111.権利のあとに責任を発生させない日本的構造
 

2004.2.21
  


96.『ギブ・アンド・テイク』と『権利と責任』 でも書いたことだが、

西洋では
@各人が自分の権利を主張することから始まる。
Aそしてその権利の見返りとして社会の側から責任が要求される。

ところが日本では
@まず社会の側から個人に対して保護が行われる。
Aするとその保護に対してその受けた分の保護に対する責任を各人が自覚するようになる。
 そして自らその責任を果たそうとする。
Bそのような責任を果たす者にだけ、今度は社会の側から権利が与えられる。

そういう意味で日本人にとって権利とは終着点である。終着点とはそれ以降何も発生しないという意味である。

この終着点である権利を年端もいかない子供に与えるとどうなるか。
そこからは何も発生しないのである。
それと同時に子供の成長も止まる。

日本人にとっても『もらったものは返す』というルールは厳然としてあるのであるが、
最初から権利をもらってしまうと「どこに返してよいか分からない」のである。

それは日本の権利と責任の関係が、武士社会の御恩と奉公のように、もともと私的なものだからである。

私的なものをいかに国家ルールとして再構成していくかということに日本の政治思想の最大の努力が傾けられてきたというのが日本の歴史の特徴なのである。
しかし、最初から権利が与えられてしまうと、それが誰からもらったものなのかが分からなくなってしまう。
そして私的なものの上にいかに公的なものを築き上げるかという文化的伝統が破壊されてしまい、
その権利と責任の論理構造が破壊されて、あとには何も残らなくなってしまうのである。

子供たちがおかしいと言いながら、そういう権利と責任の日本的論理構造を無視したことをするから、ますますおかしくなるのである。
このままでは子供たちはますます混乱するだけである。

そして今、最悪なのは、子供の責任感や権利意識を育てていく最初のきっかけである子供に対する保護を強調していくはずの政府や文科省自らが、その責任を放棄して、逆に子供の『自己責任』を強調していることである。
そんな責任感など今の子供たちの心の中のどこにも発生しようがないのであるが、それを正当化する言葉が子供の『自己決定権の尊重』という甘いささやきなのである。

日本では抽象的な権利をいくらもらっても、それ以降何も生み出さないのである。
それは子供の人格上の問題ではなく、日本の文化の論理構造上の問題である。
そのことに早く気づくべきである。

今の子供たちにとって権利はタダである。
それは大人たちがそういう与え方をしているからである。
タダでもらったものは何も生み出さない。
それはもらい得であって、あとは自分が自由に使うだけである。
どう使おうと勝手である。
そこにはなぜもらえるのかという論理性もなければ、どう使わなければならないかという倫理性もない。

それは明らかに、西洋流の神から与えられた自然権とは別物である。
日本にはもともと神もなければ自然権もない。
西洋の自然権は自然に発生したものではなく、神が与えたものである。
だから神に対する自己の責任が発生しうる。

ところが日本では与えた者の姿が見えないのであるから、それに対して自分がどういう責任を果たすべきかという意識も発生しない。
全く宙に浮いた謎の物体、それが今の日本の権利である。
今の日本の権利は、気持ち悪いほどどこからともなく発生した権利である。

それは例えて言えば、何の秩序もなくゴミや汚物が散乱した公衆便所で、どこからともなくわいて出てくるナンキンムシのようなものである。
そのいかがわしさは誰もが気づいてはいるが、誰も手に取ってみようとはしない。
政府もそれを消毒するどころか、いつも適度の湿り気を与え、それらが増殖しやすい環境を整えてやっているのである。


(参考)
16.喧嘩両成敗の原則と自己責任
18.『太閤検地と農地改革』   階級社会化の危険性
19.『公地公民制と太閤検地』  公的な政治責任とは
20.『福沢諭吉と豊臣秀吉』   天の思想
21.ネオコン(新保守主義または新自由主義)とキリスト教原理主義



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