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邪馬台国(Yamatai koku)

江戸時代から騒がれてきた邪馬台国論争は,まだけりがつかない。ここで私が勝手にけりを入れたい。すなわち,邪馬台国は九州筑後地方にあったのである。ほれ,これで決まった。そのわけは,・・・・ううっ,少し苦しいがここに紹介しよう!
・日本の主都は,だんだん東へ移ってきている。
・九州の地名が関西地区に同様の形で存在する。
・九州は古代国際交流の玄関口であり多くの指導者が外国から入ってきて都市作りを行った。
 しかし,敵も侵入しやすく,しだいに奥へ(東へ)移動せざるを得なかった ・九州には最強のライバル、句奴国(今の熊本)もすぐ南にあり落ち着いて政治ができない。
 すなわち、日本という国は北九州を中心に広まったという意味である。
しかし、その中心は,現在の韓国や中国を中心とした外国から流れてきた人々が中心であり、これは、もとからあった国を従える形で大きくなってきたと考えられる。この、元からあった国というのが、縄文人を基礎とする旧日本国(ヤマト国)である。

There is no judge over Ymataikoku-discusion,continue from Edo period,yet.So I judge over it with my own way.That's mean that Yamataikoku is locatedin the Chikugo-district in Kyusyu.Hey! This is the conclution.This reason is・・・oohps,It's litle bit difficult but introduce it on here! ・The center of Japanese politics move from West to East.From Kyoto to Tokyo
 and next will to Ibaragi.
・Japanese language spread from West to East.
・There are same town name arrangement between Kyusyu and Kansai.
・Kyusyu is the entrance of international exchange in ancient ,and so many.
 leaders came into from here and made big towns.But it's easy for enemy
to enter in and the Capital gradualy must move to East.
・In Kyusyu there is the most strong enemy Kunu(Kumamoto in now)just in south
and difficut with steady policy work.


新しく入ってきた弥生人は、旧日本国人を従えるために、支配権は自分たちが握り、国名には今までの国名(ヤマト)を使ったのである。
 ヤマトというのは,どういう意味かというと,ヤマは「山」を意味し,トは「台」つまり小高い所か「戸」ぐるりと囲んだ所ということを意味すると考えられる。私は,現在にも沢山残されている「山田」か「山本」のある土地のイメージが強いと思う。


数日前の新聞に『太陽党』を設立した羽田党首が、自分は秦の始皇帝の末裔かもしれないと言っていたとう記事が載っていた。秦(はた)と羽田(はた)が通じるからである。そして、佐賀に来た党首は除福伝説に非常に関心を示したという。
 この除福の一団が日本国形成のリーダーシップを担っていたのではないだろうか。除福は、秦の始皇帝から逃げだし、日本に流れ着き、国を作ったという伝説の人物である。彼のゆかりの地には”福(ふく)”という音が残されている。筑後一円では、福島(八女)がある。現在でも,この地方には,除福のお祭りが続けられている。

また,現在もボートピープルが存在するが,この頃は,まだ激しく,始皇帝の圧政から逃れてきたものと想像される。当時と違うのは,当時,中国は文化が日本より高かったのでどんどんこれらの逃亡者が受け入れられたり何事もなく住み着くことができたことであろう。
 この逃亡者の集団が大きくヤマト国とクヌ国を形成し,勢力を競いあったと考えられる。この除福の一団が日本国形成のリーダーシップを担っていたのではないだろうか。


筑後平野物語

この文章は「北野町誌」という本を分かりやすくしたもので,私の創作ではありません。

 

私たちが住む筑後平野は、今は平和な米の産地として有名です。しかし、ここにいたるまでには、多くの人間どうしの争いや自然との闘いがくりひろげられてきました。

 

