Ernst  J殤ger
エルンスト・ユンガー


序 20世紀の終焉としてのエルンスト・ユンガーの死

 80代〜90代になっても、現役の著作活動を続け、ゲーテ賞の受賞をめぐる騒動などの話題が報じられていたエルンスト・ユンガーが1998年2月に死去した。
 ユンガーの死を伝えた情報は、次のように伝えている。

    2月17日 エルンスト・ユンガー死去:102歳

              民族主義的社会主義の作家としてドイツ文学・思想界に数々の問題を投げかけてきたエルンスト・
              ユンガーが17日,40年以上にわたり暮らしてきたオーバー・シュヴァービンのウィルフリンゲンで
              死去した。 102歳だった。1985年にハイデルベルクに薬剤師の息子として生まれたユンガーは,戦
              争作家でナショナリズムの先駆者として尊敬されるとともに,世界的な作家・哲学者として知ら
              れ,ドイツ語表現の美しさでも賞賛された。第1次大戦中には志願兵として西部戦線で14度の負傷
              をし,プロイセン最高の勲章プール・ル・メリットを受けた。第1次大戦時の体験を1920年に発表
              した『鉄の嵐の中で』に記したユンガーは,ワイマール期には反民主主義的右派の代表となった。
              しかし,1927年にナチスが提示した帝国議会の議席を断ったユンガーは,後に次第にヒトラー体制
              に対して距離をとるようになるが,1939年に著わされた『大理石の断崖の上で』はナチズムに対す
              る拒否の姿勢を記した書物である。だが,第2次大戦後に彼は,連合軍により4年間の著作刊行禁
              止処分を受けた。ユンガーはフランスでも高い評価を受けており,1985年と1983年には当時のミッ
              テラン大統領が彼のもとを訪れている。ユンガーの100歳の誕生日には,コール首相とヘルツォーク
              大統領が表敬訪問をした。

 102歳という年齢は普通ならば「長寿」と形容されるのだろうが、たとえばマルローやサルトルが死に、さらにハイデッガーやカール・シュミットが死んだ後も生き続け、なおかつ著作活動を精力的に継続していたユンガーの場合は、「不死身」という形容の方が似つかわしかったといえるだろう。20世紀の精神の一角を思想や文学、芸術活動で代表していた人物が次々とステージから消えていく中で、ユンガーは第一次世界大戦の戦闘体験からワイマール時代の激動を生き、さらにナチス時代はドイツに留まり、まさに20世紀ドイツ史の生き証人でもある現存する最後の精神と見なされてきた。
 私が、ユンガーの名前を初めて知ったのは、1970年代の初頭だったが、本格的な関心を抱いたのは、70年代後半にハイデッガーの『有の問いへ』(理想社)を読んだ時だった。周知のようにハイデッガーのこの著作は、ユンガーの『線を越えて』への応論であり、邦訳書には、当時としてはもっともまとまり、体系的で、内容も豊かなユンガーについての情報が註として書き込まれていた。第一次世界大戦やワイマール時代、ナチス時代というよりも、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンやメラー・ファン・デン・ブルック、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスといった人たちと同じ歴史の現場を生き、なおかつ「ドイツ精神の最高司令部」とか「ドイツ魂の参謀本部」と評された人物と、「今」という時を共有していることに不思議な感情を抱いたことを記憶している。
 2月は大学は入試シーズンで冬期休暇の最中だったが、大学図書館の新聞コーナーにあるドイツの新聞を探した。手にした『WELT』紙は、一面に大きな写真を載せてユンガーの死を報じ、文化欄その他でユンガー特集を組んでいた。内容は、生前のユンガーへの最後のインタビューや、コール首相の追悼文、ユンガーの代名詞的作品でもある第一作の『鋼鉄の嵐の中で』からの抜粋、ユンガーの著作からのフラグメント集、ユンガーについてのジッド、カミユ、フェリペ・ゴンザレス、ピカソ、サルトル、ミッテランらの証言などで、生前のユンガーを偲ぶことが出来るような構成になっていた。
 それにひきかえ、わが国では、この20世紀を代表する精神の死に与えたスペースは、新聞の死亡記事欄だけだった。たとえば、私が目にした朝日新聞の死亡欄は、共同通信配信の次のような死亡記事を載せていた。

