1990年代

 1990年、イヴ・コソフキー・セジウィックが『クローゼットの認識論』という論文を発表した。この論文は今後の同性愛研究を考える意味で重要なものである。これは同性愛者が自分が同性愛者であることを公表し、ホモフォビアに満ちた社会に、閉じ込められた「クローゼット」中から飛び出さなければならないというものである。その行為が"coming out(カミング・アウト)"なのである[風間1997年]。カミング・アウトすることによって自己の同性愛者としてのアイデンティティを確立するのである。またフィールド・ワーク時に、同性愛者から聞いた話によると、カミング・アウトにも三つに現代における同性愛分けることができる。
@「第三者に対するカミング・アウト」
A「身内に対するカミング・アウト」
B「自分に対するカミング・アウト」
の三つである。その中でもBの「自分に対するカミング・アウト」が最も重要であり、他の二つの基盤となる。またこれはかなりの困難をともなう。言わば自ら「異常者」であることを自認し、その後一種の開き直りにいたる。この「自分に対するカミング・アウト」がなされると@、Aは自然についてくると、彼は語っていた。
 しかしAの「第三者(社会)に対するカミング・アウト」もそう簡単なことではない。そこで「集団カミング・アウト」が重要になってくる。その例がパレードなどのイベントである。確かにすでに「社会に対するカミング・アウト」を成し遂げたものにとっては「ハレ」の要素が強いが、まだ行っていないものにとっては「集団カミング・アウト」は大変力強いものである。また「カミング・アウト」とは一度行えばそれで済むものではない。同性愛者としてアイデンティティを確立し生きていくうえで、一生行わなければならないものである。そのため、すでに「社会に対するカミング・アウト」を行ったものでも、「集団カミング・アウト」は重要である。さらにもう一つの例として、ビラ張りがある。これを定期的に街頭で行うことで、「社会に対するカミング・アウト」を継続していくのである。
 日本における同性愛問題が最も表面化したのが、1991年に始まった「府中青年の家」裁判である。1990年2月、一泊合宿のために「府中青年の家」を利用したゲイ団体、アカー(動くゲイ・レズビアンの会)が「ゲイの人権団体」であることをカミングアウトしていたため、他の宿泊団体のメンバーにさまざまな嫌がらせを受けた。同「青年の家」所長はこの際、嫌がらせに対処するよう要請したアカーに対して「都民のコンセンサスを得られていない同性愛者の施設利用は今後お断りする」と発言した。さらに同所を管轄する東京都教育委員会も同年、将来におけるその種の混乱を避けるためと称して、すべての同性愛者の利用を禁じたのである。それに対してアカーが東京都教育委員会を相手に翌92年2月に訴訟を起こしたのである[風間1997年]。東京都教育委員会はその訴えに真っ向から反発した。彼らは、「青年の家」が「教育施設」だから「男女別室ルール」を適用して「宿泊は認められない」と主張し、あくまでも性的関係が生じる可能性を訴えたのである。この論理には無理があったが、結局裁判は七年にも及んだ。今年の10月1日アカーの全面勝訴で幕を閉じた。この事件が、はじめての表だった日本のゲイ・ムーヴメントであった[すこたん企画]。
 また1990年代は新たな理論も出てきた。クイア理論である。これは、1991年デ・ローレティスが持ち出した概念で、従来のホモ−ヘテロの二項対立を脱構築することを目的とし、ゲイ・スタディが目指すアイデンティティの構築にも懐疑的である。これは従来の同性愛研究においては、バイ・セクシュアル、トランスセクシュアル、トランスジェンダーなど即在の概念では説明のつかないものがでてきているためである。したがってその研究対象は、セクシュアル・マイノリティすべてになっている[伊野1997年]。
 1980年代後半から、同性愛者の国際エイズ会議での発言力が増し、ゲイ・スタディも確立しつつあった。そのため、1993年WHOが従来の同性愛に対する態度を改め、『国際疾病分類』から同性愛を除外した。同性愛はもはや性的逸脱でも病気でもなくなった[千石他1996年]。
 そこで、同性愛の結婚に対する法律も各国で考えられはじめている。1989年のデンマークを皮切りに1993年にノルウェー、続く1995年にはスウェーデンが、「レジスタード・パートナーシップ(法的登録配偶者制度)法」という法律を成立させた。これは、「結婚」法とは別のもので、同性愛者カップルのみを対象とした法律で、ほとんど異性愛間の結婚と同等の権利と義務を付与するものである。ただし、この同性愛カップルには養子をもらう権利、教会で結婚する権利、人工授精を行う権利が認められていない。
 さらにアイスランドも1996年、ゲイのパートナーシップを容認する法律を成立させた。しかし前三国と違う点は、アイスランドはカップルいずれかの実子である場合はその子を養子にすることができる。また同年、オランダ議会では「同性間カップルの結婚を禁じるいかなる客観的正統性も存在しない」という宣言議案を採択した。現時点では、異性愛間結婚と同等の権利を認めている国は、世界に一つもない。しかしこうした流れを受けていずれ同性愛婚を認める国がでてくるだろう[北丸1997年]。
 しかしながら、ホモフォビアの勢いが消えたわけではない。1996年、アメリカ連邦議会の上下院で「結婚防衛法(Defense Of Marriage Act=DOMA)」が可決された。これは「結婚は男女間のもの」と規定し、「他州で合法化された同性愛間の結婚を別の州では無視することができる」と定めたものであった。この法案は、大統領であるクリントンの署名が必要であった。本来クリントンは、92年の大統領選挙のとき、軍隊に同性愛者の入隊を全面解禁すると打ち出していた。だがこれは議会の反対で「(同性愛者であることを)訊かない。言わない(Don't ask. Don't tell)」ならば入隊可能という路線で妥協せざるを得なかった。再選を目指す彼にとって「大統領拒否権」を行使してまで世論の賛成を得られそうもない同性間結婚を、次期選挙の論題に持ち出すことはできなかった。こうしてクリントンは最もニューズ・メディアを刺激しない週末のそれも未明という時間帯を使って同法案に署名したのである。これを見てもわかる通り、同性愛に対するカウンター・パワーも顕在である。ホモフォビアは根強いものなのである。