東京を首都とする現在は、日本のかた田舎ですが、その昔は日本の中心であったとも言われています。特に、福岡県の三井郡においては、そのまた中心ではなかったかとも言われています。そんななぞ解きも楽しみながら、筑後平野の歴史をちょっと振り返ってみたいと思います。これを読みながら郷土や先祖の素晴しさに気付くことができたら大変嬉しく思います。

 

まず最初に、何といっても紹介したいのが、三井郡北野町の大城小学校にある「益影の井」です。歴史書やパンフレットの多くは、「神功皇后が産湯を使った井戸で三井郡の地名のおこりともなった井戸の一つ。」などと説明してあります。
 「神功」というのは名前です。「皇后」というのは、天皇の奥さんという意味です。その時の天皇
は、仲哀天皇と言います。仲哀天皇は、あの有名なヤマトタケルの息子とされています。これも有名な「香椎宮」に、この二人がまつってあります。

 

この「神功皇后」は、よく「卑弥呼」ではないか、とも言われているのです。それでは、なぜこの益影の井戸の水神功皇后が産湯に使ったかというと、これにはもう一つものすごいいわれがあるからです。
 この益影の井は、天孫降臨のさい、高天原より天の真名井の水を蚊田のぬな井にうつされた霊泉と言われています。天孫降臨とは、ちょっとむずかしいですね。またくわしく説明しますが、簡単に言うとこの世を治める人ができたとき、と覚えておいてください。
   高天原もとてもむずかしいです。はっきりした説明はだれもできません。外国の地名であるとか、天上のことであるとか、日本のどこかの地名であるとか言われています。私は、日本のどこかの地名ではないかと考えています。

 

「蚊田」とは、ひがた(海の水がひいたときにできる沼地)のことです。昔はひがたと言わずにカタとかガタとか言ったのでしょう。
 その昔、筑後平野は有明海の一部だったのです。つまり、海であったということです。そこにだんだん筑後川から運ばれてきた砂が、たくさんたまって陸地になっていったのです。大城町や北野町に、「島」のつく地名が多いのもそのためです。
「塚島」「金島」「千代島」「中島」
「島」など多くあります。これらは、全部島だったのです。
 また、他の大刀洗や久留米、小郡、筑後、三瀦などの地名を見ても数多くあります。

 

「崎」がつく地名は、みさきになっていた所です。「津」がつくところは港があったところです。「隈」がつくところは水たまりがあったところです。他にもいろいろあります。みなさんはどのくらい地名をあげることができるでしょうか。
 「松崎」「大崎」「津古」「上津」「曽根崎」「三瀦」「横隈」「西島」「吹上」「干潟」「もったい島」「武島」「山浦」「大島」「高島」「城島」など他にもたくさんあります。
 要するに、筑後平野は、まだ地面がかたまらず、川や沼や海がほとんどで小さな島状の土地があちこちにあったのでしょう。それで、そのころの交通は船が中心だったのではないかと思います。それぞれの土地を船で行き来したと考えられます。

   

このころ、今の関西地方に大きな力を持つ大和朝廷とよばれる集団があらわれました。今の日本の原形のようなものです。これが、ものすごい力を持っており、今の韓国の南の方にも役所を作ったりしました。これがだんだんと九州にも勢力を伸ばしてきました。しかし、熊襲や今の山門地方の田油津姫はなかなか言うことをきかずに反抗しました。そこでこれを従えるために仲哀天皇が軍隊をひきいてやってきたのです。

 

最初にやってきたのが前にも出ました香椎宮です。香椎宮というと難しいですが、要するに皆さんもよく知っている「かしいかえん」の近くにあります。
 ところが、この仲哀天皇、どういうわけか急に死んでしまいます。この死んだ場所がなんと小郡の大保というところなのです。大保は西鉄電車で小郡の次の駅で、今では、運動公園、陸上競技場などに行く時、一番近い駅となっています。
 この大保に大石神社があり、ここでお葬式があったということです。しかし、このような地は、三沢のゴルフ場東北の「えぼし神社」というところにもあり、分けがわかりません。しかし、この三国地方と大城は神宮皇后の伝説が最も多いところでありなんらかの関係はありそうです