      エルンスト。ユンガー氏(ドイツの作家)17日、ドイツ南部で死去、102歳。死因は不明。
      1895年ハイデルベルクに生まれ、ライプチヒ大学などで学ぶ。第一次大戦に加わった体験を描いた
      「鋼鉄の嵐(あらし)の中で」(1920年)などの作品で注目された。ナチス・ドイツ支配下ではナ
      チスと一線を画し、「大理石の断崖の上で」(39年)で抵抗を試みた。現代ドイツの最も影響力のあ
      る作家の一人で、ほかに「労働者」「ヘリオーポリス」「砂時計の書」などの作品がある。

 日本ではユンガーは、まだ本格的な紹介以前であるため、死亡記事欄での報道だけにとどまったのだろう。もし、もう少し本格的な紹介がなされていたならば、国際欄や文化欄なりで研究者や批評家などによる記事が載せられて当然だったはずである。
 最近になって、少しずつではあるが哲学や政治思想、文学においてユンガーが論じられたり、また彼に言及されるケースが増えてきている。しかしながら、ほんの少し前までは、一般の読書界はもとより、専門の研究者の世界においてもユンガーは、名前すらさえも知られていないという状態で、ユンガーについて何ほどかの知識を持っていたのは、ゲルマニスト、ニーチェ研究者、ハイデッガー研究者の中のごく一部だったといっても過言ではないだろう。英語圏のマルクス主義の文学理論家であるフレドリック・ジェームソンの著作に『モダニストとしてのファシスト』と題されたウィンダム・ルイス論があり、その序文は「何ゆえ、ウィンダム・ルイスは読まれないのか?」となっていた。私は、ジェームソンの言葉をほんの少し変更し、翻訳文学が盛んな日本において、カフカ、ムージル、トーマス・マン、ブレヒトらと並ぶユンガーが、何ゆえに紹介されず、それゆえに知られいない、読まれていないことについて、あれこれと考えてみたことがあった。
 ユンガーの名前が最初に日本に届いたのはかつての日独伊三国同盟の前後だったと思われる。そしてそのユンガー像とは、『世界文化』の1936年2月〜5月号に掲載された松尾史郎(久野収)訳述のマックス・ホルクハイマー「現代哲学における合理主義論争」の註に「退役将校、ナチドイツの第一線の文化指導者の一人」(『哲学の社会的機能』晶文社)と紹介されているユンガーであり、「われわれが戦前に伝え知らされたユンガーの姿は、第一次大戦の権化のごとく最高の武勲に輝く歴戦の勇士であり、紛れもないナチ文学のイデーを具現する驍将としてのそれだった。」(山下肇『ドイツ文学とその時代。夢の顔たちの夜』有信堂)。
 日独の文化交流政策にもとづいてヨーゼフ・M・ヴェーナーやハンス・グリム、エドヴィン・E・ドヴィンガー、ハンス・ヨーストその他の、当時のドイツの「国民文学」が多数翻訳されていることは知られている。ところが奇妙なことに、その中には「ナチドイツの第一線の文化指導者の一人」であるユンガーの名前がない。これはおそらく、ナチスからの協力要請をユンガーが拒否したため、盟邦日本への「輸出」が認められた「ドイツ文化」のリストから外された結果だろうと推測する。
 ユンガーはナチスに対しては、ルカーチがいうように「両者を分け隔てるものは、根本的な意味では、ユンガーおよびその同類の哲学におけるセクト的な特色だけである」(『理性の破壊』白水社)としても、明確に一線を画していた。にもかかわらず日本へは「ナチスの文化指導者」式の人物紹介のみが届いたことはユンガーにとっては不幸なことだったといえよう。なぜなら、このような人物像は、戦後日本がまず選択した文学や思想傾向とは逆行するものだからである。さらにある一つの象徴的にして、見方によっては時代錯誤的な喜劇性さえ感じさせる例をあげるならば、1950年代に刊行されたある思想系の雑誌に「明日の世界を創る知性」という特集があり、意外にもユンガーの名前もあったのである。ところが、ユンガーを紹介した文の筆者は芳賀檀だった。ということは、戦後日本におけるユンガーの「将来」についても何やら予想がつこうというものだ。日本浪漫派の一人であり、『古典の親衛隊』の著者でもあった芳賀檀が紹介文を書いたことは、保田與重郎や、さらには蓮田善明の戦後における扱われ方をユンガーに応用することを可能としてくれよう。
