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第10回   律令国家の確立(天智・天武・持統朝)

さて、今回は記念すべき第10号です。第10号送信時の、高校級日本史購読
者数は856人です。今後ともよろしくお願いいたします。

大化改新政府は、高向玄理らを国博士に任命するなど、積極的に中国の制度を
取り入れて律令による法治国家の構築を目指しました。律と令によって統治さ
れる国家を律令国家といいます。律とは刑法にあたり、令とは民法及び行政法
にあたります。中国では、あの広大な領域を統治するために律から作成が始ま
ったといわれていますが、日本では律の方はあまり必要がなかったといわれ、
令の作成が最初で、最初の令が作られてから最初の律が作られるまでに40年
近い開きがあります。こうした日本の状況は、現在につながるものがあるのか
も知れません。

大化改新政府で擁立された孝徳天皇が崩御すると、皇極天皇が重祚して斉明天
皇となりました。斉明朝では、阿倍比羅夫が水軍を率いて東北地方を征討し、
朝廷の支配領域を拡大しましたが、政治的な動きはあまりありませんでした。
中大兄皇子はここでもまだ皇太子のままでした。

661年、斉明天皇が崩御すると、ついに中大兄皇子が政治を直接行い、名実
ともに頂点に立ちました。しかし、661〜668年にかけて彼は、皇太子の
身分のまま政治を行いました。このように即位式をあげずに政治を執ることを
称制といいます。667年、彼は現在の滋賀県に大津宮を造営して遷都、その
地で即位式をあげ、天智天皇(第38代)となりました。彼は中臣鎌足ととも
に日本で最初の令の作成を開始し、遷都と同じ年に近江令を制定しました。ま
た、670年には日本最初の全国的戸籍となる庚午年籍(コウゴネンジャク)
の作成を命令し、氏姓を正そうとしました。この戸籍は永久保存されることに
なっていましたが、残念ながら現存していません。

672年、天智天皇が崩御すると、皇位継承戦争が勃発します。いわゆる壬申
の乱です。これは天智天皇の弟にあたる大海人皇子と、子の大友皇子との争い
で、大海人皇子ははじめ出家して都を逃れますがその後勢力を得て大友皇子を
倒し、天武天皇として即位しました。

天武天皇は壬申の乱に勝利するとすぐ、飛鳥清御原宮に遷都、その地で即位式
をあげました。彼は、天皇親政を目指して大臣などを置かず、天皇や皇后、皇
子を中心として政治を進めていきました。このような政治を皇親政治といいま
す。特に、大化改新による公地公民制移行以降も続いていた、豪族の私有地
(部曲)を全廃しました。ここへ来て、天智天皇が目指した完全なる公地公民
制など、天皇の権力一極集中が確立されたと言えるかもしれません。そして新
しい政治方針を明らかにするために、飛鳥清御原令の制定を草壁皇子らに命じ
ました。そして684年、皇族を中心とするよう身分再編成を行い、それまで
の姓を改変して八色の制を制定しました。八色の制では身分は上から、真人
朝臣宿禰忌寸道師・臣・連・稲置、です。

また、聖徳太子の定めた冠位十二階を改めて冠位四十八階を定めました。

天武天皇の死後、その皇后が持統天皇として即位しました。彼女もまた686
〜690年の間皇后の身分のまま称制を敷きました。持統天皇は、天武朝で作
られた飛鳥清御原令を施行したり、新たな戸籍を作ったりしましたが、それよ
りも重要なことは、日本初の都城である藤原京を造営して遷都したということ
です。前回の特集でも書きましたが、それまでの日本の都というのは都市では
なく、国家の行政機関だけがあって、天皇の代が変わるたびに変わっていたわ
けですが、この藤原京以後、都は塀で囲われ、計画的な都市形成が行われるよ
うになりました。

ちょっとここで、このころの国際関係を見てみましょう。7世紀にはいると、
中国では唐が成立して一時の安定期にさしかかっていました。朝鮮半島では、
新羅が有力となり領土拡大を目指していました。660年、新羅と日本の友好
国である百済との間で戦争が始まりました。百済は、日本に鬼室福信を派遣し
て、援軍と、日本−百済の友好の証として日本にいた百済こく皇太子豊璋の返
還を要請しました。しかし、日本が動くより先に、その年の内に新羅は百済を
滅ぼしました。それでも日本は百済再興のために663年、新羅に出兵しまし
た。しかし、新羅と組んだ唐の水軍に大敗し結局百済再興はなりませんでした。

さて、持統天皇の後、日本では、大宝律令が制定されました。その内容と、大
宝律令に基づく政治機構については、次回にしたいと思います。

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 特  集     第39代天皇は誰か
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天智天皇死去の後、壬申の乱があってそれに勝利した天武天皇が即位したわけ
で、天智天皇が第38代であることから天武天皇は第39代であるのが自然の
ように思えますが、系図を見てみると、2人の間に第39代弘文天皇という天
皇がいます。弘文天皇とは何者であるかというと、実は大友皇子なのです。な
ぜ即位もしていない大友皇子が天皇として皇統譜に載っているかというと、近
世に入ってからのちょっと複雑な事情があるのです。明治22年に制定された
大日本帝国憲法第3条の、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」とい
うフレーズは結構有名ですが、それ以前から、明治政府は世界各国に天皇の正
当性と強調するため、天皇が古来よりとぎれることなく続いている(すなわち
万世一系の天皇である)必要がありました。つまり、壬申の乱によってわずか
に1年間とはいえ、空位が生じた、これは明治政府にとっては大問題だったの
です。そこで、明治3年、太政官が大友皇子の皇位継承を確認して弘文という
おくりなをおくったのです。明治政府の苦労がうかがわれますね。

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