰め(だが、習慣は偉大な弱音器だ。)
最も重要な非習慣的名出来事は、ポッツォとウラジミルの、第二幕の終了間際になされるスピーチである。これらの複雑なスピーチの両方とも、この劇の主要なモティーフを表現し、もっとも慎重に扱われなければならないのだ。