 外国文学の人気と受容の高い日本ではあるが、少なくとも「戦後」というものの価値の洗い直しがなければ、売れるか否かという出版社の経営上の判断や、専門研究家の努力などとは違ったところで、紹介する理由はないという場合も多いだろう。ユンガーの場合も、きわめて不十分とはいえ紹介の始まりは1970年という時を不可欠とした。日本浪漫派の本格的な再考が始まったのも70年代であり、目を海外に転じると、戦後フランスでは久しくタブー視されていたドリュ・ラ・ロシェルやロベール・ブラジャック、リュシアン・ルバテなどの対独協力派(コラボ)の精神の復権が始まるのも70年代であり、ウィンダム・ルイスについてもジェームソンに続き、ジェフリー・メイヤーズによる浩瀚な評伝や若手の研究者による成果が70年以降登場している。つまり、70年とは「戦後」のバリアーが崩壊した時であり、「戦後」という「神」が「死んだ」時なのである。
 話をユンガーに戻そう。今日、日本においてもユンガーの著作は何作かは紹介されており、もはや未紹介とはいいがたい。大学においてもユンガーに取り組む研究者が少しずつではあるが増えつつある。とはいえ、「戦後」というバリアーは、研究者の蓄積を許してこなかったのであり、その結果として若い学徒がユンガーに興味を抱いたとしても、「指導教授の不在」という現実が横たわっており、ユンガーに取り組むことはきわめて困難な状況になっていることは疑いえない。また、翻訳されているいくつかのユンガーの著作も、そのいずれもが第二次世界大戦後のものであり、周辺的エッセイといっては身も蓋もないが、ユンガーの問題的なワイマール時代の著作には、「総動員」が雑誌に訳出された以外は手が付けられていない事実には、不満と疑問と奇異の念を抱かざるをえない。前期ユンガーの思想的主著ともいうべき『労働者』は、ハイデッガーの『存在と時間』、ルカーチの『歴史と階級意識』と並ぶ戦間期ヨーロッパを代表するものといえるのだが、今もって翻訳はなされていない。文学方面でも、『庭と道』や『パリ日記』は、ヨーロッパでは屈指の第二次大戦期の文学的証言と高く評価されているにもかかわらず翻訳される気配がない。それゆえか、7〜8年ほど前にパリ在住の到津伸子という女性画家が、ユンガーの『パリ日記』(アンリ・プラール訳のクリスチャン・ブルゴア社版だと思われる)を読み耽っていると書いている雑誌エッセイを目にした時、不思議な感動を憶えたくらいである。
 ユンガーに対しては、適度の距離を置いた立場の三島憲一氏は、そのニーチェ論においてハイデッガーなどのユンガーへの愛着に言及し、「ドイツの20年代を知っている一部知識人のユンガー熱はすざましいものがあり、ハイデッガーにとってはガーダマーを介した遠縁の弟子ともいうべきテュービンゲンのW・シュルツの最近の大著『変貌せる哲学』などにもほとんど唯一の現代文学者として出てくる」(『ニーチェとその影』講談社)と述べており、最近のベンヤミン論の中でも、現在のドイツにおけるユンガーの「静かな人気」の高さを指摘している。また、戦後ドイツの左翼知識人や哲学的思考が、「カール・シュミットやマルティン・ハイデガーやエルンスト・ユンガーと本来ならば是非とも対決しなければならないはずであるのに、彼らを『ファシズムの先駆け』であると断定してしまって、対決を避けるという悪い習慣に捕らわれている」ことを批判しているノルベルト・ボルツの『批判理論の系譜学』(法政大出版局)の訳者の一人も、「1995年にはユンガーが百歳を迎え、新たな脚光を浴びた。戦後ドイツ思想が対決を回避してきた思想と今こそ新たな思考軸をもって対決すべき状況に直面している。」(大貫敦子「訳者あとがき」)
 ユンガーとは何者であり、彼は何をしたのか。ユンガーの文学と思想の考察は、ユンガーの死と共に、思想の生として始まるといえるだろう。

 



 このサイトは、わが国では、現在のところ唯一のユンガー・サイトである。
 当サイトとしては、ユンガーについての基礎的な資料などの紹介に重点を置き、さらにユンガーを軸に20世紀の精神の地図の下手な素描でも出来たらと考えている。


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