はじめに

 1998年8月23日、第三回セクシュアル・マイノリティ・プライドマーチが札幌で開催された。参加者はその自らの性的指向に基づくコスチュウムを身にまとい、自らに対する差別の撤廃を主張し、大通公園を中心に市街をうねり歩いた。そのパレードでの彼らの主張は次の三点であった。
@「どのような性を生きるか」による抑圧・差別をなくせ。
A少数者が自分らしく生きる権利を尊重せよ。(障害者、在日外国人、部落出身者、アイヌ民族、HIV感染者、非摘出子など)
B同性パートナーにも福祉・居住の権利を保障せよ。(入院時の面会権、手術への同意権、公的な住宅融資の際の収入合算措置など)
私は@、Aの主張はごく当たり前の権利に聞こえたが、Bに関しては考えたこともなかった。つまり、同性愛者同士の生活する上での問題を考えたことがなかった。一般の人も同様のことが言えると思う。私が本論文のフィールド・ワークをしているとき、ある同性愛者に「
ノンケ1なのに卒論で扱うなんて珍しいね」といわれた。つまり、異性愛者が同性愛について考えることは、ごく稀である。もしあるとすれば、それはただの興味本位の「面白い話」としてでしかない。そのため、実際の一般社会のなかに同性愛に対して差別があるにもかかわらず、それが問題視されることはまずない。目に見えない同性愛嫌悪(ホモフォビア)が存在しているのだ。
 そこでふと疑問が浮かんだ。なぜ日本で同性愛者が差別されなければならないのか。現在、人間だけではなく、動物の社会においても同性愛が確認されている[立花1996年]。また人間社会でも同性愛を容認しているところは少なくない[小田1998年]。性愛に対する感覚は時代や文化で大きく異なり、現在の日本人の性愛感は大多数が異性愛である。そのため同性愛者たちはマイノリティとして刻印され、差別されている。民主主義の原則からいえば、マイノリティが差別されるのは当然の論理である。しかしながら、日本の過去の歴史においては、同性愛は決してマイノリティではなく、差別されていなかったのだ。  
 そこで、現在における日本のホモフォビアの原因を探るため、本論文のテーマを日本と欧米の同性愛史を検証することとした。同性愛史を研究することで、現在のホモフォビアの原因がはっきりと見えてくるだろう。
 本論文の構成は、第1章から第3章までが同性愛史をまとめたもので、第4章で現代の同性愛のムーヴメントを扱う。先に述べておくが、日本の現代の同性愛運動は近年までとても小さいものであった。そのため第4章ではその主体は欧米中心にならざるを得なかった。そのことを了承願いたい。そして第5章で、同性愛に関する諸問題を検討していきたいと思う。
 また過去において日本と欧米の社会では明らかに男性優位社会であった。そのため性愛の決定権は男性中心であった。そのため本論のテーマを男性同性愛にしぼることとし、特別に記載がなければ本論の指す「同性愛」とは、ホモセクシュアル(男性同性愛)のことを指す。さらに「ゲイ」という語彙も、英語では「レズビアン」(女性同性愛)を指すことがあるが、本論では日本で一般的に使われているように、ホモセクシュアルを指す言葉として用いている。以上のことを念頭に置いて読んでいただきたい。
 なお、本論を書く上でさまざまな方にご協力を頂いた。特にインタヴューをさせて頂いたバーの店員と来客していた方々や飛び入りで勉強会に参加させていただいた札幌ミーティングの皆様には貴重な情報を教えて頂きました。また作家で、私の人生の師である北村久美子さんには、同性愛を考える上でいろいろと助言を、そしてゼミの恩師である岩崎まさみ先生には、構想の立案、本論文の校正などあらゆる点でご指導を賜りました。この場を借りて、心から厚くお礼申し上げます。

平成10年12月21日、自宅にて