★訃報 清岡卓行(きよおか・たかゆき、詩人、小説家)
2006年6月3日(土)午前6時40分、間質性肺炎のため東京都東村山市の病院で死去。83歳。
1922年、中国・大連生まれ。葬儀は親族で済ませた。喪主は妻の作家、岩阪恵子(いわさか・けいこ)。
少年期を大連で過ごし、フランスの詩人ランボーに傾倒して東大仏文科に学んだ。
戦後しばらくはプロ野球セ・リーグで試合日程を編成する仕事に就き、「猛打賞」を発案したことでも知られる。
1959年、甘美な叙情を超現実のイメージに込めた第1詩集『氷った焔』を刊行。
詩集「日常」「四季のスケッチ」などで、独特の詩世界をつくり上げた。
先妻の死をきっかけに小説を書き始め、
大連の街の記憶と、そこでの先妻との出会いを作品化した『アカシヤの大連』で、1970年に芥川賞を受賞。
その後は中国紀行『芸術的な握手』で読売文学賞、
詩集『円き広場』で芸術選奨文部大臣賞、詩集『パリの五月に』で詩歌文学館賞を受賞。
1999年には、1920〜30年代のパリを舞台に、
画家 藤田嗣治、詩人 金子光晴ら芸術家群像を描いた小説『マロニエの花が言った』で、野間文芸賞を受賞。 |
▲戦後詩の巨人は、
「どもり」だった。 |
清岡卓行の青い空 ★ 清岡の詩「すべての復讐を忘れてしまったかのように、どこまでも透きとおる青い空」をめぐる、ブログ。 |
■久保AB-ST元宏が、清岡の名前を強く意識するようになったのは、以下の文章を読んでからだ。
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■それでは、清岡の詩って、どんなの?とゆー共犯者のために。
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清岡卓行 第三詩集 『四季のスケッチ』中の、「散文的な四行詩」より。 |
長い間ぼくの手もとにあるふしぎな物。/十六歳のとき 母がくれた象牙の印鑑。/
それだけが戦争や結婚を越えて ぼくの/もう一本の指のように血を滲ませている。//(「印鑑」) |
明日あたり 春が訪れそうな静かな夜。/幼い子供と寝てその眠る顔に なぜか/
ぼくが死ぬとき彼が感じるであろう/驚きや悲しみや怖れなどをふと想像する。//(「遠い別れ」) |
ポケットの埃の中にいつも新しい宝くじ。/十五年間 誰にもそれを喋らぬ長い羞恥。/
変ったのはその金をつかう空想ばかりだ。/学資。亡命。一軒の家。二軒の家。閑暇。//(「ある惰性」) |
■吉本隆明は、先にあげた本の中では下記のように引用している。
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たとえば、清岡卓行が「愉快なシネカメラ」で
かれは眼をとじて地図にピストルをぶっぱなし
穴のあいた都会の穴の中で暮らす
(清岡卓行 「愉快なシネカメラ)
こう表現したときに、すでに戦後詩の修辞的な彷徨は開始されたのではなかったか。
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■清岡の詩を読み返し、清岡の死を想う時、もう一つ、別の死が重なって想い出される。
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清岡さんは畏敬する先輩だったからである。
それには、
原口統三『二十歳のエチュード』に負うところが大きい。
若い命をみずから絶ったこの旧制一高の学生の手記は、
”精神の純潔”を追いつづける真摯さで、
当時、聖典のように若者たちの心を捕えていた。
そして原口にとって中学の先輩に当る清岡さんは、
”精神の純潔”を説く師として、手記のなかに何度もその名を
書とめられていた。
菅野昭正 「清岡卓行氏を悼む」
(『日本経済新聞』2006年6月7日より)
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原口統三(1927-1946)は昭和2年に朝鮮京城府南米倉町に生れ、満洲国奉天一中から大連一中に転じ、
ここを卒業して昭和19年、当時の超エリート・コースである第一高等学校文科乙類に入学したが、
人生への懐疑、絶望の果て、敗戦の翌年にあたる昭和21年10月26日未明)、神奈川県逗子海岸で入水自殺を遂げた。
19歳10カ月であった。
ボードレール、ランボーらへの親炙、ヴァレリー、ニーチェとの対決をへて、純粋意識と生の相克を詳細な遺稿集『二十歳のエチュード』が出版された。
当時、大ベストセラーとなり、多くの青年に読まれたが、それはやや衒気の目立つ文章でありながら、
鋭い感受性と思索の中に現代の青年の心にひそむニヒルが不気味な口を開いているからであり、
彼の純潔で孤独な魂の苦悶が共感を呼んだからであろう。
実は死後のベストセラーが出版される前から、彼は生きながらにして、一高の寄宿舎の伝説的人物であったという。
その詩才を注目されていた彼が、「自殺する」と言い出した時、同寮の若人たちに仄かな暗黒の渦が生れて、伝説の生れるに適したようだ。
それがさらに、彼の死にかなった雰囲気にかもし出されたという。そしてついに、彼は赤城山で自殺未遂を演じた後、逗子の海に入ったのである。 |
私が1944年(昭和19)年4月、旧制一高に入学したころ、清岡はいわば一高の桂冠(けいかん)詩人であった。
かいまみる彼の風貌(ふうぼう)には狷介(けんかい;心が狭く、自分の考えに固執し、人の考えを素直に聞こうとしない・こと(さま)。)な趣があった。
私が入学以前の一高の校内誌『護国会雑誌』、校内紙『向陵時報』には毎号のように清岡の詩が掲載されていた。
私と同年に入学した原口統三はそれらの詩の切抜きを貼り付けたノートをいつも座右にしていた。
このノートはいま日本近代文学館に収蔵されているが、
原口が逗子の海で自死する前、私は原口がそれらの詩を朗唱するのを聞いたことがある。
「海嘯(かいしょう)の彼方(かなた)」「音楽への祈祷(きとう)」など。
私は原口の激情を抑えたかのような声音を思いだす。
寄宿舎の寝室に差しこんでいた夕陽(ゆうひ)を思いだす。
それらの詩はまさに戦時下の暗い青春の憂悶(ゆうもん)によって私の心を揺さぶったのであった。
原口が自死に向っていたころ、私たち彼の周辺にいた友人たちは誰も彼を生へひきもどすすべを知らなかった。
清岡さんが大連から引き揚げてきていたなら、と私は当時しきりに思った。
中村稔 「清岡卓行さんを悼む」
(『朝日新聞』2006年6月8日より) |
■19歳の、自殺。83歳の、大往生(?)。
今は83歳の詩人の死と詩のほうに関心が向く、私。
今夜は、100歳で死んだ、近所のおじいちゃんのお通夜。
沼田町も、明治生まれが減ってきたな。
あ、そうそう。
ビリー・プレストンも死んだそうだ。

2006年6月6日、米アリゾナ州の病院で死去。59歳。