  

旦那様を亡くした神宮皇后は、旦那に変装して軍隊の指揮をとり、見事に周囲の国々を従えたと言われています。
 まず、今の夜須付近で勝利をおさめ、次に山門地方を収めるために津古に出られました。津古というところは、字のとおり古い港(津)があったところであり、古代の重要な船つき場であったようです。ここから豊満川を下り一度今の小郡の神いわと(今の上岩田、花火大会があっている近く)でおまいりをされました。それから大城の蚊田の宮にこられ、迎えに来た水沼の君(今の三瀦)の軍船にのって瀦に上陸し山門の田油津姫を滅ぼしたということです。

 

しかし、熊襲はそれでもなかなか言うことをきかなかった。それは、今の韓国にあった新羅という大きな国が後ろについていたからだと考えられ、神宮皇后は、お腹に赤ん坊が入っている大きな腹をかかえ、男に化けて(仲哀天皇のつもり)香椎浜から新羅との戦争に出て行かれたのです。新羅の王様は、その姿のあまりにも堂々としているので戦わずにこうさんしてしまったということです。
神宮皇后は、勝利のパレードをするために有明海から筑後川をさかのぼって大城に上陸し、ここで益影の井の水を使い、子供(後の応神天皇を産まれたのです。

 

本当かうそか、確かなことは分かりません。しかし、話が残るということは、何かがあったということは言えるのではないかと思います。
 このころのことについては、「北野町誌」六ページから七ページと二十六ページから二十七ページに書いてあります。思うに、軍船がよりつくことができた「蚊田の宮」は、かなり大きな港ではなかったかと想像します。

 

また、宇美、津古、上岩田、三瀦と続く船の道があったことも考えられます。と、いうことは、その昔は福岡あたりから有明海に抜ける海路があったということになりはしないでしょう。
大城でもう一つすごいものに「豊比め神社」があります。
 「豊比め」は「豊姫」でもあり、女性を表しているだろうということが分かると思います。この「姫」が残る地名やいわれは、たくさん筑後地区に残っています。有名なのでは、(そう有名でもないかな?)鳥栖に「姫方」というところがあり近くには、「姫方神社」もいくつかあります。近く、小郡にも全国でも珍しい「七夕神社」が残っており、七夕と言えば「おり姫」がぱっと頭に浮かびます。織り姫は、もちろん何かを織るわけですが、多分、絹を織っていたのではないでしょうか。
これも、確かなことは分かりませんのでどうとも言えません。この豊比め神社」の祭神は神功皇后の妹、豊姫命とされています。

   

この豊姫命は、大城地区のほとんどに強い力を持っていたようです。その昔、この地方をおさめる力を
持っていた人物であることは明らかのようです。「豊比め神社」も今は小さな神社ですが、昔は広大で大きな祭がとりおこなわれていたと言います。またこのあたりから銅鉾や珍しい瓦が出てきたことからも、強大な権力者がこの地にいたことが分かります。
 しかし、これが豊姫の持ち物であるかどうかは分からないことです。 実は、本当の「豊比め神社」は、その昔は、高良大社にならぶ名大社であったのですが、いつのまにやらどこにあるか分からなくなってまったのです。日比生の「豊比め神社」は、それをおしんだ村人が、建て直したものだといわれます。それは、この日比生の地に、大石が二個残っており、これが昔から「豊比めの神」と言われていたからです。
この大石は、塚島古墳のように、盛り上げていた土がたびたびの洪水で流されて中の石だけ残ったのかもしれません。本当のところは、これも謎です。(「北野町誌」二十一ページから二十二ページをごらんくださ
い。)大石が二個と言えば、塚島にもこのような遺跡が残っていますここも昔は円墳で丸く土がもってあったのです。

 

