江戸時代における同性愛

 ここまでは、僧坊・武士階級について語ってきたが、庶民の同性愛のスタイルは、どうであったのか。それは顕著に見られるようになったのは、江戸時代からである。
 1603年、江戸幕府が成立した。同じ年に阿国歌舞伎が始まった。歌舞伎と江戸時代の性生活は密接な関係がある。歌舞伎の歴史をひも解くと、阿国歌舞伎から始まる。創設者阿国は、念仏踊りや、武装して茶屋女に戯れる体などを演じ、人気を博した。今で言う、ストリップ・ショウのようなものである。その後、京の遊女の中で、阿国を模倣するものが現れてきて、しだいに女歌舞伎を形成していった。しかし女歌舞伎も社会風紀を乱すということで、1629年に禁止された。 
 そこで若衆歌舞伎がでてくる。いわば男版女歌舞伎である。大変な人気があり、これにより僧坊・武士階級のみ行われてきた風習が、蔭間という男娼も現れ、男性同性愛も売色化が始まり、瞬く間に庶民に普及した。1652年に若衆歌舞伎も風紀を乱すということで、禁止となったが、庶民の間では、色濃く残っていった。この若衆の名称が売色の対象として、舞台子、色子、飛子、蔭間などと呼ばれ歌舞伎と関係を保っていた。若衆歌舞伎の後はじまった野郎歌舞伎でも若衆方は女形と並んで人気の中心であった[郡司1972年]。つまりこの男性同性愛のコードは、戦国時代の小姓に対するものと同じである。
 また、当時の文学である浮世草子の中にもうかがえる。井原西鶴の『好色一代男』(1686年)の中では、主人公は、女のみではなく、男性とも情交を重ねている。今となっては正月の風物詩となった『忠臣蔵』は『仮名手本忠臣蔵』を基としているが、それよりもはやく出版された浮世草子『忠義武道播磨石』では、殿中の人情沙汰を美少年争いが原因であるとしていた[氏家1995年]。当時は「女色」と「男色」が対等であり、現代でいうバイセクシュアルが主流であった。その例として江戸時代流行した「野傾論」という議論がある。「野傾論」の野とは「野郎」すなわち蔭間(男娼)であり、傾とは「傾城」すなわち遊女を指している。つまり「野傾論」とは蔭間と遊女のどちらが優れているかという議論である。その結論はひとそれぞれなのだが、重要なのは、男色と女色が同じ土俵で議論されているという事実である。この点から考えると、江戸時代の「性的指向性」は現代のように問題視されてはいなかったのである[古川1993年]。
 一方、武士における同性愛も変化してきた。武士道の教典的存在だった『葉隠』(1716年完成)の中にも、同性愛に関する記述がある。三島由紀夫氏の解説によると

   『葉隠』の恋愛哲学は男性同性愛に基礎を置き、女色よりも高尚であり、精神的で
  あると見なされていた男色を例に引いて、人間の恋のもっとも激しいものが、そのま 
  ま主君に対する忠義に転化されると考えている[三島1983年]。

簡潔に述べると『葉隠』は「同性愛」の究極が「忠義」であると説いている。これから考えると、同性愛は、単に性的行為のレベルの話ではない。こうなると社会的な意味合いを持っていたのである。
 しかしそれも時代の流れとともに衰退していく。岩田準一の著述『本朝男色考』の中に、以下のように記している。
  
  ……江戸の蔭間は、明和安永(1764−82)年の極盛期を頂点として、やや人心の
  嗜好から遠ざかり、纔かに僧侶階級によって繁栄を持続してきたが、天保十三 
 (1842)年の改革は、湯島の一廊を残すのみで、殆どたを全滅消失の形とならしめ
  た。そして上野東叡山の僧たちの「庇護」でわずかに営業を続けていた湯島の 
  蔭間宿も幕府倒壊と運命をともにして消滅した[氏家1995年]。

 衰退の要因をさらに詳しく考えると、次のようなことが言える。同性愛を伴ったその制度は、戦士育成の場でもあったが、時代は戦闘要員としての武士ではなく、役人という官僚的な武士を必要とする社会となった。そこで男色は社会的有効性を失ったのである。男色が「集団の制度」から「個人の嗜好」へと縮小化、特殊化されていく流れであった[氏家1995年]。しかしながら、これで同性愛が完全に下火になったわけではなかった。また明治に盛り返してくるのである。