1970年

 1960年代後半から70年代にかけてアメリカでは「性革命」という大きなムーヴメントが起こった。1968年「ワイセツとポルノに関する諮問委員会」が設置され、ポルノ解禁を検討し始めたのである。この諮問委員会は、二年間という時間と200万ドルの費用をかけて、あらゆる種類のポルノの実態と、その社会に及ぼす影響を調査し、さらにポルノの全面解禁した場合の社会におけるインパクトを予測したのである。その研究の結果は、全面的に解禁すべしというのものであり、その報告書を当時のニクソン大統領に提出した。しかし、保守派であったニクソンは、アメリカ社会の伝統を守るために勧告を受け入れることはできないとはねつけた。そのためポルノ全面解禁にはいたらなかったが、当代の有識者たちの書いたレポートは、ポルノ容認論に大きな影響をあたえ、「性革命」の大きな礎となったのである。そのためニューヨーク州で妊娠中絶が合法化され、翌71年には、フロリダ州でそれまで州法で禁じられていたオーラル・セックスを州最高裁が容認するなど、性開放の動きが活性化されたのである[立花1984年a]。
 同性愛者たちも「性革命」の動きに呼応して活発化した。1970年、サンフランシスコで開催されたアメリカ精神医学会の総会で、初めて同性愛の病理的扱いに対して意義が申し立てられた。同性愛者とフェミニストの団体が同性愛を病理とみなす医学会に対し、徹底批判をし、会場は大混乱になったのである。その後も同性愛者の学会に対する批判はいたるところで続いたが、もっとも衝撃的な事件は1972年ダラスで起きた。その精神医学会の総会のパネルディスカッションの席で、マスクをした匿名の男性が「私は同性愛者です。そして精神科医です」と公言したのである。この事件は精神科医の中にも同性愛者がいるという事実を明るみにし、また沈黙を保っていた同性愛者の精神科医たちに結束を促したのである[風間1997年]。 
 1971年、デニス・アルトマンが『同性愛-抑圧と開放』という論文を刊行した。これは1960年代のアフリカ系アメリカ人や女性の公民権運動をヒントにし、同性愛のアイデンティティを創造することに焦点を当てた先駆的な理論であった。彼は、この本の中でこう述べている。
      
   どのような政治運動であるにしても、その評価は、それがその人間にとって個人    
  的にいかなる意味を持つかによって大きく変わってくる。私にとってゲイ・リベレー
  ションの主要な意義は、自分で自分のホモセクシュアリティに対峙し、そしてそれ
  を受け入れることに貢献してくれたということである。私はこのことに感謝してい
  る。私の直面する外的な抑圧がこれによって減ったかどうかにはそれは関係ない[風
  間1997年]。

 つまり社会を変える前に、自らを変革し、解放しなければならないということである。いくらゲイ運動が政治的な効果を持っても、同性愛者たち本人が、日常レベルで開放しなければ意味がないのである。そこでゲイとしてアイデンティティを確立するために、あとで述べる「カミング・アウト」が重要となってくるのである。
 また同年、ドイツでもロサ・フォン・プロンハイムが『変態なのは同性愛者ではなく、彼の生きる社会のほうだ』というタイトルそのままの論文を発表した。またフランス人のギー・オッカンガムは翌年の1972年、その著書『ホモセクシュアルな欲望』の中で、「問題なのは、同性愛の欲望ではなく、同性愛に対する恐怖なのである。なぜ、その[同性愛という]ことを単に述べることが嫌悪や憎悪の引き金になってしまうのだろう。」と述べた[風間1997年]。これは同性愛問題を、同性愛者の欲望そのものに当てるのではなく、社会側にある同性愛嫌悪に焦点をあてるという、パラダイムの変換をおこなったのである。
 アルトマンは社会学および政治学、オッカンガムは精神分析学の手法でそれぞれ研究を進めていったが、心理学の中でも同性愛が研究対象とされるようになり、その研究結果が、1973年のジョージ・ワインバーグの『社会と健康な同性愛者』という論文である。この中でワインバーグは、同性愛に対する恐怖感、嫌悪感などを恐怖症とみなし、「ホモフォビア(日本語では同性愛嫌悪、同性愛恐怖症と訳されている)」という概念を作り上げ、「異性愛の正常性、あるいは健全さ」に対抗しようとしたのである。つまり「高所恐怖症」や「閉所恐怖症」などの神経症の病状と同性愛に対する恐怖・嫌悪を同等のものであると考えたのである[風間1997年]。
 さらにこれまでの流れをさらに加速させたのが、ミッシェル・フーコーである。1976年刊行の『性の歴史』第一巻の中で、十九世紀以降の、性を個人の本質あるいはその中核に位置するものと見る「本質主義」から、歴史的、社会的、文化的なさまざまな要因によって構成されるという見方である「社会構成主義」の視点を示したのである。この考えは、その後のセクシャリティ研究に大きな影響を与えたのだが[風間1997年]、彼の述べた問題点は、特に「性の装置」と「性の科学」の二つである。社会から異常者といわれている人8が排除されていることではなく、彼が自ら「異常」であることであり、性においての自己のアイデンティティを「異常」としてしか見出さざるを得ないような〈からくり〉が社会に存在している。その〈からくり〉がフーコーのいう「性の装置」である[中山1996年]。また二つ目の「性科学」については、19世紀以来、西洋では性を合理的にとらえ、再生産=生殖というメカニズムの研究に終始してきた。つまり性を自然科学によって捕らえることに固執しすぎた。あくまでも性を個人の問題とし、政治的・経済的・倫理的な価値についての研究が乏しかった。そこに大きなあやまちがあると述べたのである[フーコー1986年]。
 1975年にゲイの政治家も誕生した。ハーヴェイ・ミルクがサンフランシスコ市議会議員に当選したのである。彼は、異性愛者と同等の権利を主張し、法律的な施行を推進していったのである。しかし三年後の1978年反同性愛者議員のダン・ホワイトに銃殺された。この事件により彼は「不滅の英雄」となり、ゲイ解放運動はさらに高まった。またミルクが亡くなったころには、かつて彼がカメラ店を営んでいたサンフランシスコのカストロ・ヒルは、同性愛者の起業家たちによって美しく整備され、世界最大級のゲイコミュニティが形成され、ゲイのメッカであるカストロ・ストリートに変身したのである[井田1984年]。
 これらの一連の動きによって、1980年以前の同性愛運動により、偏見の多くが取り除かれつつあったが、80年代に入るとそうはいかなかった。エイズという名の新たな偏見の種ができたのである。