ところが、昔は筑後川がすぐに洪水を起こしていたので、いつのまにか石だけ残ってしまったということなのです。この塚島古墳も「豊比め」の言い伝えがあるのです。結局のところ「豊比め」の居場所ははっきりと決められなかったわけです。それだけこの「豊比め」の力が広く行き渡っていたということが言えると思います。他にも、久留米の荒木にも「豊比め」神社らしきものがあると言われています。、、
 このようにしてみると昔、筑後平野周辺に大きな力を持っていたのは女王ではなかったのでしょうか神功皇后の伝説といい豊姫伝説といい、大昔の筑後平野は女性の伝説でいっぱいです。

 

これは、日本だけでなく中国に残る歴史の本にも同じことが言えます。中国の昔の歴史の本に『三国史』というのがあります。その中に「魏史」(昔、中国に魏という国があった。その国の歴史)が載っており、「倭人伝」というところがあります。 倭というのは、昔の日本のことです。中国ではこう呼んでいたのでしょう。
「倭人伝」というのは、文字通り倭の人達のことを書いた、ということです。それで、ここには、中国から見た大昔の日本のことが書いてあります。この中に、あの有名な「卑弥呼」という名前が出てきます。姫と卑弥、この中国の歴史の本にもそのころの日本(倭国と言った)は、この卑弥呼が支配していたことが書いてあります。

 

また、卑弥呼のあとをついだ娘を台与と言ったのも豊姫と関係ありそうな感じですね。今でも大分県のことを豊の国というのも、何か関係ありそうな気もします「わ」というのは、そのむかし日本がそう呼ばれていたからでしょう今でも和風とかいう言葉がに、「和」という言葉が日本を意味していまでも、字がちがいますね。「倭」という漢字は、「いやしい」という意味があるそうです。この漢字を使ったのは昔の中国の人達であり、中国は世一の大国であったので、日本はその近くにあるただの「小さないやしい国」といわれていたのではないか、ということが言われています。

 

または,「いね」(稲)という意味だ、とも言われていますが、正しい所ははっきりとしていません。
 このように、筑後平野がその昔、何という国であったか、どのような王がいたか、ほとんど謎と言っていいでしょう。ただ言えることは、「豊姫」の伝説が残り、古墳や銅鉾が出てきたということだけなのです。
 この豊姫で忘れてはならなのがもう一つあります。それは、「赤司の宮」です。この神様は神功皇后の妹であるこの「豊姫」と息子である「応神天皇」それに高良大社、住吉大神がまつってあります。大変重要な神様であったらしく、朝廷から使いが来ていたということです。

 

しかし、平十四年八月、菊地、少弐二氏の大原合戦の時、建て物はもちろん多くの宝物が皆焼けてしまったということです。その後、大友氏や草野氏の力によってまた、見事な建て物を作り直し、また、お城が作られました。この地は、九州を支配するための重要な土地だったのです。
大友そう麟が力を持った頃、彼はキリシタンだったので止誉比め神社は,キリシタンを信じる武士によってまた、こわされてしまいました。

 

大友宗麟の子は、この父のしたことの神罰を恐れ、またまた神社を 「八満宮」と名付けました 関ヶ原の役の後、田中吉政が、慶長七年に筑後を支配する時に、弟田中佐馬充を赤司城に住まわせた。佐馬充は、赤字城を広げて大きくした。田中氏が滅びると、有馬豊氏が筑後国に入ってきて、赤字城も廃止し田んぼも百姓に戻し、お祭も簡単にした。これが今でも続いているとうことである。その昔、どのような大きな建て物があったのか見てみたい気がします。

赤司の宮の近くに、神霊が現われたという池がありました。(今はい。)これは「三股池」と呼ばれ赤司村、稲数村、仁王丸村の境目にたと言われています。『寛延記』という書物によれば、赤司村庄屋吉衛門は次のように書いています。
「赤司池は、赤司村、稲数村、仁王丸村の境目にある。長さ四百間横十間あまり、この池八幡宮の末社の池王神が、この池にしずまっていると伝えられています。」

