同性愛の未来

 これまでの記述をまでをまとめると次のことが言える。第一にこれまでの歴史を見てわかるとおり、ホモフォビアの原因は歴史的・文化的な要因でしかない。欧米においては、キリスト教の概念によって同性愛を嫌悪しているに過ぎない。また日本では現在と同性愛コードが違うが、少なくとも同姓間の性愛を容認し、制度化していた。したがって自国の文化に根底があるというよりも、欧米の影響でしかないと断言できる。そしてホモフォビアが確立されたのは大正期以降である。
 しかしながら、ホモフォビアは根深くこれを取り除くのは容易ではない。実際、同性愛解放運動も確固たる地位を築きつつある。アメリカの「ドメスティックパートナーシップ制度」や、北欧の「レジスタード・パートナーシップ法」などにみられる同性婚容認の動きである。しかしDOMA法を見ても分かるとおり、同性愛に対するカウンター・パワーも強力である。また上記の婚姻に関する法律も、従来の異性愛間の「結婚法」とは全く同等というわけではない。さらに日本においては、ゲイのコミュニティが小さい。また同性愛者の職業領域が多数に分布しているわけではない。実際にサンフランシスコのカストロ・ストリートを訪れたとき、まるで「ゲイ」(ここでいうゲイはレズビアンも含む。)という民族があるかのように存在し生活を営んでいる。日本でも新宿二丁目が有名であるが、あくまでも「夜の街」であり、商業ベースを脱してはいない。またコミュニティが小規模であるために、大多数の同性愛者がカミングアウトを行なえず、アンダーグラウンドの社会でしかそのセクシャリティを認められることがない。
 さらに深刻なのは、同性愛者同士の差別である。問題なのは差別撤廃を訴えている彼らが差別者になっていることである。エイズ問題により、「死」という直接的な問題が生まれたが、それのみならず「差別」という間接的な問題も生まれた。現在、同性愛者間で、HIV感染者・エイズ患者を差別しているのである。この問題についてフィールド・ワークの際、バーの店員はこう語っていた。
  
  「もしこのカウンターに十人ゲイがいたとしたら、HIV感染者・エイズ患者に対して九    
  人があいつエイズ何だってぇ〜って、差別的な言い方をするわよ。」

つまり被差別者がさらに被差別者を作り出しているのである。これはゲイでHIV感染者・エイズ患者であるものにとっては二重差別を受けることになり、さらに苦痛を伴うことである。同性愛者のなかで「セカンド・カミング・アウト」と呼ばれ、HIV感染者であることをカミング・アウトすることもある。しかしこれは従来の「カミングアウト」よりも大変難しい。「カミング・アウト」を行うことでゲイとして同胞意識が生まれ、同性愛者もしくはその擁護者のサポートを受けることができるが、「セカンド・カミング・アウト」を実行していると、逆に今まで同胞であったものに差別されかねないという危機感がある。だから大多数のゲイのHIV感染者・エイズ患者は、クローゼットの中にこもったままなのである。また差別問題はエイズに関してだけではない。同性愛間の人種差別や自分と異なる指向のものを卑下するといった現状もある。
 四点目は、学問領域とゲイの一般社会の問題意識の格差が大きいことである。同性愛研究の成果は本やインターネットなどさまざまな形で発表されているが、実際に同性愛者が読む比率は低いようである。実際にHSA札幌ミーティングのブランチに参加したとき、参加者の同性愛問題についての知識が全体的に浅かった。そのことをブランチの主催者にたずねてみると、「どうしても全体的に、性的なものに関心が集中してしまう」と述べていた。同性愛研究は政治性が強く、急進的である。しかし末端の同性愛者たちの問題意識が高揚しなければ、ゲイ・ムーヴメントはこれ以上大きくはならない。もしゲイ・ムーヴメント大きくするならば、末端の同性愛者の問題意識を底上げするための戦略が必要ではないだろうか。
 さらに根本的な問題として、現在、性の分け方は、セックスにしろジェンダーにしろという男―女二極的な分類しかなされていない。とくに日本には優生保護法というものがある。これは生まれ持った性別(sex)を、故なく変えてはならないというものである。あくまでもセックスに固執している。しかしこの二極的な分類法では、同性愛は必然的に異常というものにカテゴライズされてしまう。真の意味で性に対するパラダイム変換がなされない限り、社会が同性愛を異性愛と同等に容認することはないと私は思う。ゲイはもとより、トランスセクシュアル、トランスジェンダー、インターセクシュアルなどを捕らえきれなくなってきている。今後性をめぐる問題はますます混迷を深めていく様相を呈している。だが、これらの問題を単に、セクシュアル・マイノリティのものとして片付けていいのだろうか。この問題は「男・女とは何か」という大きな問題に派生する。この根本的とも言える命題を、セクシュアリティの多様化により、ただ単なる生物学的性差で分けることはもはや不可能になったのである。我々は今、「性」というものを考え直す分岐路に立っており、その本質を見極めるべきではないだろうか。本論文を書いて私はそう感じた。