反董卓連合軍

初平元年(190年)曹繰が檄文を発し、諸侯が一斉に挙兵した。

曹繰、エン紹、エン術、孫堅、馬騰、孔融、劉備など後に各地に勢力を築く者のオールスターといっても良い面子が揃った。もっとも、活躍をしたといえるのは孫堅軍のみであるが。  演義では劉備陣営の見せ場があるが、創作である。

この戦いからみても、後に英雄と言われるものとそうでないものとの区別ができる。

まともな軍勢を擁していない劉備は例外であるが、積極的に働いたのは曹繰と孫堅である。孫堅は、連合軍の先鋒をつとめた。都洛陽の南から進撃した孫堅軍は洛陽の防御に欠かせないシ水関で董卓軍から派遣された華雄、李粛を攻略、これを占領した。演義では華雄を討ち取ったのは関羽であるが実際では孫堅である。この戦いで董卓は孫堅を一番の強敵と考えるようになった。

誤解されがちであるが、連合軍はひとつにまとまって攻撃をしたわけではない。エン紹や曹繰などの本営はあったがエン術や孫堅は本営とはちがう場所から進撃していた。

本営の諸侯は利害を考え誰も積極的に行動をしなかった。下手に損害を受けたくないからである。その中でも曹繰は諸侯を動かそうと熱弁を振るうも結局ほとんどが動かず、曹繰単独で董卓軍に戦いを挑んだ。しかし、このころの曹繰はそれほどの軍勢を持っていないため洛陽の東で董卓軍の大軍勢に敗北を喫した。

結局曹繰、孫堅以外の諸侯は自分の利害しかかんがえず、なおかつ単独で行動する勇気がなかったのであろう。もしこのとき盟主であるエン紹がリーダーシップを発揮し諸侯を使いこなしていれば、あるいは董卓を討ち取れたかもしれない。そうすれば、超名門のエリートである。重臣となり漢の国をそれなりに持続させることもできたである。

結局反董卓連合軍は董卓の長安への撤退により、洛陽へ入城した。

洛陽は董卓が長安へ撤退の際、洛陽の住民を長安へ強引に移住させた。宮殿に火を放ち富豪から強引に全財産を没収、皇室の陵墓をことごとく暴いて金銀財宝を略奪、やりたい放題。最後に洛陽に火を放った。

連合軍が入城してももはやそこには焼け野原が残るのみであった。

この後連合軍は解散、それぞれの国へ帰り、戦乱の時代へと突入した。

この戦いで戦乱の世に突入したが、最後には曹繰、孫堅とその一族、劉備、が残った。

漢の時代が終わりをつげ、新しいリーダーを必要としていたのであろう。

ゆうなれば、魏蜀呉が起こる下地となった戦いである。