 

この池そのものが神としてまつられていたということです。この今は埋め立てられ、その姿を見ることは出来ません。赤司池が出てきたついでに、赤司城についてお話ししましょう。こ城は、前にも言いましたように九州を収める上で大変重要な城だったのです。それは、赤司が古くから農作物が良く取れ、また、交通上も非常に便利な土地であったからです。赤司城の城主も赤司氏、高橋氏、戸氏、筑紫氏、龍造寺氏、秋月氏とめまぐるしく変わり、いかに取り合いにあけくれたかが良く分かります。その後、秋月氏も豊臣秀吉に追いされ、小早川が所有するようになった。

   

その後、さらに田中氏、有馬氏と続き廃城となった。中でも、田中氏は、赤司のお寺にお墓が残っています。そのお寺の名前は栄恩寺です。栄恩寺は、宗員という武士によって開かれました。もろん、武士をやめて僧侶(おぼうさん)になったわけです。僧名を浄了と変えました。慶長二年四月十四日(一五九七年、今からちょうど四百年前)のことです。その時のお寺の名前は、栄恩寺といわず、りん光と言ったそうです。久留米の法雲寺の住職がかけもちでみるようになり、その後、その子が住職となったとき栄恩寺と名前が変わりました。この寺に赤司城城主田中佐馬すけ清政のお墓があります。

 

このように、赤司を中心とする大城地区は、古代より地の利に恵まれていたためか、九州を収めるための重要な地点として取り合いの場となっていたようです。そのため、戦場になることも多かったことでしょう農産物などがたくさん取れたことも重要なことです。稲数には、筑後地で取れた米を収めておく国の穀物倉庫があったと言われています。
 それが稲数という地名にも残っていると思われます。その仕事をしてた役人の住まいが、稲数館跡として残っています。今の天満宮神社があるあたりです。いったいどんな生活をしていたのでしょうか。日本という国は、大和朝廷が大きくなってできあがったと考えられます。ヤマトという言葉は、なじみの深いものがあります。一番使われるのは「ヤマト魂」でしょうか。子どもなら「宇宙戦艦ヤマト」といえばでも知っているくらいです。でも、そのモデルとなる「戦艦ヤマト」が太平洋戦争中に作られたことは知っているでしょうか?とにかく、この
「ヤマト」という言葉は、古い言葉であり、日本が出来る前にこのよな名前の国が今の日本のどこかにあったことでしょう。これは、前に紹介した中国の歴史の本などからも確かなこととして考えられます。

   

「朝廷」とは、分かりにくい言葉ですね。かんたんに言うと国る仕事をする役所のようなところです。もちろん、天皇が中心となります。
 神功皇后も豊姫もこの大和朝廷のリーダーです。遠く関西の地に起たこの朝廷の力が、筑後平野にも広がっていたことが今でも形や地名の残っているわけですしかし最後までなかなか大和朝廷に従わなかった者がいました。それは、磐井という人です。

 

「磐」とは、今で言う「岩」のことで、「岩井」いうことです。「石井」とも言います。このほうが分かりやすいでしょう。
 磐井は、高良山に住み、筑紫の国(福岡方面・筑後方面)火の国(崎・佐賀・熊本方面)豊の国(大分方面)に力を持っていました。
磐井の墓は、八女の吉田という所にあります。しばらくは、誰の墓かからなかったのですが、最近、研究が進み磐井のものと分かったのです。大和朝廷は、朝鮮半島とも戦争をしていましたが、兵隊や食料は九州そろえていました。いわば、九州(特に今の福岡県)が基地のよっていたのそれで、近辺の豪続(力を持ったもの)は、このまとめ役を命ぜられました。しかし、大和朝廷は、これに何の補償も与えませんでした。 いわゆる、ただ働きをさせたのでしょう。

   

