日本の戦国時代における同性愛

 日本では、中古・中世と変わらず、少年愛として同性愛が存在していた。1562年に日本に来た、宣教師ルイス・フロイスは、「われわれの教師は、子供たちに教義や貴い、正しい行儀作法を教える。坊主は彼等に弾奏や唱歌、遊戯、撃剣などを教え、また彼らと忌わしい行為をする」と述べている。 その「忌わしい行為」とはむろん、同性愛のことである[フロイス1991年]。仏門において男色が行われた理由は、はっきりしていない。しかし、九世紀から十二世紀の間にキリスト教の僧院で行われたのと同じように、男性が集まる禁欲の世界では(建て前上であるが)、むしろ当たり前の行為だったのかもしれない。
 また司馬遼太郎氏は、戦国大名の同性愛について、こう述べている。

   加賀藩に、藩祖前田利家ついては『亜相公御夜話』という文献がある。利家
  が十四歳で織田信長につかえた翌年、少年の身ながら大きな武功をたてた。その  
  ころ、かれはもはや「信長御秘蔵にて」という次第になっていた。が利家が長ず
  ると、信長は他の少年をもとめた。信長もいそがしかったのである [司馬1988年]。

ここでは織田信長を例に出したが、何も彼に限ったことではない。武田信玄、上杉謙信なども男色を好んだ。この当時、武将のたしなみの一つであったのである。主君の回りに控えている小姓がほとんどその対象であった。小姓とは言わば身の回りの世話をする少年である。ということは、この時代の「同性愛」は、古代ギリシアと同じく「少年愛」だったといえる。私は、当時の小姓の役割は戦場に持ち運びのできる、性玩具的要素が強かったと思う。また戦国武将は戦に勝つために、とても縁起を担いだ。そのため出陣前のさまざまなタブーがあった。その中で出陣の三日前から、女性と一切の性行為を禁じられ、さらに妊婦が出陣前の衣類や具足に触ることを禁じ、出産後約一ヶ月間、出陣する男に触れてはならないというタブーも存在した。それには「女は不浄」という考えが根底にある[中江1995年]。そのため小姓が性の対象になるとも考えうる。また当時の武士は、幼少の頃、寺院にて学問を学んだ。学問以外にそこで、同性愛行為も行われていた。フランシスコ・シャヴィエルが、「僧侶たちは、寺院の中に武士の少年たちをたくさん置いて読み書きを教える傍ら、彼らとともに罪を犯している」と述べている[フロイス1991年]。極端な言い方をすれば、教育の中に同性愛が組み込まれていたと言える。そのため当時では、同性愛というものが自然な行為であった。しかしこれも非相互的な関係であり、現代のホモセクシュアルとは一味違う。