このとき、大和朝廷で力を持っていた人に大伴金村という人がいましたこの人は、継体天皇を立てたことで力を持った人です。どうして力を持ったかというと、このころ天皇になる人がいなくなってしまったのです。武烈天皇にあとをつぐべき皇子がいなかったのがその大きな原因れています。
 そこで、大伴金村という人が苦労に苦労を重ねこの継体天皇を探し出たのです。しかし、継体天皇は反対者のために大和に入る事ができず十年後にやっと朝廷に入ることができましただから、実際に力を持っていたのは大伴金村なのでしょう。

   

大伴金村は、朝鮮半島をうまく収めきれませんでした。当時、朝鮮島は、四つの国がありました。一番北に高句麗、その南に百斉と新維西と東に、そしてみまなという国が一番南にありましたこの、みまなは、ほとんど日本(当時は倭)のものであったのです。倭国が動かしているような国であり、大和朝廷の役所があったと言われて
 います。これを「みまなの日本府」と言います。しかし、高句麗が他の三国を圧迫してきたために、全体がおかしくなってきたのです。神功皇后は、このみまなやくだらを助けるためにがんったのですが、大伴金村は、こっそりお金をもらったりして国の関係をめちゃめちゃにしてしまったのです。

 

その失敗を磐井の力を使ってやり直させようとしたのです。磐井に兵出させ、みまなを守らせようとしたのです。しかし、磐井は、反対しました。兵や食糧は、筑紫一円から集めなければならず、多くのひがいが出ることが予想されました。
 磐井は、大伴金村のやりかたが気に入りませんでした。自分の失敗磐井や九州の農民に、とりもどさせようとしているのです。外国に近いために、九州の農民は、命令一つで、いつも戦争にかり出されていまそして、何のつぐないもしてもらえません。
「許されないことだ。」と、磐井は、思いました。戦争に行くためには自分の支配するヒの国(熊本や佐賀)やトヨの国(大分)から多く隊や食糧や軍船を集めなければなりま「もうこれ以上犠牲を出す分けにはいかない。」

   

そう考えた磐井は、韓国に兵隊を出さないことを決心しました。
「簡単に兵隊は出さないとわからせなければいけない。」
 磐井は、高良山に陣をはって大和朝廷の軍隊と戦いを始めました。このころは、大和朝廷といっても、できたてのほやほやで、磐井のほうが大きな勢力をもっていたほどです。
 どちらかと言えば、大和朝廷の方が新しく出てきた反乱者のようなところがあったのです。
「人を反乱者などと勝手に決めて、金村のほうこそ反乱者ではないか。」
と、磐井は怒りました。

 

「言うことをきかないものは、許す分けにはいかない。」
と、金村も負けてはいません、大勢の軍隊を出して高良山に陣をはった磐井を攻めました。
 磐井は、守りにてっしました。攻める意味は無いと考えたからです。大和朝廷が、すぐに農民をかきあつめて戦争を起こさせないようにすることが目的だったからです。
 大和朝廷軍は、筑後川をわたるのに苦労しました。何しろ、大昔のことです、今のような丈夫な橋はありません。しかも、筑後川の流れはとても急なのです。その後ろにそびえる高良山は、天然の城です。

   

大和朝廷軍は、筑後川にしろ高良山にしろ,まるでありがはってくるようにやられてもやられてもつき進んできます。
 たおれた兵隊をふみだいにしたりたてにしたりして、ずんずん進んでくるのです。
 磐井は、人間の無駄使いをしているようで腹がたちました。おもしろいように兵隊に矢があたり虫けらのようにたおれていきます。
 でも、数にものをいわせ、突き進んでくるのです。結局、戦いは磐井が負けました。追い詰められた磐井は、みのうの山の中で死んだとかどこかに逃げたとか言われています。

 

大和朝廷は、この戦いに勝ったものの、しだいに韓国での力を失っていきます。
 また、国内では、誰が天皇かはっきりしないような状態が続き、このごたごたが原因で仏教が日本に入ってくることになりました。
 しばらくの間、この、仏教の力が日本に大きく広められてきました。しかし、これは、天皇が持つ本来の力とは違う為に、この力を取り返そうとする力が起きていました。この間、天皇はずっと続いていたのですが、新しく入ってきた仏教の力に抑えられていたのです。

   

大和朝廷の中でも、長い間、今までの考えを続けようとする者と新しい仏教を日本にどんどん取り入れようとする者の間で、はげしく争いがありました。
 また、この間、中国では「唐」という国が起こり大変力を持ち始めました。
 大和朝廷は、この唐」に学生をたくさん送り国の作り方を勉強させました。そして、「唐」に負けないようなしっかりした国を作ろうと考えたのです。
 中大兄皇子・中臣鎌足は、仏教中心の考えを持つ蘇我氏をほろぼし新しい政治を始めました。

「 大化の改新」

六四五年に年号が大化と改められました。年号とは、昭和や平成と同じものです。これまで長い間、仏教を中心に国を動かしてきた最大の豪族、蘇我氏の力を抑え、これまでのように天皇中心の国に戻そうとしました。そこで、次の年に次のような四つのことが全国的に行われました。
一、土地と人を天皇のものとする。
一、全国を国、郡、里に分ける。
一、戸を作り田を割り当てる。
一、田に税をかける。
これを、「改新のみことのり」と言います。また、法律を決めて政治が行われました。これを律令制度と言います。律令とは、法律ということ。法律とは、決まりということです。制度とは、仕組ということです。大臣という役職や大蔵省など今でもなじみの深い仕組がこのころから続いています。重要な土地には、大宰府が置かれました。筑紫にもこれが置かれ太宰として今でも土地の名前として残っいます。

   

太宰府は、土地の名前だけでなく、この役所の後も残っています。「とふろう公園」になっているので行ったことがある人も多いのではないかと思います。
 太宰府は、九州の中心として唐(そのころの中国)の町をまねてごばんの目のようにきちんと作られました。今まで豪族のものだった人々は、全部天皇のものとなり、班田収授の法により一人一人に田が与えられる様になりました。この田のことを口分田といいます。これで生活は楽になりましたが、税もかけられました。
 これを租・庸・調といいます。

 

「租」とは、お米を口分田の広さに応じて取られるものです。「庸」とは、働きに出るものです。いろんな物を国が作るときに、労働者として出るものです。「調」とは、取れたものや作ったものを差し出すものです。筑後国では、むしろ(ござのようなもの)・あゆ(魚)などを出さなければなりませんせんでした。
 また、「雑よう」とういものもあり、成人男子の三人に一人の割合で軍団に入って、防人として九州の守りにつかなければなりませんでした。ところが、悪い習慣になれきってしまった役人たちは、御とりの努力みとめるどころではありませんでした。

   

八八二年正月三日、御とり-は何者かに自宅にいるところをおそわれ、殺されてしまったのです。大和朝廷は、すぐさま調べに入り、役人二十数名の仕業であることがわかりました。このとき、犯人をつかまえることに努力したのが藤原良積といわれています。いわば警察のような役目をしていたのでしょうか。事件後五か月で犯人は捕まりました。良積の石は、
実は御とりの墓であろうと言われています。みところが、悪い習慣になれきってしまった役人たちは、御とりの努力をみとめるどころではありませんでした。

 

考えてみれば、恐ろしい事件です。そのころの役人は、よほどめちゃくちゃなことをいつもしていたのでしょう。御酉は、その中にあってとても良心の強かった人でしょう。普通なら悪事にまきこまれてしまいます。そんな御酉の墓を見ていると、一千年以上たった今も御酉の心のくやしさが石の表面に現われているような気がします。
 このような正義感の強い人の墓が残っていることを私たちは誇りに思わなければなりません。守り続けた良心の人もまた多かったことでしょうから

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